「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】古代キレネの興亡

ポカイア人商圏」同様、歴史的言及から黙殺されているのがクレタ島経由でギリシャ人が到達したアフリカ北岸のキュレナイカ地方の古代キレネ(Cirene、現在はリビア無人の遺跡群を残すのみのシャッハト近郊)です。

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 正直「紀元前1200年のカタストロフ」期のリヴィア人(エジプトとカルタゴを結ぶアフリカ北岸のベルベル系住人)のエジプトにおける評判は恐ろしく悪かったのです。

エジプトにおける海の民の襲撃

古代エジプト最大のファラオとも言われるラムセス2世を輩出したエジプト第19王朝紀元前1293年頃~紀元前1185年頃)末期、エジプトにはマシュワシュ族リブ族と呼ばれる人々が定住しつつあった。彼らはリビュアキュレネからの移民であったが、エジプトの支配の及ばない地域であった。

当時の王、ラムセス2世はこれを警戒して砦を築くなどの対策を採っていたが、マシュワシュ族などは商業活動でエジプトと関係していたため、さほど問題は生じておらず、ラムセス2世ヒッタイトと激戦を交わしたカデシュの戦いの際には傭兵として後に『海の民』と呼ばれるシェルデン人(サルディニア人?)も参加している。

しかし、メルエンプタハ王が即位すると風向きが変わった。「イスラエル石碑」によるとエジプトで大規模な飢饉が発生したことで、メルエンプタハリビュア人らを追い返し、1万人近くを切り殺した。さらに非リビュア系シェルデン(サルディニア人?)、シェケレシュシチリア人?)、トゥレシュエトルリア人?)、ルッキ/ルッカ(アナトリア半島西南部に住んでおり、紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世に征服され古代ギリシア語を受容した古代リュキア人?)らの部族も侵入を開始したが、これら移民らの侵入は第20王朝ラムセス3世によってからくも撃退された。

しかし、ラムセス3世の治世(紀元前1186年/紀元前1184年頃~紀元前1156年/紀元前1155年/紀元前1153年頃)、さらなる問題が生じた。この問題はリビュアなどの西側ではなくヒッタイトシリアなど東側から生じた。これがいわゆる「海の民」による襲撃であった。ただし、この「海の民」は一部の部族のことではなく、少数民族が集まって部族連合を組織したものであったが、彼らはラムセス3世によって撃退された。これらについてロバート・モアコットによれば全ての部族がリビュア(ベルベル人)と関係しており、さらに少人数であったとしており、これらはリビュアに雇われた傭兵隊であった可能性を指摘している。

この感じ…「ヒクソス」や「海の民」の原イメージともいうべきカナン的海賊ロマンティズムを感じずにはいられない?

  • 紀元前7世紀ギリシャ人が移住して西地中海のフェニキア人商圏とエジプトを結ぶリビア地方の中心的都市として繁栄。ヘロドトス歴史」第4巻によれば紀元前630年頃、ティラ島のギリシャ人たちの植民都市として、地中海に面した北アフリカの港、アポッロニアから南へ16kmほどのところに建造された。苦境にあえいでいたティラ島の住民たちは、デルポイの神託に従ってこの地に移り住むことを決意したのだという。全ギリシャ都市との交易関係を維持しつつ紀元前5世紀には自分達の王の下で最盛期を迎え、紀元前460年には共和制に移行。アレクサンドロス3世(大王)の死後(紀元前323年プトレマイオス朝支配下に入った。

  • ヘレニズム時代には地中海世界における学術の中心の一つであり「アフリカのアテネ」という異名を持つほどであった。エラトステネスの生誕地であり、ほかにもソクラテスの弟子アリスティッポスとその娘アレテといったキュレネ派の哲学者たちや、カリマコスカルネアデス、キュレネのプトレマイスといった一連の哲学者を多く輩出した。

  • 紀元前96年までにローマ支配下に入り、紀元前74年には属州が創設された。紀元前67年にはキュレナイカ地方クレタ島が統合されて一つの属州となった。スッラの時代(紀元前85年頃)の都市住民は4つの階層から成り立っていた。市民、農民、外国人、ユダヤ人である。このうちユダヤ人は不安定なマイノリティを形成していた。キュレネの支配者アピオンは町をローマに譲ったが、自治は維持した。

