「フェニキア人(とギリシャ人)との対決なしに地中海覇者としての帝政ローマなし」なのですが、その結果が古代ローマ人に幸福をもたらしたかというと、必ずしもそうではない様なのです。
第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)の結果
ローマは初めてイタリア半島外の領土であるシチリア島を手に入れ、これを属州として統治するようになった。
また第一次ポエニ戦争から第二次ポエニ戦争までの間にカルタゴ領であったサルデーニャ島とコルシカ島も属州に組み入れた。こうした海外領土(とくにシチリア)は安価な穀物をローマに流通させ、食料供給を向上させる一方、自作農の窮乏を招く一因となっていった。
イタリア半島の農地は荒廃し、大規模農家が農地を集約させて商用農作物を奴隷に栽培させるきっかけともなった。
現代まで続くブドウ、オリーブなどのイタリア名産の農作物はこの頃に方向付けられている。
第二次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)の結果
イタリア半島に攻め込まれ、ローマ滅亡の危機にまで陥ったが、危機の中で元老院の指揮権を拡大させ、共和制末期の共和主義者達が理想視したような元老院主導体制が作られていった。
さらに、新たな属州としてヒスパニアを加え、ローマは西地中海の覇者として確固たる地位を得る事になった。
第三次ポエニ戦争(紀元前149年~紀元前146年)の結果
こうして強大になったローマの力を地中海世界に改めて示し、地中海を徐々に「我らが海」にしていった。
- その一方でシチリア、コルシカ、サルディーニャ、ヒスパニア、アフリカ(カルタゴ)をローマ属州化していく過程でローマ軍の主力であった中小の自作農は没落し、軍団の弱体化を招いてしまう。
- その一方で裕福な平民層(プレープス)は新たに獲得した利権を利用しさらに富を蓄え、従来の貴族(パトリキ)に合流して新貴族(ノビレス)と呼ばれる層を形成していく。
このような貧富の格差の拡大はローマに重大な社会不安の種として、以降の歴史に大きな影響を与えることになった。というより、かかる展開こそがローマが共和制に留まる事を不可能とし、帝政への移行を余儀なくさせたともいえる。
そう、まさにイスラム世界を代表する14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldūn、1332年〜1406年)が著した「歴史序説(al‐Muqaddima)」や世界史に当たる「イバルの書(Kitāb al‐‘ibar)」で展開するアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論において「バトウのハダル化」が冷徹なまでに淡々と「次なる破滅に向けて(概ね二百年単位三代を上限として)必然的に繰り返され続ける逃れられない悲劇」として叙述される世界。
「遥々バトウとしてモンゴルから遠征してきてイラン=イスラム文化圏でハダル化した(その途中過程では、政敵たるマルムーク朝との対抗上もあってキリスト教文化圏との連携まで検討しネストリアス派キリスト教徒の臣下をビザンチン帝国やローマ教皇庁やイングランド国王エドワード1世やフランス国王フィリップ4世の宮廷に派遣した)」イルハン朝(ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate, 1256年/1258年 - 1335年/1353年) のアイデンティティ再統合を巡る実存不安に満ちた悪足掻きは、モンゴル史部分(1307年)を当時の既知世界のあら歴史と突き合わせた稀有の歴史書「集史(ペルシア語: جامعالتواریخ Jāmi` al-Tavārīkh、アラビア語: جامع التواريخ Jāmi` al-Tawārīkh, 1314年完成)」を完成させ、その精神的自由度が後世のいわゆるサファヴィー朝(ペルシア語: صفويان Safaviyān, 1501年~1736年)第5代シャーアッバース1世(在位1588年~1629年)時代の「イラン文化ルネサンス」を準備した感すらあったりします。
