「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「鈍いアイオリス人国家」テーバイの興亡

ギリシャ人の源流となった三大集団の一つアイオリス人の建設した都市国家の代表格。

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一般にアイオリス人はドナウ川流域からキエフでドヴィナ川からドニエプル川へ乗り継ぐルートで黒海沿岸に移住し、ギリシャテッサリア中部ボイオティア地方レスボス島アナトリア半島西部などに展開したと目されていますが…

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アイオリス人Aioleis, 希: Αἰολεῖς

イオニア人ドーリアと並ぶ古代ギリシャ部族連合を構成した集団のひとつ(アカイア人を加えた四大集団のひとつとすることもある)。

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  • 紀元前3000年頃ドナウ川流域から移住してきたと考えられている。ヘロドトスによれば当初はペラスゴイ人と呼ばれており、早期より屈指の人口数を誇る存在と言及されてきた。古代ギリシア語の方言の一つアイオリス方言を話したとされるが何時頃からかは不明。

    ギリシアの古代先住民族。初めエーゲ海周辺に住んでいたらしいが,青銅器時代ギリシア語諸族の侵入によって土地を追われ,トラキアアルゴスクレタカルキディケなどに散在したらしい。ホメロス叙事詩にはトロイの同盟者として現れる。歴史時代にもその非ギリシア語を維持し,ギリシア人は彼らの名をエーゲ海地域の全先住民をさす語として用いた。

    その呼称はギリシア語のアイオロス (αίολος=素早く動く) に由来。地域名としてはテッサリアの一部を指し、アイオリス人の一派ボイオーティア人は、ここからテッサリアに追われボイオーティア現在のヴィオティア)に移ったとされる。

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    テッサリアThessala/Thessalía/Thessaria)

    バルカン半島中北部の地方名。現代ギリシア語読みではセサリア(Thessalía)。英語名テッサリー(Thessaly)。現在はカルディッツァラリサマグネシアトリカラの4県からなる。ピンドスオリンボスオサピリオンオスリスなどの山地によって北のマケドニア,西のエペイロス,南西のアイトリアと隔てられ,エーゲ海に面する。広い平野をもち,主に南西のトリカラ,北東のラリサ両平野から成りピニオス川の流域を占め、乾燥した気候と相まってギリシア屈指の肥沃な地方。古くからギリシアの主要な小麦産地であったばかりか(現在なおギリシア第二の穀倉地帯),タバコ,綿花,オリーブ、稲、豆類などの栽培も行われてきた。馬の産地としても古代から有名である。中心都市はラリサ。

    ブリタニカ国際大百科事典の歴史記

    ミケーネ時代末期に西のエピルス南部からテッサリアが侵入して先住民を支配。紀元前4世紀以後マケドニアの勢力下にあり,紀元前148年ローマ領,その後ビザンチン帝国の一部となったが,7世紀~13世紀スラブ,アラブ,ブルガール,ノルマンなどの諸民族の侵入,支配を受け,1393年オスマン帝国領。 1881年大部分がギリシアに割譲され,バルカン戦争 (1912年~1913年) 後,残るテンビ谷以北もギリシア領となった。

    株式会社平凡社百科事典マイペディアの歴史記

    アルゴナウタイ伝説の発端の地。
    *アルゴナウタイ伝説…一般には「紀元前1200年のカタストロフ」以前まで遡る黒海制海権を巡る沿岸諸都市間抗争の伝承(トロイア戦争の元話となったと目されている「ヘレースポントスを押さえたトロイア(第6市)の黒海交易独占に対する他都市連合の挑戦」の前段階にあたる紀元前13世紀頃の出来事で、コルキスの砂金産業(パーシス河(現在のリオニ川)で行われていた河床に羊の皮を置く砂金採集方法)や、当時琥珀交易の中継地だったコリカリア(東方ではなくアドリア海の奥であり、ポー川下流マントヴァからほど近い場所にあった)の争奪戦に対応)が「他国の王子が王女との結婚によって王位継承者となるため、王から課せられた試練を乗り越える神話」と混交しつつイオールコスおよびコリントスで広まった結果発祥したと考えられている。

    紀元前30世紀頃から新石器文化が栄え、アイオリス人の居住地となったが、ポリスの形成は遅く紀元前4世紀以後マケドニア,次いでローマに服属。

    株式会社平凡社世界大百科事典第2版の歴史記

    ディミニセスクロなどの新石器時代の遺跡はギリシアの中でも際だつが,歴史時代のギリシア世界ではむしろ後進の地で,長くアレウアダイ家などの寡頭支配が続き,紀元前5世紀になって一種の連邦制を形成した。
    *アレウアダイ家…ラリサをその支配の中心地とし、ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)ではアテネ側について戦ったが,のち内紛で衰退。

    紀元前4世紀フェライのイアソンアレクサンドロス,次いでマケドニアフィリッポス2世に支配され,紀元前197年ローマに服属し,14世紀にはオスマン・トルコに支配され,19世紀末ギリシアに帰属した。

    小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の歴史記

    青銅器時代後期にはミケーネ文化の影響下にあったが、紀元前12世紀、北方からの侵入者のうちテッサリア人がこの地を占めた。紀元前6世紀タゴスtagosという長官職を頂点とした緩やかな連合国家を形成し強力となる。紀元前5世紀末フェライPheraeリコプロンが僭主(せんしゅ)政を樹立、他のテッサリア諸市と対立して団結を弱めたが、その子イアソンJasonは自らタゴスとなり、中央ギリシアに覇を唱えた(紀元前385年頃~紀元前370年)。

    マケドニアの興隆とともにその支配下に入る。紀元前196年ローマによって解放されたが、紀元前148年属州マケドニアに併合。紀元後3世紀後半から、ゴート人ブルガリアの侵入を受け、6世紀末以後スラブ人が定住した。1393年オスマン帝国支配下に入ったが、1881年同地方の大部分がギリシアに割譲された。

    旺文社世界史事典 三訂版の歴史解説

    アイオリス人が多く居住。ポリス形成はおくれ紀元前4世紀中旬マケドニアのフィリッポス2世に征服された。馬の飼育地域としても有名。

    ボイオーティア古希: Βοιωτία / Boeotia, Beotia, Bœotia

    アッティカの西北に位置した古代ギリシアの一地方。「ボイオティア」「ヴィオティア」などとも表記される。ギリシャ語で「牛の国」という意味もある。中央には、現在では消滅している大きな湖、コパイス湖Lake Copais)が存在した。

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    • 南にコリンティアコス湾に面し、コリントス地峡の北の付け根にあたるガリMegaris)と接する。南東にはアテナイを中心とするアッティカ地方があり、キタイロン山とそれに連なる山並みによって隔てられている。

