フェニキア商人(紀元前16世紀~紀元前146年)による地中海交易圏の開拓…
エジプト新王朝(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)庇護下で成長を遂げた後に独立。しかし紀元前8世紀以降台頭してきたギリシャ人に地中海東部を奪われてしまう。
また諸大国が国力を回復すると次第にそれに圧迫されていく。
有力な港湾港市は、紀元前16世紀ウガリット、紀元前14世紀ビュブロス、紀元前14世紀シドン、紀元前11世紀~紀元前9世紀テュロス、紀元前5世紀トリポリと変転する。
- 「海の民」侵入後、まず、肥沃な後背地を備えていたシドンが復興。テュロスが後を追う。
紀元前10世末になると、アッシリア帝国の圧迫が強まり、フェニキアはその脅威にさらされ続けることになるが、他方エジプトが起死回生。
紀元前9世紀、エジプト王と結んだテュロスがシドンを勢力下におさめる。フェニキア諸港市はエジプトと連合するなどして、反アッシリア暴動を繰り広げたものの紀元前7世紀後半、アッシリア帝国から新バビロニアが独立すると、それに組み込まれる。- フェニキアは紀元前9世紀末~紀元前8世紀前半にかけて政治的自由を回復したがテュロスは新アッシリア王センナケリブ(在位紀元前704年~紀元前681年)の怒りを買ったことで、紀元前701年から5年間包囲、攻撃される。敗北したテュロス領主エルライオス(在位紀元前729年~紀元前694年、アッシリアではルリと呼ばれた)は、キプロスに逃亡する。ルリが水門から二段櫂船に逃げる様子が、ニネヴェのセンナケリブ宮殿の浮き彫りに描かれていた。現物は消失したが模写が大英博物館にある。
- その時テュロスの栄華を継承ししたシドンも紀元前675年アッシリアによって完全に破壊される。テュロスもまた新バビロニア王ネブカドネザル2世(在位紀元前604年-紀元前562年)の包囲攻勢に13年間も耐え抜くが、紀元前572年に降伏し辛うじて破壊を免れるという有様。その間、テュロスの人々が紀元前814年にカルタゴを建設したという。
- さらに、フェニキアは紀元前539年ペルシア帝国に征服され、その属州のようになる。ペルシアはいままでの宗主国とは違って、陸上だけでなく海上をも制覇しようとした。その頃既にギリシアとの制海権争いに敗れていたフェニキアは、このペルシアの東地中海制覇にすすんで荷担し、積極的に海事力を提供。
- そのペルシアが、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗北すると、シドンやビュブロスはすぐに降伏したが、テュロスはひとり7か月間も抵抗して紀元前332年に屈服。
以後のフェニキアは、ヘレニズム時代は紀元前198年以降セレコウス王国の、また紀元前64年以降ローマ時代は属領シリアの一地域でしかなくなる。十字軍時代においても一応地名としてはシドンやテュルスやベリトス(ベイルート)が地名くらいは上がる。一方オスマン帝国(1299年~1922年)支配下ではアレッポが栄えた。
その一方で紀元前2000年期~紀元前1000年期にユーラシア大陸中央部で進行した乾燥化は現地の半農半牧の定住民に遊牧民化か南下を強いた。彼ら自身が「紀元前1200年のカタストロフ」を引き起こした訳ではないが、あまりに多様で雑多過ぎた彼らは移住先におけるミノス/ミケーネ文明の伝統を継承して漸進的に半農半牧を営む定住民に変貌していく過程でドーリア人やアイオリス人といった集団概念を形成。これが「ギリシャ人」概念の大源流となる。
詳細は不明だが紀元前8世紀以降、人口爆発を起しアナトリア半島沿岸部や黒海沿岸などへの植民市建設ラッシュが起り、地中海東部においてフェニキア商人から制海権イニチアシブを奪取する。その過程で共通の先祖を英雄ヘレネスとしたり、ホメロス「イーリアス」「オデッセイヤ」ヘシオドス「神統記」「労働と日」が編纂されたりするうちに故郷をアナトリア半島やペロポネソス半島内陸部のアルカディアとする壮大なフィクション体系を構築していった。その分析から「キプロス島→クレタ島→エイボイア島」と継承されてきたミノス/ミケーネ文明系が改めて黒海沿岸、アナトリア半島、バルカン半島、ペロポネソス半島、シチリア島、イタリア半島南部、さらにはフランス南部のプロヴァンス沿岸部などに広がっていく様子が浮かび上がってくる。
プロヴァンス沿岸へはギリシャ人による植民が行われた。紀元前600年代、ギリシャ人がマッサリア(マルセイユ)に定住。彼らはニース(ニカイア)、アンティーブ(アンティポリス)、イエール(オルビア)、シス=フール=レ=プラージュ(タウロエイス)、アルル、そしてアグド(アガト)のようなラングドック沿岸の特定の部分やニームの南に移り住んだ。この地方に古くから住んでいたのはケルト人やリグリア人またはケルト・リグリア人であった。
こうしてオリエント文明の影響を色濃く受けつつ紀元前7世紀に形成された「東方化様式」を特徴とするドーリア交易圏を大きく塗り替えたのが、アケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)の覇権が及ぶ様になったアナトリア半島から退避した陶器工房や海商を迎え入れて紀元前6世紀に急成長を遂げたアテナイ交易圏だったのである。
しかしながら対ペルシャ戦争(紀元前500年~紀元前449年)を伸張の機会として利用しデロス同盟の盟主の立場に上り詰めた「イオニア人の成り上がり国家」アテナイのこうした優位はペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)敗戦によって失われてしまう。その裏側にはアケメネス朝ペルシャのロビー活動があったとも。