一般に東方セム系集団(アッカド人、南部バビロニア人、北部アッシリア人)でなく北西セム系集団(カナン諸族、ウガリット人、アラム人)が建てた国といわれてます。
ウガリット(ウガリット語: 𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、英: Ugarit)
地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラ(رأس شمرة、Ras Shamra、ラタキアの北数km)にあった古代都市国家。当時の国際的な港湾都市であり、西アジアと地中海世界との接点として、文化的・政治的に重要な役割を果たしたと考えられている。
紀元前1450年頃~紀元前1200年頃にかけて都市国家としての全盛期を迎えた。この遺跡から見つかった重要な文化には、独自の表音文字・ウガリット文字と、ユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型ともいえるウガリット神話集がある。旧約聖書と共通する言葉や地名が使われていたエブラと地理的にも文化的にも近かった。
その歴史
ウガリット一帯には、既に新石器時代には人間が居住していたとみられる。紀元前6000年頃には既に重要な場所であり、集落全体を壁で囲い、守りを固めていた。後にメソポタミアと文化的に交流が始まり、紀元前3千年紀後半からは西セム人の都市国家として繁栄、紀元前18世紀にはフルリ人もこれに加わった。
セム族(Semites)は、セム系の言語を使用する人々の総称である。中東、西アジアや北アフリカ、アラビア半島に分布する古代・現代のさまざまなセム語の話手を指し、アッカド人、古代アッシリア人、バビロニア人、エブラ人、ウガリット人、カナン人、フェニキア人(カルタゴ人)、ヘブライ人(イスラエル人、ユダヤ人、サマリア人)、アラム人、カルデア人、アムル人、モアブ人、エドム人、ヒクソス、ナバタイ人、サバ人、マルタ人、マンダ教徒、サービア教徒、シリア人、アマレク人、アラブ人、アッシリア人、パルミラ人、ケダル人などを含む。
文字資料にウガリットの名が初出するのは、近くの遺跡エブラから発見された紀元前1800年頃の粘土板文書である。当時のエブラは既にアモリ人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)の再建を経ている。
また近隣ではアララハを属国化した強大なアムル人王朝ヤハムド(紀元前19世紀頃~紀元前17世紀後半頃, 現在のアレッポ)が栄えていたのである。
紀元前16世紀頃よりエジプトの影響圏に入り、政治・軍事・文化的にエジプトの影響が浸透し、エジプト人守備隊が駐屯していたこともある。ウガリットがエジプトと接触した最古の証拠は、ウガリットからの出土品のうちの紅玉髄のビーズで、エジプト第12王朝のセンウセレト1世(紀元前1971年 - 紀元前1926年)からのものと判断された。またセンウセレト3世、アメンエムハト3世からの石碑や像も出土している。ただし、これらの遺物がエジプトからもたらされた年代が、これらのファラオたちの治世と同時期なのかどうかについては定かではない。
- シリア方面からエジプトにヒクソスが侵入した当時(紀元前17世紀頃)は、ウガリットもこれに関係するとみられる民族の手に落ち、エジプト風の記念碑などが破壊された。時代が降るとヒクソスのキアン王が手広く交易活動を行う様になり、彼に関連した遺物がミュケナイ(クレタ島)やアナトリア半島、メソポタミアから発見されている。またヌビアからも当時の遺物が発見されている。カナン(シリア)に起源を有すると推測されるヒクソスは、特にクレタ島文化と縁深かった。
- 紀元前16世紀~紀元前13世紀のウガリット全盛期、それを支えたのはタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅といった地中海金属貿易の独占だった。
*「タウロス山の銀」を産したのはアナトライ半島におけるヒッタイト本拠地カッパドキア。「ヒッタイト発祥の地」という説も。ヘレニズム時代は長く独立を保った。
*「エジプトの金」を産したヌビアの鉱山は、後にエジプトを統一。ヘレニズム時代以降、ギリシャ冒険商人が直接訪れる様になる。
*ウガリットがヒッタイトの代官として独占下に置いていた「キプロスの銅」は、ウガリット滅亡後フェニキア商人の手に渡る。
紀元前1350年頃にウガリットの王族(紀元前14世紀中期のウガリットの王アンミスタムル1世、ニクマドゥ2世、およびその妃)がエジプトへ出した書簡がエジプトのアマルナから発見されている(アマルナ文書)が、それによると紀元前14世紀中旬頃に市街は大火によって破壊されたが、再びエジプトの影響下の貿易都市として復興したことがうかがえる。紀元前13世紀初頭にはエジプト・ヒッタイト間でシリアをめぐる勢力争いがあったが、この際にはヒッタイト側に立った。ヒッタイトのシュッピルリウマ2世(紀元前13世紀後半)と同時代にウガリットにはアンムラピという王がいたことが分かっているが、その治世がいつからいつまでであるかは定かではない。
- この時代の市内外からは多くの墳墓が発見され、その副葬品によってウガリットにはキュプロス、クレタ島、ミュケナイなどエーゲ海周辺の出身者が住んでいたことが知られる。出土品には、土器や金属製武器、金属器、象牙製品、アクセサリー類があったが、その他の目立つものに神像や奉納石板があり、それらは祭司長の家の文書館から出土した粘土板文書中の宗教文学の内容に対応している。
青銅器時代末期の紀元前1200年頃、「海の民」侵入によって破壊された。
- ウガリット遺跡のうち、街の破壊の跡が残る層からはヘラディック期(古代ギリシャの青銅器時代)後期IIIBの土器(Late Helladic IIIB)が発見されているが、ヘラディック期後期IIIC(ミケーネ文明)の土器は発見されていない。ウガリットの破壊の年代は、後期ヘラディック期の土器の年代推定にとって重要である。破壊された時期の地層からはエジプト第19王朝ファラオのメルエンプタハ(在位紀元前1212年~紀元前1202年)の銘のある剣が見つかっており、後期ヘラディック期IIICの開始年代はメルエンプタハの治世より後の紀元前1190年と推定されている。
- 1986年に発見された楔形文字文書によればウガリットの破壊はメルエンプタハの死後であり、ウガリットの破壊は紀元前1202年~紀元前1190年(おそらく紀元前1195年)とみられている。エジプト第20王朝のラムセス3世(紀元前1186年~紀元前1155年)の治世8年目にはすでにウガリットは破壊されていた。
地中海からメソポタミアに至る広い範囲の文明が、この時期に「海の民」によって破壊された。ヒッタイトの首都ハットゥシャの破壊がウガリットの破壊より前か後かも論争の的となっている。
とりあえず、以下続報…