「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「アンジュー帝国の最後を看取った女傑」アリエノール・ダキテーヌ

まぁこの物語の事実上の主人公…

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冬のライオン(The Lion in Winter)」は1966年初演のブロードウェイの演劇作品。1999年にはリバイバル上演されている。また1968年にイギリスで映画化され、2003年にはアメリカ合衆国でテレビ映画としてリメイクもされた。

1183年クリスマスのシノン城を舞台に、中世のイングランド国王ヘンリー2世と王妃エレノア、その3人の息子とフランス王を絡め、権力と人間関係を巡る愛憎を描く。

歴代のエレノア役を演じた女優が常に絶賛されて様々な賞に輝く一方で、フィリップ役には将来が有望な新鋭の美男俳優が起用されることでも話題になる作品である。

「ヨーロッパの祖母」アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, オック語: Alienòr d'Aquitània, 1122年~1204年)

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中世フランス王国の女性貴族でアキテーヌ女公(在位1137年~1204年)。フランス王妃イングランド王妃でもあった。アキテーヌ公ギヨーム10世アエノール・ド・シャテルローの娘でギヨーム9世の孫。はじめフランス王ルイ7世の王妃、後にイングランド王ヘンリー2世の王妃。

  • 祖父ギヨーム9世トルバドゥール(詩人の一種)で知られる一方、多情で奔放な人物だったと記録される。トゥールーズ伯領を狙い2度占領する一方(いずれも失敗)、1101年の十字軍に参加して惨敗したかと思えば、保護されたアンティオキア公国で詩作に目覚めてトルバドゥールとして開花、官能的な詩や理想の恋愛を書いた詩などを作り出して有名になった。
  • 更に教会との紛争でも悪名高く、1114年に教会の徴税特権を妨害したことで破門されると、破門宣告したポワティエ司教に向かって剣を振りかざして脅したり、翌1115年にダンジュルーズとの不倫で妻フィリッパから教会へ訴えられて再度破門されると、宣告した別の司教に痛烈な皮肉で返し不倫生活を続ける有様だった。
  • ただし晩年になると魂の救済に関心を向け、1126年に没するまで改心して放蕩生活に決別、昔日の面影は感じられなかったという。

当時のアキテーヌ公領はガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス全土の3分の1近くを支配していた。アキテーヌは宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心地だった。アリエノールはその雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時の女性としては高い教育を受けて育った。

  • しかしながら、祖父の時代に繁栄した宮廷は父の時代には縮小し、アキテーヌ公家は政治的・経済的に凋落傾向にあった。
  • アリエノールは父について領内を周り、政治にも自然と関心を持つ。ギヨーム10世の裁可した特許状には、幼いアリエノールのサインも残されている。また父から溺愛されていたという。

母と弟ギヨーム1130年に早世したため、アリエノールは8歳で大領地の女相続人となった。母を失ったことで、母方の祖母ダンジュルーズや父方の祖母フィリッパの情熱的で大胆な生き方に強い影響を受ける。また相続人として、周辺各国から大いに関心を集め、傲慢な性格が形成された。

  • 1130年父はローマ教皇インノケンティウス2世の対立教皇であるアナクレトゥス2世を強く支持し、宗教界だけでなく一般社会にも衝撃を与えたため、クレルヴォーのベルナルドゥス修道士に強く諫められる事態となった。しかし、ベルナルドゥスとの会見を反故にしてインノケンティウス2世派の教会を破壊し支持者を追放したため、破門される。
  • 5年後の1135年、再びベルナルドゥスとの会見に臨むと、父は明らかに改心し、老いの兆候が顕著に現れていた。

アキテーヌ公領をアリエノールが相続することは法的に可能だったが、フランス国王の臣下として40日の軍役義務があり、かつ広大な領地を野心ある諸侯に囲まれ、女性1人でアキテーヌ公領を維持するのは困難と考えられていた。

  • ギヨーム10世には弟レーモンがいたが、現在は第1回十字軍が聖地に建設した十字軍国家の1つであるアンティオキア公国の君主であった。
  • また、ギヨーム10世には庶子の男子がいたが、継承権はなかった。そこで嫡出の男子を得るため、1136年リモージュ伯エイマールの娘エマとの再婚を画策する。しかしエマリモージュの相続人であることから、南仏貴族達の反発にあいエマアングレーム伯ウルグリン2世と結婚させられた。さらに、アンジュー伯ジョフロワ4世に加勢してノルマンディー侵攻を試みるが失敗し、ギヨーム10世は塞ぎ込むようになる。

父の様子に対し、アリエノール妹ペトロニーユ社交界を取り仕切るようになった。14歳になり結婚適齢期を迎えたアリエノールは、容姿を「世界の薔薇」と讃えられ、宮廷での恋愛遊戯を楽しむようになった。

当時のフランス王室カペー朝は、未だ王権が強固でなく直接の支配は王領のみに限られていたのに対し、アキテーヌ公家は広大な領地に加え、多数の有力貴族を臣従させていた。アリエノールの後見人となったルイ6世は、彼女の夫に自分の息子のルイ王太子を選び、婚姻によってアキテーヌを手に入れて王権を強固にさせようとしたのである。

  • ルイ王太子は次男として誕生し、聖職者となるべく教育を受けていたが、兄フィリップ1131年に急死したため、王位継承者となった。1137年6月18日ルイ王太子は十字軍遠征に匹敵する規模の行列で、ボルドーに向かう。ルイ6世の従弟のヴェルマンドワ伯ラウル1世ブロワ伯兼シャンパーニュ伯ティボー4世、ルイ6世の学友でありパリ郊外のサン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂の修道院長でもあるシュジェールが従い、ルイ6世は若い王子に王太子としての振舞いについて細かい注意を与え、シュジェールを通してアリエノールとの接し方を教えようとした。

  • 7月1日王太子一行はアキテーヌ領内に到着する。11日ボルドーに到着したルイ王太子と対面したアリエノールは、その頼りなげな姿に落胆するものの政略によって人生が急変した点においてルイに共感した。しかし、アキテーヌ公家(ポワティエ家またはラヌルフ家)に比してカペー家の歴史は浅く、アキテーヌ公領の方が遥かに豊かで広大であることから、驕った考えを持ち内心でルイを見下していた。
  • 25日ボルドーのサン=タンドレ大聖堂で結婚式が挙行、続く大宴会で1000人も招待され数日間賑やかに催された。8月1日アリエノールルイ王太子がポワティエ入りしたその日ルイ6世が危篤となったため、王太子夫妻はパリに急行してルイ6世の葬儀を済ませ戴冠式も挙行する。こうして夫妻は結婚とほぼ同時に国王ルイ7世王妃アリエノールとなった。

