旧約聖書におけるカナン人についての記述については、まさにそれを編纂する動機となった「バビロン捕囚(紀元前586年~紀元前538年)」のあったオリエント4分割時代(紀元前612年~紀元前550年)からアケメネス朝ペルシャ時代(紀元前550年~紀元前330年)の認識以上遡れないのではという話もあります。
カナン、あるいはカナアン(ヘブライ語: כנען Kənā‘an クナーアン、英語:Canaanケイナン)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。
現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。
その呼称
カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として明瞭に見いだされる。
紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む。
旧約聖書における用例
カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる。この文脈における「カナン人」という用語は、まさにフェニキア人に符合する。その一方ではカナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。要するにヘブライ語はカナン人から学んだものだったのである。
- カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語としてKinahnuの用語が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。これもまた「ツロの紫」で知られるフェニキア人と関連付けることが可能である。染料は大抵の場合、その出身地にちなんだ名を付けられた(シャンパンのように)。同様に、旧約聖書に時折例示されるように「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。
- 言語言語学上、カナン諸語はヘブライ語.フェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジア語族セム語派北西セム語に含まれる。音素文字(原シナイ文字)を初めて用い、その文字体系は漢字文化圏を除く世界に伝播した。
学習し易い音素文字が普及した結果、古代オリエントの国際公用語がアッカド語(Akkadian cuneiform)からアラム語(アラム文字)に代わり、やがてアラビア語に取って代わられた。
聖書におけるカナン人
旧約聖書においてカナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指すようである。「創世記」10章15-18節では、長男シドン(Sidon)、ヘト(Hitti)、エブス人(Jebusites)、アモリ人(Amorite)、ギルガシ人(Girgashite)、ヒビ人(Hivites)、アキル人(Arkite)、シニ人(Sinite)、アルワド人(Arvadite)、ツェマリ人(Zemarite)、ハマト人(Hamath)の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。
シドンといえばフェニキア主要都市の一つだが、ビブロスでもテュロスでもなくこの都市が代表と目されるのはアケメネス朝ペルシャ時代(紀元前550年~紀元前330年)以降、ないしは統一前のオリエント4分割時代(紀元前612年~紀元前550年)。ただ歴史的にヘブライ民族にとってシドンこそがフェニキア人諸都市によってもっと近い位置にあった(というかフェニキア人商圏の中でシドンの管轄下にあった)という考え方もなくはない。アルワド人は、他にはエゼキエルが「ティルスの熟練した水夫や勇ましい兵士」と言及する箇所にのみ登場し、シリア北部の海岸沖合いにあるアルワド島住人に比定されている。ハマト人のハマト(Hamath)はおそらくフェニキア語のでkhamat(要塞)を意味するシリア北部のオロントス川流域にはその名の都市が存在する。ツェマル人は不明だが、やはりエゼキエルが「ツェメルの熟練した[賢い]男達」と表現している事からレバノン沿岸都市どれかの住人と推定されている。シニ人も同様。またアルキ人はレバノン山脈の西の地中海沿岸に定住していた人々らしい。ちなみにここまで挙げた六氏族はカナン侵攻時の記述に直接の言及がない。
アモリ人はメソポタミア史を語る上で欠かせない重要民族の一つだが「紀元前1200年のカタストロフ」以降は大幅に力を失う。とはいえ旧約聖書によればカナン本土の山岳地方において北部でも南部でも強い影響力を残していたとされる。
紀元前1世紀段階で既に正体不明となっていた謎の民族ヘトはその後「ヒッタイト」に関連づけられる展開に。こちらは「紀元前1200年のカタストロフ」も南東アナトリアに移動した遺民が紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群を維持(紀元前1180年~紀元前700年頃)。ギリシャ文明などにも影響を与えている。旧約聖書では北のシリア方面ばかりか南のヘブロン方面にも割拠していたとされる。
ヒビ人はフルリ人に該当すると推測されているが、記述に混乱が見られる。カナンでは南はギブオン(Gibon)から北はヘルモン山麓まで散在していたとされる。
ここに描かれるアモル人の生態って、実際の歴史上に存在した「アモル王国」のそれを彷彿とさせるものがあります。
アムル王国
紀元前15世紀末、レバノン北部に位置する歴史的シリア内部の山岳地域においてアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国された。
- 遊牧民を主体としながら海岸に位置する近隣諸都市からの逃亡者を受け入れることで軍を強化し、内陸部に位置する諸都市へと拡張した。
- アブディ・アシルタ死後の混乱期を越えて王国を取りまとめたアジルの時代になると、当時超大国であったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となった。
その後紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたが「紀元前1200年のカタストロフ」によるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅してしまう。
おそらく存在意義としては「逃亡奴隷でも賞金首でも匿って起死回生のチャンスまで与えてくれる秘密部隊」みたいな感じ。ある種の海賊ロマンティズムを感じます。それでは逆に、実際の史実上のイスラエル民族とはどういう存在なのでしょう?
