「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸か概念の迷宮」用語集】「世界史初の天下分け目の戦い」カデシュの戦い(紀元前1286年頃)

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カデシュQadesh、Kadesh

古代のシリアにあった都市。オロンテス川に面していた。現在のシリア西部の大都市ホムスから24km南西にあるテル・ネビ・メンド(Tell Nebi Mend)という遺跡がカデシュの跡とされる。

エジプト第18王朝のファラオ・トトメス3世の遠征に対抗してレバントの都市国家群が連合を組んだ際、連合を指揮したカナン人の二つの都市国家のうちの一つとして歴史に登場する(もう一つはメギド)。エジプトに対抗する連合を組むにあたり、カデシュ(アッカド語のアマルナ文書では「Qidshu」の名で現れる)はおそらく、エジプトとレバントを争う北の大国ミタンニの王に指揮されていたと考えられる。

メギドの戦いでカナン連合軍が大敗すると、カデシュ含めシリア南部の都市国家群の上にエジプトの覇権が広がった。

カディシュの戦い(紀元前13世紀) 戦闘開始まで

①メギドの戦い(紀元前1457年/紀元前1482年/紀元前1479年)…古代エジプトアッシリアを結ぶ貿易ルート(狭い峠の西側)の帰趨を巡ってシリアでエジプトのファラオたるトトメス3世在位紀元前1479年頃~紀元前1425年頃)の軍勢とカナン連合カディシュ、メギド、ミタンニ)が激突。カナン連合軍は大敗を喫っし、カデシュを含めたシリア南部の都市国家群がエジプトの覇権下に入った。

②カデシュの王とエジプトのファラオアメンホテプ4世/アクエンアテン在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)の間に交わされた書簡がアマルナ文書の中に残っている。アマルナ文書など同時代の記録にはスッタルナSuttarna、紀元前1350年頃)、エタッカマEtakkama、紀元前1340年代頃)、アリ=テシュブAri-Teshub、紀元前1330年 - 1325年頃)なる3人のカデシュ王の名が伝わっており、自らをエジプト王の臣下と述べている。

  • 一方、ミタンニ王国は政略結婚によって安泰を計ろうとした。その一部始終がアマルナ文書に記録されている。

  • 王国がヒッタイトの攻撃により疲弊した時期に即位したアルタタマ1世王の娘はトトメス4世(トトメス3世の孫)と結婚。理由は不明だがエジプト側の申し出に対して7回連続で断り続けたという。

  • アルタタマ1世の息子スッタルナ2世王の娘ギルキパ(Gilukhipa)はエジプト王アメンホテプ3世トトメス4世の子)と結婚。王国は権力と繁栄の頂点を迎えつつあり、多額の持参金を持参したという。北の国境から侵入しようとしたヒッタイトの撃退にも成功。

  • シュッタルナ2世の息子トゥシュラッタダシャラッタ, 紀元前1380年~紀元前1350年頃)王の娘タドゥキパ(Tadukhipa)はアメンホテプ3世の結婚の申し出を受けたが、アメンホテプ3世は到着前に死亡。その息子アメンホテプ4世アクエンアテン)の2番目の后になった。王妃キヤ王妃ネフェルティティに比定される。

  • ヒッタイトシュッピルリウマ1世(在位紀元前1355年頃~紀元前1320年頃)は領土を三倍に広げ、自国をオリエントでエジプトに次ぐ大国へと育て上げた。そして北シリアの交易拠点都市ウガリットを傘下に納めて従属条約を締結すると、婚姻外交によってバビロン第3王朝カッシート)と同盟を結んでミタンニへ侵攻。トゥシュラッタの政敵アルタタマ2世(在位紀元前14世紀後半)をミタンニ王に即位させ、新たな国境線を定める条約を締結した。トゥシュラッタは逃避行の最中に息子の一人に暗殺されたという。アルタタマ2世の息子シュッタルナ3世が、ヒッタイトの属国となったミタンニ王国を継承。