父の死から4ヶ月足らず、アリエノールは15歳でフランス王妃となった訳である。

  • 南仏アキテーヌの女領主として育った陽気なアリエノールと、修道院育ちであり生真面目で信仰心の篤いルイ7世は性格が合わなかった。後に離婚した際にアリエノールルイ7世のことを「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言ったといわれる。しかしルイ7世の温和な性格から、不仲は表面化しなかった。
  • 2人の間にはマリーアリックスの娘2人が生まれたが男子をもうけることは出来なかった。

パリで王妃になってからアリエノールは宮廷でしばしば問題を引き起こした。

  • ルイ7世への強い影響力が周囲の懸念になり姑アデル・ド・サヴォワルイ7世を巡って衝突した。アリエノールが南フランスの文化を北フランスの影響が強い宮廷へ強引に持ち込んだことも両者の対立が深まりアデルは宮廷を出てマチュー・ド・モンモランシーと再婚、パリ郊外のコンピエーニュの城に引き籠った。
  • シュジェールも宮廷に来なくなり、アリエノールが我が物顔に振舞い始めたが、宮廷の北フランス貴族たちとアリエノールの育った文化の違いが露になり両者は互いに軽蔑、ルイ7世も南フランスの文化に馴染めず修道士の如く勉学と祈りに打ち込んだ質素な生活を送り、夫婦の嗜好の違いが現れ始めた。
  • 宮廷で退屈を持て余したアリエノールはパリで盛んだった学問に興味を示し、ピエール・アベラールとエロイーズの恋愛に強く惹かれていたという。一方で窮屈な宮廷生活が疎ましくなり、性に貞淑な夫にも満たされない思いを抱き、孤独に苛まれていった。
  • 即位直後にポワティエ伯(アリエノール)からの独立を唱えたポワティエにルイ7世が遠征、この軍事行動は死者を出さずに平定したが、自治都市宣言を撤回させただけでなく、反乱指導者たちの子供たちを人質に差し出すことを要求したルイ7世の厳しい処置はアリエノールの関与が疑われている。
  • シュジェールの取り成しでルイ7世は要求を取り消し、市民に恩赦を与える寛大な方針に転換して事態は収まったが、アリエノールシュジェールの介入に立腹、それを察知したルイ7世シュジェールを政治から遠ざけ、事情を理解したシュジェールも宮廷に来なくなりサン=ドニ大聖堂改築に熱中したが、忠告を授ける人間がいなくなったルイ7世アリエノールへの依存を強めていった。

この頃からアリエノールは夫をせっついて無謀な行為に走らせた。

  • 1141年に夫にトゥールーズ遠征を行わせ、失敗した後も妹ペトロニーユと既婚者だったラウル1世を結婚させるため、夫を強引に動かし聖職者たちを動員、ラウル1世と最初の妻エレオノール・ド・シャンパーニュを離婚させた。これがエレオノールの兄ティボー4世の怒りを買いラウル1世との対立に発展、同年にはラウル1世の再婚騒動に加え教会と王の叙任権闘争も起こった。ルイ7世はブールジュの大司教に自分の側近を充てようとして教会と対立、教皇インノケンティウス2世の忠告にも耳を貸さず、教会側が選出した司教就任予定のピエール・ド・ラ・シャトルをフランスに通さず抵抗した。1142年にはティボー4世の代理としてベルナルドゥス教皇の下へ赴き、訴えを聞いた教皇ラウル1世とその妻ペトロニーユ、離婚に手を貸した聖職者3人とルイ7世を破門しても王は反抗的な態度を改めず、アリエノールは王の側近たちから責められるようになった。
  • やがてルイ7世シャンパーニュにも介入。1143年ペトロニーユラウル1世の結婚に反対してピエール・ド・ラ・シャトルを匿ったティボー4世へ攻撃を企て、ヴィトリー=アン=ペルトワの町を攻撃、放火した。この炎が教会に燃え広がり、避難した市民1000人以上が焼かれ死ぬ惨事となり、軍はパリへ帰還したが、衝撃を受けたルイ7世は罪悪感から祈りと瞑想に没頭する日々を送った。
  • 王と教会の仲裁に出たベルナルドゥスからの叱責を受けた王は破門を解かれ翌1144年6月11日サン=ドニ大聖堂落成式に出席、シュジェールの仲介でラウル1世共々ティボー4世と和解、ブールジュ大司教シャトルと認めることも了承した。
  • 一方、王と共に落成式に出席したアリエノールは王がシュジェールを再起用して自分を政治から遠ざけ始めていることに気付き、王家への影響力保持のためベルナルドゥスに懐妊の祈りを捧げて欲しいと懇願、翌1145年に長女マリーを出産した。しかし、ベルナルドゥスからはルイ7世をそそのかして悪行に走らせた存在として警戒され、妹夫婦の破門解除も聞き入れてもらえなかった。

1147年第2回十字軍アリエノールアキテーヌ諸侯を説得して参加者を増やし、援助と引き換えにフォントヴロー修道院など教会への寄進や特権の更新も盛んに行い資金を調達、アキテーヌ軍を引き連れ夫と共に参加した。