*まず出発点。メソポタミア関連文書を読んでると次第に「カナン諸族=北西セム系(アラム人, フェニキア人, ヘブライ人)」なるイメージが定着してきて自然とエブラやウガリットの様なシリア北部の都市と結びつける様になっていく。これはどういう事なのかという話…
旧約聖書の創世記に登場する名のうち、他の中東の遺跡からは見つかっていないがエブラ語ではほとんど同じ表記で登場するものもある。例えばアダム(a-da-mu、アダム)、ハワ(h’à-wa、イブ)、アバラマ(Abarama、アブラハム)、ビルハ、イシュマエル、イスラエル、エサウ、ミカエル、サウル、ダビデなどである。また聖書と同じ地名、例えばシナイ、イェルサルウム(Ye-ru-sa-lu-um, エルサレム)、ハツォール、ゲゼル、ドル、メギド、ヨッパなどである。
その後エブラはシュメール統一を果たしたアッカド王サルゴンとその孫ナラム・シンによって紀元前2240年頃破壊された。以降3世紀に渡って雌伏の時代が続くが、この時代には近隣の都市国家ウルシュ(Urshu)と密接な関係にあったと考えられている。アムル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)の紀元前2000年頃アムル人の手によって再建され紀元前1850年頃より第二の繁栄期を迎え、紀元前1750年頃のアララハの文献にも言及がある。
しかし紀元前1650年~1600年の時期にヒッタイトに再度破壊され、7世紀まで小さな集落が残るのみの状態が続き、やがてそれも消滅。
イスラエル民族の起源
紀元前14世紀頃には「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナ(カナン)で略奪行動を行っていたことがエジプトの文書で確認できる。シリアやメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれており、民族名を指すのではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系のアウトロー的な社会階層を指す言葉である。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人(エジプト語でイブリー)のカナン進出に何らかの関係があったと考えている。
*アララハ には紀元前15世紀頃、王朝再建に際してこのアピルの助力を得たとする伝承が残る。時として彼らは傭兵として働く事もあったらしい。
- 紀元前1207年の出来事を記したエジプトの石碑には「イスラエル人」についての言及が認められ、これがイスラエルという部族集団の実在を確認できる最古の文献であるが、この部族集団の出自については不明な点が多い。
- 紀元前1200年頃というのは丁度「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した。
- 最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲブ北部などに紀元前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違い無い。かかる山岳地域の居住者達の出自に関しては様々な説が唱えられている。ウルからハランを経てやってきたアブラハムがそうであったように、外部からやってきた遊牧民が定住したとする説(しかし、ウルのような南部メソポタミアからの移住は考えにくいのでメソポタミア北西部からの移住だとする)、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている。
多くの研究者によって紀元前13世紀のエジプト第19王朝ラメセス2世(在位紀元前1279~紀元前1213)の時代であると考えられている「モーセのエジプト脱走」も、文書資料が豊富なエジプト側に対応する記録が一切なく、このことから旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定されている。あるいは前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのかもしれない。
また「シナイ山における神の顕現」に関する伝承も、今日ではシナイ半島南部のジュベル・ムーサ(「モーセの山」、標高2244メートル)に比定される様になったが、これも紀元4世紀以降にそう看做されるようになったに過ぎない。
