全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義・世界主義とも。これに賛同する人々をコスモポリタン(訳語は地球市民)と呼び、その起源を遡るとアレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)とそれに続いたディアドコイ戦争(後継者戦争, 紀元前323年~紀元前281年)がオリエント世界を巻き込む形で生み出した「ヘレニズム世界」なる地域区分に辿り着きます。
- 古代ギリシャのディオゲネス(英Diogenes、希Διογένης, 紀元前412年?~紀元前323年)が初めて提唱。その背景には都市国家ポリスの衰退により「ポリス中心主義」が廃れた事とアレクサンドロス3世(大王)の世界帝国構想があった。
- 紀元前3世紀初頭にストア派のゼノンが「破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない」とし自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説いた事に由来し、しばしば「禁欲主義」と呼ばれるストア哲学では禁欲とともにコスモポリタニズムを挙げて人間の理性に沿った生き方を説いた。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
アレクサンドリアの世界帝国によってギリシャ都市文化は中央アジアまで広まり、共通ギリシャ語(コイネー)が東地中海の広い地域で使用さ れ、 ギリシャとオリエントという当時の西洋の二大文明が融合してヘレニズム文化が生まれた。この文化的土壌の中でスパルタ人やアテネ人、ペルシャ人、テーバイ人などと別れていた人類はだんだんと混淆し始める。こうして東地中海・オリエントにおいてコスモポリタンな世界ができあがってくる。「コスモ ポリタン」と言ってしまえば聞こえはいいが、実際は混沌と混乱の世界である。そこでストア派のゼノンらは、ポリス(都市国家)のそれぞれのノモス(慣習法)に従うよりも、世界的な自然法であるロゴス(理性)によって定められた世界共通の法に従って生きるのた方が良い、という思想を唱えた。これが系統立て られた世界市民(コスモポリテース)の思想の端緒である。自分の国に他者である異国人が増えてきた。そして彼らが自分の国の慣習法に従わない。そこで「ならば彼らを追い出そう、迫害しよう」と発想になるのではな く、今までのその国だけで通用してきた慣習法をやめて、普遍的な自然法に解決の道を 見出す、という発想だ。ストア派のロゴスの考えはこの世界が一体化しつつあったヘレニズム時代 が求めていた思想であるといえよう。
西欧の人間平等思想の源は古代民主制の影響もあるが、思想的にはストア哲学の理性重視の思想がある。すなわちいかなる人間にも(障害者を別にして)理性があって、適切な教育を行えばだれでも理性を発揮できるので、人間には本質的に区別はないという考え。
— kitagawa_a (@sawayakamihaeru) 2015年4月30日*「障害者を別にして」なる発想が、この観点に恐るべき優性主義を吹き込んでしまうのである。
ちなみにほぼ同時期(紀元前4世紀末~紀元前3世紀)に発祥し、「感覚に基づいた穏やかな快楽(アタラクシア)を求めることは正しく、必要以上に死を恐れたり不安に思ったりする事は無意味」と説き、しばしば「快楽主義」と呼ばれるエピクロス派もまた「過剰な快楽への耽溺は苦痛に転嫁する」と説明している。 - 近代ではカントが穏健なコスモポリタニズム的思想を打ち出した。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
カントは「永遠平和のために」の中で「自然の意図のようなものがないか、 を調べるしかなくなるのである。人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはできないだろうか」と問題提起している。そして自然の意図に従うならば、人類の理性は永遠平和を希求している。その永遠平和を達成するために国際的な平和連合を設立しなければならないと主張している。なぜなら人間の素質を人間が発展させて利用するには、発展のための仕事を人間ひとりひとりの個人では なく、人類という世界的な次元で行う他はない。というのは人間という生物の寿命が自分の素質を理解するには短か過ぎるので、個人が途中まで行った理性の仕事を人類が共有して何世代にも渡って継承し、完成させていかなければ理性は発展してはいかないと考えたからだ。ストア派のように世界的で普遍的な理性があるから全人類はそれに従わなければならない、とするのではなく、人間の中にある素質をお互いに発展させ合うために国際的な国家の連合体を作ろうとしたのだった。これはカントの、人間が互いを人格としてとらえて扱うことで互いの人格を目的として高めあっていくという「目的の王国」と近い思想なのかもしれない。
こうしたコスモポリタニズム的発想の発展的・急進的形態として世界国家構想が挙げられます。これは「人種・言語の差を乗り越えた世界平和には全ての国家を統合した世界国家を建設すべきである」という考え方に立って主張されたもの。現在においてこの構想に似た理想を掲げている組織はEUですが、EUはあくまでヨーロッパ圏内の統合を目指すものとされていて、世界国家或いは世界政府を志向するものではありません。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
「歴史上の世界市民(コスモポリタン)は「ディアスポラ(Diaspora, 郷土を喪失した人間)」であった。中には望んでそうなった者もいるが、多くのコスモポリタンは自分の望まぬ理由や、やむにやまれぬ事情によりコスモポリタンとなっている。なるほど「私は世界市民です」という言葉に人は何かしら憧れを抱かざるをえない。その憧れはその人が負っているだろう世界と言うものの広大さとその自由さ、そして自足できる逞しさに由来する。しかし実際はコスモポリタンとは祖国や都市、共同体、暖かい囲炉裏を失った悲しさや寂しさを胸内に秘めた人間のことであった。国家や共同体、家族の中でぬくぬくと育った人 間が望んでなるような生き方ではなかったのだ。