  • 信仰篤い上、1143年の惨劇に対する贖罪を十字軍に求めていたルイ7世に対し、アリエノールは物見遊山目的であり、王妃の随員や衣類などの荷物だけで部隊が形成された上、その護衛部隊も必要となり、進軍の多大な妨げになっていた。こうした事がフランス軍アナトリア半島(小アジア)でルーム・セルジューク朝軍に惨敗する原因となる。
  • 内実はともかく、国王夫妻はベルナルドゥスの支持を背景にシュジェール重臣たちの反対を押し切って5月12日サン=ドニを出発。フランス軍10月4日東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに到着、皇帝マヌエル1世に歓迎されしばしの休息に浸った。ルイ7世・アリエノール夫妻も皇帝に迎えられ、ルイ7世は質素な生活習慣を堅持して過ごしたが、アリエノールは華麗な宮廷文化に心奪われ、フランスと違う開放的な雰囲気とマヌエル1世の魅力に惹かれた。
  • しかし十字軍兵士と現地人の間で衝突が頻発したり、滞在で軍資金が底をついたルイ7世は本国を守るシュジェールに資金調達依頼を出す有様でマヌエル1世セルジューク朝に内通しているという疑いもルイ7世の不安を掻き立てた。
  • やがて先発していたローマ王コンラート3世の軍が小アジア東ローマ帝国の裏切りに遭い、誘導されたルートで出くわしたセルジューク軍に敗れ退却(ドリュラエウムの戦い)、敗残兵がニカイアでフランス軍と合流した。惨状を知ったルイ7世小アジアの南側、エーゲ海と地中海に沿ったルートを進み、アンタルヤ(アダリア)港へ向かうことにしたが、1148年1月6日にピシディア峡谷に到着した所で待ち伏せていたセルジューク軍の奇襲を受け本隊は大損害を受け、後衛部隊を指揮していたルイ7世は救援に向かい奮戦、敵軍は長時間戦闘で疲弊していたため夜に撤退した(カドモス山の戦い)。戦いは1000人近い犠牲者を出し、アリエノールの側近ジョフロワ・ド・ランコンが率いる先発部隊は勝手に本隊と遠く離れて戦闘に参加しなかったことが問題となりランコンはポワティエへ召還された。アリエノールのこの戦いの動向は不明だが、ランコンの主君であるため彼女にも非難がおよびルイ7世の側近たちから恨みを抱かれた。
  • 3月19日アンタルヤから海路アンティオキアに入ったフランス軍は一息ついた。そこでアリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンと共に、エデッサ伯領であるアレッポとカエサリア奪回することを主張した。この時アリエノールレーモンは親密であり、情を通じた(近親相姦)とされる説、南フランス風の愛情表現とする説がある。ルイ7世はこれに反対しアリエノールを拘束してエルサレムに向かった(エルサレム巡礼にこだわったから、エデッサ奪回はレーモンだけ得をすることに反対したから、自分の家臣共々アンティオキアに残ることを主張したアリエノールに我慢ならなかったとも)。レーモンは戦死し、同年7月のダマスカスへの攻撃(ダマスカス包囲戦)も失敗に終わって、第2回十字軍はそこで解散した。
  • ルイ7世夫妻1149年の復活祭までエルサレムに留まり、2人は海路イタリアを経由、パレルモシチリア王ルッジェーロ2世に歓迎され、トゥスクルムで教皇エウゲニウス3世との面会を経て11月11日にフランスに帰国。

十字軍遠征の間にアリエノールルイ7世の亀裂は決定的となり、1150年にアリエノールは次女アリックスを産んだが、十字軍失敗で非難に晒され、夫からの信頼を失い国政から遠ざけられ孤立した。

  • 一方、十字軍の苦難を経て為政者として成長したルイ7世シュジェールを重用、アリエノールを遠ざけて離別する決意を固めるが彼女の不貞を表沙汰にしたくないこと、及び2人の王女への影響を考えて決心がつかなかった。
  • 同年アンジュー伯ジョフロワ4世と係争が生じ、この問題で和解に尽力しルイ7世夫妻の仲介にも働いたシュジェールの存在もあって躊躇していたが、翌1151年1月13日シュジェールが死去するとルイ7世は離婚に傾き、手に負えないアリエノールに我慢出来なくなった。
  • 1151年8月アンジュー伯ジョフロワ4世が長子のノルマンディー公アンリ(英名ヘンリー、後のイングランド王ヘンリー2世)を伴い、臣従の誓いを捧げるためと、ルイ7世のポワティエ代官ジロー・ベルレと争い捕虜にしたことでベルナルドゥスに破門されたため、釈明も兼ねてフランス宮廷を表敬訪問する。会談はベルナルドゥスベルレ解放と引き換えにした破門解除の提案をジョフロワ4世が拒否したため決裂、アリエノールはこの時まだアンリに関心を示さなかった。同年9月7日ジョフロワ4世が逝去、アンリアンジュー伯も兼任する。
  • 翌1152年アンリは臣従誓約のためにフランス宮廷を再訪。アリエノールは11歳年下のアンリに強い関心を抱き、無政府時代のイングランドスティーブン王の不当性と討伐を訴えるアンリを支持し、「ルイから自由になったら、財宝を提供する」と語りかけた。これを受けてルイ7世は離別を決意し3月21日に近親婚であるとして婚姻の無効が成立した(事実上の離婚)。マリーアリックスは嫡出子と認められ親権はルイ7世に移り、アリエノールが臣下として忠誠を保持し続ける限りルイ7世は彼女の再婚に異議を唱えないことなどが条件に決められた。

教皇エウゲニウス3世からの離婚証認教書を受け取るや否や、アリエノールは領地に帰還する。独身となった彼女には、各地からの求婚が相次いだが全てを拒否し、わずか2ヶ月後の5月18日アンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。

  • ルイ7世とは近親婚を理由に離婚したにも関わらず、アンリルイよりも近い血縁関係にあった。再婚は自領を守るために男性が必要不可欠だったからだが、アンリにルイ7世には無い資質と性格(数か国語を操る豊かな教養と荒々しい性格)を見出していたからではないかと言われている。アンリの方も領土拡大および対イングランド支援の野心とアリエノールの成熟した魅力に惹かれていたとされる。また再婚直後にフォントヴロー修道院に多額の寄進を行い、この修道院と生涯を通して密接に関わっていった。
  • 多情なアリエノールの再婚とアンリへの軍資金提供にルイ7世は激怒する。さらに、この結婚によりフランス国土の半分以上がアリエノールアンリの物となったことは、フランス王国にとって大きな脅威となった(アンジュー帝国の誕生)。ルイ7世は急ぎ顧問会議を召集、アンリルイ7世の封臣にも関わらず王の許可無く結婚したことを理由にフランス宮廷への出頭を命令、無視されると7月アンリの弟ジョフロワを加えてノルマンディーへ出兵した。対するアンリは素早い進軍で奪われた諸城を奪回、反乱を起こした弟も降伏させ、ルイ7世が急病に倒れた幸運にも恵まれ、ルイ7世と休戦して8月末までに危機を切り抜けた。フランス軍攻撃でアンリイングランド渡海は遅れ、アリエノールは夫と共にアキテーヌを巡回して過ごした。
  • 1153年1月アンリイングランドへ渡海するとアンジェで留守を預かり、8月17日に長男ウィリアムを出産。
  • アンリの方はマティルダを通してイングランド王位継承権を主張、対するティーブンは病気だった上息子ユースタスに先立たれたため、ウォーリングフォード協定(ウィンチェスター協定)で11月6日アンリはスティーブンから後継者に定められた。

1154年10月25日ティーブン崩御によりアンリイングランド王を継承してヘンリー2世となりプランタジネット朝が成立。

  • 同年12月7日にアリエノールは夫や幼いウィリアムと共にイングランドへ渡海して翌8日に上陸、19日にアリエノール(英名:エリナーまたはエレノア)は夫と共に戴冠。