    • 北東はエウリプス海峡Euripus Strait)・エウボイア湾Gulf of Euboea)を挟んでエウボイア島と向かい合い、北に東ロクリスOpuntian Locris)地方と隣り合う。西にはポーキスがあった。

    ギリシア神話には、軍事的拠点としてカドモスが建国した軍事的拠点テーバイ、進取的な商業都市として、ミニュアース人Minyans)の住むオルコメノスという伝説の2つの中心地が登場する。
    *「テーバイ建設者」カドモス…フェニキア王アゲノルの息子にして牡牛に姿を変えたゼウスに誘拐されたエウロペの兄。フェニキアで発明されたアルファベットを、ギリシャに伝えたとされる。野原で見つけた牡牛の後を追ううちにテーバイ建設者となるが、その過程で洞窟の泉を守るマルスの大蛇を殺した為に(その戦いで部下が全滅するも、その大蛇の歯を大地に撒いて新たな臣下を得る)子孫が尽く不幸な最後を遂げるというのがテーバイ環叙事詩の内容とされる。

    • 伝説的なミニュアース人の重要性は考古学的な遺跡(とくにミニュアースの宝物殿)によって確実なものとされている。ボイオーティア人はおそらくドーリア人の侵略以前に、北からこの土地にやってきたものと思われる。ミニュアース人を除く先住民たちはこれら移民たちに吸収され、以後、ボイオーティア人は等質的な民族として描かれる。

    • コリントス地峡の北側に位置し、東南のアッティカ、北方のテッサリア、南方のペロポネソス半島に囲まれた形で広がっている為、政治的に大変重要な場所だった。辺境の住民達の戦略的強さと、広大な地域の中のコミュニケーションの容易さ故に戦略的拠点として度々戦火に見舞われたボイオーティア諸国は、外的に対抗するために「ボイオーティア連合」によって連合制をとっていた。一方で、良港はなく、それで海運の発展を遅らせた。ボイオーティア人の中には、ピンダロスヘシオドスエパメイノンダスペロピダスプルタルコスのような偉人もいたが、ことわざでは「鈍い」と言われていた。おそらくアテナイの、近隣諸国に対する文化的優越感がそう言わせたのであろう。

      ユークリッド空間の発見者は、ガウスだといわれている。ガウスは、稲垣足穂がいうには、「ボェオティア人の喚わめ」を懸念して、その発表を控えたらしい。

      「稲垣タルホって、だれですか?」と彼はきいた。

      稲垣足穂全集」(全13巻、筑摩書房、2001年)の話をした。そして青年は、

      「ボイオーティア人って、なんですか?」ときいた。

      ぼくは、本題をうっちゃって、ギリシア神話の話をし、ドーリア人の侵略以前に、北からこの土地にやってきたボイオーティア人の話をした。そしてミニュアース人以外の民族は、ひとかたまりになって、戦略的拠点として戦火に見舞われたボイオーティアの諸国は、外的に対抗するために「ボイオーティア連合」を組織して戦ったという話をした。ボイオーティアは、古代ギリシア文化発祥の地だった。アリストテレスはこの都市国家の建設について述べている。同様に都市グライアの起源については、紀元前267年~紀元前263年に書かれたとされている、古代の大理石の碑文「パロスの年代記」がある。

    現在のオロポスOropos)周辺にあったと推定される都市グライアGraea/Γραῖα)は、ギリシアで最も古い都市であると伝えられており、地名も「古い」「古代」という意味がある。何人かの学者は、ギリシャ神話に登場するギリシャ人の祖ライコスGraecus/Γραικός)と関係があるとしている。アリストテレスはこの町は大洪水前に建設されたと述べている。都市グライアの起源に関する同様の主張は、紀元前267年~紀元前263年に書かれた、古代の大理石の碑文「パロスの年代記Parian Chronicle)」にもある。この年代記1687年に発見され、現在はオックスフォードとパロス島にある。さらにこの古代都市についてはホメロスパウサニアストゥキディデスの著書にも記述がある。
    *「パロスの年代記」の文面では、ギリシャ人の自称が「グライコス」から「ヘッレーン」に代わったのは(青銅時代の人間を滅した大洪水以降の)紀元前1521年~紀元前1520年とされている。

    他にもアイトーリアロクリスコリントスエーリスメッシニアなどギリシア中に分散。紀元前2000年頃、さらにギリシャ本土中部テッサリアボイオティア地方からレスボス島に移住し、さらにアナトリア半島西部に植民し、12のポリスを建設した。この地も彼らにちなみアイオリス地方と呼ばれた。

    古代ギリシアの地理学者パウサニアス(希Παυσανίας, 英Pausanias, 115年頃~180年頃)は、アナトリア半島西岸(現 トルコのフォチャ)にあった「イオニア人植民市ポカイアフォカエア、古希Φώκαια (Phōkaia), 羅Phocaea)は、アテナイアナトリア半島におけるアイオリス人の主要植民市キュメ古希Κύμη、Kymi,KymeまたはCyme)から譲渡された土地にポーキス人古希: Φωκίς, コリンティアコス湾北部住人)に命じて建設させたとする。そしてさらにヘロドトス「歴史」において「ギリシャ系最初の航洋部族」認定を受けたポカイア人は最後のアテナイ王コルドスの血筋を引く者を王として受け入れることで、イオニア同盟に加盟を許されたとする。

    ところが現存する陶器から(彼らが活躍を開始した)紀元前9世紀時点ではまだ現地にアイオリス人がいた事が明らかで、イオニア人の入植は早くても紀元前9世紀後半の事だろうと考えられている。そもそも彼らはアイオリス人だったと考える向きすらある。

紀元前6世紀末頃からはペルシア帝国に支配され、さらにセレウコス朝シリア王国アッタロス朝ペルガモン王国の支配を受け、ローマ時代以降には衰退していった。

情報が錯綜し過ぎていて、到底単一民族集団について語ってる内容とは思えません。とりあえず可能な限り整理を図ってみましょう。

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前提1アイオリス人紀元前三千年期頃ドナウ川流域からテッサリア経由でギリシャ各地やアナトリア半島沿岸部に移住した。

  • ドナウ川流域というと中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期紀元前8世紀~紀元前6世紀)にかけて主流となり「最初の航洋ギリシャポカイア人によるマッシリア(マルセイユ)植民市建築とエルトリア文化流入の影響を受けて紀元前6世紀以降、そのほとんどがラ・テーヌ文化紀元前450年頃~紀元前1世期)に移行した騎馬民族的色合いの強いハルシュタット文化が著名。

