「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【歴史区分】「百獣の王」誕生から「古代帝政の興亡」へ

案外生物界における「百獣の王」誕生から「古代帝政の興亡」に至る歴史にはある種の連続性が見て取れる気がします。

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01.人類以前

カンブリア爆発(5億4200万年前~5億3000万年前)から魚類誕生(約4億6000万年前~急激な進化が始まったのは地殻変動が激しくなった約4億2000万年前以降)までの時間区分

  • あらゆる思惟の大源流たる「視覚とそれを処理する脊髄」の歴史が始まる。その能力を最初に最大限発揮して「生物界初の百獣の王」となった肉食動物(Carnivore)/捕食者(Predator)のアノマロカリス(約5億年前)は、一説によれば巨大化(最大50cm前後)の末に食べられる餌を食べ尽くし(逆をいえば外殻や毒を備えたり地中に潜る事でそれを免れた生物のみが以降残った)絶滅を余儀なくされたという。

  • この様に「視覚とそれを処理する脊髄」の獲得が生存の必須条件とならなかった事が生物多様性(Biological Diversity)の原風景となる。かかる環境と共存する形で魚類誕生(約4億6000万年前~急激な進化が始まったのは地殻変動が激しくなった約4億2000万年前以降)から現生人類の誕生(20万年前)に至る歴史が構築されてきた。

02.「略奪遠征」時代

メソポタミア文明(紀元前4000年頃~紀元前4世紀頃)においてヒッタイト(Hittites,紀元前16世紀~紀元前1180年)とエジプト新王国(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)が衝突し「起源前1900年のカタストロフ」に至った。ある意味「種としてのアノマロカリスの興亡」の人類史上における再現の繰り返しの最初とも見て取れる。

  • 青銅器(武器,農具,祭器)を中心とする古代文明紀元前3000年頃、初期メソポタミア文明に位置づけられるシュメール文明(紀元前3500年頃~紀元前3100年頃)まで遡る。幾度も民族交代があったが、天文学や土木工事の技術を伝える神官団が指揮する大規模灌漑事業を主要食料源とする政教一致都市国家なる根本は継承され続ける。ちなみに青銅(Bronze)の合成には銅だけでなく錫も必要であり、それを産するイラン高原アナトリア半島においてアッシリア商人が交易網を構築した。

  • しかし(後にミタンニを建国する)フルリ人の影響下、この地にヒッタイト(Hittites,紀元前16世紀~紀元前1180年)が現れ、ヒクソス(紀元前1730年頃~紀元前1570年頃)支配下から抜けたエジプト新王国(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)と激しく衝突。たちまち(鉄器の工業生産力が鍵となる)戦車の大規模動員の時代となり、これに頼っての略奪遠征に支えられた両国経済が飽和点に到達した(国を富ませる略奪遠征の対象が尽きてお互いくらいしか標的がなくなってしまい、しかも両国とも疲弊して身動き出来なくなってしまった)時点で「起源前1200年のカタストロフ」が訪れる。

    遊牧民族色の強いフルリ人の建国したミタンニ(紀元前16世紀頃~紀元前13世紀頃,メソポタミア北部に割拠)や謎多きエラム(紀元前3200年頃~紀元前539年。イラン高原のザクロス山脈に割拠)やウラルトゥ(紀元前9世紀頃~紀元前585年,アナトリア半島東部のヒッタイト故地に割拠)がこうした覇権争いに参加出来ず、終始歴史上における脇役の立場に甘んじざるを得なかったのは工業化段階に到達出来なかったからとも。

    こうした歴史展開を背景に(平和裏に始まった筈の)アッシリアの変貌が進行。

03.「古代帝政」時代。

メソポタミア文明(紀元前4000年頃~紀元前4世紀頃)に「常備軍を略奪遠征で養うアッシリア帝国(紀元前744年~紀元前609年)が現れ、その諸制度をアケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)が古代帝政なる形に編纂。さらにマケドニア王国(紀元前808年~紀元前168年)がこれを滅ぼしてヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)が始まった。