こうして、フランス国土の半分以上がイングランド領となり、後の百年戦争の遠因となった。この後13年間に、アリエノールは息子5人と娘3人を産み、夫と共に領土を統治しアンジュー帝国の拡大に務める。ただしウィリアムは1156年に夭折。

  • ヘンリー2世・アリエノール夫妻アンジュー帝国安定のため、頻繁に各地を巡回していた。イギリス海峡を渡ることもよくあり、イングランドと大陸領を行き来しながら絶え間なく移動しつづけてた。ヘンリー2世は無政府時代で疲弊したイングランドの治安回復のため、地方へ巡回に出かけて各地の地方長官の働きぶりを監督したり、彼等をロンドンかウィンチェスターに召集して会計報告をイクスチェッカー(財務省の原型)でチェック、軍役代納金も設けて政治・財政・軍事を整えていった。
  • アリエノールも夫の共同統治者として地方統治を分担し国政に奔走、夫がノルマンディーにいる時はイングランドの留守を預かり、反対に夫がイングランドを視察している場合は大陸領を巡回、宮廷を開いて所領紛争を裁判にかけたり、夫の代理として証書も発行している。しかし夫が側近の大法官トマス・ベケット(後のカンタベリー大司教)に国政を委ねるとアリエノールは徐々に遠ざけられていった。

  • 前夫ルイ7世現夫ヘンリー2世との争いはヘンリー2世イングランド王に即位してからも続き、ヘンリー2世はアンジューの支配を固める一方で外交で優位に立ち、1158年に弟ジョフロワブルターニュ領有を目論んだ矢先に急死すると、自らブルターニュ継承権をルイ7世へ要求・承認させた。また同年、ベケットをフランスへ派遣して次男ヘンリー(後の若ヘンリー王)とルイ7世と2番目の妃コンスタンス・ド・カスティーの娘で1歳にもならないマルグリットの婚約を取り付け、持参金としてヴェクサンを受け取ることも約束させた。翌1159年ヘンリー2世トゥールーズ伯レーモン5世アキテーヌ公の宗主権を認めさせるためトゥールーズへ侵攻したが、こちらはレーモン5世の妻コンスタンス・ド・フランスの兄ルイ7世の頑強な抵抗に遭い撤退した。
  • アリエノールは一連の夫の外交政策に協力、夫妻揃ってアキテーヌ諸侯の臣従を取り付けたり、トゥールーズ侵攻直前には夫と一緒にアキテーヌ巡回に赴いている。

アリエノールヘンリー2世と野望を共有し、当時息子の無かったルイ7世亡き後にイングランド王国フランス王国がヘンリーの手に入る未来を夢想していたが、1165年にルイ7世が3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュとの間に息子フィリップ(後のフィリップ2世)を儲けたため叶わなかった。

  • また先立つ1160年ルイ7世は政略結婚を通じてシャンパーニュ伯領を治めるブロワ家に接近、アリエノールとの間の娘マリーアリックスをそれぞれシャンパーニュ伯アンリ1世ブロワ伯ティボー5世兄弟と婚約、自身もシャンパーニュ伯兄弟の妹アデルと結婚することでプランタジネット家を牽制することを狙った。ヘンリー2世・アリエノール夫妻も対抗して同年にヘンリーマルグリットの結婚式を挙げ、ヴェクサンを勝手に領有したりしている。ヘンリー2世が子女を周辺諸国との友好維持のために活用しようとしたのに対し、アリエノールは自らのアキテーヌ領の維持にしか関心が無かったとされるが、ヘンリーマルグリットの結婚では共同歩調を合わせていた。
  • 成人した王子たちの処遇を巡り、次男ヘンリーにはプランタジネット家のアンジュー・メーヌ・ノルマンディーを、三男リチャード(後のリチャード1世)にはアリエノールのアキテーヌを与えた一方、四男ジェフリー(後のジョフロワ2世)はコンスタンス・ド・ブルターニュとの婚姻によりブルターニュのみとなり、ヘンリー2世が最も愛した末子ジョン(後の欠地王)に至っては与える所領が無かった。一方、三女マティルダザクセン公バイエルン公ハインリヒ獅子公に、四女エレノアはカスティーリャ王アルフォンソ8世に、五女ジョーンはシチリア王グリエルモ2世にそれぞれ嫁いだ。

夫妻は1166年末子ジョンが産まれた頃から不仲となる。

  • 同年頃ヘンリー2世には愛妾ロザモンド・クリフォード(1140年以前 - 1176年)が出来たからであり(2人の関係は1173年頃とも)、それまで結婚生活に愚痴を言わず、束の間の浮気は目をつぶっていたアリエノールだが、ヘンリー2世ロザモンドウッドストック宮殿に引き入れ堂々と囲う姿勢に我慢ならず、愛人との同居を拒み、子供たちと供の者を連れてオックスフォードのボーモント宮殿へ移りそこでジョンを出産、夫妻の仲に修復不可能な亀裂が入った。
  • ジョンを産んでから翌1167年12月までイングランドに滞在していたアリエノールは、大陸へ渡りクリスマスでヘンリー2世と共にノルマンディーのアルジャンタンで宮廷を開き、そこでポワティエとアキテーヌの反乱に悩まされた夫の頼みで、ポワティエへ夫の代理として赴任した。1168年ソールズベリー伯爵パトリック・オブ・ソールズベリーら少数の護衛を連れて行進中にリュジニャン家の兵士に襲われソールズベリー伯は戦死、自身は辛うじて逃げ延びる危険な目に遭ったが、捕虜になったソールズベリー伯の甥ウィリアム・マーシャル(後の初代ペンブルック伯)を身代金支払いで解放、以後マーシャルヘンリー2世アリエノールの子供たちの忠実な側近として台頭していった。

  • 自領の平定に尽力しつつもアンジュー帝国から自領を切り離し、子供たちへ与えることを計画.。夫と対立してでも子供たちの権利を支持することを決意して以後夫と別居状態に入る。

アリエノールアキテーヌの継承者であるリチャードの溺愛も対立を深めた。

  • また1169年リチャードルイ7世と2番目の妻コンスタンスの娘で9歳のアデル王女(英名アレーまたはアリス)を婚約させ、アデル王女イングランド宮廷で養育された。ところがヘンリー2世は結婚を先延ばしにして手元に留め、後にアデル王女に手を付けたという真偽不明の噂が流れたため、ヘンリー2世リチャードの対立及びアリエノールリチャード側に付く原因となった。
  • 同年ヘンリー2世は3人の息子を連れてモンミライユでルイ7世と会見、大陸領に関して息子たちをルイ7世に臣従を捧げさせている。
  • かたやアリエノールリチャードへのアキテーヌ継承を確かな物とするため、彼を連れてアキテーヌを巡回して人々の支持を取り付け、1170年の復活祭でリチャードアキテーヌ即位式を挙行、アキテーヌの独立を進めていった。

