「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【内在化領域】【アンサンブル】ビキニ水着

以下エロ注意…

https://x.com/ytartschool/status/1808964581206995324?s=46

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ビキニ前史

  • シチリア島にある5世紀頃のローマ帝国時代のモザイク(ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ)には、ビキニに似た服で運動する女性が描かれている。

  • 19世紀~20世紀の西洋では、女性の水着は長袖かつ足首までカバーするウールやフランネル素材のシュミーズのようなものだった。

  • 1920年代にはレーヨン素材が使われ出した他、ジャージ素材も使われていた。

  • 1930年代になると、ラテックスやナイロン素材が使われ始め、よりボディラインにタイトにフィットするようになり、また袖や足を覆う部分もなくなり首や背中の露出も大きくなっていった。1930年代~1940年代を通じて、ミッドリフスタイル(腹部を露出するツーピース)の水着が定着し始め、腹部の露出も時代とととも大きくなっていった。

「ビキニ」登場以降

1946年7月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁アメリカ合衆国によって、第二次世界大戦後初の原爆実験(クロスロード作戦)が行われた。

この実験の直後の1946年7月5日にルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ("like the bomb, the bikini is small and devastating")、ビキニと命名してこの水着を発表。それにちなんで、7月5日はビキニの日となった。ちなみにビキニの名称が「水爆実験になぞらえた」と誤って言われることがあるが、この誤解には次の2つの類型がある。

  • 1946年7月1日のクロスロード作戦を水爆実験であったと誤解したもの。
  • 1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実験「ブラボー」の後に、ビキニと命名したと誤解したもの。

ビキニ環礁における最初の水爆実験はあくまで1954年3月1日の「キャッスル作戦」ブラボー実験で、この水着の発表の8年後である。また、人類最初の水爆実験は1952年11月1日、エニウェトク環礁におけるもの(アイビー作戦)であるから、水爆実験になぞらえたということはあり得ない。

  • 1946年、フランスの自動車エンジニアルイ・レアールが母親の経営する下着会社を手伝ってる折に「サントロペのビーチを泳ぐ女性達が肌をきれいに焼くために水着の端をまくり上げている」のを観察して現代的なビキニ水着を考案した(いわゆるストリング・ビキニで、新聞パターンをプリントしたわずか30平方インチ=194平方センチメートルの三角布4枚が紐でつながってるだけだった。メディアに披露する為の水着モデルを探したが、ふつうのモデル達に拒絶されたのでカジノ・ド・パリ出身で当時19歳であったヌードダンサーのミシュリーヌ・ベルナルディーニ(Micheline Bernardini)に依頼)。女性のへそが露出する初めての水着であった為に議論を呼んだがヒット作となる。特に男性からの人気が高くモデルとなったベルナルディーニには50,000通あまりのファンレターが届いたという。ビーチで着られるようになったのは後述する「アトム」のほうが早かったが、水着としてのカテゴリにはレアールの「ビキニ」の名がついた。

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  • 同年5月、フランスのデザイナージャック・エイム(Jacques Heim)もほぼ同様の水着を考案し「それ以上分割できない原子」に擬えてアトム(Atome)と名づけられている(とはいえそのボトムは女性のへそが隠れるぐらい大きかった)。デザイナーとしては無名だったレアールに対し、エイムはすでに高い評価を得ていたデザイナーであり、パイロットを雇って地中海リゾート地の上空に飛行機を飛ばし「世界でいちばん小さい水着」という空中文字を描いてそのデザインを宣伝した。この強力なライバルに対抗する為、レアールは自らの水着がもたらす衝撃を原爆に擬え、1946年7月5日にピシン・モリトール(当時人気があった公共プール)で、メディアおよび一般に公開し、フレンチ・リヴィエラの上空に、空中文字で「世界最小の水着よりも小さい」と描くパフォーマンスを行い「ツーピースの水着であっても結婚指輪をすり抜けられないなら真のビキニではない」なるキャッチコピーを考案し、V型8気筒エンジンのパッカードを購入してコックピット、舷窓、錨、信号柱などマリンモチーフのモックをそなえた豪華なクルーザー風の「ロードヨット」に改造して宣伝カーに採用し、1950年代後半のツール・ド・フランスにおいてビキニを着た娘達を載せ競技選手の後を追わせたのである。まだフランスがこうしたファッションに寛容ではない時代のことであり、たいへんなセンセーションを巻き起こした。

    そう、まさに電流戦争(直流を推すエジソンと交流を推すテスラの派手なパフォーマンス合戦で後者が勝利)の様な光景…

  • 発表当時は、肌の露出度が高いとされた水着でその大胆さから当初はあまり着用されず、アメリカ合衆国では、1960年代初頭まで一般的なビーチでは着用禁止とされていた。それでも現在のものに比べれば、同じ「ビキニ」というカテゴリーだが地味なものであった。

    「1957年の時点では、ビキニ姿の女性は違反切符を切られた」
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  •  1960年にはブライアン・ハイランド(Brian Hyland)が「ビキニスタイルのお嬢さん(Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka-Dot Bikini)」なる歌を歌い、ビルボードのHOT 100で1位を記録し、日本でもヒットした。この曲のモデルは作者のポール・ヴァンス(Paul Vance)の当時2歳の娘だったという。日本では、田代みどりや坂本九らがカバーした。その過程でポルカドットが水玉模様に翻訳される。

  •  日本には1950年から輸入されていたが、ごく一般的に着用されるようになったのは1970年代になってからである。キャンペーンガールであったアグネス・ラムのビキニ姿のポスターが大人気になった。

    漫画「うる星やつら」のラムちゃん「ちゃ!! ちゃちゃちゃ!!」

  • 1980年代中期 ~後期の日本では一時期ビキニが廃れ、ワンピースが復活した。これは水着メーカーの作り上げた流行にもよる。こうした逆風から再びビキニが台頭するのは、へそ出しファッションが大流行しだした1990年代中期になってから。

戦後、間もなく日本に入って来た『ビキニ』ですが、当時は水着に対して“ファッション性”よりも“機能性”が求められていたのと、肌の露出が避けられる傾向にあったためなかなか流行しなかったそうです。

やがて1970年代になって、水着に“ファッション性”が求められるようになると、『ビキニ』が浸透するようになりました。

2000年代後半より映画「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」ヒットの影響で男性用ビキニマンキニが流行したが、現在は完全に廃れている。

その後の展開

そんな感じで以下続報…