    一般に西文化圏はケルト語及びケルト、東文化圏は(祖ーイリュリア人が担ったと目されている(そしてその影響は交易と人口流動によってイベリア半島西部、グレートブリテン島アイルランド島などにも伝わった)が、分離時期から見てアイオリス人の文化は全くその影響を受けてない。ただし彼らが形成したテーバイ叙事詩に見受けられる(ギリシャ文化らしからぬ)独特のドロドロした人間関係はケルト文学のそれに近く、ここに共通する文化的祖型を見出す立場もあるにはある。
    *この異物感こそが、多くのギリシャ古典の内容に影響を与えつつもテーバイ叙事詩環そのものは文書化され編纂されて後世に伝えられなかった遠因の一つと考える訳である。

  • テッサリアではそれまで(東方から伝来したと目される)ディミニ土器セスクロ土器によって特徴付けられる新石器時代ディミニ文化(紀元前四千年期後半, セスクロなどのテッサリア南西部に主としてみられる地方文化)が栄えていたが、次いで中部から南部ギリシアにかけて広まった(やはり東方から伝来したと目される)青銅器文化のヘラドス文化(紀元前3000年~紀元前2600年頃)はテッサリアを素通りしてしまう。一方、この青銅器文明は後期ミノス文明の影響を受けて変質して飛躍的発達を遂げ、ミュケナイ/ミケーネ文明(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)と呼び分けられる展開を迎える。さてアイオリス人はこの流れにどう関与したのだろうか?

    ちなみにクレタ文明を残した民族は未だ不明点が多いもののアナトリア半島から移住してきた人々と目されており、キプロス島の産する銅などの交易を巡ってイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)にアモル人が建てたメソポタミア諸都市(特にマリ)や異民族ヒクソスの建てたエジプト第15王朝紀元前1663年頃~紀元前1555年頃)、そしてさらには恐らく古代リデュア人(アフリカ北岸にいたベルベル人諸族)とも交流があった。そして紀元前1600年頃~紀元前1400年頃ミケーネ文明に征服され、以降はミケーネ文明エーゲ文明の主役に躍り出る。

  • 近年ではホメロス叙事詩に歌ったトロイア戦争、およびその年段階としてのアルゴナウタイの冒険はミケーネ時代の歴史的事象に遡ると考えられる様になった。例えば後者は紀元前14世紀頃~紀元前13世紀頃黒海沿岸諸都市がコルキスの砂金産業(パーシス河(現在のリオニ川)で行われていた河床に羊の皮を置く砂金採集方法。「黄金の羊」概念の起源)や琥珀交易の中継地だったコリカリア(東方ではなくアドリア海の奥、ポー川下流マントヴァからほど近い場所にあった)を奪い合った歴史に、前者はその後勃発した「ヘレースポントスを押さえたトロイア第6市, 紀元前13世紀頃黒海交易独占に対する他都市連合の挑戦」に該当するというのである。この当時のミケーネ文明の担い手は概ねアカイア人に比定されている。ならばアイオリス人アカイア人だったのだろうか?

    イリオス古希イオニア方言: Ἴλιος, Īlios イーリオス), イリオンイオニア方言: Ἴλιον, Īliov イーリオン), トロイアアッティカ方言: Τροία, Troia トロイアイオニア方言: Τροίη, Troiē トロイエー、ドーリス方言: Τρωία, Trōia トローイア), トロイ英語: Troy), トロイア古羅: Troja トロイヤ)は現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあった古代城塞跡に比定されているホメロス叙事詩イーリアス(紀元前8世紀頃成立)」の主戦場。トロイア戦争の時代をヘロドトス紀元前1250年エラトステネス紀元前1184年Douris紀元前1334年と推定したが、このエーゲ海交易で栄えた城塞の歴史は紀元前三千年期から始まり(繰り返し破壊され続ける紀元前2500年頃~紀元前2200年頃の停滞期を経て紀元前1800年~紀元前1300年の第VI層に再び発展)。トロイア戦争時代と推定される第VII層の発掘では、陶磁器の様式から紀元前1275年頃~紀元前1240年頃と推定されている。

    また紀元前13世紀中頃ヒッタイトトゥドハリヤ4世時代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場し、これがギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されている。同史料にはウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。これがそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当すると考えられている訳である。

    トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。

    アカイア人(Achaeans, Achaioi)

    古代ギリシア人の一派の呼称。

    ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

    ホメロス詩篇で,ダナオイアルゲイオイなどとともに用いられたトロイ遠征のギリシア人の呼称。ただし,アキレウスの国の人々に関してのみ使われている。

    ホメロスによるアカイア人の居住地は紀元前14世紀~紀元前13世紀にミケーネ文明が栄えた地域と一致している事などから,アカイア人ミケーネ文明の担い手である人々と同時代,すなわちエーゲ海世界へ登場した最初のギリシア人であったと考える事も出来る。

    歴史時代のペロポネソス半島北部のアカイア人の言語がドーリス方言に近い事から「ミケーネ時代後期に勢力を強めたドーリス人に比較的近い種族」と目される事もある。

    歴史時代のアカイアは2地方あり,その一つペロポネソス半島北岸のアカイア諸市は紀元前700年頃南イタリアシュバリスクロトナなどの植民市を建設した。

    もう一つのアカイアはテッサリア南部の一地方であるが,この地のアカイア人ギリシア史において重要な存在とはならなかった。

    小学館デジタル大辞泉における《〈ギリシャ〉Achaioi》の解説

    紀元前2000年頃からペロポネソス半島北部に定住したギリシャ人。クレタ文明の影響を受けて、ミケーネ文明を生んだ。

    株式会社平凡社百科事典マイペディアの解説

    早くからギリシアに来住,ミュケナイ時代ミュケナイ文明)に最も活躍,ホメロスの詩ではギリシア人の総称。のちペロポネソス半島北部のアカイアAchaiaに居住。ヘレニズム時代,アカイア同盟を結成。

    株式会社平凡社世界大百科事典第2版の解説

    ギリシア語ではアカイオイAchaioiホメロスの詩ではテッサリアの住民からおこったギリシア人一般がこうよばれている。

    紀元前1400年~紀元前1200年ヒッタイトやエジプトの碑文に,この名に由来すると思われる種族名が見え,それは当時のギリシア人を指すと考えられている。

    歴史時代のギリシアではテッサリア南東部ペロポネソス半島コリントス湾岸(シキュオンからエリスまで)の住民がこの名でよばれ,シュバリスクロトンなど,南イタリアに植民市を建設した。

     小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の解説[真下英信]

    歴史的には紀元前16世紀頃よりきわめて高度な文化を発展させたミケーネ時代のギリシア人の呼称。

    すでに紀元前14世紀~紀元前12世紀ヒッタイトやエジプトの文書にAiyav, Ekeshの名称でアカイア人がみいだされるとの説もあるが、さだかでない。

    ホメロス叙事詩では、アカイア人という呼称はもっぱらギリシア人の総称の一つとして用いられている。伝説によると、彼らはドーリア人の侵入後、一部はレスボス島近辺の小アジア方面キプロス島などに移住した。

