ウガリット同様、その繁栄がエジプト新王国時代(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)はおろかヒクソス時代(紀元前17世紀~紀元前16世紀)より遡る古代交易都市。
世界大百科事典【ビュブロス】より
…現在名はジュバイル。旧約聖書ではゲバルGebal,古代エジプト史料ではクブナ,アッシリア史料ではグブラと呼ばれた。ビュブロスはギリシア語名であり,ギリシア人は当地を経て輸入されたパピルスをビュブロスと呼んだことから,後世,本,聖書Bibleなどを表す語が派生した。…
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ジュバイル(Jubayl, alJubayl)」の解説
ベイルートの北北東 27kmに位置し,現在は人口数千の小さな漁港にすぎないが、古代のフェニキアの都市ビブロスであり,旧約聖書中のゲバル。レバノン西部,ベイルート県の港で,おそらく現在まで居住が続けられている世界最古の町。
エジプト産パピルスはギリシア語でビュブロスとも呼ばれたが,これはビブロスからエーゲ海地方に輸出されていたことによる。聖書の英語名バイブルなどもこれに由来している。
現在の名称ジュバイルは,聖書のゲバルからきたものである。紀元前8000年頃の新石器時代の遺跡から,フェニキア時代を経て,十字軍の城塞まで各時代の遺跡が残っており,なかでもフェニキア時代の遺物は,紀元前10世紀頃の碑文や文書を含めて最もすぐれたものとされている。
世界大百科事典【ビュブロス】より
…レバノン西部,ベイルートの北約27kmにある古代都市遺跡。現在名はジュバイル。旧約聖書ではゲバルGebal,古代エジプト史料ではクブナ,アッシリア史料ではグブラと呼ばれた。…
世界大百科事典 第2版「ジュバイル(Jubayl, alJubayl)」の解説
サウジアラビア東部のペルシア湾岸の港町。古くはアイナイン‘Aynaynの名で知られた。アラビア半島内陸部への入口の港として重要な位置を占めたが,とくに,サウジアラビアとアメリカの石油会社アラムコ(ARAMCO)の提携協力が成立(1933)後,その技術団が最初の本拠をおいた。今日は,西部の紅海岸の港町ヤンボーとともに重点工業地帯に指定され,石油化学・製鉄・圧延工場,メタノール,肥料など輸出向け生産のプロジェクトを進めている。
地中海岸にあるレバノンの港町。人口2000余。トリポリの南,ベイルートの北40km足らずの所に位置する。古代にはビュブロスとして知られ,フェニキア時代,ならびにギリシア・ローマ時代の町の跡が発掘されている。11世紀の旅行家ナーシル・ホスローは,三角形の城壁に囲まれ,ナツメヤシにおおわれた町の姿を伝えている。十字軍時代は双方の攻防の的となり,城塞には十字軍とムスリム軍の双方が利用・改修した跡が残っている。
ビブロス(ギリシャ語Βύβλος、ラテン文字表記Byblos) - Wikipedia
現在のレバノンの首都であるベイルートの北方約30kmにある地中海沿岸の都市。「ビブロス」はギリシャ人がつけた呼び名で、本来は「グブラ」のちに「ゲバル」。現在はジュベイル(Jbeil)と呼ばれている。
フェニキア人の発祥の地として有名。アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で生まれた。このことからアルファベット発祥の地と言われることもある。紀元前3千年紀前半には、守護神であるバアラト・ゲバルを祀った神殿が発見されており、フェニキア人が居住し始めたと言われている。
フェニキア人は、ビブロスの東に位置するレバノン山脈に自生するレバノン杉(香柏)を資源として活用した。
- レバノン杉(香柏)は高さが40メートルほどにまで生育するが、現在ではほんの僅かしか残っていない。それは、フェニキア人をはじめとする交易に従事する人たちがガレー船の船材や建材にするため伐採したからである。
- 耐久性があり香がよいため、高級木材として珍重されたレバノン杉は、神殿の内装材にも使われた。ちなみに、現在のレバノンの国旗の中央に描かれている樹木のシルエットもこのレバノン杉。それだけこの地の人々にとって誇るべき存在であり続けている。メソポタミア文明が産んだ世界最古の英雄譚ギルガメシュ叙事詩(紀元前1300年~紀元前1200年頃。原題「深淵を覗き見た人」もしくは「すべてを見たるひと」)においても都市国家ウルクの英雄王ギルガメシュとその相棒エンキドゥによる「レバノン杉の番人」フンババ(Huwawa,「書物より生まれた」エンキドゥとは旧知の仲)討伐譚は重要なエピソードの一つとなっている。
- さらにフェニキアの特産品として、赤紫色の染料があり、この染料で染めた織物も有力な商品だった。「フェニキア(ポエニ)」の語源はこの「紫」とする説もあるくらいである。
- また高度な技術を身につけた職人多作り出す象牙や貴金属、ガラス細工も地中海世界各地の貴族階級に属する人々にとって垂涎の的だった。例えばホメロス叙事詩「イーリアス(希Iλιάς, 羅Ilias, 英Iliad, 成立紀元前8世紀中旬)」における「アキレウスの親友(恋人)」パトロクロスの葬式競技においても「シドンの銀食器」が重要な懸賞品の一つとして登場する。
レバノン杉は船や建築物の資材として適していて、樹脂も利用。フェニキア人はビブロスからレバノン杉をエジプトへ輸出し、地中海貿易において重要な役割を果たす様になったのである。
- 「ビブロス」という呼称は、ギリシャ語でパピルスを意味するもう一つの語 βύβλοςに由来するといわれる(「パピルス」自体がギリシャ語)。これは、ビブロスが長い間エジプトの支配下にあり、当地の港からエジプトにレバノン杉材が輸出され、その代価としてパピルスなどが輸入され、さらにそのパピルスがこの都市を経由してギリシャなどに運ばれていたので、ギリシャでは紙は原産地のエジプトではなく、積出港のビブロスとして知られたからだという。やがてパピルスを意味するビブロスから「ビブリオン(本)」という言葉ができ、さらに「ビブル(聖書)」が生まれたという。
