通史として一般に広まってるのはこんな感じ。
紀元前7世紀以降、アナトリア半島(トルコ)沿岸部のギリシャ人植民地はシロ・ヒッタイト諸国末裔のリュディア王国(古希Λυδία、英Lydia=リディア, 紀元前7世紀~紀元前547年)や、その所領を併合したアケメネス朝ペルシャ(古波𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš =ハカーマニシュ、古希Ἀχαιμένης=アカイメネース, 紀元前550年~紀元前330年)から圧迫を受ける様になります。
- アテナイは現地から逃亡した外国人の商人や陶工に積極的に市民権を付与する誘致作戦によって急速に拡大。紀元前6世紀にはアイギナ商圏から撤退すると同時にコリントスを中心とするドーリア人商圏を蚕食。
さらには4回に渡るペルシャ戦争(紀元前550年~紀元前449年)の矢面に立った。
- その武功によって東地中海の制海権を掌握するもペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)に敗退。以降「地中海の覇者」の立場に復帰する事はなかった。
全体像を俯瞰してみると「先行文化を模倣した成り上がり」感が強く、覇権達成期間も案外短いのです。
- 元来アッティカ地方にはケメライコス(希Κεραμεικός, Kerameikos)の様な伝統的陶工の里が存在開いていたものの(絵柄としては抽象的な幾何学模様が中心で)半人半蛇の守護神程度の伝承程度しか存在しておらず、陶器の絵柄としては最初ドーリア商圏で流行していた「英雄ヘラクレスの冒険シリーズ」を前面に押し出しておいて、それから次第に似せて編纂した「アテナイの伝説王テセウスの冒険シリーズ」に主軸を移していく(紀元前7世紀~紀元前6世紀)。
- 一方、本国においては紀元前8世紀成立のホメロス「イーリアス」「オデュッセイア」や紀元前7世紀成立のヘシオドス「神統記」「労働と日」等の口承文学が次々と文字化された。その過程で新たにアテナイにおいて都市国家の守護神として信仰される様になった女神アテナについての言及が忍び込まされたとも言われている(何しろそれ以前の文字化例が存在しないので検証は不可能)。
- ディオニューシア祭で上演されたアテナイ悲劇では、隣接するボイオキアの口承文学、所謂「テーバイ叙事詩環」から取材する事も多かった(ただしボイオティアとアテナイは敵対関係である事が多く「テーバイの王ペンテウスに対するデュオニュソスの復讐」「アルテミスの入浴を除いてしまったアクタイオーンの処刑」「父を殺し母と結婚したオイディプス王の自滅」「テーバイ攻めの七将の討死」といったテーバイ側を貶める内容が多い。また同様に敵視していたドーリア人と縁深いアプロディテやヘラクレスも基本的に良く書かれる事はなかった)。
ディオニューシア祭で上演されたくらいだから、実際にはエウリピデス「バッコスの信女(希Βάκχαι, Bakchai, バッカイ, 羅Bacchae)」以外にもデュオニソス信仰を扱った作品があったし、そればかりかアクタイオーン物やオルフェウス物など「死と再生を巡る神話」を扱った作品もあったが、それらは題名が伝わるのみである(アイスキュロス「プロメテウス四部作」も「縛られたプロメテウス(希 Προμηθεὺς Δεσμώτης, プロメーテウス・デスモーテース, 羅Prometheus vinctus)」だけが後世に伝わり「解放されたプロメーテウス」「火を運ぶプロメーテウス」などは散逸してしまった)。陶器の絵柄としては人気なのと対照的であり、ここに(当時の思惑だけとは限らない)ある種の編纂意図を感じる向きもある。
またペロポネソス戦争末期の作品では包囲線の窮状への不満を抑え込むべく女性に忍耐を強いる内容が増える一方で「アテナイの伝説王」として(ほとんどヘラクレスの模造品といってよい)テセウスや(元来はアッティカ地方の半人半蛇の守護神に過ぎなかった筈の)エリクトニオスの理想視が進んだ。
こうした文化の影響はドーリア商圏を越えてむしろ「最初の航洋ギリシャ人」ポカイア人商圏で広まった観があります。とりあえずテセウス柄の陶器がしばしばエトルリア人の墳墓やマッシリア(マルセイユ)近郊といったポカイア人商圏で発見される事だけは間違いありません。
また皮肉にもテーバイの文化は(考古学的史料を除き)ほとんどアテナイ文献のみを通じて後世に伝えられる形となったのです。
ただむしろ「紀元前1200年のカタストロフ」からの復興の一環として成立した「東方化様式文化の枠組み」に拘束され続けたドーリア人商圏に対し…
「アケメネス朝ペルシャの圧力を嫌って亡命してき外国人商人や外国人工房達が、その寄り合い所帯性ゆえに伝統を異にする工房同士が作風を競い合う様になって落款の概念が生じ、自由度が増して多要性が生じた」美術的画期をこそ評価する向きもあります。
コリントスで発明された黒絵式(black-figure)のポテンシャルを最大限に引き出して赤絵式(red-figure)に発展させたのもアテナイである。
アッティカの赤像式陶器はその誕生からわずか十数年後には、開拓者たち(Pioneers)と呼ばれる画家たちによって急速な発展を遂げ、その可能性を十分に発揮することになる。その構成の複雑さはそれまでの時代とは比べものにならないものだし、一つひとつの像をとっても解剖学的にきわめて細かな表現がなされていて、これまでほぼ定型化していた、顔は横向き、肩は正面、腰から下は横向きという姿勢を打破し、時には四分の三正面向き、果ては正面や背面の表現さえ試みられている。また画面を区切るパルメットやロータスなどの文様もアンドキデスの画家は黒像式のものをそのまま用いていたが、赤像式特有の文様が次々と生み出された。
こうした文化活動を主導した古代自由人の多くは恐らくペロポネソス戦争に伴う篭城(およびそれに同期したコリントスによる経済封鎖)を嫌ってそれぞれ脱出してしまい、それがアテナイの美術的全盛期の終焉となったと考える訳です。