「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】オリエント史における「青銅器時代の金属材料調達問題」について。

無論今日なお「紀元前1200年のカタストロフ」が実際にどうして起こったかまでは不明のままですが、どうしてそういう展開になったか推測する材料自体は充実しつつある気がしています。

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 ①そもそもの発端は古代メソポタミア文明における「アッシリア商人交易網」まで遡る。当時は青銅時代で青銅の製造にはが不可欠。そのうち銅はキプロス島から安定供給されていたが、の入手は困難を極め、この問題を解決する為にアッカド地方北部のアッシリア人は先史時代よりアナトリア半島カッパドキアの鉱山とメソポタミアを結ぶ巨大ネットワークを構築してきたと目されている。

  • 実は日本の青銅時代(すなわち銅鏡, 銅鐸, 銅矛, 銅戈, 銅剣, 銅釧(どうくしろ)などが祭祀の道具や在地有力者の威信材として有用活用されていた紀元前1世紀~紀元後2世紀)の研究も同じ問題を抱えており、とりあえず最初期には青銅のインゴットそのものを輸入していたものの、銅の国産化が進むにつれ(これから青銅を生み出すのに欠かせない)錫をどうやって調達していたのかについて定説がない。

     

②しかしながら「アッシリア商人交易網」は、アモリ人王朝がアッカド地方南部のバビロンに乱立したイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)、アナトリア半島におけるフルリ人の台頭とミタンニ建国を契機にあっけなく崩壊。このフルリ人なる民族およびミタンニなる国家、オリエント世界への馬や戦車の導入、アナトリア半島における鉄生産の開始、戦争の方向性を変えた武具や防具の精緻化に関与した「古代のドラえもん」的先進民族だったにも関わらず「工業製品を大量生産して運用可能な状態に保守する」技術において(アナトリア半島において彼らからの独立を果たした)ヒッタイト(紀元前18世紀~紀元前1200年前後)や(異民族王朝ヒクソスの支配を経てそれを吸収したエジプト新王国紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)に遅れを取った事から歴史の表舞台からの退場を余儀なくされたのだった。そして両雄は遂にカディシュの戦い(紀元前1286年頃)で激突。それぞれの陣営が数千台の戦車を投じたこの戦いは実質上引き分けに終わり世界史上初の「平和条約」が締結される結末を迎えたのだった。

平和条約提携」といえば聞こえこそ良いが、要するに(それまで遠征による宝物略奪と戦争捕虜獲得によって経済を回してきた二大強国が(互いを標的に選ぶしかなくなる様な)成長限界に揃って到達した訳であり、これで何も起こらない筈がないのである。

  • 天災の影響もあってヒッタイト勢力圏は未曾有の長期不況に見舞われた形跡が見受けられる。それに誘発される形で内紛も激化していた事だろう。

  • エジプト新王朝における異民族管理失敗も「(リヴィア人の様な戦時下なら傭兵に雇用する事で懐柔可能な不穏分子」への直接対処(討伐)が不可避になったと考えれば納得がいく。

こうした政治的経済的混乱を受けてオリエント世界の辺境部では蛮族や(レバノンやカナンの山岳地帯に潜伏する)山賊や(地中海文明圏の隙間に位置する孤島に本拠地を置いた)海賊の類が、理不尽な処罰に耐えかねての脱走者や逃亡犯罪者、待遇に不満のある兵士(および元兵士)などを彼らが擁する技術ごと接収し見る見るうちに膨れ上がっていき「紀元前1200年のカタストロフ」によって全てが吹き飛ぶった準備が整っていったと推測されている。