  • 紀元前1330年頃にはこのシュッタルナ3世がかつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリアアッシュール・ウバリト1世紀元前1363/1365年~紀元前1328年/1330年,  ミタンニの圧力からの解放もあって数百年ぶりにまとまった記録が残る)との連携を当て込んでヒッタイトからの独立を宣言。しかし期待は裏切られヒッタイトに撃破され、トゥシュラッタの弟シャッティワザマッティワザ)がヒッタイトシュッピルリウマ1世の庇護下で即位した。

  • その後ミタンニ王シャットゥアラ1世は遠征してきたアッシリアアダド・ニラリ1世紀元前1307年~紀元前1275年, アッシュール・ウバリト1世の息子)に全土を支配下に置かれ臣従。紀元前1300年頃シャトゥアラ1世が死去すると後継者となったワサシャッタが貢納を打ち切り、ヒッタイトの後援を受けて蜂起したがこれも敗った。その後、分裂後の首都タイデを占領し、ワサシャッタの家族等王族をアッシュール市へ連れ去った。その治世の間に領土がユーフラテス川にまで達した。

  • アッシリアシャルマネセル1世在位紀元前1274年~紀元前1245年, アダド・ニラリ1世の息子)はミタンニ王国の残存領土に注目。紀元前1263年に遠征を開始し、ヒッタイトの庇護下にあったシャトゥアラ2世王を撃破し旧領全域を手中に収めた。危機感を募らせたヒッタイト王ハットゥシリ3世は、バビロニアカッシート朝)王カダシュマン・トゥルグと同盟を結び、エジプトに娘を嫁がせて対アッシリアの備えを固めたがシャルマネセル1世バビロニアに勝利。アッシリアの拡大に歯止めにはならなかったのである。

    アッシリアトゥクルティ・ニヌルタ1世在位紀元前1244年~ 紀元前1208年,, シャルマネセル1世の息子)は「征服王」の名で知られる。即位するとすぐに父の拡大路線を受け継いで各地への遠征を遂行。とりあえずザグロス山脈方面とウラルトゥ方面への遠征成功により銅と馬を確保した。さらに紀元前1235年頃年代については諸説あり)条約を破ってアッシリア国境を超えたバビロニアカッシート朝)のカシュティリアシュ4世王を返り討ちにして首都バビロンまで追撃。カシュティリアシュ4世を捕縛するとバビロニアを征服し膨大な戦利品を獲得した。更にバビロニアの同盟国であり、かねてより緊張が続いていたヒッタイトとも戦端を開く。西進してユーフラテス川を越え、ヒッタイト領に侵攻。ヒッタイトトゥドハリヤ4世との戦いでこれを破り北シリアへも領土を拡大した。しかし治世末期には内部対立が激化。紀元前1208年頃、息子の一人によって暗殺され死去。さらにその息子も殺され、別の息子アッシュール・ナディン・アプリが即位したが以降はティグラト・ピレセル1世在位紀元前1115年~紀元前1077年)まで短命王が続き、記録もそれまで途絶えてしまう。

③しかしカデシュアメンホテプ4世没後エジプトに属さず、ツタンカーメン(紀元前1342年頃~紀元前1324年頃)とホルエムヘブ(在位紀元前1323年~紀元前1295年)は両方ともヒッタイトからカデシュを奪回するのに失敗。

④エジプト第19王朝第2代王セティ1世(在位紀元前1294年~紀元前1279年)のシリア遠征では、都市を防衛しようとするヒッタイト軍を破りカデシュを攻め落とした。セティ1世は息子ラムセス2世とともに意気揚々と市内へ入り、勝利の記念碑を建てたが、この勝利は一時のもので、セティ1世がエジプトに帰るとすぐにヒッタイトの王ムルシリ2世(在位紀元前1322年頃~紀元前1295年頃, シュッピルリウマ1世の息子)が南へ進軍しカデシュを占領。ヒッタイトは、カルケミシュに置いた副王を通じてカデシュを支配し、カデシュははシリアにおけるヒッタイトの要塞と化した。