こうした政争と並行してポワティエのアリエノールの城に吟遊詩人や騎士らが集い、ヘンリー2世との間の息子たちとその妃や婚約者(ヘンリーの妃マルグリット、リチャードの婚約者アデル、ジェフリーの婚約者コンスタンス)、幼い娘たち(エレノア、ジョーン)、さらに前夫ルイ7世との間の長女マリーも訪れるようになり、アラゴン王アルフォンソ2世ナバラ王サンチョ6世など外国の君主や貴族の訪問も受け華やかな宮廷文化が開花したのである。

  • 1170年ヘンリーへの王位継承を盤石にすべく共同統治者とする(若ヘンリー王)が実権は無かった。若ヘンリー王はこの実態に不満を抱いていた上、慕っていたベケットが父の配下に暗殺されたことに衝撃を受けて父に不信感を抱き1173年2月父が弟ジョンへ領土分割を公表したことに反発。
  • ジョンがもらう予定のシノン・ルーダン・ミルボーはポワティエとブルターニュの国境にあり、大陸領を東西に分断する重要拠点だったからである。そして3月には父の下から脱走した若ヘンリー王がルイ7世の庇護下父の独裁に対する反乱を起こす。
  • これに連動する形でアキテーヌ全土やイングランドヘンリー2世に対する反乱が勃発しスコットランドウィリアム1世も加勢、ルイ7世も反乱を扇動・拡大していった。同じく反乱を扇動したアリエノールは自分の宮廷にいた下の2人の息子、リチャードジェフリーをパリの宮廷へ送り出し、自らもフランスへ避難しようとした。
  • しかし1174年1月アリエノールの不審な兆候を監視していたヘンリー2世に捕えられ、初めシノン城へ幽閉、7月からイングランドへ移送され、以降15年余りにわたってイングランドのソールズベリーに軟禁された。
  • 一方ヘンリー2世7月ベケットの墓へ向かい懺悔、ウィリアム1世イングランド軍に敗れて捕らえられたことで立ち直り、大陸領を攻めていたルイ7世の軍を退却させ、息子たちの反乱も9月までに早期鎮圧、一連の内戦はヘンリー2世の勝利に終わった。
  • ロザモンドの住むウッドストック宮殿にアリエノールが押し掛け、剣か毒いずれかで死ぬか選択を迫ったとする伝承が残るが、ロザモンドが死去した1176年でアリエノールは監禁中のため事実ではない。

幽閉中のアリエノールソールズベリーノッティンガムシャーバークシャーを転々としながらヘンリー2世の監視下に置かれた。

  • 彼女をよそに様々な出来事が起こり、1179年ルイ7世が重病に陥った息子フィリップの病気治癒を願いベケットの墓を詣でた時に一時釈放、フィリップは病気が治ったがルイ7世は衰弱、翌1180年に死去。
  • 続いて相変わらず実権の無い若ヘンリー王と、アキテーヌの諸侯反乱の鎮圧で名を上げたリチャードの仲が悪化し、ジェフリー若ヘンリー王に味方して父も兄弟間の対立に不干渉の態度を見せる中、内戦が勃発する寸前の1183年若ヘンリー王は死去した。若ヘンリー王が病死した際、監禁先に知らせにきたウェールズの司教にアリエノールは、数日前に見た夢から解っていたと告げたという。
  • 病床で懺悔と父への許しを求めた若ヘンリー王は遺言で父に母を自由の身にして欲しいと願い、それが叶えられたのかアリエノールの監視は緩められ、ソールズベリーで娘のマティルダとハインリヒ獅子公夫妻の訪問を迎える許可を与えられた。行動範囲は翌1184年になると広がり、返礼としてウェストミンスターに滞在していたマティルダ夫妻を訪問、復活祭ではロンドン北方のバークハムステッドで過ごし、11月30日にはウェストミンスター宮殿の祝祭に出席、12月ウィンザー城で開かれた家族会議に呼び出された。ヘンリー2世からは真紅のドレスと金色の鞍を贈られ、彼のアリエノールへの緩和は態度の変化が推察される一方、家族会議で話し合う相続問題でアリエノールを味方に付けたい政治的配慮も伺える。

若ヘンリー王亡き後、息子の中ではリチャードが最も母の愛を受けたが、反対にジョンは母に疎まれる代わりに父に愛されて養育された。

  • 若ヘンリー王死去により1169年の頃から変更された分割相続の家族会議でも両親の意向が衝突、ヘンリー2世リチャード若ヘンリー王へ与えるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーブルターニュを相続、ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌを譲らせる(初めリチャードからジェフリーへ譲らせる予定を変更)案を家族に同意させようとした。
  • ところがリチャードは兄と同じく実権の無い共同統治者にされる恐れがあるこの提案を一蹴、アリエノール1169年ルイ7世臨席の下で決められた相続を根拠にして反対、出席した他の重臣たちも反対したためヘンリー2世ジョンへのアキテーヌ譲渡を諦めるしかなかった。
  • この後リチャードアデル王女の一件を根拠にノルマンディーで叛乱を起こすと、対応に当たったヘンリー2世は軟禁中のアリエノールを一時解放して共にノルマンディーを訪れ、リチャードアリエノールへのアキテーヌ返還を了承させて一件落着かと思われた。

しかし、晩年のヘンリー2世は災難に見舞われ続ける。

  • 嫁資を巡るフランスとの戦争で息子たちとも対立したのである。1186年にジェフリーが馬上槍試合で事故死、同年若ヘンリー王の未亡人マルグリットハンガリー王ベーラ3世と再婚すると、ヴェクサンをフランスへ返還する義務が生じた。アデルの嫁資ジゾールも未だ彼女がリチャードと結婚していないため、マルグリットアデルの異母弟のフランス王フィリップ2世からヴェクサンとジゾールの返還を要求されたがヘンリー2世は要求を引き延ばし続ける。
  • 1188年に何度目かの交渉が決裂してイングランドとフランスの戦争が起こるとフィリップ2世に懐柔されたリチャードと対立。翌1189年の戦争で形勢不利になったヘンリー2世シノン城へ退却した。そこでジョンリチャード側についたことに愕然、失意の内に崩御する。