当時のオリエント世界の辺境部では、古くは「(パレスチナ(カナン)を放浪しながら略奪行動を行っていた奴隷や傭兵にもなる非土着系のアウトロー的な社会階層で、アララハ王家の王朝再建に助力した伝説も有する)アピル(紀元前15世紀頃~紀元前14世紀頃)」や「(遊牧民を主体としながら海岸に位置する近隣諸都市からの逃亡者を受け入れることで軍を強化し、最終的にはヒッタイトとエジプトに挟間れた緩衝勢力まで成長した)アムル王国(紀元前15世紀末~紀元前13世紀)」、後にはイスラエル民族に屈するまでパレスチナ最大勢力として割拠を続けたと目されるペリシテ人の様な諸勢力が平然と闊歩していた。そもそも紀元前17世紀~紀元前16世紀にエジプトで外国人王朝を続けたヒクソスの大源流もこうした集団だったと考えられている。そして最後にウラルトゥとイスラエル民族が登場…

第2中間期、すなわちエジプト中王国が衰えた分裂期にとなった時期にエジプト史上最初の異民族支配王朝として登場したヒクソスは、その宗主権を認めながら戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓青銅製の刀や鎧などの軍事技術を学んだ第17王朝第18王朝に最終的には打倒され(ここからをエジプト新王国とするパレスティナに逃れるも3年後に最後の拠点シャルヘンも陥落して滅亡した。

  • ヒクソスとの関係が明白なのは同時代のシリア・パレスチナ地方にいた西セム系の人々である。ヒクソスの人名には明らかに西セム語の要素(ヤコブ)が見られ、またヒクソスの時代と前後してアナトやバアルと言ったシリア地方の神がエジプトに持ち込まれており、ヒクソスと「アジア人」の繋がりを想定させるものは多い。ロバの犠牲などの儀式が行われた事もわかっており、このような習慣はパレスチナ地方でも見られる。
  • ただしヒクソス時代の遺跡から発見される彼らの物質文化はレヴァントの文化とエジプトの文化の特徴が混合したものであり、神殿の建築や土器、金属加工製品の形式などはシリア、パレスチナ地方のそれと類似しているが同一ではない。
  • 最近ではクレタとの関係が非常に注目されている。これはアヴァリスの遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)で、クレタ島クノッソス宮殿に類似した「牛とび」を描いた壁画の破片が発見されたことと、クノッソスで発見された第15王朝の王キアンのカルトゥーシュ名を記したアラバスター製水差しの蓋の存在によって、ヒクソスとクレタ文化圏の間に交渉があったことが明らかとなったためである。特にアヴァリスで発見された壁画は、単なる模倣というよりはクレタ文化圏の人々がこの時期のエジプトに移住していたことを示している。

以上の様な観点から一般に「シリア・パレスチナ地方に起源を有する雑多な人々の集団」と目される様になったが、上掲の様な条件を満たしそうな存在としては、さらに(エジプトとカルタゴを結ぶアフリカ北岸、すなわちクレタ島の対岸に割拠した古代リビュア人の存在も加えられる。

こうしたヒクソスの特徴は奇しくも旧約聖書におけるペリシテ人とぴったり重なる。

紀元前1200年のカタストロフ」に際してエーゲ海方面から地中海東海岸に進出した「海の民」の一派だった事が確実視されているペリシテ人は、ヒッタイトの滅亡後の製鉄技術拡散もあって強大化しガザなどの5つの都市国家ペンタポリス)を拠点に北部のヘブライ(イスラエル)を圧迫したという。
*そういえば古代古代リビュア人も、その少なくとも一部は「海の民」に加わったと目されているが、まるで一枚板ではなく同時にエジプト王朝側に傭兵として雇われたりもしている。

<山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.71> 

ペリシテ人職業軍人の重装歩兵が編成する強力な武器を持ち、鉄の武器と戦車軍団、および弓兵をその軍事力の基盤としていた。(旧約聖書)サムエル記によれば、ペリシテ人は鉄の精錬を独占してさえいたらしい。彼らは各地の拠点に守備隊を置き、征服地の実効的な継続的支配を図った。」

これに対抗してセム語系のヘブライはいくつかの部族に分かれて戦い、不利な戦いを強いられていたが、紀元前11世紀頃ダヴィデ王が各部族を統一してヘブライ王国を建国してペリシテ人に反撃し、これを打ち破った。旧約聖書の「サムエル記」には、ダヴィデがペリシテ人の巨人ゴリアテを投げ石で倒した物語がある。

