21世紀に入ると、マルクスの「上部構造論(我々が個人主義の拠り所としている自由意志は、その実社会的同調圧力に型抜きされた体制側にとって都合の良い既製品に過ぎない、とする立場)」を(本来はそれによって論破しようとした)ヘーゲルの論法で逆手にとったこうした論法を、さらに逆手にとった様な新たなマルチチュード(革命的大衆)理論が台頭してくるのです。
1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊
マキャベリによって最初に使用され、その後スピノザが用いた政治概念。最近では、パドヴァの革命家一族出身のアントニオ・ネグリと米国比較文化史学者のマイケル・ハートの帝国論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”や“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。
- 政治哲学者で元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授であるアントニオ・ネグリとデューク大学文学部准教授であるマイケル・ハートは、共著「帝国(Empire、2000年)」および「マルチチュード:帝国時代の戦争と民主主義(Multitude: War and Democracy in the Age of Empire、2004年)」において地球規模による民主主義を実現する可能性として「国境を越えるネットワーク上の権力」という概念を提唱した。
- ネグリによればこれは近代以降に登場した超大国の覇権によるグローバルな世界秩序である帝国主義に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家の国民や企業を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けられる。
- また、いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在としている。
*要するにここでは「移民が移民先国家を崩壊に追い込む事で達成される真の意味での国際協調時代」が予言されている。ただしこの枠組においては、欧州のムスリム移民をサラフィー・ジハード主義(Salafi jihadism)一色で染めあげようとしているイスラム過激派もまたファシズムやナチズム同様に「旧世代の役立たずイデオロギー」として排除されるのが興味深い。すると、カタルーニャ独立運動に反対してるスペインの急進左派ポデモスの立場は?
1975年の党大会で、エンリコ・ベルリンゲル書記長により歴史的妥協(Historic Compromise)の方策が提案された。この大会で、〈民主主義的、反ファシズム革命の第二段階〉と現状を位置づけ、当時の与党であったキリスト教民主党との提携によって政権を獲得しようと試みた。
それは、イタリア共産党がそれまで掲げていた、北大西洋条約機構(NATO)体制からの離脱という方針を放棄するものでもあった。1976年の総選挙で得票率34%を獲得したが、政権入りはならず、1977年にキリスト教民主党との協定も成立したが、やはり政権には加われなかった。
1991年2月、党名を〈左翼民主党〉と改め、社会民主主義の潮流に加わることになった。このとき、その方針に従わないグループは共産主義再建党を結成した。
ネグリは青年期には筋金入りの組織労働運動の活動家になっていた。とくに1956年のハンガリー動乱(マルクス主義陣営ではしばしばハンガリー革命とよぶ)のさなかに創刊された「クァデルニ・ロッシ(赤い手帖)」に参画したのが大きく、そのときからは公然と政治活動と表現活動にとりくんだ。
その第一弾がマッシモ・カッチャリらと携わった「クラッセ・オペライア(労働者階級)」創刊と「オペライア主義(労働者主義)」や「オペライスム・イタリアン(イタリア労働者主義)」の計画である。このときネグリはすでに「労働の拒否」というラディカルなスローガンを出している。
この「労働の拒否」を行動メッセージとした活動は、のちにネグリが「ビオス」という言葉でまとめたスタイルになっていく。ビオスは「生のスタイルをともなった活動あれこれのアクチュアリティ」といった意味だと思うのだが、そこにネグリは「知識と行動はともにビオスでなければならない」という付加価値をこめていた。これが「生政治性(ビオポリティーク)」の発芽になった。
フランスでも日本でもアメリカでもそうだったのだが、イタリアの学生運動が頂点で火を噴いたのは1968年である。翌年、トリノのフィアットの自動車工場で大争議がおこって労働者も大きく動き、これが連鎖してヴェネチアのそばのマルゲラ化学工場のペトロシミコ運動などとなって、大衆的な反乱状況を現出させた。
このなかでイタリア共産党も四分五裂して、多様な運動主体を演じる。平等賃金運動や代議制批判などの異質な動きも出てきた。この活動は日本でいえばさしずめ"反代々木"にあたる。ではそのころのイタリアの"代々木"はどういう状態にあったかというと、おぞましいことに共産党とキリスト教民主党が手を組んだのである。ネグリはそれを深層心理に戻してアブジェクシオンと言わないかわりに「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟」とよんだ。
"反代々木"の一角にいたネグリはただちに次のステップに踏み出した。1969年創設の「ポテーレ・オペラティオ(労働者の権力)」に参加し、その指導的役割をはたしていったのだ。これは当初はレーニン主義的な立場から労働者の組織化と武装蜂起を主張していたグループなのだが、大衆反乱の状況が出てきたことをたちまち反映して、スターリニズムとカトリシズムを野合させた代々木的な党中央を批判する急先鋒に変化していった。
けれども、ここがユニークなのだが、"反スタ・反カト"ではセクトに堕していくと判断し、「ポテーレ・オペラティオ」は1975年には自発的に組織(セクト)を解体し、労働者の自発性を重視する大衆的運動体をめざすようになったのである。ネグリはつねに新左翼セクトの党派性を求めるタイプではなかったのだ。これが「アウトノミア(労働者自治)」運動の出発となる。
アウトノミア運動のコンセプトはただひとつ、自治である。運動は一挙に高揚し、拡張していった。硬直体制化してしまった共産党の外部に多彩な活動を展開した。フランスでもそうだったのだが、イタリアでも自由ラジオを駆使し、工場や住宅を占拠し、まさにカルチャー路線から武断派までが入り乱れた。ネグリはすぐさまアウトノミアの理論的指導者ともくされて、『支配とサボタージュ』などの一連の政治文書を書きまくる。
柄谷行人さんは『世界共和国へ(岩波新書、2006年)』でネグリとハートのマルチチュード論を批判していた。
今回、読み直してみると、柄谷さんの批判は、ネグリとハートの「マルチチュード」論は、プロレタリア革命論のプロレタリアートを「マルチチュード」に置き換えたに過ぎないもので、その国家廃棄論はプルードンのアナーキズム(柄谷さんは「アナキズム」と書く)の過ちを繰り返すものに過ぎない、ということだ。
これがアナキズム(英:Anarchism、仏:Anarchisme、露:Анархизм) でないなら、それは恐らく世界市民主義(CosmopolitanIism)なのです。
こういう時代の中道左派政党は大変です。
われわれの主要な目的は、常に、危機をテコに政治の分野で中道に位置することだ。それは小市民的言説における政治的《中道》のことではない。グラムシの言葉によれば、われわれの目的は新しい《常識論》をつくりだすことだ。それは、近年再形成された政治的スペクトルの中でわれわれが横断的な立場をとることを可能にしている。
シウダダーノスの台頭は、伝統的な左翼・右翼軸というロジックの中にわれわれを位置づけることになった。こうした単純な二分法ではわれわれは敗北してしまうし、スペインに変化の可能性は存在しない。今日、危険なのはこうした左翼・右翼軸に投げ戻されてしまうことだ。これでは新しい中道を定義するのに失敗する。こうした情勢下で《下流の人々》と《上流の人々》(寡頭支配の)の対立をめぐるポデモスの庶民的な言説は、極左のありきたりな言説同様に解釈され直すことになる。というのもその言説はポデモスの言説から横断的な性格を奪い去り、新しい政治的中心を占める可能性を奪うからだ。結局、われわれは規格化されてしまうという危機―それは潜在的な原動力になるにだが―に瀕している。
目指してる落とし所は、むしろこっち?