一方、スンナ派イスラム王朝として同様に支配の正統性の乏しさに悩まされながら、その「バトウ的精強さの維持力」を武器にエジプトやシリアやヒジャーズを支配し続けたマルムーク朝(دولة المماليك Dawla al-Mamālīk, 1250年~1517年)もまた、アイユーブ朝(1169年/1171年~1250年)時代から続く「エジプトのカイロを新たなスンナ派イスラーム文化の中心地にする計画」を継承し、晩年のイブン・ハルドゥーンの招聘に成功しています。
*アイユーブ朝時代においても既に高名なユダヤ教徒哲学者モーシェ・ベン=マイモーンの招聘に成功し、サラーフッディーンとその子アル=アジーズの侍医となっている。
マルムーク朝最盛期は第10代(在位1293年~1294年)13代(在位1299年~1309年)15代(在位1310年~1341年)スルタンのナースィル・ムハンマド時代に訪れた。
2度の廃位と3度の復位という経験からスルターン権力の強化を慎重かつ柔軟に行なう。
- 複雑な税制整備やイクター制の整備、エジプト総督や財務庁長官(ワズィール)を廃止してその権限を回収するなどの改革を行なって内政改革に成功。
- 名臣といわれたアブ・アル=フィダを登用しイルハン朝の軍勢に勝利。
- 敵対勢力だったジョチ・ウルス、さらに宿敵のイルハン朝と外交的に和睦してその文化を導入。
晩年は奢侈に走って財政を傾かせた上、政権基盤強化について周囲の支持を取り付ける為に過度の恩赦を与えるなどしてマムルークの力を強大にしてしまった事が裏目に出始め、その没後問題が一気に噴出する。ムハンマドの息子達は有力マムルークやアミールの傀儡として利用されることになり、その結果ナースィル没後からブルジー・マムルーク朝に交替する42年間に彼の8人の息子・2人の孫・2人の曾孫(復位も含めてのべ13名)が相次いでスルターンに擁立されることになった。
1382年にスルターン・カラーウーンの一族をはじめとするバフリー・マムルーク(アイユーブ朝のスルターン・サーリフが購入したマムルーク)出身者で構成されるバフリー朝に代わってブルジー・マムルーク(チェルケス人で構成されるマムルーク)が大部分を占めるブルジー朝を創始したバルクークのスルターン即位直後、イフリーキヤ(現在のチュニジア、アルジェリア東部にあたる地域)の歴史家イブン・ハルドゥーンがエジプトを訪れた。翌1383年にハルドゥーンと面会したバルクークは彼の才能を認め、保護を約束。バルクークはハルドゥーンからハフス朝やマリーン朝などの北アフリカの国々の情勢と外交の情報を得、ハルドゥーンにマグリブ産軍馬の輸入について意見を求めたという。
1384年8月にはハルドゥーンをマーリク派大法官に任命したが、アレッポ総督ヤルブガー・アンナーセリーとマラティヤ総督ミンターシュのクーデター(1387年~1390年)に際してミンターシュが発行したバルクークに宣戦布告をする文書に署名した事から、イブン・ハルドゥーンら法官達を免職。
どうやらバルクークはハルドゥーンの御眼鏡に適う明君ではなかったらしく、実際後世に影響を与える様な目覚ましい実績は残していない。
- イクター制の再編成によってマムルーク体制を整えたて運河の開削・整備によって農業生産の向上をはかり、インド洋と地中海を結ぶ商業路を支配下に置いて東西貿易の利益を独占する。
- 個々のマムルーク達もイクター内の運河や水路を整備し、主食となる小麦の他、イランからイラクをへてエジプトに導入された砂糖キビ栽培を熱心に奨励。 カイロ近郊で自ら製糖工場を営むイクター保有者も少なくなく、エジプトの砂糖(スッカル=砂糖を意味する英語のシュガーの語源)がヨーロッパ向けの最も重要な輸出商品に数えられるようになる。
- 首都カイロにモスクや学院を次々と建設し、モンゴル軍によって破壊されたバグダードに代わるイスラーム文化活動の中心地とする。
さてこの辺り、ローマ人はどう振る舞ったのでしょうか?