  • フルリ人/ミタンニによる商人交易網崩壊を経験したアッシリアアッシリア王国時代(紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀の末頃)には既に彼らに対抗する為の軍事強国化に舵を切っていた。しかし「紀元前1200年のカタストロフ」に便乗して侵入してきたアラム系諸族に奪われた穀倉地帯たるハブール川流域の奪還に成功するまでその本領を発揮する事はなかったのである。しかも最終的にはヒッタイトエジプト新王朝と同じ理由、すなわち遠征による宝物略奪戦争奴隷獲得で経済を回すシステムが成長限界に到達した時に自壊したと推測されている。

話をさらにややこしくするのが「アッシリア商人の交易網」崩壊後、どうやって錫の供給が保たれてきたかについて完全には明らかになってない辺り。その一方で実は「紀元前1200年のカタストロフ」前夜までにキプロス島からウガリットに輸出されるインゴットは次第に「(ただの原材料の一つに過ぎない)銅そのもの」から「(既に錫との合金に隠加工されていた)青銅」へと変貌を遂げてきた様なのである。

  • 特別な物証こそ発見されていないものの、当時のウガリットヒッタイト支配下にあり、キプロス島を完全属国状態に置いていたから(アナトリア半島を本拠地とする)ヒッタイトから錫の供給を受けていたとしても何ら不思議はない。

  • 同様に特別な物証こそ発見されていないものの(アナトリア半島との縁が切れた)後世のフェニキア商人は、錫の供給をイベリア半島タルテッソス希 Τάρτησσος, 羅 Tartessus)に依存する様になっており、当時からそうだった可能性もある。

    その一方で実は後世には錫ならナイル川上流域のヌビアでも採掘される様になり(ヘレニズム時代以降、ギリシャから冒険商人が直接取引に訪れる様になる)、当時から既に採掘が始まっていてこれが回されていた可能性も指摘されている。

  • やはり特別な物証こそ発見されていないものの、ミケーネ人が重要な役割を果たしていた可能性も指摘されている。イベリア半島のタルテッソスは実は錫の産地ではなく、内陸部からケルトが採取してくるそれを買い取ったり、英国コーンウォール地方と交易で獲得していたに過ぎなかった(その事実を知ったフェニキア商人は次第に「中抜き」によってタルテッソスを衰退させていった)。

    また錫資源自体はイラン高原のザクロス山脈に割拠するエラムや(アナトリア半島東部のヒッタイト故地に割拠した)ウラルトゥ(紀元前9世紀頃~紀元前585年)も潤沢に備えており、こうしたルートの少なくとも一部を独自ルートとして押さえていたからこそ青銅時代に繁栄出来たのではと考える訳である。

    そういえばDNA調査によって「ミケーネ人もミケーネ人も遺伝子的ルーツはアナトリア土人」と明らかになったので、ハリカルナッソスに到達したドーリア人が頭を悩ませた「カリア人はミケーネ人の末裔? それともリディア人の末裔?」問題は自然に解消してしまった事も話をややこしくしている。

こうして問題は「紀元前1200年のカタストロフ」においてミケーネ人が果たした役割とは一体何だったのかに絞られてくる訳です。

かつては、ドーリア人の南下によってミケーネ文明が破壊された、と説明されていたが、現在の教科書からはそのような記述は無くなっている。

  • 2003年まで使用されていた山川出版社の『詳説世界史旧課程)』までは、「ミケーネ文明も、ギリシア人のうちでおくれて南下したドーリアドーリス人のため、つぎつぎに破壊されてしまった紀元前1100年頃)。」と断定的に書かれていた。
  • 新課程の『詳説世界史B』では「ミケーネ文明の諸王国は前1200年ごろとつぜん破壊され、滅亡した。貢納王政の衰退や気候変動、外敵の侵入など複数の原因によるものらいいが、滅亡のはっきりとした事情は不明である。」という記述に変わった。そして、注として、「この外敵が、同じころ東地中海一帯をおそった系統不明の「海の民」であったという説もある。」とされた。つまり、ミケーネ文明の滅亡原因は「ドーリア人による破壊」ではなく、複合的な要因であり、一説に「海の民による破壊」説がある、ということになった。他の教科書、新課程用参考書もほぼ同じような記述となった。