- シェイクスピアは史劇の世界では思いっ切り当時のイングランド人の愛国史観に迎合したので、心を自由に遊ばせるには国外を舞台に選ばざるを得なかったとも。そして最終的には土着的な田園喜劇の世界に到着する。
世界市民主義 コスモポリタニズム Kosmopolitismo
(逆に)シェイクスピアの劇の舞台はどこであったのだろうか? デンマーク、ヴェニス、ヴェローナ、スコットランド、アテネ、ローマ…そのほとんどがイングランドでは無かった。それでも彼は 英文学 を代表する作家である。小説や物語 の題材がたとえコスモポリタンなものや外国のものであってもその作家が優れた作家であれば、小説はその記述言語の共同体の特徴を出す、というのがボルヘスの主張である。村上春樹の小説は日本が主な 舞台だが、日本を際立たせるもの(寿司、富士山、桜、芸者、着物)はほとんど出てこない。彼が題材にするのはアメリカ連合州の音楽や文化、小説であり、彼の本は世界の多くの国で読まれている。しかしだからといって村上春樹はコスモポリタンな作家とは思えない。彼はあくまでも日本的過ぎるくらいに日本的な作家である。コスモポリタンな小説というのは真に土着的な文学なのである。
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日本文学についてはむしろ「瓶詰地獄(1928年)」「死後の恋(1928年)」といった夢野久作の幻想小説、「聖アレキセイ寺院の惨劇(1933年)」「失楽園殺人事件(1934年)」「黒死館殺人事件(1934年〜1935)」といった小栗虫太郎(1901年〜1946年)の衒学的推理小説や秘境での冒険を描いた「人外魔境シリーズ」を異国情緒あふれる日本的コスモポリタニズム小説として挙げるべきなのかもしれない。
軍国主義台頭を背景に当時の日本文学青年達は「自分たちの見知った日本の消失」にある種のメランコリズムを覚えていたとも。当時の幻想範囲は大日本帝国の帝国主義的展開の拘束下にあったが、その反動か戦後は中東や中央アジアや南米などに向かう。宮崎駿「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」。五十嵐大介「魔女(2003年〜2005年)」「海獣の子供(2006年〜2011年)」。そういえば「海外脱出した新左翼運動家が国際謀略の世界において日本人を代表して戦う」船戸与一のハードボイルド小説の主舞台もまた南米・中東・アフリカなどだった。
こういう人間の生き方の本質に関わる哲学的問題を、安易に陳腐な政治的イデオロギーと結び付けて考えてはいけません。しかしまぁ世界市民主義(CosmopolitanIism)の支持者の中に、そういうのを好む人達が混ざっているのもまた事実。例えばこんな具合に…
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第二次世界大戦後のアメリカ合衆国はグローバリズムを掲げて世界各国に政治的・軍事的に介入をしており、事実上世界政治に最も実行力を持つ政府であるが伝統的にはモンロー主義に代表される内向き・地域主義志向が強く、第一次世界大戦でモンロー主義から脱却した後も孤立主義的行動をしばしば採っている。
- それに対し、過去最もコスモポリタニズムを指向した国家はソビエト連邦といわれる。ロシア革命を起こしたボリシェヴィキは、ロシア革命を世界革命の発端として考えていた。しかし、ソ連が期待していた西欧諸国での革命は起こらず、ソ連もスターリンが実権を握った後は一国社会主義に傾き、コスモポリタニズム的な世界革命論を唱えたトロツキーは追放された。
アメリカのトロツキスト・グループから「ネオコン」と呼ばれる現在のアメリカの政治に影響力を及ぼしている新保守主義が生まれているという説がある。この点をもって、トロツキズムとネオコンの根は同一であると説く論者も存在する。これらはネオコンの創始者ともされるアーヴィング・クリストルが第四インターナショナルに所属していたこと、どちらも世界に武力を用いてでも理想(世界革命, 自由化, 民主化)を広めるという側面を根拠としている。しかし、ネオコンとトロツキズムとの「思想的連続性」という説についてはトロツキスト側から反論もなされている。
この様にトロッキズムは1930年代にアメリカ共産党に加盟した「ニューヨーク知識人」経由でネオコン(Neoconservatism、新保守主義)に継承され、1970年代から独自の発展をして主に共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えたとも考える向きも存在する。実際両者には貨幣の表裏の様な側面もあるのではなかろうか。「レーニンの直弟子」ムッソリーニがファシズム理論を構築し、これにしてやられた「グラムシの継承者」イタリア共産党がユーロコミュニズム理論を構築した様な、ある種の共依存関係が…
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帝国主義もある意味では世界国家を目指す動きであるともいえる。帝国主義はしばしば普遍的理想を掲げるが、その統合のやり方が「世界の人々を同胞として捉える」のではなく、特定(当該国)の国家や民族が絶対的優位に立ち、自国は他国をも膝下に統べる資格があると唱える統合であるため、通常コスモポリタニズムとは呼ばないが。
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しばしば誤解されるがアナキズムと同一ではない。アナキズムが政府を否定する考え方なのに対しコスモポリタニズムは国家や政府の存在を肯定している。
とりあえず文学方面の話題に留めるのが無難という結論に到達した時点で以下続報…