    歴史時代には、テッサリア南東部ペロポネソス半島北部(西はエリス、北東はシキオンの間の地方)の住民として知られていた。ギリシア植民時代紀元前8世紀~紀元前6世紀)おもに南イタリアに植民し、シバリスクロトンなどの重要都市を設立した。このほか、彼らは、初期の歴史では大きな役割を果たさなかったが、紀元前3世紀~紀元前2世紀にはアカイア同盟の中心勢力としてギリシア世界で大きな影響力を発揮した。紀元前146年以降、他のギリシア人と同様にローマの支配下に入った。

     精選版日本国語大辞典の解説

     (アカイアはAkhaia) 紀元前二千年頃ギリシアに南下して、テッサリアからペロポネソス地方に定住したギリシア人。ミケーネ文明を発達させた。

    旺文社世界史事典 三訂版の解説

    詩人ホメロスは,トロヤ戦争に参加したギリシア人をすべてアカイオイAchaioi)と呼んでおり,紀元前1200年頃ドーリア人が南下して定着する以前にギリシアの地にはいっていたギリシア人の総称と考えてよい。

    紀元前1600年~紀元前1200年ミケーネ文明を生んだのもアカイア人であり,同時代のヒッタイトは彼らをアッヒャーヴァAchchijawa)と呼んだ。

    後世のペロポネソス半島北部のアカイア地方住民と混同してはならない。

    *ここから読み取れるのは、少なくとも今では「ミケーネ文明を構築したアカイア人ドーリア人に征服され被支配民族ヘイロータイに転落した」とは考えられていないという事。

    一方、アルゴナウタイの冒険トロイア戦争の伝承が黒海沿岸諸都市の勢力争いに由来するとすれば、それはミケーネ文明というより小麦の栽培化起源地域の候補地の一つとされるカフカスから黒海北岸に下ってきた半農半牧の定住民達が築いた諸都市の伝承であった可能性まで浮上してくる。
    *最近のDNA調査によれば実際、青銅器時代(紀元前3500年~紀元前1200年)のカナン地方住人には既に「レヴァント(東部地中海沿岸)の人々」や「イラン高原のザクロス山脈周辺からやってきた人々」ばかりか「カフカスから(おそらく黒海北岸経由で)やってきた人々」が含まれている事が明らかになったという。

    困った事に物語中の兵器や用兵の描写から元話の時代や地域を割り出す事も難しい。それを謳った紀元前8世紀~紀元前7世紀の吟遊詩人に紀元前13世紀頃~紀元前12世紀頃の軍事技術知識が欠落していたのは明らかだからである。

    ホメロス叙事詩イーリアス(紀元前8世紀前後成立)」はファランクスに似た3つの記述を含んでいる。
    liade (XVI, 215–217), extrait de la traduction de Frédéric Mugler. Voir aussi Iliade (XII, 105 ; XIII, 130-134) et peut-être Iliade (IV, 446-450 = VIII, 62-65).

    かくて彼らは兜と円き楯を整えた。楯、兜、そして人が互いにひしめきあい、彼らが身を屈めると、馬の髪に覆われた兜が隣の見事な飾冠にぶつかる、さほどに彼らは密集していた。

    ファランクスの導入時期には論争があるが、大部分の論者は紀元前675年頃であったとしている。

    *実際には密集陣形自体は紀元前三千年紀から存在したが、ヒクソス登場(紀元前17世紀~紀元前16世紀)の頃より威力の絶大な複合弓が普及し、一時的に用いられなくなったのである。金属鎧の発達に従って新アッシリア帝国(紀元前934年~紀元前609年)時代途中の紀元前8世紀頃より復活し騎兵と共に有効活用される様になった。当時のエジプトがギリシャ人を重用する様になったのも、彼らがかかる意味での「最新の戦闘技術」を習得していたからと考えられている。

    最も古いファランクス、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアですでに確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時に存在していたことを示している。
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    しかし、その後中東では複合弓の発明によって戦場の主役の座は弓兵となっていく。その後紀元前700年頃アッシリアでも同様の隊形が用いられていたことが石版から確認できるが、鎧兜を着用した重装歩兵を用いたファランクスを大々的に用いたのは紀元前7世紀以後の古代ギリシアである。古代ギリシアにおいてファランクスを構成していたのは一定以上の富を持つ市民階級であり、当時の地中海交易の発達から甲冑が普及して重装歩兵部隊を編成することが可能となった。また、都市国家が形成されたことから同じ目的意識を持った集団が生まれたこともファランクスの形成に影響した。

     戦車二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている。英雄達は戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのであった。実際の紀元前千年代は戦車大量生産の時代で「1000台VS1000台」なんて合戦まで記録に残っている。エジプトは当初軽装弓兵のみを載せていたが、ヒッタイトの運用に習って白兵戦も闘う様に。

    しか宣んすればヘクトール其同胞の言に聽き、武具を携へ戰車よりひらり大地に飛び降り、鋭利の槍を揮り舞はし諸隊遍ねく経りて、之を勵まし猛烈の戰鬪に驅け進ましむ。

    また物語は青銅器時代のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている。

    其胸甲の線條は十は眞黒き鋼鐵(くろがね)と、十二は光る黄金と、二十は錫と相まじる。左右おのおの頸に向き走る三條藍色の蛇あり、虹にさも似たり、虹は天王クロニオーン。言鮮けき人間に徴(しるし)と爲して雲に懸く。

     *また矢の鏃(やじり)も鉄製。

    アポローン――リキエーに生れし神に盟かけ、弦――牛王の筋と共矢筈を取りて引きしぼる。弦は胸許、鋼鐵の鋭き先さきは弓端に。かくて大弓滿月の如くに張りて射放てば、弓高らかに鳴りひびき弦は叫んで鋼鐵の鏃(やじり)鋭き勁箭は、衆軍の上翔けり飛ぶ。

     こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。オデュッセイアの旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。

     こうした錯綜した状況を整理する最も俯瞰的かつ客観的な立ち位置は「(トロイア戦争においてもトロイア側に立ったとされる)ペラスゴイ人=ギリシャ語を話さないエーゲ海地域の先住民」なる定義をとりあえず逆用しアカイア人アイオリス人を大雑把に「ギリシャ民族形成期紀元前1200年頃~紀元前8年頃ギリシャ語を需要したエーゲ海地域の先住民」と規定してしまう事である。この思考様式はさらにギリシャ系諸族の最後の一派、アイオリス人同様東方系ギリシャ語を話したとされるイオニア人にも敷衍可能である。

    イオニア人nes; Ionians

    古代ギリシア人の一派でアカイア人, ドリス人などとならぶ種族。

    ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

    イオニア方言を話し,小アジアイオニア地方,エーゲ海中部の島々,エウボイア,アッチカなどに住んだ。ホメロスの詩には1度出てくるだけだが,小アジア西岸の中央部がイオニアとして知られるようになってから特に重要になった。