ドーリア人が南下して先住ギリシア人を征服した、という説はトゥキディデスの『戦史』にさかのぼる。その冒頭で「(トロヤ陥落から八十年目には、スパルタ人などのドーリア人が同じく南下を開始し、ペロポネソス半島に侵入定着している第一巻12章)」と述べている。

  • 近代の言語学の深化で、ギリシア語の方言分布が明らかになり、先住ギリシア人であるアカイア人などは東方方言群であり、西方方言群のドーリア人やボイオティア人、テッサリア人などがあとから侵入してきて、先住ギリシア人は征服されるか、エーゲ海の島々、小アジア西岸に逃れた、と考えられるようになった。そして紀元前1200年頃のミケーネ文明の破壊がドーリア人など西方方言群のギリシア人南下の第二波によるものと推定されたのである。

  • しかし近年では、紀元前2000年紀末に西方方言群のギリシア人の南下があったことは事実であるが、彼らは先住ギリシア人の文化を征服したり破壊したのではなく、共存したと考えられるようになった。それは考古学上の知見によるとドーリア人の南下の以前と以後では生活様式の変化が認められない、と言うことがわかってきたからである。アッティカ地方を除くミケーネ文明の都市が破壊されたのは事実であるが、その前後の文化の変化が無いとすれば、この破壊は一過性のものであったと考えなければならず、その要因としては天災説や自然環境の変化説などが現れたが確証は得られなかった。そこでクローズアップされてきたのが「海の民」の侵入説である(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.72-75)

しかし、ドーリア人の移住をその要因とする古典学説を支持する意見もある。例えば、青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』では「現時点でも暗黒時代の情報資料は増加しているものの、激震の原因は十分に解明されているわけではなく、それゆえドーリア人の民族移動という古典学説も完全に否定されたわけではない」とし、広範囲にドーリア人の移動の痕跡が認められると同時に、アテネのあるアッティカ地方ではミケーネの文化伝統(幾何学模様式)が継承されているからである、と指摘している(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』2009 興亡の世界史 文庫版 2018 講談社学術文庫 p.309-310)

  • 一時期はこんな記述まであったのに…

    ミケーネ文明が紀元前12世紀頃崩壊し、暗黒時代を通してギリシア人の別の一派ドーリア人が鉄器の使用をテコに有力となると、先住民のアカイア人は征服されて被支配層になった。スパルタのヘイロータイといわれる人々はアカイア人と考えられている。

    紀元前1500年頃からペロポネソス半島ラコニア地方に定住したアカイア人は、紀元前1100年頃にスパルタ人に征服されて全て奴隷身分に落とされ、これがヘイロタイと呼ばれた。しかしその人口がスパルタ人口の半分~3分の2に達したのは第二次メッセニア戦争以降と考えられている。

    元来は優れた金属工芸技術とそれによってもたらされた大きな経済力を有していたが、国民皆兵制度の導入以降は徹底的に贅沢を排除して、貴金属の装飾品を身につけることさえ禁じた。商業は2万人の半自由民であるペリオイコイに従事させたが、基本的には通商では抑制策を採り、鉄貨の使用しか認めていなかったので他の諸都市との貿易は振るわず、かつての技術力も衰退し、必需品が流通するばかりとなった。

    ペロポネソス戦争勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらした事により、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じたため、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。

    第一次メッセニア戦争First Messenian War、紀元前743年~紀元前724年

    第二次メッセニア戦争Second Messenian War、紀元前685年~紀元前668年

    第三次メッセニア戦争Third Messenian War、紀元前464年~紀元前454年

    ところでしばしばスパルタは「ドーリア人ポリスを代表する都市」とされるが、むしろ実際の歴史上において代表的役割を果たしたのはコリントゥスを盟主として仰ぎ、エジプトメソポタミアと交易した(イオニア人都市やアイオリス人都市も含む)ドーリア商圏構成都市群だった様である。