- 逆に都市の名前がパピルスの意味を持つようになったとする説もある。この説では、それがのちに書物の意に転じて、結果としてこの都市が「バイブル(聖書)」の語源になったという。
とはいえ、この時期に西アジアと地中海世界との接点として栄えていたのは、あくまでエジプトとヒッタイトの間を上手く往復しつつ地中海三大金属貿易ともいうべきタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を独占し続けた都市国家ウガリット(ウガリット語: 𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、英: Ugarit, 全盛期紀元前1450年頃~紀元前1200年頃)だったのです。
ちなみにウガリッド文字(紀元前1500年頃)よりさらに考案時期が遡るビブロス文字(紀元前18世紀~紀元前15世紀)が紀元前10世紀になっても碑文に刻まれていたケースが存在し「紀元前1200年のカタストロフ」以降いきなり衰退した訳でもなさそうです。というか名前自体はアレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前323年)時代になっても登場し続けるのです。
第3章 海上交易圏の形成 1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生
有力な港湾港市は、紀元前16世紀ウガリット、紀元前14世紀ビュブロス、紀元前14世紀シドン、紀元前11世紀~紀元前9世紀テュロス、紀元前5世紀トリポリと変転する。
- 「海の民」侵入後、まず、肥沃な後背地を備えていたシドンが復興。テュロスが後を追う。
- 紀元前10世末になると、アッシリア帝国の圧迫が強まり、フェニキアはその脅威にさらされ続けることになるが、他方エジプトが起死回生。
- 紀元前9世紀、エジプト王と結んだテュロスがシドンを勢力下におさめる。フェニキア諸港市はエジプトと連合するなどして、反アッシリア暴動を繰り広げたものの紀元前7世紀後半、アッシリア帝国から新バビロニアが独立すると、それに組み込まれる。
- フェニキアは紀元前9世紀末~紀元前8世紀前半にかけて政治的自由を回復したがテュロスは新アッシリア王センナケリブ(在位紀元前704年~紀元前681年)の怒りを買ったことで、紀元前701年から5年間包囲、攻撃される。敗北したテュロス領主エルライオス(在位紀元前729年~紀元前694年、アッシリアではルリと呼ばれた)は、キプロスに逃亡する。ルリが水門から二段櫂船に逃げる様子が、ニネヴェのセンナケリブ宮殿の浮き彫りに描かれていた。現物は消失したが模写が大英博物館にある。
- その時テュロスを継承ししたシドンも紀元前675年アッシリアによって完全に破壊される。テュロスもまた新バビロニアのネブカドネザル2世(在位紀元前604年-紀元前562年)の包囲攻勢に13年間も耐え抜くが、紀元前572年に降伏することで破壊を免れるという有様。その間、テュロスの人々が紀元前814年にカルタゴを建設したという。
- さらに、フェニキアは紀元前539年ペルシア帝国に征服され、その属州のようになる。ペルシアはいままでの宗主国とは違って、陸上だけでなく海上をも制覇しようとする。また、その頃既にギリシアとの制海権争いに敗れていたフェニキアは、このペルシアの地中海制覇にすすんで荷担し、積極的に海事力を提供して協力する。
- そのペルシアが、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗北すると、シドンやビュブロスはすぐに降伏するが、テュロスはひとり7か月間も抵抗して紀元前332年に屈服。
以後のフェニキアは、ヘレニズム時代は紀元前198年以降セレコウス王国の、また紀元前64年以降ローマ時代は属領シリアの、一地域でしかなくなる。
そして十字軍時代に入るともう、シドンとテュルスとベリトス(ベイルート)しか名前が挙がらなくなるのです。
その一方でこういう話も。
旧約聖書における「カナン(Canan)」の用例
紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む。
イスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる。この文脈における「カナン人」という用語は、まさにフェニキア人に符合する。その一方ではカナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。要するにヘブライ語はカナン人から学んだものだったのである。
- カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語としてKinahnuの用語が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。これもまた「ツロの紫」で知られるフェニキア人と関連付けることが可能である。染料は大抵の場合、その出身地にちなんだ名を付けられた(シャンパンのように)。同様に、旧約聖書に時折例示されるように「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。
- 言語言語学上、カナン諸語はヘブライ語.フェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジア語族セム語派北西セム語に含まれる。音素文字(原シナイ文字)を初めて用い、その文字体系は漢字文化圏を除く世界に伝播した。
学習し易い音素文字が普及した結果、古代オリエントの国際公用語がアッカド語(Akkadian cuneiform)からアラム語(アラム文字)に代わり、やがてアラビア語に取って代わられた。
おやおや、そもそも「フェニキア人の発祥史」そのものに揺らぎが…