  • この間にエジプト新王朝(紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)庇護下で成長を遂げてきたフェニキア商人(紀元前16世紀~紀元前146年)が「紀元前1200年のカタストロフ」を契機とする大国衰退期に地中海交易網を樹立。その東部は紀元前8世紀以降「東方様式」を特徴とするドーリア人交易圏に奪われ、さらに紀元前6世紀から5世紀にかけてはアテナイ交易圏がそれを継承した。メソポタミア史における「アッシリア商人の交易網時代を思わせるが(アケメネス朝ペルシャが黒幕として暗躍したとされる)ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)を契機にその経済的優位を失う。
  • また古代帝制が神殿破壊住民の強制移動によって都市国家祭政一致体制を破壊しようとしたので、これに抵抗する過程で「啓典の民」が現れた。

  • ヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)にはコスモポリタン(世界市民)思想が現れたが、それはオリエントの政治的歴史を反映して専制色の強い内容だった。世界主義イデオロギー(日常生活を包括的に説明する哲学的根拠)の発端とも。

最終的に古代帝制を完成させたのはローマ帝国(紀元前753年~1453年)であったが、その過程で共和制から帝政への移行を余儀なくされたし「東方の政敵」としてアルサケス朝パルティア(紀元前247年~紀元後224年)やササン朝ペルシャ(226年~651年)が存続し続けた。両国が紛争泥沼化によって衰退していく様は、まさに「種としてのアノマロカリスの興亡」の歴史の再来と見て取れなくもない。

  • 紀元前1世紀~3世紀にかけてシリア中央部のパルミラ(Palmyra)がシルクロードの中継都市として発展。その東西方向の谷間が地中海沿岸のシリアフェニキアと、東のメソポタミアペルシアを結ぶ交易路であり、かつシリア砂漠を横断するキャラバンにとっての重要な中継点だったからである。交易の関税により都市国家として繁栄しローマの属州となったこともある。

    2世紀ペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。

    人皇帝時代」にパルミラ帝国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかしローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年に陥落して廃墟と化した。

  • 当時はインドもまた交易によって栄えている。クシャーナ朝(1世紀~375年)は中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑え「文明の十字路」としての役割を果たしたし、2世紀以降南インドの諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄。この地ではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。1世紀初頭大乗仏教が興り、2世紀に龍樹(ナーガールジュナ)が「空の思想」を説き、これらがバラモン教と同時に南インドに伝わって天秤の時代(4世紀~5世紀)が準備される展開を迎える。

    グプタ朝(320年~550年)が北インドを統一し(アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した)北伝仏教も(南インドバラモン教と民間宗教が混合した結果生まれた)ヒンドゥー教も興成を極めたがエフタル(4世紀~6世紀)への対応に追われ滅亡を余儀なくされる。

また東ローマ帝国(395年~1453年)とササン朝ペルシャ(226年~651年)の戦争の泥沼化は6世紀から7世紀にかけてアラビア半島を代替交易路として繁栄させてイスラムを勃興させる。結果としてササン朝ペルシャは滅ぼされ、イスラム諸王朝(750年~16世紀)がそれに代わって繁栄した。

ところでここまでの歴史は中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)(文弱化した都市住民が部族的紐帯の強固な辺境民騎兵隊に征服され、かつ新たな支配者となった彼らも次第に文弱化して都市住民に変貌していく王朝循環史観)、すなわち「遊牧民族の様な蛮族が新たな王朝の開闢者となり続ける連鎖」が避けられない宿命を背負ってきた。これを乗り越えるには「火力の十分な発達」を待つ必要があったのである。

①強固なスペイン式野戦陣地に籠もったランツクネヒト(ドイツ傭兵)鉄砲隊フランス騎兵隊スイス槍歩兵の密集突撃を粉砕した「チェリニョーラの戦いBattle of Cerignola, 1503年4月21日)」。スペイン軍がイタリアに「常備軍ルシオTercio、スペイン方陣)を配備する契機となる。
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オスマン帝国の「常備軍イェニチェリ鉄砲隊サファヴィー朝イランのクズルバシュそれまで宗教的陶酔に浸っての乗馬突撃で無敵を誇った騎馬軍団)の乗馬突撃を粉砕した「チャルディラーンの戦いBattle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも。1514年8月23日)」。この敗戦を受けてサファヴィー朝イランも「火砲を十分に備えた常備軍歩兵」を主力に切り替えるが、次第に辺境民の反乱を押さえ切れなくなり滅亡。イブン=ハドゥラーンの循環史観の超克にまでは至らなかった。

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  • ちなみに「近衛兵団=常備軍」として編成されたイェニチェリ隊は既にニコポリスの戦い(1396年9月25日)においても馬防柵などを巧みに用いた野戦築城技術でフランス騎兵隊の密集突撃を阻み、逆にこれを殲滅している。f:id:ochimusha01:20200712111359p:plain