    実際ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)でアテナイを破ったのはスパルタの陸軍力というよりコリントゥスの経済封鎖だったし、スパルタはむしろアケメネス朝から軍資金供与を受けてペロポネソス戦争に勝利し、富裕な同盟を継承する過程で貨幣経済浸透による貧富格差拡大を経験し伝統的体制の崩壊期を迎え衰退を始めてしまう。

    そもそもスパルタを傀儡として盟主に立てその陸軍力を過大に宣伝してきたのは(ドーリア商圏構成都市群がそれを欠いている事に目を向けさせない為の)コリントゥスのカモフラージュ戦略だったらしく「役立たず」に転じたスパルタからは距離を置く様になっていく。

    Xenophon「ラケダイモン人の国制」

    では、今でもなお、リュクウルゴスの法習は不動のまま存続しているとわたしに思われるのかどうかと、わたしに尋ねる人があれば、神かけて、これはもう意気込んで言うことはできない。

    なぜなら、昔なら、ラケダイモン人たちは家郷にあって、程々のものを所持して、お互い同士で交際することを選んだのであって、諸都市にあって順応し追従して、堕落するようなことは選ばなかったのをわたしは知っている。

    また、以前なら、黄金を持っていることが露見するのを彼らは恐れたのをわたしは知っている。しかるに今や、所有を威張っている者たちまでがいる。

    さらにまた、わたしの識っているところでは、以前はそのために外人退去令(xenelasia)があって、外地にあることは許されなかったのだが、それは、外国人たちのせいで市民たちが軽佻浮薄さに充たされることのないようにさせるためであった。しかるに今や、わたしの識っているところでは、第一人者と思われている人たちが真剣になっているのは、外国に順応するのを決してやめないということである。

    たしかに、嚮導者たるにあたいする者になるよう心がけたときもあった。しかるに今や、彼らがはるかに格段にかかずらわっていることは、そういったことにあたいする者となるようにということよりは、むしろ支配せんとすることである。

    そうであるからこそ、ヘラス人たちは、昔なら、ラケダイモンに赴いて、不正すると思われる連中に向けて嚮導するよう彼らに頼んだ。しかるに今や、多くの人たちが、彼らが再び支配するようなことになるのを阻止せんがために、お互いに呼びかけあっているのである。

    しかしながら、かかる酷評が彼らに浴びせられるのは何ら驚くべきことではない。神に聴従することもせず、リュクウルゴスの法習に〔聴従することも〕していないこと明らかだからである。

    プルタルコスラケダイモン人たちの古習」

    彼らには、船乗りになること、海戦することを禁じられていた。しかしながらその後、海戦をしたが、海を制覇した後ふたたび〔これを〕敬遠した。市民たちの性格が堕落するのを目撃したからである。

    しかし、その他の人たちすべてにおいてと同様、ふたたび変節した。というのも、金銭がラケダイモン人たちのところに集中したからであるが、集中させた連中は死刑の有罪判決を受けた。アルカメネスやテオポムポス〔エウリュポン家の王。在位紀元前720年頃~紀元前675年。第1次メッセニア戦争の最中の王〕といった王たちに神託が与えられたからである。

    金銭欲がスパルタを破滅させよう

    しかるに、それにもかかわらず、リュサンドロスはアテナイ人たちを降伏させたさい、多くの金銀を持ち込み、彼らもこれを歓迎して、彼を讃えた。

    とにかく、リュクウルゴスの法習を適用し、誓約を堅持して500年間、この国は秩序ただしさと名声の点でヘラスの第一人者でありつづけた。しかし、少しずつ逸脱し、強欲と富を愛する気持ちが忍び込むにつれ活力の源が弱っていった。そして同盟者たちもそのために彼らに対して気むずかしくなっていった。