    アテネが全イオニア人の母市であるという,古くからの伝承はあたらないとしても,アテネ人がイオニアへの進出を組織的に行なったことはある程度真実らしい。イオニア人紀元前750年頃から本土のドーリス人諸国家にさきがけて,黒海沿岸に最初の植民市 (アポイキア) を建設,さらにナポリ湾のアエナリア島ピテクサ島などに植民市を築き,西方への道を開いた。シチリア島に最初の植民を行なったのも彼らであった。経済的,文化的にも急速に発展し,イオニア人とはオリエント世界ではギリシア人の総称となった。 

    株式会社平凡社百科事典マイペディアの解説

    早くからギリシアに南下したとみなされる古代ギリシア人の一分派。アッティカ,エウボイアから小アジア西岸中部のイオニアに移住。イオニア方言を話す。

    アテナイ人は代表的存在であるが,紀元前7世紀~紀元前6世紀イオニア諸市(ミレトス,エフェソス)も海外植民,貿易で活躍。

    株式会社平凡社世界大百科事典第2版の解説

    紀元前1000年頃アッティカから小アジア西岸中央部(イオニア)に多数の植民者が送られたらしく,それにはペロポネソス半島北部海岸地域からの移民もまじっていたらしい。

    イオニア方言はアッティカエウボイアデロスキオスイオニアで話され,イオニア人の結合の象徴はミュカレ岬のポセイドン神殿で催されるパンイオニア祭およびデロス島アポロン神殿の祭典であった。

     小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の解説前沢伸行

    古伝承にはギリシア人の祖ヘレンHellenの孫イオンIonを祖先とする人々とされ、ドーリス人の侵入に際して「イオニア最古の地」たるアテネの指導下に小アジアイオニア地域に植民したと伝えられる。

    彼らは言語学上、アッティカエウボイアキクラデスイオニアに分布したアッティカイオニア方言に属するギリシア語を用いた。居住地は、アテネからエーゲ海の島々を経て小アジア西岸に至る諸ポリスと、それらの植民市に分布していた。

    紀元前5世紀以降、知的で洗練されたイオニア人と、勇敢だが粗野なドーリス人とが対比されて論じられたが、ドーリス系の植民市でありながら優美な文化を残しているシラクサシラクーザ)など、この対比には多くの例外がある。

    旺文社世界史事典 三訂版の解説

    東方方言群に属するイオニア語を用いた。ギリシア半島への定着は比較的早く,アテネから小アジア西岸のイオニア地方に広がった。神話上では,ギリシア人の祖ヘレンの子クストスの子孫とされている。

    その一方で「カフカスから黒海沿岸に南下してきた半農半牧の定住民(アルゴナウタイの冒険やトロイア戦争に元話を提供した人々とも考えられるがミケーネ文明との関係が不明瞭)」とか「紀元前三千年期にドナウ川流域からテッサリア経由でバルカン半島アナトリア半島に移住した人々(ミケーネ文明の担い手とされるアカイア人との関係は不明。おそらくアイオリス人はミケーネ文明を特徴付ける専制的献納体制には組み込まれていない一方、ドナウ川流域居住時代より維持してきた固有文化もまた存在せず「ギリシャ語の方言を話すエーゲ海地域の先住民」というアイデンティティしか備えていなかった)」といった考古学的オリジンは(古代日本人が日本書紀古事記の編纂過程を通じて民族アイデンティティを固めていった様にギリシャ民族形成過程において特別な注意が払われた形跡が全く見られない(アテナイこそ全ての大源流」なる歴史改変が遂行されたイオニア人のオリジンに至ってはさらに適当)。そう考えると腑に落ちる部分が非常に多い。

前提2】何らかの理由でテッサリアを離れたアイオリス人の一派がボイオーティア地方に侵攻してミニュアース人を征服し「七つの門の都市」テーバイを建設。これを中心にボイオーティア連合を構成した。それは「紀元前1200年のカタストロフ」に先行する動きだった。

  • 紀元前1200年のカタストロフ」前後、ミュケナイ/ミケーネ文明(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)圏には極度の緊張感が行き渡っていたという。

    紀元前13世紀ミケーネ文明は繁栄していた。しかし、災厄の予兆を感じていたのかギリシャ本土の諸都市は城壁を整えており、アテナイミケーネでは深い井戸が掘られ、まさに篭城戦に備えているようであった。また、コリントス地峡では長大な城壁が整えられ、ミケーネ文明の諸都市はある脅威に備えていたと考えられる。

    ミケーネ文明の諸都市、ミケーネピュロスティリンス紀元前1230年頃に破壊されており、この中では防衛のために戦ったと思われる兵士の白骨が発見された。この後、これらの諸都市は打ち捨てられており、ミケーネ人がいずれかに去ったことが考えられる。このことに対してペア・アーリンは陶器を調査した上でミケーネの人々はペロポネソス半島北部の山岳地帯アカイアに逃げ込んだとしており、アルゴリス南メッセリアラコニアを放棄してアカイアエウボイアボイオティアに移動したとしている。
    また、クレタ島にもミケーネ人らが侵入したと考えられており、ケファレニア島西岸ロドス島コス島カリムノス島キプロス島に移動している。これらミケーネ人の移動により、ミケーネ文明は崩壊した。

    彼らが警戒していたのは恐らく当時「海の民」と総称された人々である。古くはカナンのアピル人(アララト王族の復権に手を貸した寄せ集めの放浪者集団)やレバノン山岳地帯のアムル王国(遊牧民が沿岸諸都市の逃亡者を受容し軍を強化)やエジプトのヒクソス、後にはパレスチナペリシテ人などもこの条件を満たすが、ミタンニ(フルリ人)やヒッタイトミケーネ文明さらにはエラム人などが闊歩していたイラン高原のザクロス山脈の向こう側)などから「合成弓」「戦車」「(しばしば鉄製の)精巧な鎧や剣」といった軍事的最新技術を仕入れつつエジプト新王朝ヒッタイトミケーネ文明専制的体制には服しなかった蛮族、逃亡した奴隷や脱走兵や犯罪者、失業中の傭兵などで構成され、パレスティナ(カナン)、レバノン及び(カリアやキリキアといったアナトリア半島内陸部の山岳地帯、古代リヴィア(クレタ島経由でシチリア島サルディーニャ島やイタリア半島南部に接続するアフリカ北岸のベルベル人居住地)やテッサリアといった当時の文明辺境部を跋扈しながら組織的動員力を養っていたと目される。それまでエジプト新王朝やヒッタイトやミケーネ人の征服事業によって回ってきたオリエント世界は、この時期その停滞によって未曾有の経済的危機を迎えており、その影響で彼らの様なアウトロー集団も急速に膨れ上がって蜂起のチャンスが巡ってきたと考えられよう。どの文化圏にも似た様な集団は現れるものである。
    *「海の民」のメンバーリストには当時テッサリアからアナトリア半島内陸部に移住した目されるフリュギア人、リヴィア人(ベルベル人)、アカイア人ばかりかエルトリア人やシチリア島住人やサルディーニャ島住人と推定される名前まで列記されている。しばしば専制国側の傭兵や商人としても足跡を残しており、決して一枚板にまとまっていた訳ではなかった。