イングランド王位を継いだリチャード1世(獅子心王)はフォントヴロー修道院で行われた父の葬式に出席した後、父の側近だったウィリアム・マーシャルと和解、彼を母のいるウィンチェスターへ派遣して解放させた(マーシャルの到着前にアリエノールは自ら解放したとも)。こうして、アリエノールは15年に渡る監禁生活から自由になった。

  • 復帰直後から精力的にイングランドを巡行、ロンドンで可能な限り集めた貴族・聖職者たちから新国王リチャード1世への忠誠の誓いを取り付けると、ロンドンから各地の町や城へ騎馬行で巡行し続け、至る所で忠誠の誓いを受け取った。
  • 民衆の不満を和らげるため、晩年のヘンリー2世が行った民衆への弾圧を改め囚人解放や苦情処理を手掛け、役人の不正も取り締まった。
  • 一方で穀物酒類の容量や布の長さを計る度量衡や、イングランド全土に通用する貨幣を導入して経済の活性化も図った。病院建設と患者の問題を扱ったり、修道院の一部負担免除もしている。
  • 9月3日にはウェストミンスター寺院で自ら企画したリチャード1世戴冠式を挙行。ポワティエ育ちでイングランド人には馴染みが無いリチャード1世を人々に認識させる目的で挙行した戴冠式は金に糸目を付けず、豪華な祝宴を繰り広げ厳かな儀式で執り行われた。
  • リチャード1世も母の期待に応え、寛大な態度を示して父の側近たちを許し、ジョンには多くの領地を与えて懐柔、気前よく財産を周囲にばらまいて支持を取り付けた。
  • 戴冠式後の宴会中でユダヤ人虐殺が起こりそれに対する処罰という血生臭いアクシデントはあったが、リチャード1世はロンドン市民から受け入れられ戴冠式は成功した。
  • しかし対外的には不穏な状況が見え隠れしていて、リチャード1世は協力者だったフィリップ2世と不仲になった。身内も敵に回りジョンからは嫉妬され、甥でジェフリーの遺児アーサー(ブルターニュ公アルテュール1世)はフランス宮廷に育てられたため味方になる可能性は無い一方、3人の姉妹の嫁ぎ先が同盟相手として期待されていた。

一方、リチャード1世戴冠式直後から十字軍の準備に熱中、サラディン税の徴収や官職・城・町などあらゆる物を売りに出して資金稼ぎに奔走し、イングランド中で多数のガレー船や武器が製造され軍備を揃える一方、ジョンには更に領地を加増して懐柔策を強化しつつも彼に実権を与えず、自身が不在のイングランドアリエノールカンタベリー大司教ウィリアム・ド・ロングチャンプ(ギヨーム・ド・ロンシャン)へ託した。こうしてリチャード1世第3回十字軍(1189年~1192年)に参加してほとんどを海外遠征で過ごし、アリエノールは摂政としてイングランドを統治した。とはいえずっとイングランドで過ごしていた訳ではなく、大陸を渡り大胆な行動に出ることもあった。

  • 1190年2月イギリス海峡を渡りリチャード1世と合流、6月に遠征に向かう息子と別れたかと思えば、リチャード1世ナバラ王サンチョ6世の王女ベレンガリとの縁談をまとめるため自らイベリア半島に赴き、翌1191年3月ベレンガリと一緒に海路でシチリアメッシーナへ向かい、リチャード1世と再合流したことが挙げられる(前後して、リチャード1世は未亡人になった妹ジョーンを監禁したシチリアタンクレーディに迫り釈放させている)。
  • フランスとイングランドの同盟およびアデルに見切りをつけたアリエノールは王家の将来のため新しい縁談の実現に動き、リチャード1世庶子フィリップ・オブ・コニャックはいたが嫡子がいないため、彼が後継者を得ることでジョンアーサーから王位を守ることを考え、合わせてベレンガリリチャード1世の激情を制御することを期待していた。
  • ベレンガリリチャード1世と引き合わせるとジョーンに彼女の後見を委ね、4月イングランドへ帰国したが、そこでジョンが王位簒奪を狙いイングランドを巡回して人気取りに走り、1192年1月フィリップ2世がジゾールを奪おうとノルマンディーに侵攻、大陸と島国両方で発生した危機を前にして懸命に対応した。
  • ノルマンディーの諸侯に要塞守備を命じてフィリップ2世の企てを阻止、イングランドではロンドン、ウィンチェスターなど各地で会議を召集、貴族たちのリチャード1世への忠誠を取り付けてジョンの妨害に動き、ジョンフィリップ2世の連携も食い止めたが、迫る危機を前にリチャード1世へ即刻帰国を要請する手紙を書き送った。リチャード1世サラディンとの交渉やエルサレム王国の後継者問題に掛かり切りだったが、サラディンと休戦を結び、エルサレム王国は甥に当たるアンリ2世(異父姉マリーの息子でアリエノールの孫)が選出されたことで一段落、9月に母へ書き送った手紙で帰国する意志を伝え、10月にアッコを出航した。
  • ところがリチャード1世は船が嵐で難破して一時消息不明となり、アリエノールイングランドの留守を守りながら不安な日々を過ごし、12月ルーアン大司教からの手紙でリチャード1世オーストリア公レオポルト5世の捕虜になり、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身柄を売り渡され囚われたことを知る。

    第3回十字軍に参加し、そのときに自身の功績を示すために自分の軍旗を掲げたが、その軍旗をイングランドリチャード1世に引き摺り下ろされたためリチャード1世に対して恨みを抱くようになった。

    この十字軍参加の折、敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、上から赤・白・赤のオーストリアの国旗のデザインになったと言われているが、実際にこのデザインが紋章として用いられるようになったのは、レオポルト5世の孫フリードリヒ2世からである。

    この経緯から第3回十字軍が終わった後にイングランド本国に帰還しようとしていたリチャード1世を逮捕し、その身柄を神聖ローマ皇帝であったハインリヒ6世に引き渡した。そして、莫大な身代金を受け取ることでリチャード1世を釈放している。

    しかしサラーフッディーン(サラディン)と並び「獅子心王」とまで称される英雄リチャード1世を逮捕したことでローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買い破門されてしまった。そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去。

