それまで「アモリ人はシュメール文化に完全に帰依した」と思ってたら、実は信仰のある側面だけは絶対に譲らなかったんですね。
エシュヌンナ(Eshnunna)
アムル 人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)には大国の一つとして繁栄した古代メソポタミアの都市、またはそこに起こった王国。バビロン第1王朝の王ハンムラビによって破壊され、その歴史を終えた。
遺跡は現代のイラク共和国ディヤーラー県バアクーバ近郊のテル・アスマル遺跡に同定されている。バグダードの北西約80kmの所にある。
その歴史
紀元前30世紀頃から居住が始まったが、その重要性が増したのはアッカド王朝時代(紀元前2334~紀元前2154年)に入ってから。交易の中継基地として経済的に繁栄したこの都市には多数の神殿が建てられた。ウル第三王朝時代(紀元前2112年~紀元前2004年)には地方の中心都市として大規模に拡張されている。当時はウル王ルガルザゲシを称える神殿も存在した。
- ウル第三王朝が弱体化するとイシン第1王朝(紀元前2017年頃~紀元前1794年)に先行する形で紀元前2026年頃独立。
- アッシリア商人の台頭などによってメソポタミア地域の経済が発展するにつれ繁栄し、イピク・アダド2世の治世下で大きく領土を拡大して周辺のラルサ、バビロン、アッシリアと覇権を争った。この頃に正式に「エシュヌンナ王」や「全土の王」と言うような称号が用いられるようになる。エシュヌンナ法典と呼ばれる法典の制定や大規模な行政センターの建築もなされ、東部メソポタミア最大の大国として繁栄の時代を迎えた。
- イラ・カブカブに率いられたアムル人の集団がマリ方面からエシュヌンナの支配域に侵入したものの、イバル・ピ・エル2世らの奮闘によりこれと対抗し、一時アッシリアを支配したという説もある。アッシリアが強大な王シャムシ・アダド1世の下で拡大した時も大国の一つとして存続した。
だが、バビロン第1王朝の王ハンムラビと数次にわたる戦争を繰り広げた末敗退し、紀元前1762年頃には一時エラムの支配下に置かれたりしている。
- 紀元前1757年頃バビロン軍に包囲され、ハンムラビ王の水攻めによって都市は崩壊し、放棄された。
その後紀元前17世紀に数名の王のもとで復興したが、いずれもバビロンに敗れ間もなく完全に歴史の舞台から姿を消した。
バビロン第1王朝(紀元前1830年~紀元前1530年)の王ハンムラビが即位した紀元前1792年、既に北方ではアッシリアのシャムシ・アダド1世が、南方ではラルサのリム・シン1世がその最盛期を迎えており、バビロンはこれらに挟まれて厳しい立場にあった。
- シャムシ・アダド1世との友好関係維持に細かく注意を払い、その支持を得て南のラルサに対抗。紀元前1784年頃までこの路線を続けつつイシン、ウルク、ウルなどを攻略しバビロンの勢力を拡張。さらにエシュヌンナとも戦って領域を拡張。
- シャムシ・アダド1世が没するとその息子たちを見限り、マリのジムリ・リムに接近して同盟を結んだが、当然シャムシ・アダド1世の支援ほどの効果は得られず、大規模な軍事活動など起こせなかった。その後20年前後にもわたり、ほとんど専ら国内整備と防御に時間を費やす。
転機となったのは紀元前1764年の戦いである。この年、エシュヌンナ、アッシリア、グティ人、エラムなどの同盟軍がバビロンを攻撃。マリの支援もあってこの戦いに勝利したハンムラビは、やっと待ち望んでいた行動の自由を得たのだった。
- 翌紀元前1763年一挙に南下してラルサのリム・シン1世を打ち破りラルサを併合。
- 紀元前1759年頃長年にわたる同盟相手であったマリのジムリ・リムも滅ぼしてマリを併合。
- 紀元前1757年頃にはエシュヌンナ市を水攻めで完全に破壊し、アッシリアへも出兵してこれを征服(征服した範囲については明確ではない)。
こうして極めて短期間の征服活動の末に再び全メソポタミアを支配する王朝が登場し、バビロン市がメソポタミアの中心都市として舞台に登場する展開を迎えたのだった。
ちなみにこの時代に各地で自立した王朝によってそれぞれの都市神の地位が向上され、新たな神々も登場しました。バビロンの都市神マルドゥクやエシュヌンナの都市神ティシュパク、そしてアッシリアの神格化された都市アッシュール。かくして「国土統治権は神に帰する」なる概念が誕生したのです。
もともとフリ人(フルリ人)の最高神で、天候神。妻は太陽女神ヘパト。フルリ人の神がヒッタイトに取り込まれるにあたりヒッタイト帝国における最高神として扱われるようになった。
アッカド時代~古バビロニア時代にメソポタミアでも信仰されるようになり、ティシュパクの名でエシュヌンナ(テル・アスマル)の守護神ともなった。ハンムラビ法典でもその神の名が呼ばれている。
紀元前3千年紀にはそこまで重要でなかったが、紀元前2千年紀にはフリ人の主神となり、マリ、アレッポ、カルケミシュ、ボアズキョイなど広範囲で崇拝された。
ヤムハド(Yamhad, Jamhad, Yamkhad)
古代のシリアにあったアムル人の王国。その中心はハルペ(ハラプ、ハルパ)の街(現在のハラブ、別名アレッポ)にあった。アムル人のほかにもフルリ人が住んでおり、フルリ文化の影響がみられる。
フルリ人の住人も多く、アムル人の信仰するヤムハドの主神である風神ハダド(Hadad、アッカド語: アダド)のほかに、フルリ人の信仰する同様の風神テシュブ(Teshub)が祀られた。
ちなみにアレッポ人自身が信仰した神は、メソポタミアの東にあるヌジから地中海側のウガリット、北の小アジアに至る幅広い範囲で信仰される風神が土着化したものである。テシュプはフルリ系の神であるが、神学上、祭儀上、天候神アダドと同一視されており、南メソポタミアに入ると「ティシュパク」と呼ばれるようになった。
そんな感じで以下続報…