「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】ヒクソスがもたらした「戦車」、ヒッタイトがもたらした「車輪」

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エジプトの戦車は、シリア・パレスチナ地方からやって来たヒクソス人によって伝えられ、すぐに主要兵器として使われるようになりました。

エジプトの戦車の特徴

  • 2頭引きの2人乗り。4本(後に6本)スポークで小型の車輪が特徴。
  • 軽量化されており、とにかくスピード重視! (安定性・耐久性は×)
  • 初めは甲冑を着けない軽装の弓兵が投射台として使っていた。

とにかくスピード重視。4本(後に6本)スポークの小さな車輪が付いた戦車で、2頭の馬が引っ張ります。スピードが出せるよう軽量化され、中には重さがたった34キロほどしかない戦車もあった程です。

戦車に乗り込む兵士達も軽装です。彼らは甲冑を装備しませんでしたが、戦車が軽いため戦場で即座に反転することができ、スピードも出るため敵の弓兵からも狙われにくく、生存率は高かったといいます。

軽さを重視している分、安定性や耐久性に欠けていました。その為に戦車を量産する必要があり、また戦場には修理のための作業班も同行させなければなりませんでした。


古代エジプト軍 戦車を使った主な戦い

  • メギドの戦い(紀元前1457年):古代エジプト軍VSカナン軍…エジプト軍は1000両強の戦車部隊で突撃し、弓矢を放ってカナン軍を圧倒→エジプト軍の勝利!

  • カデシュの戦い(紀元前1285年):古代エジプト軍VSヒッタイト…世界最古の戦車戦。エジプト軍2000両ヒッタイト3500両もの戦車を投入→両者痛み分け。史上初の講和条約が結ばれる。

時代が下ると、エジプトでも他国と同じように戦車に盾兵が乗るようになります。甲冑や馬衣といった装備も使われるようになりました。

 

 それでは「ヒクソスHyksos)」とは?

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古代エジプト王朝の第2中間期紀元前1782年頃~紀元前1570年頃)と呼ばれる時代に登場しアヴァリス第15王朝紀元前1663年頃~紀元前1555年頃)を築いた人々。

  • トリノ王名表によれば6人のヒクソス王が108年間在位したと伝えられている。マネトの記録において第15王朝の王も6人とされており、一般に「ヒクソス」「ヒクソス政権」などと表現した場合、マネト「エジプト史」に従って第15王朝を指す。ただしマネト「エジプト史」がヒクソスの支配を6人の王による合計284年間とするのに対し、トリノ王名表は同じ6人の王による108年とする。マネトの記録した統治期間は明らかに過大であり、トリノ王名表の記録が現実的な値に近いとされている。いずれにせよヒクソス(第15王朝)に関する歴史史料はかなり限られ、個々の王の業績は明らかではない。

  • 第15王朝を大ヒクソス、第16王朝紀元前17世紀頃~紀元前16世紀頃)を小ヒクソスと呼ぶ場合もあるが、第16王朝については近年テーベ(古代エジプト語ネウト、現在のルクソール)のエジプト第13王朝の後継政権であるとする説も唱えられている。この説を提唱した考古学者のKim Ryholtはさらに第17王朝紀元前1663年頃~紀元前1570年または紀元前1580年頃~紀元前1550年頃)初期から中期までの王たちと末期の王たちは異なる家系に属しているとして、従来第17王朝と呼ばれてきたテーベ王朝の前半の約70年間第16王朝、後半の約30年間第17王朝とする新しい説を唱えている。また最初の王家が断絶したのは、第15王朝を中心とするヒクソスの勢力によってテーベが一時的に征服された為であるとするが、比較的新しいこの説は裏付けとなる証拠に乏しく、反対する研究者も多い。

やがて異民族の追放を掲げたテーベの第17王朝紀元前1663年頃~紀元前1570年または紀元前1580年頃~紀元前1550年頃)、第18王朝紀元前1570年頃~紀元前1293年頃)によってエジプトから放逐され新王国時代紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)が始まる。