フェニキア商人全盛期、その本拠地の一つだったティルスが地中海沿岸に築いた植民市の中で最も重要だったのが現在のチュニジア共和国にあったカルタゴでした。母市ティルスがアレクサンドロス大王の侵攻によって衰退してからは、地中海交易の中心地となりますが第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)敗戦を契機にシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島を喪失。さらに損失の埋め合わせに開拓したイベリア半島の植民市も第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)で引き渡さざるを得なくなってしまいます。
- イベリア半島進出も指揮した「第1次ポエニ戦争の英雄」ハミルカル・バルカ将軍の息子ハンニバルは、幼い頃父に連れられて行った神殿で「打倒ローマ」を誓ったという逸話が残しています。この彼が「第2次ポエニ戦争の英雄」となり戦術家としての名声を後世に残したのです。
- ローマへの奇襲を狙ってカルタゴ・ノヴァを出発したハンニバルの軍勢は、ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、そしてアルプス山脈を越えてローマに向かいました(ハンニバルのアルプス越え)です。アルプス越えの最中に雪崩に襲われるなど、決死の行軍となりました。その際、象37頭も引き連れていったそうですから、前代未聞、空前絶後の大作戦だったのです。およそ5万人の軍勢だったカルタゴ軍は、5か月かけてイタリア半島に辿り着いた時には半減していたと言いますから、その過酷さが偲ばれます。
- この第2次ポエニ戦争の最大の決戦は紀元前216年のことでした。これまた歴史に名高いカンネーの戦い(カンナエの戦い)です。ガリア人らの援軍を併せて5万人のカルタゴ軍は、8万人ほどのローマ軍と対峙します。多勢に無勢でしたが、将軍・ハンニバルによって鼓舞された兵士は勇敢でした。ハンニバルによって敷かれた陣形もローマ軍を大いに翻弄しました。終わってみれば8万人のローマ軍は7万人もの死者を出したと言われています。対するカルタゴ軍の死者は5700人。カルタゴ軍の圧勝でした。
- しかしカルタゴは、その勝利をうまく生かすことが出来ませんでした。その後、ローマの将軍スキピオによって形成は逆転。和平を模索し始めた本国・カルタゴはハンニバルに帰還命令を出します。憤慨しつつもカルタゴに帰還したハンニバルでしたが、そこにスキピオ率いるローマ軍が攻め入ってきます。ハンニバル軍とスキピオ軍は、カルタゴの近郊ザマで対決、カルタゴは再び敗北してしまうのでした(紀元前202年)。
この敗戦でカルタゴは再び大きなダメージを受けました。多数の戦死者や捕虜を出しただけではなく、またもや多額の賠償金を課せられ、軍備の大幅な削減も飲まされたのです。ところがカルタゴは逞しかったのでした。
もっともハンニバル自身は、1年後に最高政務官の任期が終わると、反対派に追い詰められ、ついにはセレウコス朝シリアに亡命することを余儀なくされてしまいます。
第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。
- ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げた。そして改革の結果賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。
- 続いて国力の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆にマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまう。
また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあったのでカルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」とローマに讒言し、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、亡命のためシリア王アンティオコス3世(在位紀元前223年~紀元前187年)の許へ走った。
- セレウコス朝ではアンティオコス3世の軍事顧問として意見を具申したともされ、シリアがローマとの戦争に突入した際、ハンニバルはシリア軍の参謀の一人としてローマと対峙したが若い指揮官や王に疎まれて意見は採用されず、エウリュメドン川の戦い(紀元前190年)でシリア軍将軍アポロニオスとの連携不足のために敗北。
セレウコス朝自体もマグネシアの戦い(紀元前190年頃)で大敗を喫して、アンティオコスは降伏を余儀なくされた。