こうしてカデシュ紀元前13世紀の大国同士の決戦である「(古代世界の戦争の中で最も多くの文献が残る)カデシュの戦い」の舞台となる。およそ150年にわたりエジプトの臣下であったのにヒッタイトの宗主権の下へと離反したため、対立する二大国の間の最前線となってしまったのだった。

カデシュの戦い(紀元前1285年):古代エジプト軍VSヒッタイト…世界最古の戦車戦。エジプト軍2000両ヒッタイト3500両もの戦車を投入→両者痛み分け。史上初の講和条約が結ばれる。

エジプト第19王朝第3代王ラムセス2世在位紀元前1290年/紀元前1279年~紀元前1224年/ 紀元前1212年)は治世4年目(紀元前1286年頃)シリア地方北部に侵攻。ちなみにエジプト軍は、それぞれ神の名を冠した以下のの四軍団に分けられていた。

  • プタハ

  • セトステフ

  • アメンアモン

  • ラー

①まずはヒッタイトに属国化されたアモリ人王朝アムル王国アムッル)を奪還。ヒッタイトムワタリ2世はすぐにアムル再奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。進軍途上で2人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。ちなみにアレッポヒッタイトに属国化されたアモリ人都市の一つ。 

②ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。そしてラムセス2世は、先の情報が嘘で、ヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいる事に気付く。時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊2,500両が油断していた後続のラー軍団を一瞬で蹂躙し、勢いに任せアメン軍団にも襲い掛かる。エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が間に合って戦況は膠着状態に。ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世がこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。

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③この勝利をアメン神の加護として、ラメセス2世はアブシンベル神殿を含む5つの神殿の壁面に詳細な碑文を残した。また、神殿の壁画には巨大なラメセス2世が敵を討つ姿が描かれている。

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しかし現在の評価は、ラメセス2世の誇張にもかかわらず、戦争の結果は引き分け程度であったとされている。ヒッタイト側は王子を含む多数が戦死し、カデシュから撤退したが、エジプト側もカデシュを取り戻すことはできなかった。戦闘後、実質的にカデシュを管理下に置いたのはヒッタイトの方であった。アムル王国アレッポのへの英教力も揺るがなかった。

人類最初の国際関係

ラメセス2世の治世第21年に、ヒッタイト王ハットゥシリ2世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結された。

ハットゥシャから出土した粘土板イスタンブール考古学博物館蔵

「古の時より、エジプトの偉大なる主とヒッタイトの偉大なる王に関し、神々は条約によってそれらの間に戦争を起こさせなかった。ところが、我が兄、ヒッタイトの偉大なる王、ムワタリの時代、エジプトの偉大な主と戦ったが、しかし、今日この日より、見よ、ヒッタイトの偉大なる王、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神とセト神が作った、恒久的に戦いを起こさせないための条約に同意する。――我々の平和と友好関係は永久に守られるであろう。――ヒッタイトの子とその子孫は偉大なる主の子とその子孫の間も平和であろう。なぜなら、彼らも平和と友好関係を守って生きるからである。 」

<大城道則『古代エジプト文明―世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.137>

その新たな条約の重要性は、その内容だけではなく、エジプトとヒッタイト双方で同じ内容の写しが残っている点にある。ヒエログリフで書かれたエジプト側ののもは、カルナック神殿の壁面に彫り込まれている。一方、ヒッタイトのものは楔形文字を用いて粘土板に記されたのである。我々がそこからイメージできるのは、「戦争」とその後の処理としての「条約」という近代的手順であった。両国はまさに人類が最初に遭遇した国際関係の真っただ中にいたのであった。

カデシュはその後もシリアの有力都市国家であり続けましたが紀元前12世紀にレバントやアナトリアの他の都市同様「海の民」の侵略を受け破壊され、その後再建される事はありませんでした。