なおイスラエル人たちが神と結んだ契約については繰り返し語られているが、申命記のそれはアッシリアが属国に結ばせた宗主権条約文と類似の構造を持つことが指摘されている。つまり、大国と属国との契約関係を、イスラエル人は神と自分達との契約に置き換えた可能性がある。
そもそも紀元前17世紀~紀元前16世紀にエジプトで外国人王朝を続けたヒクソスは一般にパレスチナ(カナン)出身と考えられる一方でクレタ島文明の影響を色濃く受けています。
第2中間期、すなわちエジプト中王国が衰えた分裂期にとなった時期にエジプト史上最初の異民族支配王朝として登場したヒクソスは、その宗主権を認めながら戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓、青銅製の刀や鎧などの軍事技術を学んだ第17王朝・第18王朝に最終的には打倒され(ここからをエジプト新王国とする)パレスティナに逃れるも3年後に最後の拠点シャルヘンも陥落して滅亡した。
- ヒクソスとの関係が明白なのは同時代のシリア・パレスチナ地方にいた西セム系の人々である。ヒクソスの人名には明らかに西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ、またヒクソスの時代と前後してアナトやバアルと言ったシリア地方の神がエジプトに持ち込まれており、ヒクソスと「アジア人」の繋がりを想定させるものは多い。ロバの犠牲などの儀式が行われた事もわかっており、このような習慣はパレスチナ地方でも見られる。
- ただしヒクソス時代の遺跡から発見される彼らの物質文化はレヴァントの文化とエジプトの文化の特徴が混合したものであり、神殿の建築や土器、金属加工製品の形式などはシリア、パレスチナ地方のそれと類似しているが同一ではない。
- 最近ではクレタとの関係が非常に注目されている。これはアヴァリスの遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)で、クレタ島のクノッソス宮殿に類似した「牛とび」を描いた壁画の破片が発見されたことと、クノッソスで発見された第15王朝の王キアンのカルトゥーシュ名を記したアラバスター製水差しの蓋の存在によって、ヒクソスとクレタ文化圏の間に交渉があったことが明らかとなったためである。特にアヴァリスで発見された壁画は、単なる模倣というよりはクレタ文化圏の人々がこの時期のエジプトに移住していたことを示している。
以上の様な観点から一般に「シリア・パレスチナ地方に起源を有する雑多な人々の集団」と目される様になったが、上掲の様な条件を満たしそうな存在としては、さらに(エジプトとカルタゴを結ぶアフリカ北岸、すなわちクレタ島の対岸に割拠した)古代リビュア人の存在も加えられる。
そして、こうしたヒクソスの特徴が奇しくも旧約聖書におけるペリシテ人とぴったり重なるのです。
「紀元前1200年のカタストロフ」に際してエーゲ海方面から地中海東海岸に進出した「海の民」の一派だった事が確実視されているペリシテ人は、ヒッタイトの滅亡後の製鉄技術拡散もあって強大化しガザなどの5つの都市国家(ペンタポリス)を拠点に北部のヘブライ人(イスラエル人)を圧迫したという。
*そういえば古代古代リビュア人も、その少なくとも一部は「海の民」に加わったと目されているが、まるで一枚板ではなく同時にエジプト王朝側に傭兵として雇われたりもしている。<山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.71>
「ペリシテ人は職業軍人の重装歩兵が編成する強力な武器を持ち、鉄の武器と戦車軍団、および弓兵をその軍事力の基盤としていた。(旧約聖書の)サムエル記によれば、ペリシテ人は鉄の精錬を独占してさえいたらしい。彼らは各地の拠点に守備隊を置き、征服地の実効的な継続的支配を図った。」
これに対抗してセム語系のヘブライ人はいくつかの部族に分かれて戦い、不利な戦いを強いられていたが、紀元前11世紀頃にダヴィデ王が各部族を統一してヘブライ王国を建国してペリシテ人に反撃し、これを打ち破った。旧約聖書の「サムエル記」には、ダヴィデがペリシテ人の巨人ゴリアテを投げ石で倒した物語がある。
もしかしたらどちらも、かかるカナン(パレスチナ)やリヴィア(アフリカ北岸)の特殊環境が揺籃した戦闘集団であり、エジプト新王朝がヒクソスとの戦闘を経て鍛えられた様に、イスラエル民族もペリシテ人との戦闘を経て鍛えられた存在だったのでは?