    <山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.71>

    ペリシテ人職業軍人の重装歩兵が編成する強力な武器を持ち、鉄の武器と戦車軍団、および弓兵をその軍事力の基盤としていた。(旧約聖書)サムエル記によれば、ペリシテ人は鉄の精錬を独占してさえいたらしい。彼らは各地の拠点に守備隊を置き、征服地の実効的な継続的支配を図った。」

    ボイオティア人によるミニュアース(及びグライアの)征服も、こうした歴史上の流れの一環だったと考えると大変分かりやすくなる(テーバイもまたミケーネ文明期の遺跡の跡地に建てられた)。そしてミケーネ文明それを支えてきた専制的献納制)崩壊後の無政府状態を選好してドーリア/ドーリス人ギリシャに南下してくる。どうやら彼らは(カフカスで発祥し黒海沿岸に下った)半農半牧の定住民だけでなく(中央アジアでの政争に敗れた)遊牧民(スパルタの様に現地人を隷属下に置く支配者として君臨)や(コリントスに定住した様な)商業民も含む雑多な集団だった様で、かかる民族的アイデンティの欠如こそがギリシャの受容とギリシャ民族への合流を容易にした側面もあったろう。
    *同時期にアナトリア半島内陸部への移住を開始したテッサリアのフリュギア人(Phrygia, 古希: Φρυγία)を「海の民」に分類すべきかについては諸説あるが、彼らもまた(その分派とする説もあるウラルトゥ王国支配階層同様に)遊牧民系であり、現地人を隷属下に置く領主として君臨する代わり(生活習慣の異なる)定住民の移住と異なり現地の生活にそれほどの変化はもたらさなかった。

    旺文社世界史事典 三訂版におけるドーリア(Dorians)の解説

    紀元前1200年~紀元前1000年頃、鉄器をもって最も遅れてギリシアに南下・侵入したギリシア人の一分派。ドーリス人ともいう。

    ペロポネソス半島に移動して定住し,クレタ島小アジア海岸にも植民市を建てた。西方語群のドーリア方言を使用した。代表的ポリスはスパルタ。

    小学館デジタル大辞泉におけるドーリス人の解説

    古代ギリシャの一民族。紀元前1200年頃、西北方から鉄器をもって侵入を開始し、ミケーネ文明を破壊してペロポネソス半島エーゲ海諸島に定住した。スパルタはその代表的都市国家ドーリア人。

    株式会社平凡社百科事典マイペディアにおけるドーリス人の解説

    古代ギリシア民族の一分派。ドーリア人とも。ドリス方言を使用。紀元前1200年~紀元前1100年頃に鉄器文化をもってバルカンからギリシアに南下,ミュケナイ文明を破壊,スパルタなどを建設したと考えられていたが,近年は疑問視されている。

    ペロポネソス半島全域に住み,のちクレタ島小アジア西岸南部(ドリス地方)にも移住した。

    株式会社平凡社世界大百科事典第2版におけるドリス人の解説

    古代ギリシア人の一分派で,ドリス方言を語るもの。ドーリア人ともいう。ドリス人は紀元前1200年~紀元前1100年頃ペロポネソス半島に北方から侵入してきたと考えられてきたが,近年ミュケナイ文明を破壊したのは〈海の民〉であって,その後にドリス人が来たとの説が有力となった。

    ドリス人はそこからクレタ,ロドス,小アジア西岸南部にも移動した。3部族構成を特徴とし,原始的性格を残しているが,彼らを本来イオニア人とは異なる剛健な北方人種であるとする説は後世のスパルタ人から全体を推測するもので間違っている。

    三省堂大辞林第三版におけるドリス人の解説

    古代ギリシャ人の一種族。紀元前12世紀頃ペロポネソス半島へ南下し、スパルタ・コリントなどのポリスを建設。ドーリア人。

    精選版日本国語大辞典の解説

     (ドリスはDōris) ドリス方言を使う古代ギリシア人の一派。紀元前1200年頃南下、ペロポネソス半島の大部分を占領し、ミケーネ文明を破壊した。小アジア南西岸にも分布。代表的都市国家はスパルタ。ドーリア人。

    *思うより「ドーリア人がミケーネ文明を破壊した」「スパルタこそドーリア人の代表」とする旧説が根強く残っている?

    ちなみに「紀元前1200年のカタストロフ」が産んだ専制国家不在状況はカナンにイスラエル王国を、アルメニアウラルトゥ王国を勃興させたが紀元前8世紀以降多民族帝国が再興するとこれにあっけなく滅ぼされてしまう(ただしヘブライ人自体は独自の言語と宗教を墨守して生き延びる)。ギリシャ人はアケメネス朝ペルシャに脅かされつつも独自の言語と宗教を墨守して生き延びたばかりか、逆にアケメネス朝ペルシャを滅したが、その主体となったのは(当時はヘレネス=ギリシャ人に含まれるか微妙で、しかも当初はアケメネス朝ペルシャ側についていた)マケドニアだった。そして彼らはヘレニズム時代を経てローマ支配時代をも生き延び、ビザンチン帝国へと到達するのである。どうしてこうした差がついたかについての解釈も、歴史上の重要な焦点の一つとなってくる。
    *とはいえアルメニア人も最近では「我々はイラン人やヘブライ人と同じくらい古くから存続してきた民族」と自己主張する様になった。そもそも民族が存続するとはどういう状態を指すのだろう?

