遺跡に残された宮殿の建築様式にマリやアララハといったシュメール=アモリ人王朝のそれと共通点が見出せるそうです。
カトナ(カトゥナ、Qatna、アラビア語:قطنا、現在のアル=マシュラファ al-Mashrafah المشرفة)
シリアにある古代の都市国家の遺跡。ホムスの北東18km、オロンテス川の支流ワジ・イル=アスワド(Wadi il-Aswad)にある遺丘テル=エル=ミシュリフェ(Tell-el-Mishrife)にある。遺丘(テル)の面積は1平方kmで、西シリアでも最大級の青銅器時代の都市である。遺丘はシリア砂漠の石灰岩の台地のへりに位置し、肥沃なホムス盆地に面している。
その歴史
紀元前2千年紀には、メソポタミア地方とキプロス島・クレタ島・エジプト地方を結ぶ貿易路が形成された。
- カトナはユーフラテス川中流域(マリなど)からタドモル(パルミラ)を経て地中海に至る道の半ばにあった。
- ユーフラテス川沿いのエマル(Emar)からヤムハド(ハラブ、アレッポ)、カトナ、ハツォル(Tel Hazor)-メギド(Tel Megiddo)を経てエジプトへ行く道も通っていた。
- カトナのあるホムス盆地の西には、南からのレバノン山脈が途切れ北へ続くシリア海岸部の山脈が始まる大きな谷間があり、地中海沿いの港ビブロスやトリポリへ向かう道が発していた。
- こうした地理上の立場によりカトナは、マリからカトナを経て地中海に至るスズ貿易の中継地となり、一方キプロスからの銅はこの貿易路を逆にたどってメソポタミアに向かった。マリから発見された大量の粘土板文書の中では、布や服、ある種の弓、宝石、木材、ワイン、二輪の戦車などが、カトナを経てマリに届く品物として挙げられており、一部は更にバビロンへと運ばれた。
カトナが文献に最初にあらわれるのは、ウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)の時代にまでさかのぼる。
*やはりシュメール人が建設し都市と考えるのが妥当らしい。
- カトナでは青銅器時代後期の宮殿の瓦礫内から、エジプト第12王朝のアメンエムハト2世(紀元前1875年~紀元前1840年)の娘・イターのスフィンクスが発見されており、エジプトからの影響の強さを物語るものの、このスフィンクスがいつカトナにもたらされたかははっきりしないため第12王朝とカトナとの関係も明確ではない。
マリから発見された文献により名前の分かっている最初のカトナ(カタヌム Qatanum)王は、イシ・アッドゥ(Ishi-Addu、「アッダはわが助け」)で、上メソポタミアのシャムシ・アッドゥ(Shamshi-Addu)と同盟を組んでいた。
- イシ・アドゥの跡を継いだのは息子のアムト・ピ・エル(Amut-pî-el)で、王子の頃にナザラ(Nazala)の知事だった人物である。彼の治世はバビロニアのハンムラビ王(紀元前1792年~紀元前1750年)と同時期だった。
- アムト・ピ・エルの妹ベルトゥム(Beltum)はマリの王ヤスマフ・アッドゥ(Jasmah-Addu)と結婚している。彼女の母はおそらくアッシュールかエカラトゥムの出身のラムマシ・アッシュール(Lammassi-Ashur)とみられる。
- マリの王ジムリ・リムもカトナ出身の姫ダム・フラシム(Dam-hurasim)を娶っている。
マリがハンムラビに征服され破壊された後は、カトナに関する文献は少なくなる。
- ヤリム・リム3世の治めるヤムハド(アレッポ)がカトナの最大のライバル都市となり、一時はヤムハドに支配された。
ミタンニ帝国が上メソポタミアで台頭するとミタンニと同盟を結ぶが、エジプトとミタンニの間の係争地となる。
- カトナ宮殿の一部(宮殿C室、ニン・エガル(Nin-Egal)神殿と呼ばれる部屋)の銘文には、ミタンニ人がカトナに住んでいることが書かれている。
- エジプト第18王朝のアメンホテプ1世(紀元前1515年~紀元前1494年)とトトメス1世(紀元前1494年~紀元前1482年)のシリア遠征はカトナにも達したとみられるが決定的な証拠は見つかっていない。
- カルナックのアメン大神殿の第7塔門(パイロン)には、トトメス3世(紀元前1479年~紀元前1425年)がその治世の33年目にカトナの地に滞在したことが書かれている。
- アメンホテプ2世(紀元前1427年~紀元前1401年)はオロンテス川を渡る途中にカトナに襲われたが、勝利をおさめ戦利品を奪った。その中にミタンニの戦車の装備もあったことが書かれている。
一方、カトナ宮殿の地下から見つかった楔形文字の粘土板からは、以前には知られていなかった紀元前1400年頃の王イダンダ(Idanda)の名が見つかっている。
- ヒッタイトの王シュッピルリウマ1世(紀元前1380年~紀元前1340年)のシリア遠征の際、カトナのアキジ(Akizzi)王子はエジプトのアメンホテプ4世に助けを求めた。
- しかし彼は唯一神アテンを祀り新首都アマルナへ遷都する大改革に没頭しており、結局カトナは、ヒッタイトに征服・略奪され住民を連行されたシリアの都市国家の中に名を連ねることとなる。
- この時期のエジプト内外の政策が記された粘土板・アマルナ文書の中にはアキジ王子がアメンホテプ4世に宛てた親書5通も含まれている。
- カトナの名は、エジプト第20王朝のラムセス3世(紀元前1180年)の時代までのエジプト地誌にも記載されていた。エマルから見つかった文献にも、青銅器時代末期(紀元前12世紀)にアラム人がカトナを襲った様が書かれていることから、少なくともこの時期にはまだカトナが存在したことがわかる。
遺丘には新バビロニア時代(紀元前7世紀)にも人が住んでいたことが出土品からわかるが、すでに近隣のホムス(エメサ)が交易路の中継点という役割を奪っていたため、取るに足らない町となっていた。