「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】ヒッタイトとは何だったのか?

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ヒッタイトHittites, 紀元前16世紀~紀元前1180年

インド・ヨーロッパ語族ヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国王国とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある。

他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。また車輪のスポークを発明して戦車を改良したとも。

首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。

その呼称 

ハッティ (Hatti) の英語名で、旧約聖書ヘテ人Hitti, ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者アーチボルド・セイスが命名した。

聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、エズラ記』9章1節ユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節など)。

その起源

ヒッタイト (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説(アナトリア地域を故郷として広がって行った)という2つの説が提唱されているが、決着していない。

  • アナトリア仮説では例えばカッパドキア(古代にはタウロス山脈から黒海沿岸に至る広大な地域を指した。後には沿岸部が切り離されてポントスと呼ばれる様になる。青銅生産に欠かせない錫の産地でもある)辺りが発祥地の候補となる。

  • 近年、カマン・カレホユック遺跡トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。

その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイトを最初に「文明化」したのは アッシリア商人とも。

この頃以降になって,南メソポタミアでは初めて土地の私的所有を前提とした耕地の売買や〈タムカールム〉と呼ばれる一種の商業資本家を中心とした活発な商業活動がみられるようになる。

アッシリア商人の道

当時のアッシリア商人は、メソポタミアイラク)からユーフラテス河を遡り、シリア砂漠の東端を北上するとアナトリア高原に到る路を使って錫や織物をアナトリアに運び、アナトリアから金や銀を持ち帰る様になった。交易の相手は始めはボアズカレのハッティ人であり、後のヒッタイト人であったのだろう。

アナトリア南部から中部には多くの、アッシリアの交易植民市(カールム)が置かれ、交易を支えていた。この交易路を通じメソポタミアの文化がアナトリアに、アナトリアの貴金属がメソポタミアに運ばれた。これは古代オリエントに於けるシルクロードとも言えだろう。

ヒッタイト古王国

紀元前1680年頃クズルウルマック"赤い河"の意)周辺に建国され、後にメソポタミアなどを征服した。

  • ヒッタイト王の称号はラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。
  • またヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。

紀元前1595年頃ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ率いる第一バビロニア王朝/バビロニア王朝(紀元前1830年~紀元前1530年, アムル人が開闢)を滅ぼし、メソポタミアカッシート王朝が成立した。

ヒッタイト中王国

紀元前1500年頃に成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続く。

ヒッタイト新王国

紀元前1430年頃に成立。

紀元前1330年頃シュッピルリウマ1世がミタンニを制圧。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。

紀元前1285年頃古代エジプトとシリアのカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。

  • ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。
  • エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。
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ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパPuduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(紀元前1200年のカタストロフ)。

滅亡後

 ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年~紀元前700年頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

とりあえず、以下続報…