ヘロドトスが「最初の航洋ギリシャ人」と評したギリシャ人集団。紀元前7世紀以降リュディアやアケメネス朝ペルシャの影響が強まったアナトリア半島沿岸から逃れてアドリア海沿岸部を伝い、エレアを中心とするイタリア半島南部、コルシカ島アレリア、マッサリア(現在のマルセイユ)を中心とする南仏、カタルーニャ地方のエンポリオンを中心とするイベリア半島東岸などに展開し、イタリア半島北部のエルトリア人やイベリア半島南部のタルソテス(現アンダルシア)と交易し、北アフリカや黒海の沿岸にまでその足跡を残した。
- 母市ポカイア(フォカエア、古希Φώκαια (Phōkaia), 羅Phocaea)は、アナトリア半島西岸(現 トルコのフォチャ)にあったイオニア人植民市。ミョウバンの産地としても知られる。古代ギリシアの地理学者パウサニアス(希Παυσανίας, 英Pausanias, 115年頃~180年頃)は、アテナイがポーキス人(古代ギリシア語: Φωκίς, コリンティアコス湾北部住人)に建設させたとする。
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伝承によればその土地はアナトリア半島におけるアイオリス人の主要植民市キュメ(古希Κύμη、Kymi,KymeまたはCyme)から譲られたものであり、最後のアテナイ王コルドスの血筋を引く者を王として受け入れることで、ポカイアはイオニア同盟に加盟を許された。現存する陶器から、紀元前9世紀にはまだアイオリス人がいたことは明らかで、イオニア人の入植は早くても紀元前9世紀後半のことだろうと考えられている。
航海術に優れ、ギリシャ人として最初に地中海の各地に遠征を行いアドリア海、エトルリア、スペイン海岸に到達した。
- ヘロドトスによればタルテッソス(現スペイン、アンダルシア州)のアルガントニオス王に強い印象を与えたという。王はポカイア人たちにその地に定住するよう誘った。ポカイア人が辞退すると、町の城壁を作るためのたくさんの黄金を与えた。
- 南ではエジプトの交易拠点ナウクラティスに参画。
- 北では黒海のアミソス(Amisos, 現サムスン, 紀元前6世紀)や、ヘレースポントス海峡(現ダーダネルス海峡)の北端ランプサクス(Lampsakos)へ植民したとされる。
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またこの時期にアレリア(フランスのコルシカ島)、マッサリア(現フランスのマルセイユ,紀元前600年頃)、エンポリオン(現スペイン・カタルーニャ地方のエンプリエス, 紀元前575年頃)などの植民市を建設している。
豊かな穀倉地帯であり、紀元前にはフォカイア、エトルリア、カルタゴなどが、中継貿易拠点として沿岸地帯の覇権を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争で古代ローマに敗れたため、紀元前3世紀頃から島の支配権はローマに移る。
要するに「多くの交易拠点に先鞭こそつけたが、最終的成果のほとんどを組織力に優れるフェニキア人やエルトリア人やカルタゴ人に奪われた」という展開。
マルセイユの歴史は古く、小アジアから来た古代ギリシアの一民族であるポカイア人が紀元前600年頃に築いた植民市マッサリア(マッシリア)にその端を発する。このためフランスにおいてマルセイユは "cité phocéenne" (ポカイア人の街)とも綽名される。
都市は交易で栄え、ポエニ戦争(紀元前3世紀~紀元前2世紀)ではローマ側につき、カルタゴと敵対した。カエサルの『ガリア戦記』にもマッシリアへの言及が見られる。
紀元前49年からのカエサルとグナエウス・ポンペイウスの間で起った内戦ではポンペイウスを支持したが敗北し、自治都市としての権限を大きく縮小された(マッシリア包囲戦)。当時のマッシリアはガッリア・トランサルピーナ属州におけるギリシア系住民の拠点であったが、徐々にローマ化が進んでいった。
3世紀頃キリスト教がもたらされ、10世紀にプロヴァンス伯の支配するところとなり、1481年にはフランス王国に併合された。中世にはあまり振るわなかったが、港での交易は18世紀に盛んになった。
紀元前600年代におけるマッサリア建設を契機にプロヴァンス沿岸へのギリシャ人による植民が始まった。彼らはニース(ニカイア)、アンティーブ(アンティポリス)、イエール(オルビア)、シス=フール=レ=プラージュ(タウロエイス)、アルル、そしてアグド(アガト)のようなラングドック沿岸の特定地域やニームの南に移り住んだが、この地方に古くから住んでいたのはケルト人やリグリア人やケルト・リグリア人などであった。
紀元前181年にマッサリアのギリシャ人、ケルト系のカウァレス族(カヴァイヨン、アヴィニョン、オランジュにいた)と同盟しリグリア海賊征伐をローマに依頼して以降はローマとの関係が急速に深まりプロウィンキア(Provincia, 属州)に組織化され、これが現在の地名の由来となった。やがてガリア・トランサルピナ(Gallia Transalpina、ローマの言葉でアルプスを越えて、を意味する)の一部となり、紀元前1世紀にガリア・ナルボネンシスと改名された。
現在のスペイン・カタルーニャ州アルト・アンプルダーの地中海岸に存在した街。紀元前575年、ギリシアの都市国家ポカイアからの植民者が建設した。当時の名称はエンポリオン(古希Εμπόριον)で「市場」を意味する。
- 紀元前530年、母都市ポカイアがアケメネス朝ペルシアのキュロス2世に征服されたため、難民がこの新市に流入し人口が急激に増加。
- この一帯はカルタゴの勢力圏だったが何とかギリシア文化を保持。先住民は近くの Indikaという都市に住んでおり、その都市との政治的および商業的合意が結ばれた。
