「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「古代中継交易拠点」マリの興亡

それにつけても、古代メソポタミア都市国家における宗教と経済の重なり具合って本当に日本の門前町みたいですね。

これぞカール・ポランニーいうところの「経済も宗教も社会システムに埋め込まれてる状態」なんですかね?

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 マリMari, 紀元前2900年頃~紀元前1759年

ユーフラテス川中流の右岸(西岸)にあった古代シュメール(シュメル)およびアムル人の都市国家。現在のシリアの町アブ・カマルAbu Kamal)の北西11kmデリゾールの南東120kmに位置するテル・ハリリ(Tell Hariri)遺跡に比定。

シュメールシュメル都市国家としての繁栄と破壊

  • 紀元前5千年紀からの集落であったと見られるが、シュメール人都市国家としての重要性がみられるのは紀元前3千年紀および紀元前2千年紀の事である(紀元前2900年頃~紀元前24世紀)。その住民は北シリアのエブラやメソポタミア南部のアッカド同様セム系の人々だったと目されている。
  • ユーフラテス川から2km弱離れており、ユーフラテス河谷と谷の周囲にあるステップとの境にあるのでメソポタミア南部のシュメール諸都市シリア北部の都市を結ぶ戦略的重要中継拠点として繁栄。シュメールはマリ経由で材木や石材といった建材をシリアの山岳部から輸入した。

  • 紀元前2900年頃に始まった繁栄は紀元前24世紀の破壊によって突如終焉。以降は再建まで小さな村落程度の規模に縮小してしまう。この破壊をもたらしたのは(シリアやアナトリアといった西方への遠征の過程でマリを通過したと述べているアッカドサルゴンと考える者もいれば(商業上のライバル都市であったエブラと考える者もいる。

アムル人都市国家としての繁栄と破壊

  • アムル 人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)、その一環として紀元前1900年頃に再建される。バビロニア文明やクレタ島のミノア文明の影響を受けた巨大宮殿を建造。アレッポヤムハド)やウガリットといった近隣の都市国家や王国で評判となった。

  • 紀元前1759年頃アッカド再統一を目指すバビロン第1王朝(アムル人王朝)第6代王ハンムラビに再度破壊された。跡地にはしばらくアッシリア人バビロニア人がまばらに居住し続けたが、ギリシャ人が到来する頃までに単なる村落へと凋落。その後歴史から完全に消えてしまう。
  • シリアの中継拠点カテナも巻き添えで衰退。商圏再編によって近隣の交易都市(アムル人王朝)ヤムハド(アレッポ)との対決が不可避となり対立が激化したせいかもしれない。一時期などヤムハドに完敗し、その支配下に置かれていた。

  • その一方で同じユーフラテス中流域に位置するテルカ(シュメール人王朝改めカッシート人王朝)が隙間を埋める形で大躍進。以降、主要都市国家の一つとして覇権を唱える様になる。

その王国の文書庫(アーカイヴ)からは、書簡や行政文書、祭祀の記録など25,000枚以上の粘土板が見つかった。アンドレ・パロはこの「マリ文書」について、「古代中東の歴史的事件の年代に完全な見直しを迫り、500以上の未知の地名を提供することで古代世界の地図の書き直しや完成すら可能にした」と述べている。

ハンムラビの征服 - Wikipedia

バビロン第1王朝(紀元前1830年~紀元前1530年)の王ハンムラビが即位した紀元前1792年、既に北方ではアッシリアシャムシ・アダド1世が、南方ではラルサのリム・シン1世がその最盛期を迎えており、バビロンはこれらに挟まれて厳しい立場にあった。

  • シャムシ・アダド1世との友好関係維持に細かく注意を払い、その支持を得て南のラルサに対抗。紀元前1784年頃までこの路線を続けつつイシンウルクウルなどを攻略しバビロンの勢力を拡張。さらにエシュヌンナとも戦って領域を拡張。

  • シャムシ・アダド1世が没するとその息子たちを見限り、マリのジムリ・リムに接近して同盟を結んだが、当然シャムシ・アダド1世の支援ほどの効果は得られず、大規模な軍事活動など起こせなかった。その後20年前後にもわたり、ほとんど専ら国内整備と防御に時間を費やす。

転機となったのは紀元前1764年の戦いである。この年、エシュヌンナ、アッシリアグティ人、エラムなどの同盟軍がバビロンを攻撃。マリの支援もあってこの戦いに勝利したハンムラビは、やっと待ち望んでいた行動の自由を得たのだった。

  • 翌紀元前1763年一挙に南下してラルサのリム・シン1世を打ち破りラルサを併合。
  • 紀元前1759年頃長年にわたる同盟相手であったマリのジムリ・リムも滅ぼしてマリを併合。
  • 紀元前1757年頃にはエシュヌンナ市を水攻めで完全に破壊し、アッシリアへも出兵してこれを征服(征服した範囲については明確ではない)。

こうして極めて短期間の征服活動の末に再び全メソポタミアを支配する王朝が登場し、バビロン市がメソポタミアの中心都市として舞台に登場する展開を迎えたのだった。

マリの市民は精巧な髪形と服装で知られており、バビロンから240km以上上流にあるにもかかわらずメソポタミア文明のを一部をなしていたとみられる。マリはメソポタミア南部諸都市の作った交易用前哨として機能したという見方もある。

  • マリの市民はシュメールの神々を崇拝した。マリの最高神は西セム系の穀物神で嵐の神ダゴンダガン)であり、ダゴンに捧げられた神殿があったほか、豊穣の女神イシュタルに捧げられた神殿、太陽神シャマシュに捧げられた神殿も発見された。シャマシュは全てを見ている全知の神として知られ、二つの大きな扉の前に立つシャマシュの姿が多くの印章に彫られている。ギルガメシュ叙事詩によれば、これらの扉はマシュの山にあり、天国の東の扉であるという。

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  • その一方でアモリ系王朝を創始したヤフドゥン・リムの王女は嵐神アダドの神官であり、王家の神として崇拝された。

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    アムル人の信仰する風神ハダドHadad、アッカド語: アダド)は、フルリ人の信仰する同様の風神テシュブTeshub)と合祀しやすいのかもしれない。

  • また1930年代後半の発掘では椅子に座った頭部の欠落した女神像が出土しており、椅子の両側に穴があることからブランコに乗った豊穣の女神ニンフルサグではないかと考えられている。インドや古代ギリシャ古代ローマなどに見られるブランコに女性が乗る豊穣儀礼との関係が指摘されている。

マリの広範囲にわたる交易路を通して、これらの神々はエブラウガリットなどシュメール以外の文化圏にも伝えられ、地元の神々と混交した。