  • テーベ政権たる第17王朝第18王朝は完全に連続した政権であるが、エジプト統一を成し遂げたイアフメス1世(在位紀元前1570年~紀元前1546年)以降は国力増大によって数々の大規模建築が残され、ヌビア、シリア地方に勢力を拡大し、オリエント世界に覇を唱えたので一般に分けて考える。また第18王朝時代には、女性としては初めてエジプトに実質的な支配権を確立したハトシェプスト在位紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)、「古代エジプトのナポレオン」と称されたトトメス3世在位紀元前1479年頃~紀元前1425年頃)、世界初の一神教ともいわれるアテン神信仰を追求したアメンヘテプ4世アクエンアテン, 在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)、黄金のマスクによって知られるトゥトアンクアメンツタンカーメン, 在位紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)など古代エジプトを代表する王が数多くこの王朝に属している。

  • 18王朝後半には王統が断絶したと考えられているが、最後の王ホルエムヘブ(在位紀元前1323年~紀元前1295年)がその混乱を克服し、宰相ラムセス1世を後継者に指名した。彼が第19王朝(紀元前1293年頃~紀元前1185年頃)を開き、新王国の繁栄はなおも継承された。

そしてこれ以降のエジプト史ではアナトリア半島を本拠地とするヒッタイトとの対決(紀元前1680年頃成立した古王国がメソポタミアに侵攻。紀元前1595年頃古バビロニアを滅ぼし、カッシート王朝バビロニアが成立。そして紀元前1430年頃に成立した新王国が紀元前1330年頃ミタンニを制圧し、 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで激突)が重要課題として浮上してくる。

その呼称

異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカウ・カスウト」のギリシア語形に由来する。ヘカウ・カスウトはしばしば「羊飼いの王達」などとも訳されるが、これは誤りである。

元来は字義通り外国人の首長、特にアジア人のそれを指す言葉として使用されていた。中王国時代に築造されたベニ・ハサンに残る墳墓には「異国の首長ヘカウ・カスウトアビシャイ」が37人のアジア人を率いてエジプトへ産物を運ぶ光景を描いたものがある。

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この単語が、エジプトを支配する異民族を指す呼称となったのは、実際にエジプトを支配するようになった異民族達がヘカ・カスウトの語を一種の尊称として使用するようになってからである。それまではある種の蔑称であった。

その起源に関する記録

ヒクソスによるエジプトの支配権確立の経緯について記す記録は、1500年後プトレマイオス朝古希Πτολεμαῖοι、Ptolemaioi、紀元前305年~紀元前30年)時代のエジプト人歴史家マネト(Manetho, 生没年不明,紀元前300年前後)がギリシャ語で著した「アイギュプティカ古希Αἰγυπτιακά / Aegyptiaca=エジプト史/エジプト誌。紀元前3世紀。古代エジプトの時代区分(「第○○王朝」)はこれに依る)」しかなく、それも断片的に伝わるに過ぎない。

また、ヒクソスによる支配からエジプトを「解放」したテーベ政権(第17、第18王朝)が残した記録にはヒクソス支配をして「アジア人の恐怖」と呼ぶものもある。

マネト「エジプト史」より

 「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」

  • この記録に登場するトゥティマイオスは恐らく他の史料に登場するドゥディメス1世の事であると考えられる。彼の名はゲベルアインルクソールの上流30キロメートルあたりの石碑から発見されている。彼を含む南部の王達は、ヒクソスに従属しながら統治するに過ぎなかったであろうと見られている。
  • マネトによれば下エジプトのナイル川デルタ東部を制圧したヒクソスの王サリティスまたはサイテス)はヴァリス現在のテル・アル=ダバア遺跡)を建設し、そこを拠点にエジプトを支配したと言う。
  • 彼らがエジプトを支配下に置いた時代は現在概ね紀元前17世紀中旬に比定されているが、ヒクソス時代の記録は乏しい。概ねエジプトに複合弓戦車新型の剣などを導入したという見解は広く受けられているが、考古学的な調査結果はこうした軍事的に優勢な異民族が大挙侵入してエジプトを占領したと言う見解を必ずしも支持しない。

カーメス王第3年の日付をもつテキストより。

 「(前略)人みな、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。」かくて、最高会議に侍る高官たちの応えて曰く、「照覧あれ、アジア人の恐怖はクサエにまで(及ぶ)」と。彼ら、一様に(=異口同音に)応えて、その舌ひきつりぬ(後略)。

<屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1,1998 中央公論社 p.456 及び、大城道則『古代エジプト文明』講談社選書メチエ p.59-62>

ヒクソスの王アピペは、テーベの王セケンエンラーに次のような手紙を送った。
「町の東の沼からカバを追い払うようにさせよ。それらが昼も夜も私の眠りを妨げるのだ。鳴き声が町の人々の耳を患わせるのだ」。

セケンエンラーには謎のような手紙の意味に気づいた。カバはアペピ王の支配を快く思っていないエジプト人を指しており、セケンエンラーに彼らを始末しろと言っているのだ。しかし同時にエジプトではカバは悪の象徴でもあり、カバを狩るとはこの世の秩序を保つ王の神聖な義務とされていた。もしセケンエンラーがカバ狩りを行えば、自分が正当な王だと宣言することになる。困ったセケンエンラーは名案がなく、家臣を集めて会議を開いたが…

これは後の第19王朝の時代の物語の断片で、結末は知られていない。ところが近年、テーベの近くの「王のミイラの隠し場所」からセケンエンラーのものと思われるミイラが発見された。彼は戦死したらしく、その頭部には致命傷となったと思われる傷が残っていた。その傷痕は明らかにエジプト製の武器ではなく、ヒクソスの都アヴァリスとされる遺跡から出土する青銅製の斧によるものだった。つまり、セケンエンラー王(ヒクソスから見れば地方の君主)はヒクソス王アピペの挑発に乗って戦いに踏み切ったが、戦死してしまったという、物語の後半を示していると考えられる。

  • ヒクソスは軍事力でもってエジプトを征服した異民族政権であるという見解は、このような古代エジプト人の記録に加えて戦車、複合弓といった「新兵器」の使用、そして上記のようなシリア・パレスチナ地方に起源を持つと考えられる習俗、人名などの存在によっているが、これに対して異なるヒクソス観を打ち立てる説が古くから出されている。
  • まず多くのエジプト学者が言及しているように、ヒクソスに関する古代エジプト人の記録は、ヒクソスからエジプトを「解放」した政権による政治宣伝や「アジア人」に対するエジプト人の蔑視、偏見が強く介在しており、信憑性に問題がある物が極めて多い。
  • その一方でヒクソスに関する同時代史料は後世のエジプト人による破壊のためにほとんど残されていない。
  • そして数々の文献史料や考古学的発見によって「アジア人」のエジプト移住が、第1中間期から継続的に行われていたことが判明している。
  • 学者の中には、ヒクソスによるエジプト支配は外部からの侵入によるのではなく、エジプト内部での単なる政権交代に過ぎないとする説を唱える者もあり、広い支持を得ている。実際に当時の僅かな記録からは、ヒクソス第15王朝)に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかとなっており、またヒクソスがエジプト文化を特に排斥した形跡も見つかっていない。むしろ逆にエジプトの伝統を数多く導入してその王は名前こそキアンとかアペピなどアジア風であるがファラオを称し、遺品に記された王名もエジプト式にカルトゥーシュ隅を丸めた枠)に囲んで表記されている。ヒクソスと同時代に彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは、それほど強く「異民族支配」を意識することは無かったともいわれている。
  • またテーベに成立していた第16王朝第17王朝もまたヒクソスの権威を一時的には承認していたと考えられている。これに関する証拠として、第15王朝の王キアンが第17王朝の首都テーベ近郊のゲベレインに神殿を建設していることがあげられる。またヒクソスの歴代王、特に後半の王達の名前を記したスカラベ等の記念遺物はヌビア地方などからも発見されている。

実際の統治

第15王朝はメンフィスまでを占領した後、アヴァリスを拠点にパレスチナからナイル川デルタ東部までの地域を直轄支配下に置いてエジプトを支配した。パレスチナ地方における拠点はシャルヘン(現在のテル・ファラ)であった。行政機構は中王国時代に形成された官僚組織を引き継いだと考えられ、エジプト人官僚が多く実務に携わっていた。他の地方に対しては諸侯を封じる一種の「封建体制」を敷いた。これら従属的な諸政権には貢納の義務を負わせて宗主権を行使したが強力な支配体制を敷いた痕跡は見当たらない。