- ちょうどマッサリア(マルセイユ)とタルテッソスを結ぶ沿岸交易路の中継点にあたっており、商業および交易拠点として栄え、イベリア半島最大のギリシア植民都市となった。
- ポエニ戦争(紀元前3世紀~紀元前2世紀)の際はローマと同盟を結んでいた。
紀元前218年にはプブリウス・コルネリウス・スキピオ(紀元前211年没)によるヒスパニア征服が開始されている。
- 征服完了後もエンプリエスは独立した都市国家として残ったが、ポンペイウスとユリウス・カエサルの内戦(紀元前49年~紀元前45年)の際にポンペイウスに味方したためポンペイウスが敗北した後で自治権を喪失。この一帯を統治するため、Indikaの近くにエンポリアエ (Emporiae) という植民都市が建設された。
- 以降アンプリアスは徐々に衰退し、代わってタラコ(タラゴナ)やバルチーノ(バルセロナ)が栄えるようになっていった。
- 3世紀末には、スペインで初めてキリスト教伝道者が入った都市の1つとなったが、前後してギリシア人の建設した古い都市は次々と放棄されていく。
ローマ都市カステリョ・ダンプリアス (Castelló d'Empúries) だけは造幣と儀礼的な中心地として存続したものの、9世紀中旬にヴァイキングに襲われるようになって衰退した。後にアンプリアス伯ウーゴ2世 (1078年~1117年) が造幣を再開している。
リディア王クロイソスの統治期(紀元前560年~紀元前545年)までは他のイオニア諸都市同様、リディアの支配下にあったものの一応の自治は維持していた。しかし、紀元前546年アケメネス朝ペルシャの大キュロスがリディアを滅ぼすとペルシアによる支配が始まり、これを嫌ってキオス島に逃亡したり、地中海のコルシカなどの植民地に移民した。イタリアに植民市エレア(現イタリア・カンパニア地方のヴェリア)が建設されたのは、ちょうどこの頃(紀元前540年頃)の事である。やがて秩序が安定するにつれポカイアに帰還する者もいた。
イタリアのカンパーニア州サレルノ県アシェーアに属する遺跡地区。ヴェーリアという地名は、古代都市エレア(Elea)のラテン語名ウェリア(Velia)にちなむ。
- マグナ・グラエキア時代に当たる紀元前538年~同535年頃にギリシャ人たちによって建造されたもので、当時はヒエレ(Hyele)といった。
- この町が有名なのは、哲学者パルメニデスやゼノンも含むエレア派の根拠地だったためである。
古代エレアのアクロポリスの遺跡はかつては岬にあったものの、現在は内陸にあり、中世にカステッランマーレ・デッラ・ブルカ(Castellammare della Bruca)と改称した。
- ヘロドトスによれば、紀元前545年にペルシャ軍に攻囲されたポカイアのイオニア人達はそれから逃れ8年~10年ほど海上を漂った後、現在の(シチリア島に程近い)イタリア南部・カラブリア州に辿りついたという。
- 彼らはおそらく、当時メッシーナにいた哲学者クセノパネスの助力を仰ぎ、海岸沿いに北上してヒエレの町を建設した。これが後にエレ(Ele)と改称しさらにエレアと呼ばれる様になったのである。この町の緯度は、ポカイアとほぼ同じであった (Cca. 1' 20" North)。
エレアは現地のルカニア人達(Lucanians)に征服されることはなかったが、結局は紀元前273年にローマに併合され、古代ルカニアに組み込まれた。
以降の歴史は正直いってあまりパッとしない。
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イオニアの反乱(紀元前500~494年)にも加わった。紀元前494年、長い歴史の中で培われた航海術を買われイオニア艦隊を率いてラデ沖の戦いに臨むことになったが、この頃までにすっかり貧窮しており、イオニア都市国家連合艦隊353隻のうち、ポカイア艦は僅か3隻しかなかったとされる。イオニア艦隊は敗北し、それからまもなく反乱も幕を閉じた。
- 紀元前480年にペルシア王クセルクセス1世がギリシアに敗北するとアテナイが勢力を伸ばす。ポカイアはアテナイに2タラント貢いでデロス同盟に加わったがペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)では他のイオニア諸都市に逆らって、スパルタを応援している。
- ヘレニズム期にはセレウコス朝、続いてアッタロス朝ペルガモン王国に支配された。さらにローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン・トルコ帝国とアナトリア半島の支配者のもとにあった。
- ベネデット・ザッカリーア(ジェノヴァ提督。ビュザンティオン大使。1235年 - 1307年)はポカイア(ミョウバンを産するキオス島)支配を通じてかなりの財産を貯えた。
ベネデット・ザッカリーア…ジェノバの貿易商人。羊毛や布、染料の国際取引をしていたが、1274年にビザンチン帝国への海軍支援と引き換えに、ミョウバン石の鉱床を開発する権利を得た。ミョウバンはカサがあるので、地中海航路で運送できる小アジアの鉱床は魅力だった。さらに北の大きな市場へ目をむけた彼は、1291年イスラム教徒のモロッコ艦隊をジブラルタル海峡で打ち負かし、大西洋沿岸をキリスト教徒の商船に開放した。
リュディアで使用の始まったエレクトラム貨幣(琥珀金。天然に産する金言の混ざった合金)をこうした交易を通じて広めた。これがカルタゴの遺跡からも出土している所から見てフェニキア人とは平和裏に共存していたと目されている。しかしそれ故に文字化によって自らの集団的記憶を広範囲で共有したり後世に継承しようとする意識が生じまかったらしく、彼らの足跡は第三者が残した記録を通じてしか辿れない。