エジプト、メソポタミア、ヒッタイトといった巨大国家が消失したせいで、近東において小国家が乱立。
- 小アジアではウラルトゥが勃興してアッシリアと激しく戦い、アナトリア高原ではフリュギア人らが勢力を拡大。
ちなみに紀元前585年にスキタイ人がウラルトゥ王国を滅ぼすと、アケメネス朝成立後、アルメニア高原に「アルメニア人」が定住。
- アナトリア半島西部ではシロヒッタイト末裔のリュディアが勢力を広げ、シリアではアラム人らが勢力を広げた。
- そしてパレスチナの地域ではイスラエル人らの王国も築かれ「ソロモン王の栄光」を迎える。
「希望は、戦争」とは、元来こういう状態を言う?
イスラエルの興亡
イスラエル人の起源には諸説あり、確定したものはない。しかし、紀元前1200年頃、彼らがパレスチナ中央山岳地帯に出現した事は間違いないとされ、それまで牧畜を営んでいた彼らはこの時期に定住して農業を営むようになったと推測されている。
- イスラエル人らは「士師」と呼ばれる指導者を中心にペリシテ人やカナーン人らと戦い、西方へ勢力を伸ばしたが、紀元前11世紀後半、サウルが王に即位して王制へ移行、諸部族統一に成功した。そして紀元前1010年頃に即位したダビデの元でイスラエル王国は躍進し、次王ソロモンの時代に最盛期を迎えたが、ソロモンの死後、王国はイスラエル王国とユダ王国へと分裂。
- そしてイスラエル王国は紀元前722年/紀元前721年に新アッシリア帝国のサルゴン2世によって、ユダ王国は紀元前586年/紀元前587年に新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって滅ぼされた。
新アッシリア帝国のサルゴン2世(Sargon II, アッカド語Šarru-kīn=恐らく「真の王」または「正統なる王」の意, 在位紀元前722年~紀元前705年)も、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II, 本来のアッカド語表記ではナブー・クドゥリ・ウスル(Nabû-kudurri-uṣur), 紀元前634年~紀元前562年)も「(フェニキア人やヘブライ人に存続を危ぶませた)メソポタミア起源の多民族帝国」。当時は他に以下の様な大国が互いに鎬を削り合っていた。
そう、現実は甘くない。で、この話に戻ってくる訳です。
これまでの投稿では中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論における「部族的紐帯が強固な辺境住民による中央都市住民の打倒が繰り返される王朝循環史観」の影響もあって古代エジプト/古代メソポタミア文明の本質を「天文観測によって農業歴を保守し続ける神殿宗教の神官達が維持する(何人たりとも抜本的改変を許されない)奴隷制灌漑農業」としてきました。
- 紀元前8世紀以降現れた多民族帝国は、こうした頑固な生産単位が服従を拒絶する場合には「神殿破壊」「住民の強制移住」「かくして生じた空白地帯への異邦人の植民」なる抹殺手段を選択する様になっていく。
- その結果、アラム人やヘブライ人はディアスポラ化し、かつヘブライ人はそれでも宗族的アイデンティティを喪失しない為に「啓典の民」に移行する。
ある意味この流れこそが「紀元前1200年のカタストロフ」の最終到達地点だったとも。
かくして歴史上にヘブライズム(Hebraism)とヘレニズム(Hellenism)の対峙なる新たな枠組みが急浮上してくる展開に…