 その正体について

エジプトを支配したいわゆる「ヒクソス」がどのようにして形成された集団であるのかは、エジプト学における未解決の問題であり続けている。

  • かつてエジプト学ヴォルフガング・ヘルクを始め、何人かの学者はヒクソスフルリ人を結びつけた議論を展開した。それは主に第2中間期の層から発見される土器が、北シリアで発見されるハブール土器やヌジ土器といったフルリ人と関連付けられる土器と同様の装飾を施されていたこと等を論拠としている。しかし、エジプト側で発見されている土器はハブール土器ともヌジ土器とも異なるタイプのものであり、ただ同じような装飾を施しているという点からヒクソスフルリ人の関係を想定するのは困難であった。またヒクソスの人名はほぼセム語系といってよく、言語学的にヒクソスフルリ人を結びつけるのも不可能であり、現在ではヒクソスフルリ人とを関連付けた説は退けられている。インド・ヨーロッパ系の民族であるという想定がなされたこともあったが、やはり過去の説である。
  • ヒクソスとの関係が明白なのは同時代のシリア・パレスチナ地方にいた西セム系の人々である。ヒクソスの人名には明らかに西セム語の要素(ヤコブ)が見られ、またヒクソスの時代と前後してアナトバアルと言ったシリア地方の神がエジプトに持ち込まれており、ヒクソスと「アジア人」の繋がりを想定させるものは多い。ロバの犠牲などの儀式が行われた事もわかっており、このような習慣はパレスチナ地方でも見られる。
  • ただしヒクソス時代の遺跡から発見される彼らの物質文化はレヴァントの文化とエジプトの文化の特徴が混合したものであり、神殿の建築や土器、金属加工製品の形式などはシリア、パレスチナ地方のそれと類似しているが同一ではない。

この様な観点から一般に「シリア・パレスチナ地方に起源を有する雑多な人々の集団」と目される様になったが、最近ではクレタとの関係が非常に注目されている。これはヴァリスの遺跡テル・アル=ダバア遺跡)で、クレタ島クノッソス宮殿に類似した「牛とび」を描いた壁画の破片が発見されたことと、クノッソスで発見された第15王朝の王キアンのカルトゥーシュ名を記したアラバスター製水差しの蓋の存在によって、ヒクソスクレタ文化圏の間に交渉があったことが明らかとなったためである。特にアヴァリスで発見された壁画は、単なる模倣というよりはクレタ文化圏の人々がこの時期のエジプトに移住していたことを示していると考えられている。

アジア人の移住

ナイル川デルタ地方におけるアジア人の移住は第1中間期から中王国時代には既に始まっており、第15王朝が成立するよりも前に、高い地位と権力を持つアジア系の人物が登場していた。またヒクソスによって建設されたという記録の残るアヴァリス市は、既に第12王朝時代には存在していたことが確認されており、実際の起源は第11王朝まで遡ると見る学者もいる。

ヴァリスの調査結果はアジア系の集団が権力を握る過程を考える上で重要である。

  • ヴァリスで発見された中王国時代初期第12王朝時代)の居住区は、センウセレト2世のピラミッド建設労働者達の都市カフンヘテプ・センウセルト)の居住区と構造が酷似しており、極めてエジプト的な都市であった。
  • この居住区は第12王朝2代目のセンウセレト1世時代には放棄されており、第12王朝後期頃に南西に新しい居住区が形成されたが、旧来の居住区と異なり住居の配置・構造が北シリアのそれと類似していることが明らかとなっており、シリア・パレスチナ地方の文化的影響を受けているのは確実である。またこの住居跡に付随する墓地からシリア・パレスチナ地方の武器が発見されており、この都市に多数のアジア系外国人傭兵が居住していたことがわかる。
  • 第12王朝末期頃の墓地からは現物の2倍の大きさを持つ人間の石製坐像が発見されているが、その独特の髪型と黄色く塗装された皮膚の表現などから、この像はアジア系の高官を表現したものであると考えられる。
  • 第13王朝時代には墓の前にロバを埋葬するシリア、メソポタミア地方と共通の習慣があったことが確認されるようになり、シリア地方のバアル神が崇拝されていた痕跡も残されている。このバアル神はエジプトのセト神と関連付けられ、第14王朝時代にはセト神がアヴァリスの主神となった。このセト神はヒクソスが崇拝した神であり、何らかの関連があるのは確実であると思われる。この時代には恐らくアジア系と見られる王も登場している。