- 確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルとの戦いを通じてその包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争(紀元前215年~紀元前148年)やローマ・シリア戦争(Roman–Syrian War, 紀元前192年~紀元前188年)に完勝する程強大な存在となっていたのである。
シリア戦争後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した。
- 暫くはローマ側もハンニバルがビテュニアへ留まっていたのを知っていたが、元老院の使者としてビテュニアを訪れたティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはビテュニア王(プルシアス1世)に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。
- これを察知したハンニバルは逃亡を図ったが、果たせずに自害。 奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている。
没年は紀元前183年/紀元前182年とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。
アンティオコス3世は「アレキサンダー大王の再来」の異名を勝ち取った東征(紀元前212年~紀元前196年)によって征服した各地の王を排除せず、宗主権を認めさせた後王位を保障して貢納と軍役の義務のみを負わせるという緩い征服体制を取ったことで知られる。
- これは専ら政略的判断によると考えられ、短期間に広大な領域を征服することが可能だったのはこの処置によって占領地の行政制度の確立や散発的な反乱を鎮圧する手間を省くことができた点にも支えられた。
- 無論、こういった宗主権下の各王達の権限は機会があれば排除することが試みられ、例えばアンティオコス3世が娘と結婚させたアルメニア王クセルクセスは、後にアンティオコス3世の策動によって暗殺されている。
- しかし、領内各地に半自立勢力としての王国を多数保存することにも繋がるこの方針は、ローマに対する敗北で軍事的威信が低下するやただちに征服地のほとんどが分離する原因ともなった。
皮肉にもこの東征の成功こそがに紀元前196年時点でトラキアにまで進行してきたセレウコス朝を警戒するギリシアの諸小国を第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)に勝利し地中海における影響力を拡大した共和政ローマ(既にポエニ戦争中からギリシアのアエトリア同盟との同盟関係自体は成立していた)に支援を求めさせローマ・シリア戦争(Roman–Syrian War, 紀元前192年~紀元前188年)による敗戦と、それによる東征の成果の喪失を招いてしまったのだった。
- アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れるとすぐにパルティアがセレウコス朝から離反。アンティオコス4世が遠征して勢力回復を図るも死去し、フラーテス1世やミトリダテス1世の下で勢力を拡大。グレコ・バクトリアを圧迫するとともに紀元前146年にはメディア地方を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。
- またアルメニアのサトラップ(太守、総督)アルタクシアスとザリアドレスもマグネシアの戦い(紀元前190年頃)以降、ローマ軍の賛同を得て独立を宣言。それぞれアルメニア王国(紀元前190年~紀元前66年)、ソフィーネ王国(紀元前190年~最終的にアルメニア王国が併呑)を建国した。
- また西部では紀元前142年にはユダヤ人の独立にも直面した(マカバイ戦争)。
- パルティアの攻撃によって紀元前141年にはセレウキアが、紀元前140年にはスサが陥落。メソポタミアがパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃にでたデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃。メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。
- これによって彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都アンティオキア周辺の僅かな領域を支配するに過ぎなくなる。この為、紀元前1世紀に入るとセレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。