    1189年6月10日フリードリヒ第3回十字軍の途上で没するとハインリヒは父の跡を継ぎ、同年11月18日にグリエルモ2世が没する。

    1184年の婚姻時の取り決めでは、グリエルモ2世没後に王国の統治権はコンスタンツェとハインリヒに継承されることになっていたが、コンスタンツェの縁組を推進したパレルモ大司教グアルティエーログリエルモ2世に続いて没し、1189年12月に反ローマ帝国派の廷臣によってレッチェタンクレーディシチリア王に擁立された。ハインリヒシチリアに向かおうとするがザクセンバイエルンの君主ハインリヒ獅子公が亡命先のイングランドから帰国したため、ハインリヒ獅子公への対処に追われてシチリアへの進軍を阻まれる。1191年1月になってようやく、ハインリヒはイタリアに向かうことができた。
    1191年4月ハインリヒコンスタンツェはローマでローマ教皇ケレスティヌス3世からローマ皇帝・皇妃に戴冠される。イタリアを南下したハインリヒはナポリの包囲を開始するが、ハインリヒの軍は疫病に罹り、重大な被害を受ける。一方、ローマ帝国ではハインリヒ獅子公が再び反乱を起こしており、ハインリヒは包囲を解いて帰国せざるをえなかった。

    サレルノの宮廷に残されたコンスタンツェは、サレルノ市民の手引きによってタンクレーディに引き渡され、コンスタンツェケレスティヌスの仲介によって解放される。ケレスティヌスタンクレーディシチリア王位を認め、またローマ帝国の反シュタウフェン家陣営も勢いを盛り返す。

    この矢先ハインリヒは思わぬ僥倖に巡り合う。反シュタウフェン陣営の有力な支持者であるイングランドリチャード1世が、第3回十字軍の帰途でオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、トリフェルス城に監禁される事件が起こったのである。リチャードの身柄はハインリヒの元に引き渡され、ハインリヒ銀150,000マルクと引き換えにリチャードを釈放。この事件によって反シュタウフェン陣営は有力な後ろ盾を失っただけでなく、ハインリヒは再度の南イタリア遠征に必要な軍費の調達に成功したのだった。

    1194年1月にハインリヒは北イタリアのコムーネと協定を結んで通行許可を得、同年4月ハインリヒ獅子公と講和。同年2月シチリアタンクレーディが没し、彼の幼少の子グリエルモ3世シチリア王位を継承するとピサ、ジェノヴァの協力を得て5月12日南イタリア遠征を開始した。この遠征の途上でコンスタンツェの妊娠が発覚し、彼女は別の進路を通って移動した。

    ハインリヒシチリア王位と引き換えにグリエルモ3世レッチェ伯の地位にとどめることを約束。1194年9月20日パレルモ無血開城した。12月25日ハインリヒシチリア王に即位。即位に際して数百人のシチリア貴族が処刑・投獄され、グリエルモ3世も視力を奪われた上で幽閉され、その母親は国外追放された。またタンクレーディの墓が暴かれ、民衆の前で遺体が纏っていた王衣が脱がされた上、遺体の首が切断されている。

    戴冠式の翌日、コンスタンツェがイェージの町で息子フリードリヒを出産。結婚後9年の間2人の間に子が生まれていなかったこと、コンスタンツェが出産当時40歳と高齢だったために出産に疑惑がもたれ、後年「フリードリヒはコンスタンツェの子ではない」という伝承が生まれる。

    ハインリヒは友人であるエスリンゲンのコンラートをスポレート公に叙し、マルケをMarkward von Annweilerに与えてイタリアの支配を固める。1195年のバーリの宮廷会議では十字軍への参加を約束し、教会との関係の改善を図った。

    同年6月コンスタンツェフリードリヒパレルモに残してローマ帝国に帰還。十字軍の準備を進めるとともに、フリードリヒへのローマ皇帝位の世襲を計画した。年内に開催されたヴォルムスの帝国会議でハインリヒはフリードリヒのローマ王選挙を求めるが、諸侯の反対によって要求は退けられる。1196年4月に開催されたヴュルツブルク帝国議会でハインリヒは、ローマ王位をフランスやシチリアと同様の世襲制に代えて諸侯に国王選挙権を放棄させるかわりに、諸侯にも相続権を認める「世襲帝国計画」を提案したがケルン大司教アドルフの猛反対に遭って計画は失敗に終わった。

    1196年夏にはフリードリヒのローマ王位承認を求めて教皇庁と交渉するが、交渉は頓挫する。弟のシュヴァーベン公フィリップマインツ大司教の働きかけによって、1196年12月のフランクフルト帝国議会でようやくフリードリヒがローマ王に選出された。こうしてフリードリヒへの帝位継承が確実になると、ハインリヒは十字軍の派遣に着手した。

    フリードリヒがローマ王に選出されたころ、シチリアではアルプス以北出身である「ドイツ人」の王の支配に対する反乱が起きていた。反乱を鎮圧したハインリヒは首謀者を熱した鉄の玉座に座らせて釘の生えた冠を頭に打ちつける苛烈な刑に処したが、反乱は再度起こる。1197年9月28日にハインリヒは反乱の鎮圧の軍備を整えている途中、マラリア(あるいは赤痢)に罹って病没。

    没前にハインリヒは、妻のコンスタンツェを幼少のフリードリヒの摂政とするように遺言。ローマ皇帝位とシチリア王位だけでなく、ローマ王権とシチリア王権の関係、シチリアの国制と統治、ローマ帝国シチリアの両方に残る反対勢力への対処といったハインリヒが生前に解決できなかった問題がフリードリヒに継承されるのである。

