「段階的発展説」そのものにも歴史があります。
社会進化論は19世紀のハーバート・スペンサーに帰せられる。
- 思想史的に見れば、目的論的自然観そのものは古代ギリシア以来近代に至るまでヨーロッパには古くから見られるが、人間社会が進化する、あるいは自然が変化するという発想はなかった。
- しかしラマルクやダーウィンが進化論を唱え、スペンサーの時代にはそれまでの自然観が変わり始めていた。
スペンサーは進化を「一から多への単純から複雑への変化」と捉え自然(宇宙,生物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第一原理であると考えた。
- 自然は一定した気温でなく寒冷と温暖を作り、平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。
- 社会も単純な家内工業から複雑化して行き機械工業へと変化する。
- イギリス帝国が分裂してアメリカが出来る。
- 芸術作品も宗教の形態も何もかもすべてが単純から複雑への変化を辿る。
そして、こうした流れ全体を単なる雑多化ではなくより大きなレベルでの秩序形成とみなすのである。
- 未開から文明への変化もまた単純から複雑への変化の一つである。
- その複雑さ、多様性の極致こそが人類社会の到達点であり目指すべき理想の社会である。
- こうした社会観に立つあるべき国家像は自由主義的国家でしかあり得ない。
このような考え方が当時の啓蒙主義的な気風のなかで広く受け入れられたのだった。
スペンサーの段階的発展説
- 単純(画一的で貧相)
- 複雑(多様で豊か)
21世紀になってLGBTQA層が「男女の性別は離散的に存在するとは限らない」説明用に準備したQieer球の概念と比較すると統計学における「平均を中心とする分散(確率論的揺らぎ)」の概念が組み込まれていないので、全体像が何だか大変な事になってしまっています。
この楽観主義を「ホイッグ史観的」と揶揄する向きもあります。
またスペンサーの社会進化論は伝播の過程で変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったという指摘も受けています。
帝国主義という時代区分は概ね1870年代から第一次世界大戦(1914年~1918年)までとされる。我々はこの区分を世界政策の時代と把握し、その意味でそれ以前のより欧州中心主義的で自由貿易主義的だった時代、戦闘的膨張傾向の少ない、まだ全体としては国民国家的だった時代と区別しようとする。その一方でこの基準に基づいてそれに続いた全体主義的体制、ブロック経済の時代とも切り分け様とする。しかし歴史的時間区分とはあくまで便宜上の規定に過ぎず、実際の時間は常に連続して流れているものである。
社会学者で哲学者でもあるハンナ・アーレントは「全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism、1951年)」の中で「帝国主義というのは、ブルジョワジーが資本主義の競争・生産原理を政治の世界に持ち込む事によって起こった」と述べているが、これは帝国主義イデオロギーの核心を突いている。つまり軍事力に支えられた経済拡張という考え方で、今日我々が社会的ダーウィズム、あるいは政治的ダーウィズムと呼んでいる世界観とほぼ一致する。国家、民族、種族間の「生存競争」および強者の権利を指導原理として、いわゆる弱肉強食による自然淘汰を人間社会にも応用しようと思想傾向が広まり、社会的影響力を備えるに至ったのは他ならぬこの時代であった。
言い換えれば倫理的衝動、責任感、使命感、そして名誉欲といった要因が競争略奪の精神と奇妙な形で結びついて、それを推し進めたのである。そしてこうした動機がイデオロギーに擬結すると「白色人種の使命」とか「世界ミッションに対する揺るぎない信念」といった体裁をまとう様になった。無論こうした考え方の中にどれほど多くのいかがわしい魔力と政治利権が潜んでいるか、脱イデオロギー/脱神話化の教育を受けた読者諸賢に多くの説明は不要であろう。だからこそここではあえて、そうした使命感的イデオロギーが当時は熱狂と献身と信念に支えられ、実行に移されたという確固たる事実を指摘せざるを得ない。自分達は普遍的文明を東アジアに流布しているのだ、などという西洋人の人道主義的使命感は、もちろん純然たる実務家、現実的政治家、マルクス主義者にとって言語道断の暴論であろう。だが当時はそれが初めは素朴かつ強引なやり方で、後には反省の色を濃くしながら控えめに、ただし決して疲れ衰える事なく実践に移され続けたのだった。
何故ならこの原理は当時れっきとした科学理論に基づくとされ、その最盛期には実際に科学理論的性格を帯びていたからである。経済学、地政学、人類学、人口論、統計学などが帝国主義イデオロギーの形成に参画し、その正当性を理論付けた。国家と国民、君主と臣下といった言い方に変わって、次第に「生存権」「広域」「新天地」「中心地域」「場所不足」「土地獲得の必然性」といった言葉が使われだした。それまではロマノフ家とホーエンツォルレン家のやりとりとか、ペテルブルグ政府とベルリン政府の関係だとか、ロシアとドイツの外交といった事があれこれ取り沙汰されてきたが、19世紀に入るとやおら「東方政策」などという言い回しが台頭してきて世の中を席巻してしまったのである。
以下はWikipedia「社会進化論」の項目からの引き写し。
- 「ドイツに進化論を広めた功績で知られるドイツ人生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834年~1919年)は国家間の競争により、社会が発達していくという内容の社会進化論を唱えた」
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「英国の人類学者フランシス・ゴルトン卿(Sir Francis Galton,1822年~1911年)は、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学を提唱し、これは人種差別・障害者差別の正当化に使われた」
「本来社会進化論的観点から言及されたものではなかったが、ニーチェ思想が与えた影響も無視できない。ルサンチマン、超人、力への意志といった概念であるが、遺稿『権力への意志』は妹エリーザベトの反ユダヤ主義による恣意的な編纂の面が大きい。これらは後世のナチズムによって原義とは違った解釈がなされ、優生学的政策の他、ドイツの「生存圏」を拡げ維持する理論として展開された」
さらに複雑怪奇なのがアメリカへの伝播過程。後に(アメリカ共産党を脱会した)ホフスタッターがニューディーラー擁護目的で徹底して貶める展開を迎えます。