紀元前地中海における商圏の争奪戦をまとめてみます。
①「紀元前1200年のカタストロフ」の結果、オリエント世界から大国の影響力が消失するとフェニキア人が地中海全域を商圏として手中に収めた。
②新アッシリア帝国の王ティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)登場を契機に紀元前7世紀前後に内陸部の多民族帝国が復活。レバノンの本拠地(レバノン杉の原産地)を叩かれたりして東地中海の制海権を(黒海沿岸やアナトリア半島沿岸に積極的に植民市を建設した)ドーリア人に奪われる。
- ギリシャ人はさらに「最初の航洋ギリシャ人」ポカイア人を筆頭にコルシカ島やシチリア島を含む(エルトリア人が割拠する)イタリア半島南岸、南仏(マッサレア(現在のマルセイユ)やプロヴァンス地方)、イベリア半島沿岸(アンダルシア地方やカタルーニャ地方)、ナイル河下流域などに次々と進出。
③紀元前6世紀~紀元前5世紀にかけては、さらにアテナイ人がドーリア商圏を蚕食。
④アレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)とそれに続いたディアドコイ戦争(後継者戦争, 紀元前323年~紀元前281年)によってオリエント世界を巻き込む形で「ヘレニズム世界 」なる新たな地域区分が誕生。
ここでいう「ドーリア人商圏」の中心となったのはあえてキプロス島経由でフェニキア人が伝えた「バーラト(女主人)/バール(男主人)信仰」を受容したコリントスだったのです。
- フェニキア人が奉じた女神がアスタロテと呼ばれたのに対し、コリントスが祭った女神はアフロディテと呼ばれた。
- フェニキア人同様に神殿宗教段階から一歩も出る事はなく紀元前146年に共和制ローマに完全破壊された。同時期カルタゴも破壊され、ローマ人による地中海制海権が確定する。
紀元前44年に再建されたもの入植したのはローマの解放奴隷中心で、やがてギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混住する様になってマケドニア属州のテッサロニキやシチリア島北部のサラミスやリビアのキレネ同様、1世紀~2世紀にかけてキリスト教の布教が真っ先に成功した地域となったのです。
古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。
使徒パウロは複数回コリントスを訪れている。1回目の滞在時、総督はルキウス・アンナエウス・セネカの弟のガリオであった(使徒行伝18:1-18)。パウロはこのとき18ヶ月コリントスに滞在した。2回目の滞在時、おそらく『ローマの信徒への手紙』が書かれた。