    それでも、彼らは旧態依然として、マケドニア人ピリッポスがカイロネイアで勝利した後〔紀元前338年〕、全ヘラス人が彼を、陸上・海上両方における嚮導者なりと宣言し、さらに、その後、テバイ人たちの滅亡〔紀元前335年〕後、彼の息子のアレクサンドロスをそういうふうに〔嚮導者と宣言〕したときも、ひとりラケダイモン人達だけは、城壁なき都市を有し、うちつづく戦争で人口は極めて少なく、はなはだ脆弱にして与し易い者となっていたにもかかわらず、リュクウルゴスの立法のごくわずかな残り火のようなものを守り通して、あれら〔ピリッポス、アレクサンドロス〕にも、その後に続くマケドニアの王たちも従軍することなく、普通の同盟会議場に足を踏み入れることもせず、貢納をおさめもしなかった。

    ついに、リュクウルゴスの立法を完全に無視し、みずからの同市民たちによって僭主支配されるに及んで、父祖伝来の導きをもはや何ひとつ守らず、他の人たちと同類となり、従前の声望と直言を手放して、奴隷状態へと変化した。かくして今もローマ人たちのもとで、その他のヘラス人たちと同じ目に遭っているのである。

    ああまさにイブン・ハドゥルーンいうところの「都市化による部族的紐帯の弱体化」を地でいく展開。そして以下がスパルタにとっての「古き良き時代の思い出」となる訳で…

ミケーネ文明の崩壊

紀元前13世紀ミケーネ文明は繁栄していた。しかし、災厄の予兆を感じていたのかギリシャ本土の諸都市は城壁を整えており、アテナイミケーネでは深い井戸が掘られ、まさに篭城戦に備えているようであった。また、コリントス地峡では長大な城壁が整えられ、ミケーネ文明の諸都市はある脅威に備えていたと考えられる。

ミケーネ文明の諸都市、ミケーネピュロスティリンス紀元前1230年頃に破壊されており、この中では防衛のために戦ったと思われる兵士の白骨が発見された。この後、これらの諸都市は打ち捨てられており、ミケーネ人がいずれかに去ったことが考えられる。このことに対してペア・アーリンは陶器を調査した上でミケーネの人々はペロポネソス半島北部の山岳地帯アカイアに逃げ込んだとしており、アルゴリス南メッセリアラコニアを放棄してアカイアエウボイアボイオティアに移動したとしている。
また、クレタ島にもミケーネ人らが侵入したと考えられており、ケファレニア島西岸ロドス島コス島カリムノス島キプロス島に移動している。これらミケーネ人の移動により、ミケーネ文明は崩壊した。

  • ここでは「襲撃者が身内」すなわち(不景気による収入の目減りを補おうとしての)同じミケーネ系都市国家間の合従連衡の動きも視野に入れておくべきであろう。何しろボイオーティア古希: Βοιωτία / Boeotia, Beotia, Bœotia)のテーバイ(古希Θῆβαι)の様にミケーネ文明時代、現地諸勢力を糾合して同じミケーネ人たるミニュアース人Minyans)の都市オルコメノスを滅した事を自慢げに語る伝承まで残っている。

    経済環境の悪化から(都市間、および都市内)伝統ある元来のミケーネ人のコミュニティと新参者たるアイオリス人コミュニティの間に亀裂が走った可能性もある。最近は「アルゴナウタイの冒険やトロイア戦争はミケーネ時代の出来事で、しかもエーゲ海沿岸側ではなく黒海沿岸側で起こった可能性もある」なる指摘まで出ているが、これにミケーネ人カリア人アイオリス人ペラスゴイ人の様に(おそらく遺伝子的にも歩んできた歴史的にも近い関係にありながら)言語は共有してなかった集団間の齟齬も加わってくるのだからややこしい。むしろ逆に、そうした無用な衝突を回避しつつ交易を成功裏に終わらせるべく言語(およびそれに付帯する教養)共有の必要性が広範囲で本格的に痛感される様になり、その結果型抜きされたのが「ギリシャ語とギリシャ文化の共有に執着するギリシャ」だったと考えるのが「暗黒時代ギリシャに何があったか」についての最適解なのかもしれない。