紀元前83年にはアルメニア王ティグラネス2世の支配下に入るが、ティグラネスがローマの仇敵であったポントス王ミトリダテス6世と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官グナエウス・ポンペイウスがシリアをシリア属州とし、セレウコス朝の歴史はここに終了したのである。
シリア属州(provincia Syria, 紀元前64年~637年) - Wikipedia
東西交易や農業で栄え、多くの大都市を抱える、ローマ帝国内でも有数の豊かな属州であった。シリア属州の総督は、大きさや重要性の点でローマ帝国の中でも屈指の大都会アンティオキアに本拠を置き、パルティアとの国境地帯の要塞や軍団をにらんでいた。
- 主要な産物は穀物、オリーブとオリーブ・オイル、ワイン、レバノン杉などの木材、木造の船や木製家具、染織物、ガラス製品、陶器、羊皮紙、象牙で飾った細工物などで、特にスギなどの木材、紫色の染織物、ガラス製品などはフェニキア時代からの特産品であった。
- さらにシルクロードの終点であり、中国から運ばれる絹やインドから運ばれる香辛料など高価なものの多くがシリアを通じてローマに入った。
内陸にはアパメア、アンティオキア、ベロエア(アレッポ)、エピファニア、エメサ、ダマスカス、パルミラなどの交易都市や農業都市があり、地中海岸にはラオディキア、シドン、ティールなどの港湾都市があった。
第四次マケドニア戦争(紀元前149年~紀元前148年) - Wikipedia
共和政ローマによるヘレニズム諸国征服の端緒となった第三次マケドニア戦争(紀元前171年~紀元前168年)の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国(紀元前276年~紀元前168年)は消滅し、マケドニアは分割され4つの自治領から構成されることとなった。
それから約20年後の紀元前149年に「アンティゴノス朝最後の王ペルセウスの子ピリップス」と名乗りを上げたアンドリスコスがマケドニア王を名乗り、ローマからの自立を宣言した。開戦直後は幾つかの成功を収めたが、紀元前148年に入ってローマから派遣されたクィントゥス・カエキリウス・メテッルスがピュドナの戦いでアンドリスコス率いるマケドニア軍を撃破しアンドリスコスはローマ軍に捕えられた。
- ファランクスが用いられた戦史上最後の戦いとしても知られている。
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルスはこの功績によりマケドニクスの尊称を得た。
そして紀元前146年のローマ軍は2つの都市国家を破壊し積年の問題に決着をつけた。
- スキピオ・アエミリアヌス指揮下で遂行されたカルタゴ破壊。
- ルキウス・ムンミウス指揮下で遂行されたコリントス破壊。
アカイア同盟との戦争のためにローマ軍団を率いてペロポネソス半島へと遠征してアカイア同盟軍を破り、コリントスを陥落させると男は皆殺しにし、女子供は奴隷として売り払って市内の芸術品はローマへ送った。市内は徹底的に破壊され、コリントスは消滅。ギリシャはローマ属州アカエアとなった。
戦争から2年後の同年、マケドニアもローマ属州化される。
マケドニア属州(紀元前146年~395年以降東ローマ帝国に所属) - Wikipedia
初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治以降、長く平和的に繁栄。小アジアほどではないがローマ世界にとって経済的に重要な存在であり続けた。
- エグナティア街道が建設されたことにより、ローマ商人のための施設が作られ、ローマ人の入植地も築かれてますます発展。ローマ帝国の支配は、マケドニアに新しい街道と新行政制度を持ち込んだだけでなく、マケドニアに暮らすローマ人に階級を問わず好景気をもたらした。この地には豊かな農地と放牧地があり、奴隷制度の社会の仕組みの中で、大規模な地主は財産を蓄えた。
- 生産者階層の生活水準が上がったことが、この地域の技術者や工芸師を増やすことにつながった。さまざまな商売やものづくりの事業が増えて、石工や炭坑夫、鍛冶屋などが雇われた。またギリシャ人はローマ世界中で家庭教師や教職や医者として求められた。
- 輸出品目として最も多かったのは農作物や家畜で、その他にも鉄、銅、金をはじめ、木材や松やに、油、麻、魚などが輸出された。
さらに、属州内の港ディオ、ペッラ、テッサロニキ、カッサンドレアなどもこの属州に富をもたらした。
こうした領土拡大の過程でローマは(元老院が政治的イニチアシブを握る)共和制から(属州を統括する強力な支配権を有した皇帝が君臨する)帝政への移行を余儀なくされていきます。
共和制時代の「軍役も担う自作農集団」は、エジプトやシチリア島やサルデーニャ島といった穀倉地帯から運バレてくる穀物で暮らす「パンとサーカスを要求するローマ市民」に。そしてレパント交易はシリア属州に任せっきり…「何はともあれカルタゴは存続させるべき」派はこの展開を恐れていた?