前提3】「紀元前1200年のカタストロフ」後の地中海商圏の再建はフェニキア商人に主導される形で「キプロス島」「クレタ島(及びリヴィアのキレネやシチリア島サルディーニャ島やエイルトリア人の割拠するイタリア半島南部を結ぶ縦のライン)」「エンボイア島(及びそれに隣接するコリントスなどのギリシャ人植民市)」を結ぶ形で進行。適切な交易港を保有してなかったが故にこれに加われなかった事がボイオティア零落の端緒となる。

  • ギリシャ人の時代」は一般に(紀元前8世紀頃、シリアのオロントス河下流域に共同交易拠点として設けられたアル・ミナに引き続き紀元前7世紀頃アッシリア帝国の介入もあって)リヴィア系ファラオが統治したエジプト第26王朝サイス朝, 紀元前664年~紀元前525年)からナウクラティスフェニキア商人と切り離された共同交易拠点として与えられた(運用開始自体はそれ以前の時代まで遡る)に端を発すると考えられている。なぜならこの地では商用共通語としての(書き言葉としての)ギリシャ語の最初期の文献が発見されているからである。

    それ以前より地中海交易で重要な役割を果たしてきたイオニア系のミレトス古希Μίλητος=ミレートス, 羅Miletus, 土Milet)とサモスΣάμος / Samos)、エーゲ海地域に独自商圏を構築し、ギリシャ系植民市としては初めて独自の貨幣も発行したアイギナ(Aigina)以外には、以下の様な商業都市が共同交易に参画していた。

    • イオニア人系都市…キオス、クラゾメナイ, テオス、ポカイア
    • ドーリア人系都市…ロドス、ハリカルナッソス、クニドス、ファセリス
    • アイオリス系都市…レスボス島のミュティレネ

    概ねオリエント色の強い東方化様式の商品を流行させたドーリア商圏の主要交易都市に対応する。文化面においてこの流れを主導していたのは、ここには名前の現れないコリントスだった。

    ギリシア語は、インド・ヨーロッパ語族の中で最も古くから記録されている言語であり、その歴史は3400年にわたる。ギリシア文字で記されるようになったのは、ギリシアでは紀元前9世紀キプロスでは紀元前4世紀以後のことである。それ以前では、紀元前2千年紀中旬には線文字Bが、紀元前1千年紀前半にはキプロス文字が、それぞれ使われていた。

    そしてヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)には(現代に伝わる形でのギリシャ古典の編纂がまとめて遂行された)アレキサンドリア図書館において旧約聖書ギリシャ語に翻訳され(七十人訳聖書)、新約聖書は最初からギリシャ語で刊行される展開を迎える。

    ヘブライ語を読めないギリシア語圏のユダヤ人、また改宗ユダヤ人が増えたため翻訳がなされたと推測される。いわゆる「ディアスポラ」のユダヤ人はヘレニズムに先行するが、ギリシャ語話者ユダヤ人(ヘレニスト)は、アレクサンドロス大王の遠征以降、一層増加したと思われる。外交文書とか、通商交易に関した文書が翻訳されるということはいつの時代、どこでも行われたであろうが、旧約聖書のような量も多く、且つ内容も物語り、詩文、法律文書、箴言など多岐にわたるものが翻訳されたのは、人類史上画期的であった。

    新約聖書内には、旧約から引用する際、この訳を用いている場合が多い。パウロヘブライ語アラム語も読めたようであるが、書簡では引用に際して一部これを用いている。ヒエロニムスも旧約の翻訳の際に、これを参照している。また、ルネサンス以前の西欧では、ヘブライ語の識者が殆どいなかったためもあって、重宝されたようである。なお正教会ではこれを旧約正典として扱い、翻訳の定本をマソラ本文でなく、七十人訳におくことがある。

    イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉はアラム語であった(ヘブライ語という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたいわゆる古典ギリシア語は用いられていない)。

    その後、早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり、ヘブライ書もヘブライ語版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する学者はきわめて少数である。

    そして最終的には、こうしたギリシャ語版を正典と認めるかどうかがユダヤ教徒と教徒の最初の峻別点となったのだった。

  • 話を戻すとアテナイ海上帝国として台頭してくるのはペルシャ戦争(紀元前500年~紀元前449年)の発端となったイオニアの乱(紀元前500年~紀元前494年)の盟主だったミレトスの没落後となる。

    サラミスの海戦(紀元前480年)

    主要展開先をアイギナ商圏からドーリア商圏に切り替え、アケメネス朝ペルシャの支配を嫌ってアナトリア半島から亡命してくる海商や工房を取り込みんで一気に競争力をつけた。コリントスで発明された黒絵式black-figure)のポテンシャルを最大限に引き出して赤絵式(red-figure)に発展させたのもアテナイである。

    一方、アテナイペロポネソス戦争紀元前431年~紀元前404年)でコリントスに経済封鎖を遂行されて敗北して以降、真の意味で「地中海の覇者」の立場に復帰する事はなかった。それでは以降、ギリシャ文明はどう推移していったのか?

こうしていよいよ「有史時代のアイオリス人の歴史」が始まるのです。

  • 起源前7世紀に入ると吟遊詩人ヘシオドスがレスボス島南東にあったアナトリア半島の町キュメで破産してボイオティアへの開拓団に加わるも弟と組んだ地元領主に全財産を巻き上げられた怨念を「神統記」「労働の日」に叩き付け、ドーリアイオニア人とは明らかに異質な世界観に基づくテーバイ叙事詩環を編纂。

  • ただし文字で集団的記憶を広範囲で共有したり後世に伝える必然性には目覚めず、テーバイ叙事詩自体は紀元前7世紀以降トロイア戦争叙事詩環追加部分ゼウスとアイギナの子アイアコスがテッサリアに建設したプティアの王子アキレウステッサリアからギリシャに向かう途上にあるスポラデス諸島スキュロス島に女装して隠れたりする下り辺りは、アイギナ商圏そのものかそれに参加したアナトリア半島沿岸部のギリシャ人植民市発祥の可能性が高い)同様にほとんど散逸してしまう。

その中心地テーバイが紀元前335年マケドニアから見せしめとして徹底破壊され、殺戮を生き延びた住人も全て奴隷として売り飛ばされてしまった事も、こうした文献が後世に足跡を残さなかった要因として数えられそうです。また「歴史的に一貫してアテナイの敵であり続けたので、後世の親アテナ派の文人に記録を抹殺されてしまった」とも。記録を抹殺したのはあるいはマケドニア文人だったのかもしれません。ならば、彼らが後世に残した「歴史」とは?