このようにヒクソス(異国の支配者達)はエジプトの内部で勢力を拡大したアジア系の人々と関連性が強いと考えられ、エジプトの行政機構などは第15王朝に継承されたと考えられている。強大な異民族の集団が外部から侵入しエジプト国家を粉砕したと言う古代エジプト人の見解は、今日ではもうあまり支持されていない。

アジア人の宗教

アジア人の移住者達は、シリア・パレスチナ系の神々をエジプトに持ち込んだ。代表的なものは北シリア地方の嵐の神で船乗りの守護神であったバアル・ゼフォンである。この神がエジプトの嵐の神セトと同一視されたため、元来上エジプトの神であったセト神が下エジプト東部で強い崇拝を受けることになった。

ヒクソスの拠点となったアヴァリスでは、既に第14王朝時代セト神が主神となっていた。このことは第14王朝の王ネヘシに対する修辞の1つに「フト・ウアレトヴァリスの主、セト神に愛されし者」という表現があることから知られる。

葬制についてはより顕著にシリア・パレスチナの影響を見ることができる。というのは、この時期のアジア系の人物の墓では頭を北に、顔を東に向けるという伝統的なエジプトの埋葬法とは異なり、死者の頭を南にして顔を東に向けるという埋葬法が取られており、墓にはシリア・パレスチナ風にロバが副葬されているのである。

ヒクソスの歴史的意義

第2中間期、すなわちエジプト中王国が衰えた分裂期にとなった時期にエジプト史上最初の異民族支配王朝として登場したヒクソスは、その宗主権を認めながら戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓青銅製の刀や鎧などの軍事技術を学んだ第17王朝第18王朝に最終的には打倒され(ここからをエジプト新王国とするパレスティナに逃れるも3年後に最後の拠点シャルヘンも陥落して滅亡した。

こうした歴史の過程でエジプトはオリエント世界における孤立を放棄し、以降広範囲に渡って西アジアの国際社会と関わりを持つ様になっていく。

  • 実際、既にヒクソスのキアン王が手広く交易活動を行っており、彼に関連した遺物がミュケナイクレタ島)やアナトリア半島メソポタミアからも発見されている。またヌビアからも当時の遺物が発見されている。
  • 時期によってその内容が外交か交易か遠征かは変化したが第18王朝はヌビア、シリア、メソポタミアなどと積極的に関わった。
  • そしてその第18王朝から禅譲を受けた第19王朝の王統に至っては自らが「夷狄の神」セトを祀る神官の家系に由来するアジア系の一族であった事が知られている(ミイラのDNA調査結果もこの結論を裏付けている)。メソポタミア文明においてその支配階層が次第にシュメール人/アッカドから自然にアモリ人/カッシート人/カルデア人等に推移していった様な流れが古代エジプト王朝でも起こったといえる。

そう「ヒクソス」は敗退したのではなく、ある意味最後には勝ったのである。しばしばBlack Pharaohと呼ばれるエジプト第25王朝紀元前747年~紀元前656年)を建てたクシュ王国の支配階層についても古モンゴロイド系だったとする説があるくらいで(ただし人口不足から程なくネグロイド系を含む他諸族に併呑されてしまう。やはり始祖はアジア系だったと目されているブルガリア人が次第にスラブ系諸族に併呑され、気付くとコーカソイド系民族に変貌していた様に)、この時代のアジア系諸族は次第にその存在感を発揮する様になっていった。

そういえばここに登場するヒクソスの所業、旧約聖書においてペリシテ人が果たす約割とぴったり重なるのが気になります。

紀元前1200年のカタストロフ」に際してエーゲ海方面から地中海東海岸に進出した「海の民」の一派だった事が確実視されているペリシテ人は、ヒッタイトの滅亡後の製鉄技術拡散もあって強大化しガザなどの5つの都市国家ペンタポリス)を拠点に北部のヘブライイスラエル)を圧迫したという。

