「戦車部隊」をまともに運用出来たのはエジプトとヒッタイトくらいだった? 一応ミタンニ軍も戦車を装備していた記録がありますが「量産してメンテナンスを続けるシステム」は、相応の工業大国でないと維持出来ないのです…
メギドの戦い(紀元前1457年):古代エジプト軍VSカナン軍…エジプト軍は1000両強の戦車部隊で突撃し、弓矢を放ってカナン軍を圧倒→エジプト軍の勝利!
メギドの戦い(紀元前1457年/紀元前1482年/紀元前1479年)
古代エジプトとアッシリアを結ぶ貿易ルート(狭い峠の西側)の帰趨を巡ってシリアでエジプトのファラオたるトトメス3世(在位紀元前1479年頃~紀元前1425年頃)の軍勢とカナン連合(カディシュ、メギド、ミタンニ)が激突。カナン連合軍は大敗を喫っし、カデシュを含めたシリア南部の都市国家群がエジプトの覇権下に入った。
- 実はこの戦いこそハルマゲドン(希Ἁρμαγεδών, 英Armageddon, 最終戦争)概念の起源とも。要するに世界の終わりには(ヘブライ人の重要拠点の一つだった)メギド でこの敗戦の屈辱を晴らす再戦が行われ、そして今度こそ正義の側(カナン連合軍)が勝つというのである。
- ただ実際には、この時の敗戦でエジプトに降って以降の方がメギドは 繁栄したらしく、交易の利益で大規模で非常に精巧な宮殿が建設されたという。
- 「紀元前1200年のカタストロフ」期にはメギドもウガリットやカディシュ同様紀元前1150年頃に一旦破壊され尽くしたが、ヘブライ人達が再定住してアラム人襲撃者(Aramaean Raiders)に再破壊されるまで重要な都市であり続けた。
さらにメギドを再建したのはイスラエル王国(北王国)に対して「アッシリア捕囚(紀元前740年代頃~紀元前722年)」を遂行した新アッシリア帝国のティグラトピクセル3世(Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)とされる。旧イスラエル王国首都サマリア占領を遂行する行政機関の拠点としてであったが、次第に維持が困難となり最終的に紀元前586年頃に放棄された。
ここで重要なのは「紀元前1200年のカタストロフ」後のヘブライ人によるメギド再建をどう考えるべきか。
そう「復讐する」とはいうけれど、如何なる対象に対して如何なる大義名分に基づいて復讐するの? そういう部分についてヨハネの黙示録はちゃんと語ってくれないのです。