③同じオスマン帝国イェニチェリ鉄砲隊がエジプトのマムルーク朝が擁する(モンゴル騎兵隊すら破り、それまで無敵と恐れられていた)戦奴騎兵の乗馬襲撃を粉砕した「マルジュ・ダービクの戦い(1516年)」。マルムーク朝滅亡の契機となる。

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  • ちなみに前後してポルトガルフランシスコ・デ・アルメイダ率いる最新鋭艦隊が旧態依然のマムルーク朝海軍にインドのディーウ沖で圧勝した「ディーウ沖の海戦(1509年)」も起っている。
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  • しかし残念ながらイェニチェリは17世紀以降守旧派勢力に転落してむしろオスマン帝国近代化の阻害要因へと変貌してしまうのである。

    イェニチェリはオスマン帝国の常備歩兵軍団であり、かつてはスルタンの強力な親衛隊としてヨーロッパの恐怖の的であった。しかし17世紀以降軍紀が乱れ、無頼集団と化し、しばしば暴動を起こすようになる。しかも既得権化した利益を求めて縁故でイエニチェリになるものも増え、軍隊としては弱体化した。19世紀ごろからイエニチェリに代わってロシアなどの外敵と戦ったのは、地方名望家層であるアーヤーンが負担した軍役であった。

戦象1,000頭を含む100,000人以上の大群を擁する北インドローディー朝を、12,000人程度の動員数ながら鉄砲や大砲を有効活用した(ティムール 帝国皇統の末裔たる)バーブルの軍勢に敗れムガル朝(1526年)創始につながった。ただしこの王朝はインド諸侯を解体して中央集権的体制に改変するのには失敗し、最終的に最英帝国に併合されてしまう。
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模倣とはいえ、模倣可能な環境が既に準備されていた辺りが当時の日本の恐ろしさ。何しろ15世紀中旬の鉄砲伝来と実戦での初投入(1550年の中尾城の戦い)からこの時代までに国産化が進んで保有火砲数が全体でオスマン帝国のそれ並みに膨れ上がっていたのです(その総攻撃を受けた明朝が疲弊して滅亡する展開に)。この状態を可能とする為に各勢力が工夫した「最終的には中央集権化に向かう断片的試行錯誤」が日本の近代化を準備した側面まで否定しようとは思いません。

むしろ歴史上重要なのは、当時の日本が天下統一によって当時のアフリカの様に「欧州列強から供給される鉄砲と火薬で無限に戦争を続け、支払いに戦争奴隷を供給し続ける国際的奴隷売買ビジネスの一環」に組み込まれる事態を危うく回避した事(特に九州における勢力争いや1592年~1593年の文禄の役、1597年~1598年の慶長の役はヤバかったという。特に後者二つは当時の国際奴隷市場における奴隷売価を1/3に暴落させた逸話を有する)。まずこの時点で躓いていたら、そもそも「日本に近世は存在したか?」みたいな呑気な設問自体が存在し得なかった訳なんです。

こうして全体像を俯瞰してみると「百年戦争(1337年/1339年~1453年)に端を発するイングランドとフランスの主権国家化に火砲が関与してくるのは殆ど最終局面(しかも攻城戦が主で野戦も活用される様になるのはまだ先)」といった史実も含め「近世的展開」と「騎兵の乗馬突撃の鉄砲隊による粉砕」の相関性は(確かに「あえてバトウの状態を維持し続ける事で」当時最強を誇ったイランのサファーヴィ朝やエジプトのマルムーク政権を粉砕しイブン=ハドゥラーンの循環史観を断ち切った意義こそあるものの)存外高くないのかもしれません。ただ「十分な火力を備えた常備軍だけ編成しても、中央集権的統制が定着するまで戦い続けないと途中で腐って近代化に役立たない」なる観点自体には相応の妥当性もある様に見受けられます。

この様に「十分な火力と機動力を備えた常備軍」自体はオスマン帝国ムガール帝国にも現れたのですが、それが欧州の様に「(国家の体裁を保つのに十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍や警察を中央集権的官僚制による徴税で養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)の国際協調」に発展する事はなかったのです。それらの国々では平和獲得後に中央集権的官僚制が徴税によって常備軍を養う動機を失い、地方が「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」に回帰するのを防げなかったのでした。