<山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.71> 

ペリシテ人職業軍人の重装歩兵が編成する強力な武器を持ち、鉄の武器と戦車軍団、および弓兵をその軍事力の基盤としていた。(旧約聖書)サムエル記によれば、ペリシテ人は鉄の精錬を独占してさえいたらしい。彼らは各地の拠点に守備隊を置き、征服地の実効的な継続的支配を図った。」

これに対抗してセム語系のヘブライはいくつかの部族に分かれて戦い、不利な戦いを強いられていたが、紀元前11世紀頃ダヴィデ王が各部族を統一してヘブライ王国を建国してペリシテ人に反撃し、これを打ち破った。旧約聖書の「サムエル記」には、ダヴィデがペリシテ人の巨人ゴリアテを投げ石で倒した物語がある。

そもそも戦車はシリア・パレスティナ地方で発明され、世界中に広まった訳ではありません。むしろ(古代日本の近畿地方において大阪湾が沼沢地帯化を経て大阪平野に変貌していった様に)灌漑農業によって広大な沖積野が現れたメソポタミア文明インダス文明圏、とりわけ「草原の道」が登場した中央アジアで発達したと考えられています。

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戦車自体を発明したのは紀元前2000年代メソポタミアに現れたシュメール人だったのではないかと考えられています。

シュメールの戦車の特徴とは?

  • 戦闘用というより輸送用。
  • 4頭引き(馬はいないのでロバが引いていた)。
  • 車輪は木製で、スポーク(車輪の中心から外周部に向けて放射状に伸びる部品)は付いていない。

主に輸送用として使われています。当時の車輪は大きな木を丸く加工しただけの重いものでした(スポーク付きの車輪を発明したのは、後に現在のトルコ付近で繁栄したヒッタイトの人々だといわれています)。また、シュメールでは馬がいないため、戦車を4頭のロバに引かせていました。

その後エジプトや小アジア、ヨーロッパ、アジアへと広まり、改良が加えられ兵器として活躍するようになります。

車輪は最古の最重要な発明とされており、その起源は古代メソポタミア紀元前5千年紀ウバイド期)にさかのぼり、元々は轆轤ろくろ)として使われていた。初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。木材の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした。

  • 北方のカフカースでは洞窟がいくつか発見されており、そこに紀元前3700年頃から、荷車などが使われていた痕跡が見つかっている。これはクラ・アラクセス文化紀元前3400年~紀元前2000年頃)の草創期にあたる。
  • 車輪のある乗り物(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と思われる最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年頃Bronocice potに描かれたものである。
  • 車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した。
  • 中国では紀元前1200年頃には車輪を使った戦車が存在していたことがわかっている。ただし Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年頃には既に中国にも車輪付きの乗り物が存在したという。東アジアで独自に車輪を発明したのか、ヒマラヤという障壁を越えて車輪が伝わったのかについては、まだ結論が出ていない。
  • ヌビアの古代遺跡でも轆轤や水車が使われていた。ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている。またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている。

車輪の発明は新石器時代のことであり、青銅器時代初期の他の技術の進歩と連携して語られることもある。これは農耕発明後も車輪のない時代がしばらく続いたことを意味している。

  • 古人類学では解剖学的に現代人と変わらない人類が生まれた時期を15万年前としており、車輪のない時代は14万3千年も続いた。その時代の人口はまだまだ非常に少なく、車輪を構成する車軸や軸受けは見た目ほど単純な装置ではなく、また車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。牛が家畜化されたのは紀元前8000年頃、馬が家畜化されたのは紀元前4000年頃であり、ユーラシア大陸ではこれ以降初めて車輪が真価を発揮するようになった。
  • また車輪を製造し釣り合わせるには車大工の技量を必要とし、車大工が職業として成立するには社会の成熟が必要だったし、また車輪が広く使われる様になるには、平坦な道路が必要だった。
  • でこぼこ道では人間が荷物を背負って運ぶほうが容易く、平坦な道路が存在しない未開発地域では20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。

