初めてシュメールを統一したアッカド帝国(紀元前2334年~紀元前2154年)も、シュメール人が建てた後継のウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)も滅ぶとアモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)となり、北部アッシリアと南部バビロニアの地域対立が表面化してきました。
南部バビロニアは概ね「アモリ人王朝→カッシート人王朝→アモリ人王朝→カルディア人王朝」と推移。
それでは北部アッシリアは?
「アッシリア」はアッシュルの地を意味するギリシア語表記に由来するヨーロッパにおける呼称で、本来のアッカド語北方方言であるアッシリア語による名称は「アッシュル(Asshur)」。チグリス川上流にあった国土とその中核となった首邑の名であり、かつそれらを神格化した神の名でもあった。アッシリアの名称はアッシュルの意味する意味空間のうち、アッシュルの地、及びそこに成立した古代国家、さらにはその国家がオリエント一帯を征服して成立した大帝国を指す。そして、その歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される。
- 初期アッシリア時代…基本的に文字史料の無い時代である。主に土器の様式の変化によって更に細かく区分されるが、政治史の復元はほぼ不可能と言って良い。末期になると僅かに、シュメール語やアッカド語による文字史料が現れる。後世のアッシリア社会の原型は、この頃既に形成されていたと考えられる。
- 古アッシリア時代…アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主に紀元前1950年頃~紀元前15世紀頃を指す。アッシリア商人や、アモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)のアモル人アッシリア王シャムシ・アダド1世の台頭によって多くの文書史料が残り、アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されうる時代である。
この頃以降になって,南メソポタミアでは初めて土地の私的所有を前提とした耕地の売買や〈タムカールム〉と呼ばれる一種の商業資本家を中心とした活発な商業活動がみられるようになる。
便宜上アッシュール・ナディン・アヘ2世までが古アッシリア時代とされるが、イシュメ・ダガン1世以降のアッシリア史は史料の欠落によってほとんどわかっておらず、政治史的には別時代である。当時のアッシリア商人は、メソポタミア(現イラク)からユーフラテス河を遡り、シリア砂漠の東端を北上するとアナトリア高原に到る路を使って錫や織物をアナトリアに運び、アナトリアから金や銀を持ち帰る様になった。交易の相手は始めはボアズカレのハッティ人であり、後にヒッタイト人であったのだろう。
アナトリア南部から中部には多くの、アッシリアの交易植民市(カールム)が置かれ、交易を支えていた。この交易路を通じメソポタミアの文化がアナトリアに、アナトリアの貴金属がメソポタミアに運ばれた。これは古代オリエントに於けるシルクロードとも言えだろう。
- 中アッシリア時代…アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代で、紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀末頃までを指す。アッシリアの君主達が、旧来の「アッシュールの副王」ではなく、「偉大な王、アッシリアの王」を称するなど、大国としてのアッシリアが台頭した時代である。
ただし「紀元前1200年のカタストロフ」の影響を受けて一時低迷。
中アッシリア王国の衰退期
紀元前14世紀、アッシリアはメソポタミア北部に割拠するミタンニの圧力に悩まされていたが、ミタンニがヒッタイトの攻撃によって衰退すると勢力を増した。中期アッシリア時代と呼ばれるこの時代、アッシリア王アッシュルウバリト1世はエジプトとの対等関係を要求したことがアマルナ文書で確認されており、紀元前13世紀以降、アッシリアはさらに勢力を増し、シリアへ進出、これはエジプトとヒッタイトの間で友好関係を結ばせる結果となった。
そして紀元前1114年に即位したティグラトピレセル1世はニネヴェへ遷都、中期アッシリア法典を制定するとアッシリアは絶頂期に入ったが、すぐさま内紛により再び衰退期に入る展開を迎える。
ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、在位紀元前1115年 - 紀元前1077年)
年代記を残した最古のアッシリア王。父王アッシュール・レシュ・イシ1世(Ashur resh ishi I、在位:紀元前1133年~紀元前1116年)がイシン第2王朝(バビロン第4王朝, 紀元前1157年~紀元前1026年)王ネブカドネザル1世を破ったのに引き続いてイシン第2王朝(バビロン第4王朝)王マルドゥク・ナディン・アヘと戦ってこれを破り、北部バビロニアを獲得。イシン第2王朝(バビロン第4王朝)の衰退を決定付けた。
- 即位後最初の5年でアナトリアのミタンニ故地に数多く成立していたフルリ人の小国群を遠征によって征服。
- カッパドキア地方のキリキア人を攻撃。これらも征服。
- この様にユーフラテス川を超えて地中海まで軍を進め、アッシリア王として初めて地中海に到達。そうした業績を持って「42の国を征服した」と記録される。
また彼の時代に「(女性に関する規定が多い事で知られ、中アッシリア時代のアッシリア社会を知る上で重要な情報を後世に提供する)中期アッシリア法典」が作成されたといわれている。
- しかしこの頃から各地で大規模な飢饉が発生。これに便乗してのアラム人の侵入が始まり、国内が混乱した。かかる危機的状況に対処すべくたびたび西方遠征を行ったが大きな成果があったのかは不明である。このアラム人の侵入は旧約聖書以外の史料でアラム人について記録されたものとして最古のものである。
紀元前1077年に暗殺され、その後息子アシャレド・アピル・エクルが王位についた。
以降もティグラト・ピレセル2世(Tiglath Pileser II, 在位紀元前967年~紀元前935年)の時代まで飢饉とアラム人の侵入に悩まされ続け、外征に打って出るどころではありませんでした。しかし新しい時代が始まります。
アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃~アッシリア滅亡(紀元前609年)までの時代を指す。この時代アッシリアは、全オリエントを覆う世界帝国を打ち立てた。有名なアッシュールバニパル王の図書館が作られたのもこの時代である。なお「アッシリア帝国」と「新アッシリア時代」は混同するべきではない。
アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアは新アッシリア帝国の多民族帝国としての行政機構の多くを取り入れた。
紀元前10世紀のアッシュルダン2世(紀元前934年~紀元前912年)以降、食糧増産を契機に徐々に革新への動きが見られ、紀元前9世紀前半にアッシュルナツィルパル2世(紀元前883年~紀元前859年)がカルフ(ニムルド)へ遷都すると新アッシリア時代に入り再び繁栄を迎えたが、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀中旬には内紛と諸勢力独立によって再び停滞・現状維持状態に陥ってしまう。
現在のイラク北部ニーナワー県にある、古代アッシリアの重要な考古遺跡。ニネヴェ遺跡の南方、現代の都市モースルより南東30kmにありチグリス川に面している。遺跡の範囲は41平方kmにおよぶ。旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ、Calah, Kalakh)の場所と同定されている。
アッシリア時代にはカルフ(Kalḫu, Kalchu, Kalkhu)と呼ばれる一時期のアッシリア帝国首都。後のアラブ人はこの都市の遺跡を、狩人の英雄でありアッシリア地方の強力な王であったニムロドにちなみ、ニムルドと呼んだ。
そしていよいよ、その振る舞いが本格的に「(フェニキア人やヘブライ人に存続を危ぶませる)メソポタミア起源の多民族帝国」めいてくるのが「新アッシリア帝国」時代…
- ティグラト・ピレセル3世(Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)の時代以降常備軍を備えて国際的軍事強国となり、その一方で常備軍維持の為に略奪遠征を繰り返さざるを得なくなり、最終的に周囲に(財産を奪える富裕な)強敵がいなくなった時点で自壊。
- その存在自体がバグによる暴走の様な印象もあります、後に現れる多民族帝国は全て概ねこの新アッシリア帝国をテンプレートとして出発し、その都度可能な限りデバッグが加えられていく形となる。
ある意味、その最終到達地点の一つがローマ帝国だった?