 

アテナイとの抗争とペルシャ戦争

紀元前6世紀後半、テーバイ人達ははじめてアテナイ人たちと衝突を起こした。ボイオーティア側の小さな村落であるプラタイアが独立を維持するためにアテナイ人が支援したのが契機であり、紀元前506年にはアッティカへの侵攻が撃退されている。

紀元前480年、アケメネス朝のクセルクセス1世ギリシャに侵攻する(ペルシャ戦争)。テルモピュライの戦い紀元前480年)においてテーバイ軍400人ギリシャ軍に参加し、スパルタのレオニダス1世とともにテルモピュライで最後まで踏みとどまるものの、ペルシャへ投降。レオニダスらの「玉砕」と比較して「愛国心」がないと非難されるその姿勢は、しばしばアテナイとの険悪な関係で説明される。テーバイの指導的な貴族たちはペルシャ軍への参加を決定し、テーバイはペルシャ軍のギリシャ攻略拠点となった。

  • この戦いではフォキスやロクリスといった中小都市国家ペルシャ側に付く不名誉を甘受せざるを得なくなった。

プラタイアの戦い紀元前479年)でテーバイ軍はペルシャ軍の一員として激しく戦うものの、戦いはギリシャ連合軍が勝利を収めた。テーバイはギリシャ連合軍によって攻略され、ボイオーティア同盟の盟主の座から引き下ろされるなどの懲罰が加えられた。スパルタはテーバイをデルポイの隣保同盟から除名しようとしたが、アテナイの仲裁によって免れている。

ペロポネソス戦争

紀元前460年アテナイデロス同盟)とスパルタペロポネソス同盟)との間に第一次ペロポネソス戦争紀元前460年-紀元前445年)が勃発する。紀元前457年、スパルタは方針を転換し、中部ギリシャにおいてアテナイに対抗できる勢力としてボイオーティアにおけるテーバイの復権を認めた。アテナイオイノフュタの戦い紀元前457年)でボイオーティア同盟を破り、テーバイを除く全都市を占領してボイオーティアを支配下に置いたが、テーバイのカドメア要塞はアテナイへの抵抗拠点として持ちこたえた。

デルポイをめぐる第二次神聖戦争紀元前449年-紀元前448年)の終息後、ボイオーティアの諸都市はアテナイに対して反旗を翻すようになった。コロネイアの戦い紀元前447年)でボイオーティアなどの連合軍はアテナイに勝利、アテナイはボイオーティアから撤退し、ボイオーティアの諸都市は独立を取り戻した。

  • ミュティレネの反乱(紀元前428年~427年)では、アイオリス人が建設したレスボス島の中心都市ミュティレネがスパルタやボイオティアなどと同盟してレスボス島を統一しようと試みたが、あえなくアテナイに鎮圧されている。

紀元前431年第二次ペロポネソス戦争紀元前431年-紀元前404年)が勃発するが、テーバイはスパルタの忠実な同盟者としてアテナイと戦った。これに対してアテナイはプラタイアをはじめとする小規模な都市を支援してテーバイを苦しめた。

  • 紀元前427年、テーバイはスパルタと共に因縁の深いプラタイアを占領し破壊している。

紀元前424年にはデリオンの戦いで、テーバイをはじめとするボイオーティア軍はアテナイ軍を破り、テーバイの軍事的な実力が示されることとなった。

コリントス戦争

紀元前404年ペロポネソス戦争スパルタの勝利で終結し、アテナイには親スパルタの三十人政権が樹立された。テーバイの指導者たちは、スパルタが併合の意図を持っていたことを知り、スパルタとの同盟を破棄した。

  • 紀元前403年には、テーバイアテナイの民主制復活をひそかに支援し、スパルタに対する均衡をとらせようとしている。反スパルタ勢力に対してアケメネス朝からの資金提供も行われたことも一つの要因となり、テーバイコリントスとともに反スパルタ連合の核となっていった。

紀元前395年テーバイコリントスなどの諸国はスパルタとの間に戦端を開く(コリントス戦争)。テーバイはハリアルトスの戦い紀元前395年)やコロネイアの戦い紀元前394年)で軍事的な能力を示した。

  • 紀元前387年アンタルキダスの和約が結ばれ、すべてのギリシアの都市の完全な自治が明記された。この和約はボイオーティアの諸都市のテーバイからの離反を招くものであり、テーバイにとっては破滅的なものであった。

紀元前383年、スパルタは裏切りによって城砦を占拠し、テーバイの軍を削減した。

レウクトラの戦いとテーバイの覇権

紀元前379年ペロピダスエパメイノンダスが率いるテーバイ市民の決起が成功してスパルタ軍を追放し、テーバイはスパルタの支配から脱した。伝統的な寡頭政治の代わりに民主主義が導入された。

スパルタとの戦いにおいて、ペロピダスエパメイノンダスが率いるテーバイ軍は優れた戦果を挙げた。紀元前371年レウクトラの戦いで、エパメイノンダス率いる劣勢のテーバイ軍がスパルタ軍を撃破したことで、テーバイの軍事的な栄光は頂点に達し、テーバイがスパルタに代わってギリシャの覇権を握ることとなった。

しかし、テーバイの覇権は10年しか続かなかった。

  • 紀元前364年にはキュノスケファライの戦いペロピダスが戦死。

  • 紀元前362年マンティネイアの戦いエパメイノンダスら多くの将軍を失った。

エパメイノンダスに代わる有能な指導者を持たなかったテーバイは覇権を失い、復活したアテナイの後塵を拝することになる。そして第三次神聖戦争紀元前356年–紀元前346年)で、テーバイはアテナイ、スパルタなどと同盟したフォキスと戦ったが、中部ギリシャにおいて優勢を維持することはできなかった。テーバイはマケドニアピリッポス2世の助力を得ることでようやく勝利を手にしたが、この戦争はピリッポスギリシアでの勢力拡大へと繋がった。

マケドニアとの抗争

マケドニア王国のピリッポス2世は、覇権国家だった当時のテーバイに人質として暮らし、エパメイノンダスから教育を受けたとされる。

紀元前339年アテナイの指導者であるデモステネスは、反マケドニアの立場でテーバイを説得し、同盟を結んだ。紀元前338年カイロネイアの戦いで、ピリッポス2世とその子アレクサンドロスのちのアレクサンドロス3世)が率いるマケドニア軍と戦ったテーバイ・アテナイ連合軍は敗れた。この戦いで、有名な神聖隊も壊滅を遂げた。これにより、ギリシャに対するマケドニアの影響を排除する希望は失われた。ピリッポス2世はボイオーティアに対する支配権を剥奪するのみで満足した。

紀元前335年ピリッポス2世が暗殺されると、ギリシャの諸都市はマケドニアから離反した。テーバイはアテナイと結び、蜂起した市民はマケドニア軍を追放してアレクサンドロス3世に反旗を翻した。北方を転戦していたアレクサンドロスは直ちに反応してギリシャに急行。他の都市はアレクサンドロスの強行軍の前に抵抗をためらったが、テーバイは徹底抗戦を決めた。

結果、テーバイは蹂躙された。テーバイは徹底して破壊され、殺戮の中で生き残った住民は奴隷として売り飛ばされた。破壊を免れたのは寺院とピンダロステーバイ出身の紀元前5世紀の詩人)の家のみ、奴隷化を免れたのは聖職者と親マケドニアの指導者、ピンダロスの末裔だけであった。テーバイの末路に恐怖したアテナイは、マケドニアに屈服した。

その後のテーバイ

紀元前316年、カッサンドロスによって再建される。中世に入ると、東ローマ帝国のもとで絹織物の産地として発展を遂げる展開を迎えた。

かくしてアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)を滅ぼしたアレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)と、それに続くヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)が用意される展開を迎えたのです。