地面からの衝撃を和らげるスポークのある車輪の発明はもっと最近で、それによって軽量で高速な乗り物を作れるようになった。

  • 現在知られている最古の例は中央アジアアンドロノヴォ文化のもので紀元前2000年頃である。そのすぐ後にカフカース地方騎馬民族3世紀に渡ってスポークを使った車輪のチャリオットを馬に引かせるようになった。彼らは(同時期の中央アジア乾燥化によって現れた黒海沿岸と中華王朝国境地帯を結ぶ「草原の道」を通ってギリシア半島にも進出し、地中海の民族と交流した。
  • ケルト人は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に鉄を巻きつけることを始めた。

それ以降、車輪は大きく変化することなく産業革命の時代(19世紀)まで使われ続ける。

そういえばインダス文明の都市遺跡ハラッパでは紀元前2000年頃のブロンズ製チャリオットと運転手が出土している。

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そして紀元前1500年頃には「戦車を駆るアーリア人がインドに侵攻。

どうやら戦車や騎兵の登場は「草原の道」登場と密接な関係がある様です。

  • 紀元前2000年頃より中央アジアの乾燥化が進行し、現地に残った集団の遊牧民族化と、そこで暮らすのを諦めた半農半牧の定住民の南下が加速したといわれている。かかる平坦な地形の登場と移動の必然性こそが車輪の進化を促した事が想定される。

  • メソポタミア文明が次々と南下してくる辺境民との政権交代を繰り返さざるを得なかった理由はまさにここにあったのかもしれない。

  • 南下してくるのは(中央アジアで政争に敗れた遊牧民族ばかりとは限らなかった。時代こそゲルマン民族大移動時代(紀元後300年代~700年代)まで降るが(単一民族ではなくイロコイ連邦的多部族連合だった事が明かとなっている)フランク人は明かに遊牧民族というより「移住を覚悟した半農半牧の定住民」の方の特徴を備えており、移動中に敵と邂逅すると荷車で円陣を構築し、これに立て篭もって防戦したという。

    そういえばヴァイキング時代800年〜1050年)におけるデーン人のイングランド侵攻(9世紀後半)は、それが単なる「北欧諸族の略奪遠征」だけでなくデーン人農民の移住も伴った事でデーンロウDanelaw)なる新たな特色ある地域を生み出した。
    同様にフランク族もまた単なる領主として君臨するだけで満足する遊牧民系諸族と異なり、同行する農民階層の移住によって西ローマ帝国滅亡(456年)を経てフランク王国興亡(5世紀後半~9世紀末/10世紀)に至る歴史の中で不可逆的な足跡を残したといえるのではないだろうか。良い意味でも悪い意味でもこうした歴史的プロセスは中央アジア史にしばしば見受けられる様な「テュルク(軍事闘争によって次々と交代していく遊牧民的支配階層)=タジー(政権交代に関わらず政治実務と地方支配を担い続ける現地有力者層)構造」の様な一過性の変化では終わらない。

    そういえば「紀元前1200年のカタストロフ」後の暗黒時代においてギリシャ文化圏では紀元前8世紀頃までに半農半牧生活への移行が進み、かつ歴史のその時点における人口爆発が(結果としてフェニキア人より黒海や東地中海の商圏を奪う形となる)植民市の大量建築の重要な動機付けとなった。「ドーリア人侵攻によるミケーネ文明の滅亡」なる即時征服仮説は既に放棄されて久しいが、かかる「移動を覚悟した半農半牧の定住民の散発的南下」が、漸進的に後世におけるギリシャ民族形成に至る現地の変容に大きな約割を担った可能性までは否定出来ないのではなかろうか。もちろん彼らは移住以前から(遊牧民族国家の武族的紐帯に該当する様な)自らを統合する独自の民族的アイデンティティを固有に備えていた訳ではなく、ミケーネ文明遺民やアナトリア半島のシロヒッタイト諸国より継承した伝承よりホメロスイーリアス」「オデッセイア」(紀元前8世紀頃)やヘシオドス「神統記」「労働と日」(紀元前7世紀頃)などを編纂し、祖先を英雄ヘレネスとする民族統合神話を樹立していったと推測されている。

戦車の車輪を改良したのはヒッタイトであり、その技術がヒクソス経由でエジプトにも伝わったとすれば、もう歴史のその時点でエジプトの鎖国は終わっていたんですね。それが確認出来た時点で以下続報…