  • 同一人種間の関係についてさえこれくらい疑惑が列記されるくらいだから、本当の異民族との関係がどうなったかなど推して知るべしであろう。その偏見は「ギリシャ語とギリシャ文化の共有に執着するギリシャ」に型抜きされて以降のバルバロス(βάρβαρος, 単数形)/バルバロイ(βάρβαροι, 複数形)に対する態度に継承されていく。彼らにとっての痛恨の悔悟は(アッシリア人がキンメリア人に、ローマ帝国軍人がゲルマン諸族についてそう感じたであろう様に)ペリシテ人の様な野蛮人にまでミケーネの最新軍事技術が伝わって「海の民」の強大化に貢献してしまった事だったとも。

実際皮肉にも(エジプトの碑文などに)「海の民」として列記されたメンバーこそがミケーネ文明の展開地域、およびキロス島を起点とする「紀元前1200年のカタストロフ」からの回復経路に現れ、ある種の東地中海覇者集団を構成していくのです。そもそもラメセス3世の神殿碑文ではペルシェトペリシテ人)と並んでエクウェシュアカイア人)の名前が挙げられています。おそらくミケーネ人は(エジプトやヒッタイトにとっては寝耳に水だった)この事件における一方的被害者ではなかったばかりか、何らかの形で襲撃者側に巻き込まれてすらいたのです。ラメセス3世の神殿碑文はさらに「海の民」メンバーとして(ミノア/ミケーネ時代のクレタ島からアナトリア半島に移住したグループで「イリアス」にアカイア人側として登場しながら、歴史上は一貫してヒッタイト/シロヒッタイト側に留まり続ける)リュキアからのルッカLukka, Luqqa)の名前が挙げられているのにも相応の理由があるのでしょう。

  • 紀元前1230年頃、それまでミケーネ文明の中心地だったミケーネピュロスティリンスなどが続けて失陥すると、この災厄を生き延びたミケーネ人はこぞってペロポネソス半島北部の山岳地帯アカイアキプロス島アナトリア半島カリア地方やアナトリア半島沿岸部のロドス島などに退避した。かかる空隙を埋める形で南下してきたのがドーリアで、イオニア人アイオリス人も巻き込みつつ(実質上、ミケーネ人の足跡を追う形でエンボイア島経由でカリア地方やロドス島に渡って現地に植民地を建設していったのである。

    アハイア県の名称の由来であるアカイア人は『イリアス』においてはギリシア軍を指す言葉であった。紀元前13世紀頃ヒッタイト人の文書には、アカイア人がアヒヤワとして述べられている。また『イリアス』の「船舶一覧」において、アカイア人アルゴスからティリンスまでの人々とされていたが、一説によると、ドーリア人がペロポネソス半島に進入した際、アカイア人はこの地に追いやられたのだという。また、アカイア人の起源の地は、テッサリア地方南部にあるアカイア・フティオティスと呼ばれた地域であるという。

  • ギリシャ人が「暗黒時代」から脱却する契機となったエンポリウム交易拠点)はエジプトのナウクラティス希Ναύκρατις)と(「紀元前1200年のカタストロフ」まで「王朝中興期にカナンの反社集団アピルの手を借りた」アムル人交易国家アララハがあった )シリア北部のアル・ミナ(Al Mina, ギリシャ人とキプロス人が共有)であり、共用語としてのギリシャ語はこうした実地の場で用いられながら次第に洗練されていったのである。

    ところで当時のエジプトはリヴィア人王朝時代であり、リヴィア(エジプトとフェニキア人植民地カルタゴの間のアフリカ北岸)の主要都市キレネーとシリアのカナン地方アッカド地方南部バビロンクレタ島経由で結ぶ経路は異民族王朝ヒクソス流入経路としても知られている。

    さらにアフリカ北岸のキレネークレタ島を結ぶ経路を北上すると「穀倉地帯シチリア島サルディーニャ、さらにはイタリア半島中央部(現在フィレンツェがある辺り)のエトルリア人都市連合に到達。ミケーネ文明はこの範囲にも相応の影響を与えたと考えられているが、同時にラメセス3世の神殿碑文に列記される「海の民」メンバーはシェルデンサルディニア)、シェクレシュシチリア)、トゥレシュエトルリア人)を含む。