  • この様にギリシャ語を話す相応規模のユダヤ人社会が存在し、帝政ローマ支配下のエジプトでユダヤ人が迫害された1世紀~2世紀にかけて同様にギリシャ語を話す亡命ユダヤ人の受け皿になったと考えられている。また同時期にはキプロス島サラミスコリントス同様、原始キリスト教の伝教が最も成功した土地の一つになったと考えられている。

     新約聖書使徒言行録 2章1~11節

    わたしたちの中には、パルティアメディアエラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤカパドキアポントスアジアフリギアパンフィリアエジプトキレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタアラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

    *その一方ではローマ統治下で多数派のギリシャ系住民と少数派のユダヤ人住民の軋轢が次第に酷くなり、ウェスパシアヌス帝の時代(西暦73年)やトラヤヌス帝の時代(117年)におけるユダヤ人住民の蜂起として噴出したりもしている。後者の暴動はマルキウス・トゥルボによって鎮圧され、多くのユダヤ人住民が殺された。

  • プトレマイオス朝の下ではユダヤ人住民は平等の権利を享受していたが、それ以降は次第に自治を行っていた多数派のギリシャ系住民に圧迫されるようになった。両者の緊張関係は、ウェスパシアヌス帝の時代西暦73年)やトラヤヌス帝の時代117年)におけるユダヤ人住民の蜂起として噴出。後者の暴動はマルキウス・トゥルボによって鎮圧され、多くのユダヤ人住民が殺された(カッシウス・ディオ『ローマ史』lxviii. 32)。エウセビオスに拠れば、暴動の勃発がリビアの人口の減少につながり、新しい植民都市の建設に結びついたという。暴動で破壊された町は、ハドリアヌス帝の時代に、ローマ建築に置き換えられる形で再建された。

またマケドニア属州のテッサロニキキプロス島北部のサラミスコリントス同様、原始キリスト教が信者獲得に成功した土地であったとされる。

 新約聖書使徒言行録 2章1~11節

わたしたちの中には、パルティアメディアエラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤカパドキアポントスアジアフリギアパンフィリアエジプトキレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタアラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

キュレネ衰退の原因の一つを主要交易品の枯渇に求める説がある。キュレネではシルフィウムという薬草(堕胎薬)が採れ、街の建設以来、主要な輸出品であり続けた。

  • キュレネで鋳造された硬貨のほとんどに、図案化されたシルフィウムが描かれている。金と同じ目方で取引されたというキュレネのシルフィウムのことは、ヘロドトスの『歴史』第4巻やプリニウスの『博物誌』に記述され、カトゥッルスの恋愛詩にも歌いこまれているが、紀元1世紀~3世紀頃の間に採れなくなってしまったものと見られている。その原因については諸説あるが、当時ブリテン島と同じくらい湿潤であったキレナイカが乾燥化したことを示す考古学的証拠が見つかったことから、気候変動によりシルフィウムがキュレネに自生できなくなったとする説が有望視されている。
  • キュレネは、カルタゴからアレクサンドリアまで続く、北アフリカの競争的な通商連合の一員であり、アポッロニアの港を有していたので、シルフィウムが採れなくなってもしばらくは中心都市としての地位を保っていた。しかし西暦262年デメテルとペルセポネの聖域が崩れるほどの大地震に街が襲われると、もはやその地位も失われた。西暦365年にも大地震で壊滅的被害を受けた。

4世紀にキュレネを訪れたマルケリヌス・アンミアヌスは、この街の見棄てられた様子を描写している。その100年後キレナイカに5つあった植民都市の一つであるプトレマイス出身のキリスト教シュネシオスは、キュレネのことを「遊牧民が我が物顔で行き交う広大な廃墟」と書いている。さらに7世紀にはアラブの征服を受けた。ヨーロッパ人による再発見は18世紀のことである。21世紀現在世界遺産の遺跡のあるエリアから北側の、地中海に面したところには、シャッハート村という集落がある。