ラティウム地方の交易地から出発したローマでは、地中海貿易を独占する様になった共和政末期から帝政初期に貿易が盛んとなり、ローマ人のほかにギリシア人、シリア人、ユダヤ人の商人がいた。また解放奴隷の多くは商工業で働いたため、ローマ商人のなかには解放奴隷が多かった(ローマ軍による徹底破壊後に再建されたコリントにフリギア帽を被った姿で集住したりしていた)。ローマ街道をはじめとする輸送網は軍事と貿易に活用され、大理石や穀物は国家管理に置かれつつも、実際には民間業者が請け負った。
- ローマの商人はメルカトルと呼ばれ、その中でも貿易商はネゴティアトルと呼ばれた。遠距離交易では調味料のガルム(魚醤)、ワイン、オリーブ油、陶器、穀物、塩、金属、奴隷などが運ばれ、ネゴティアトルにとって多額の現金を持つ各地の兵士は魅力的な顧客だった。商人には組合組織があって相互扶助が行われたが、企業のような組織とはならなかった。
- またローマには商業に対する蔑視もあり、紀元前218年のクラウディウス法で元老院議員が所有する船の大きさに制限を設けた。
*貴族の商業参加禁止自体は商業国家ヴェネツィアやフランドルの商業都市でも遂行されている。
海上輸送は紀元1世紀~2世紀に最盛期を迎え、その後は徐々に衰退した。
- ローマ帝国は西アジアでパルティアと絹貿易を行い、紅海からインド洋にかけては南インドのサータヴァーハナ朝と季節風を利用した貿易を行っており、 当時の様子が紀元1世紀のものとされる『エリュトゥラー海案内記』に記されている。
- 2世紀にはローマ人が東南アジアに到達して、扶南国の交易港であるオケオではローマの金貨も見つかっている。166年には後漢の桓帝が治める洛陽を、大秦王安敦の使節が訪れており、ローマ帝国からの使節とされる。
ローマ帝国はゲルマン人との間にリーメスと呼ばれる壁を建設し、その長さはスコットランドから黒海までの5000キロにもおよんだ。ローマ人とゲルマン人はリーメスをはさんで居住し、戦闘のほかに人の往来や交易もあった。ローマの物産が交易や略奪によってゲルマンに浸透するにつれ、その財をめぐってゲルマン人同士の争いも起きるようになる。ゲルマン人はマルコマンニ戦争(162年~180年)を起こし、やがて勢力を拡大した西ゴート族は4世紀からイタリア半島やガリアへと移住した。
だが実際の「バトウとしてのローマ人のハダル化」は、如何なる文明の適応として展開したのでしょうか?
- ユリウス・クラウディウス朝初代皇帝アウグストゥス(在位紀元前27年~紀元14年)の強い後押しを受けて世に出た詩人ウェルギリウスのラテン語叙事詩「アエネーイス(Aeneis, 紀元前29年~紀元前19年, 未完)」は「女神アプロディーテーとトロイアの王子アンキーセースの間に生まれた(帝政ローマ初代皇統ユリウス家の始祖)アイネイアースは、最終的にカルターゴー(カルタゴ)を治める女王ディードーの元を離れ(失意に駆られたディードーは自殺)、ラティウム(イタリア半島中央西部)の王ラティーヌスの娘ラウィーニアと結婚し新市ラウィニウム(後世ローマの一部)を建築した」という内容だった。ここでは「フェニキアを滅ぼしたローマ人側の葛藤」について、ある種の神話的解決が図られている。
- 一方、ユリウス・クラウディウス朝五代目皇帝ネロ(在位54年~68年)は(自分が滅した側という立場も弁えず)ギリシャ文化に耽溺。様々な悪評を残してしまう。
あ、何か日本のヤマト王権が「護国仏教」を求めた様に、帝政ローマが弾圧の末に真逆の「キリスト教の守護者」の立場に落ち着いていく流れが見えた様な…