    ギリシャ人は現地への影響力をさらに盤石なものにすべくイタリア半島南岸シチリア島に積極的植民を行った(羅Magna Graecia)。ここに初出するラテン語Graecia(英語読み「ギリシャ)の語源は古代ローマに存在した都市グラキアGraecia)とも、そのさらなる語源となったと目される現在のオロポスOropos, エウボイア島からの最短距離の供給路上に位置するボイオチアとアッティカ間の辺境の海岸地方名)周辺にあったと推定される「ギリシアで最も古い都市グライアGraea/Γραῖα, 「古い」「古代」の意で何人かの学者は、ギリシャ神話に登場するギリシャ人の祖グライコス(Graecus/Γραικός)との関係を指摘)ともいわれている。

    そう、実はギリシア神話に登場する3姉妹の怪物グライアイ古希: Γραῖαι, Graiai, 羅: GraiaeもしくはGraeae。この名前は複数形で、単数形はグライア)と同語源で原義は「老婆達」を指す一般語に過ぎなかったのである。

    こうした展開の延長線上に花開いた「東方化様式運動」の盟主として台頭してきたのが交易国家コリントゥスだった。その「航海の女神」を兼ねるアフロディテ信仰は、エトルリア都市連合ばかりか「未来の地中海覇者」ローマ人にまで影響を与えていく。

    これらドーリア人商圏を構成する諸都市は、ペルシャ戦争(紀元前500年~紀元前449年)を最大限の伸張の機会として最大限利用しデロス同盟の盟主の立場に上り詰めた「イオニア人の成り上がりアテナイペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)に破れて衰退するまで守勢を強いられ、以降もギリシャ文明圏全体の没落の煽りを受けて振るわない日々がしばらく続いたが、ヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)に入りディアドッコイ(アレクサンドロス大王の後継者)の一環としてプトレマイオス朝エジプトセレウコス朝シリアを下して東地中海交易の制海権を掌握する様になると再び黄金期を迎えた。それを祝したのが著名な「ロドス島の巨像(Colossus of Rhodes, 紀元前3世紀頃)」となる。

    アレクサンドロスの死後、後継者問題からその配下の将軍らによる戦乱が起こり、プトレマイオス1世セレウコスアンティゴノスらが帝国を分割した。 このいわゆるディアドコイ戦争の間ロドス島は主に交易関係を通じてエジプトに拠るプトレマイオスと密接な関係にあったが、ロドスの海運力がプトレマイオスに利用されることを嫌ったアンティゴノスは、息子デメトリオスに軍を率いさせてロドスを攻撃させた(ロドス包囲戦、紀元前305年 - 紀元前304年)。これに対してロドス側はよく守ってデメトリオスの攻撃を凌ぎきり、翌年攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスプトレマイオス双方が妥協して和平協定が成立した。この時デメトリオスの軍が遺していった武器を売却して得た収益をもとに、今日アポロの巨像としてその名を残している太陽神ヘーリオスの彫像が造られた。

    古代の記述に拠れば、ロドスの巨像は以下のようなものだった。まず、ロドスの港の入り口付近に、高さ15メートル50フィート)の大理石製の台座を設置した。その台座の上に鉄製の骨組みを作り、さらに薄い青銅板で外装を覆った。外装はデメトリオス軍の遺棄した武器や攻城塔を鋳潰したものが使われた。建造には盛り土の傾斜路を利用し、組み立てが進むにつれて、傾斜路の高さを調節して対応していたと考えられている。彫像自体の高さは34メートル110フィート)、台座を含めると約50メートルに達した。巨像が完成したのは着工から12年後の紀元前284年であった。

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あれ、これ自分の知ってる古代ギリシャ史と違う」と思った人、おそらく貴方が知ってるのは「イオニア人の成り上がりアテナイが世界に自分を認めさせる為に捏造の限りを尽くした「アテナイ史観」なのです。とはいえ皮肉にもその「守り抜くべき伝統など何もない不遜な雰囲気」こそがギリシャ文化の世界史的飛躍に結びついた側面も…