「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ヒッタイトの商業都市」カルケミシュの興亡

紀元前1200年のカタストロフ」を生き延びたヒッタイト地方都市…

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カルケミシュCarchemish、古代ギリシャおよび古代ローマでは「エウロプス」 Europus

古代オリエントの大国・ミタンニやヒッタイトの重要都市。現在は、トルコとシリアの国境線上に位置する。旧約聖書に書かれたバビロニアとエジプトの決戦の舞台でもある。

考古学者T.E.ロレンスが中東を調査していた1910年代前半、この地は地元民から、聖書内の都市ジェラブルス (Jerablus) と結び付けられてジャラブロス (Jarablos、Jarâblos) と呼ばれていた。これが崩れた地名がジェラブリス (Djerabis) である。現在、トルコ・シリア国境のすぐ南にはカラブルス (Carablus) の町がある。国境のトルコ側にはカルカミス (Karkamis) の町がある。

メソポタミア都市時代

新石器時代から生活が営まれており紀元前3000年頃の陶器や紀元前2300年頃の墳墓など青銅器時代の遺物も発掘されている。

  • シリア北部のエブラから発見された紀元前3千年紀の文書でもこの都市への言及がある。マリアララハから見つかった紀元前1800年にさかのぼる文書によれば、当時カルケミシュはプラハンダAplahanda)という名の王に統治され、材木交易の中心地であった。
  • またウガリットやミタンニ(アッシリア語でハニガルバト)とも外交関係を持っていた。
  • 古代エジプト第18王朝のファラオ・トトメス1世はカルケミシュ付近に、シリア地方およびユーフラテス以遠の地を征服した事を祝う記念碑を建てている。

アメンホテプ4世の治世の終わりごろ紀元前14世紀頃)、ヒッタイトの大王シュッピルリウマ1世がカルケミシュを攻め落とし、息子ピヤシリをカルケミシュ王に封じた。

ヒッタイト都市時代

聖書(エレミヤ書46:2、歴代誌下35:20、イザヤ書10:9)で何度も言及されのでキリスト教徒の間でもよく知られ、アッシリア古代エジプトの文書にもたびたび登場する。

  • 青銅器時代末期にはヒッタイト帝国の中でも重要な都市の一つとなり、紀元前11世紀には繁栄の絶頂に達した。
  • 青銅器時代終焉期に「海の民」の襲来を受けたとされる。エジプトのラムセス3世は、メディネト・ハブの葬祭殿に置いた自身の治世8年目の日付のある碑銘で海の民との戦いを記しているが、この中で海の民が滅ぼした都市にカルケミシュを含めているのである。実際にはその猛攻を防ぎ切ったか壊滅後再建され、鉄器時代の「ヒッタイトNeo-Hittite、近年はシリア=ヒッタイト Syro-Hittite とも呼ばれる)」の交易の重要な中心地となる。

  • クジ・テスプ1世Kuzi-Tesup I)がカルケミシュで権力を握った事は明らかである。彼の父タルミ・テスプTalmi-Tesup)はヒッタイト最後の王シュッピルリウマ2世の同時代人であり、クジ・テスプ1世とその後継者達は「大王」の称号下、小アジア南東部からシリア北部、東はユーフラテスが大きく西へ曲がるあたりまでを治める小さな帝国(シリア=ヒッタイト)を築き、この帝国は紀元前1175年頃~紀元前990年頃まで続き、その後は領土を失い近隣地域を治めるだけの単なる都市国家となった。
  • 紀元前9世紀ヒッタイト人の小国となったカルケミシュアッシリアアッシュールナツィルパル2世シャルマネセル3世に貢物をしている。同時期にカルケミシュの周囲にあったシリア=ヒッタイト諸国には、ユーフラテスの少し下流にあるビト・アディニBit-Adini、首都ティル・バルシプ Til-Barsip)、ユーフラテス川からアレッポ周囲までに広がるビト・アグシBit-Agusi、首都アルパド、後にアレッポヒッタイトに奪われる以前は(バビロニア第一王朝を立てた)アモリ人の都市だったとも)、北のグルグムGurgum、首都マルカシ Marqasi)、東のハブール川沿岸にあるビト・バヒアニBit-Bahiani、首都グザナ Tell Halaf/Guzana)などがある。

紀元前717年ピシリス王Pisiris)の時代にアッシリアサルゴン2世により征服された。

さらにはこんな話も。

ヒッタイト時代のカルケミシュの守護神は、フルリ人から伝わったと目される女神クババKubaba)であり長いローブを着て、手にザクロと鏡を持った威厳のある婦人の姿で描かれた。後にギリシャに伝わり地母神キュベレーとなったとも。

ちなみにキュベレーの夫は、同時に息子でもあり死んでは蘇るアッティスとされる。

そして紀元前605年夏資料によっては紀元前607年)、バビロニアネブカドネザル2世とエジプトのネコ2世がこの地で決戦を行います(カルケミシュの戦い、旧約聖書エレミヤ書46:2)。ネコ2世の遠征の目的は、バビロニア帝国のアッシリア方面への西方拡大を食い止め、ユーフラテスを渡る交易路を断ち切る事でしたが、エジプト軍は不慮の攻撃を受けて大敗を喫し、勢力圏であったシリアからも押し出されてしまいます。