エマル(Emar)
シリア北東部のユーフラテス川中流にある古代の都市国家。アレッポとラッカの中間、南へ流れるユーフラテス川が東へ向きを変えるあたりの南岸にあるテル・メスケネ(Tell Meskene)の遺跡が古代のエマルだとされている。高台にある遺跡の範囲は 1000m × 700m におよび、現在はユーフラテスを堰き止めた人工湖アサド湖の湖畔に位置する。
- 楔形文字の書かれた粘土板多数が発見された事でウガリット・マリ・エブラと並ぶ古代シリアの重要な考古学遺跡となった。紀元前2500年にまでさかのぼるこれらの文書や、1970年代以来の遺丘(テル)の発掘結果からメソポタミア・アナトリア・シリアの勢力圏の境界にある青銅器時代の重要な交易拠点であったとみられる。
他の都市遺跡と違い、エマルから見つかった粘土板は宮廷や政府のものではなく、民間同士の取引、裁判記録、不動産取引、婚姻、遺言、養子縁組など、民間の営みに関するものだった。神官の家からは、メソポタミアの伝統に関する文学や語彙集などの文書、地元の信仰に関わる儀式の文書などが発見されている。
エマルの歴史
1972年~1976年のエマル遺跡へのフランスの二つの考古学チームの発掘は、水の神バアルとその陪神アスタルトのものと考えられる聖域を構成する神殿地区を明らかにした。これは青銅器時代後期(紀元前13世紀から紀元前12世紀初期)にさかのぼるとみられる。
- 紀元前3千年紀中旬にはエブラの支配者の影響下にあったことが、エブラの文書庫から発見された粘土板から明らかになっている。
- マリで発見された紀元前18世紀(青銅器時代中期)の文書では隣接するアムル人王朝ヤムハド(現在のアレッポ)の影響下にあったとされる。
- エマルからは後期青銅器時代の紀元前13世紀~紀元前12世紀初期のアッカド語文書が出土している。また同時代の資料では、ハットゥシャおよびウガリットから出土した文書、およびアッシリア帝国の文書庫から出土した文書にもエマルへの言及がある。当時エマルはヒッタイト帝国の勢力圏にあり、カルケミシュの副王に支配されていた。
遺跡や文書は紀元前12世紀のものを境に途絶えてしまう。これは青銅器時代末期から鉄器時代初期にかけて起こった、異民族侵入などによる文明崩壊の結果である。
やはりカナン諸族は「バール(Baal=男主人)/バーラト(Baalat=女主人)信仰」を共有してたんでしょうかね?