    この様に「エドワード1世の身代金」はホーエンシュタフェン家のイタリア半島南部獲得の軍資金に転用された訳である。

  • 直ちに神聖ローマ帝国各地に使者を派遣して監禁場所を探索、マティルダの夫ハインリヒ獅子公の協力を得て解放に尽力、隙を見て領土と王位を狙うフィリップ2世ジョンらの動きを牽制、教皇ケレスティヌス3世へ親書を送り援助を要請した。
  • 1193年4月リチャード1世からの手紙を受け取り無事を確認すると、6月に皇帝が要求した解放条件が会議で発表され、身代金は銀貨15万マルクと決められた(うち10万マルクで釈放、5万マルクは後払いだが保証として人質200人を差し出す)。要求は過大でイングランドに重くのしかかる金額だが、アリエノールたちは金の工面に奔走した。
  • カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターロンドン司教アランデル伯爵ウィリアム・ド・オービニーロンドン市長ヘンリー・フィッツアルウィンらと共に身代金支払いに全力を尽くし、イングランド中に重税を課してまで銀貨10万マルクを捻出、側近たちと共に自ら大陸へ渡り身代金が入った数々の袋を運び出し1194年1月にケルンへ到着。ここで釈放日が延期され場所もマインツに変更され落胆、ジョンに関する不穏な噂にも悩み、心痛で痩せ衰え苦しむ日々を送った。
  • そしてリチャード1世の皇帝への臣従と毎年5000ポンドの支払いという条件を承諾して交渉を終わらせ、ハインリヒ6世2月4日マインツリチャード1世を解放、息子と再会したアリエノール3月12日イングランドへ帰国、23日に息子と一緒に入ったロンドンで群衆の大歓迎を受けた。休む間もなく状況を好転させるための活動を続け、皇帝の臣従が形式的に過ぎないことを知らしめるため4月17日ウィンチェスター大聖堂リチャード1世の2度目の戴冠式を挙行した。リチャード1世5月までにイングランドと大陸領の反乱勢力を降伏させ、アリエノールリチャード1世ジョンの和解に尽力、その甲斐あって5月12日リチャード1世はジョンを許し兄弟は和解を果たした。
  • この間、リチャード1世4月イングランドのシャーウッドの森で数日間過ごし、アリエノールは木こりたちに税を免除したが、これがロビン・フッド伝説の由来になったという。
  • 以後アリエノールはフォントヴロー修道院で祈り・読書・瞑想にふける静かな隠遁生活を送りつつ、リチャード1世の行方を見守っていた。彼はフィリップ2世の侵略からアンジュー帝国を防衛、7月3日にフレトヴァルの戦いで大勝、休戦を挟みながらも戦況を有利に進めた。懸案だったアデルの処遇とジョーンの再婚にも取り掛かり、アデルはフランスと交渉して故郷へ帰し、ジョーントゥールーズ伯レーモン6世と再婚させた。外交でもリチャード1世は優位に立ち、フランドル伯兼エノー伯ボードゥアン9世ダンマルタンルノー1世と同盟を結び、レーモン6世との姻戚関係もあってフィリップ2世包囲網を作り上げた。かつてリチャード1世を捕虜にしたオポルト5世ハインリヒ6世が死去したこともあり、リチャード1世は次の神聖ローマ皇帝候補にも推され(リチャード1世は辞退し甥で姉マティルダ・ハインリヒ獅子公夫妻の息子オットー4世が1198年に選出された)、捕虜だった頃に失った栄光を取り戻した。

全て順調に思えたアリエノールだったが、1199年に絶望へと突き落とされる。リチャード1世リモージュ近郊の町シャリュにて、財産の奪い合いから生じた小競り合いで負傷、戦死したのである。

  • アリエノールは急遽馬を走らせ4月6日に息子の最期を看取ったが、後を継ぐのがジョンだと知ると不安を感じながらも、アンジュー帝国の混乱を鎮めるため困難に立ち向かった。
  • フォントヴロー修道院リチャード1世の葬儀を済ませ、修道院に寄進したり息子の側近たちに財産を分け与えると、王位を主張してアンジェを占拠した孫アーサーを追い出すため、軍を召集して自らアンジェへ赴き、アーサーをフランス宮廷へ追いやった。その隙にジョンはノルマンディーからイングランドへ渡り5月27日に戴冠。
  • ジョンの戴冠と前後して、独自の行動を取りアンジュー帝国の防衛に向かった。アキテーヌを巡行して訪れた都市へ自治都市憲章を公布、行く先々で紛争調停したり教会や修道院に寄進したり、支持を確保するだけでなく都市独自の民兵軍組織で防衛強化も図った。
  • 4月29日にフォントヴロー南西のルーダンに到着した所から巡行を始め、ポワティエ、ラ・ロシェル、サン=ジャン=ダンジェリなどを訪れ7月1日ボルドーに着き、4日にはスペインの国境地帯にまで到達。
  • ジョンを当てにしていないアリエノールは都市の発展や富裕層市民の勃興など時代の変化を読み取り、都市へ自治権授与と引き換えに自衛義務を課し、全体的な防衛力の強化を目論んだのである。また王家や封建領主が組織する従来の軍に加えて、新たな戦力として都市民兵団の王家への提供の約束を取り付けた。
  • 更に一手を打ち7月15日から20日にかけての5日間トゥールに滞在、そこでフィリップ2世に自領に関する臣従の誓いを捧げた。これは彼にアキテーヌ攻撃の口実を与えない策で、7月30日ルーアンへ戻ると再会したジョンイングランドと大陸領を委ねた。
  • こうしてアンジュー帝国保全に向けた対策を施した一方、トゥールーズの反乱で妊娠中ながら逃走したジョーンをフォントヴロー修道院へ入れたが、衰弱した彼女に先立たれ、生まれた赤子も亡くなる不幸に遭遇。1199年時点でアリエノールは多くの子供たちに先立たれ、存命の子供はエレノアジョンの2人しか残っていなかった。
  • 1200年1月13日ジョンフィリップ2世が休戦に向けた会談を行い、そこで両国の縁組が提案され、エレノアが産んだ娘がフィリップ2世王太子ルイ(後のルイ8世)に嫁ぐことが決まった。
  • 会談が済むとアリエノールはすぐに出発、候補に上がった孫娘を迎えるため2度目のイベリア半島訪問へ向かい、途中で再びリュジニャン家の襲撃に遭い、ユーグ9世・ド・リュジニャンにラ・マルシュ伯を授けて命拾いする出来事もあったが、1月末カスティーリャ宮廷でエレノアと再会、彼女が花開かせたかつてのポワティエ宮廷を思わせる華麗な雰囲気を味わい2ヶ月を過ごした。
  • エレノアには娘が3人いたが(ベレンゲラ・ウラカ・ブランカ)、アリエノールブランカを選んでフランスに戻り、高齢のため5月ブランカ(ブランシュ)とルイの結婚式には出れず、ボルドー大司教ブランシュを託すとフォントヴローへ戻った。
  • この結婚によりジョンフィリップ2世の和睦も結ばれル・グレ条約が締結された。

だが、アリエノールの配慮も空しく、ジョン王の失策でアンジュー帝国は崩壊への道を辿っていく。

  • 妻イザベル・オブ・グロスターと離婚していたジョンはユーグ9世の婚約者イザベラ・オブ・アングレームを略奪、再婚してしまったのである。この行為は各方面の反発を引き起こし、ポワティエで貴族たちの反乱が発生、激怒したユーグ9世フィリップ2世へ訴えた。
  • フィリップ2世ユーグ9世ジョン双方が封臣であるため訴訟に介入してアンジュー帝国を解体することを企て、自身の離婚問題でしばらくアンジュー帝国へ手出し出来なかったが、1201年に離婚問題に決着をつけたフィリップ2世はユーグ9世の訴えに応じ、1202年4月28日ジョンユーグ9世らポワティエ貴族たちとの問題解決のためパリ宮廷出頭を求めた。これにジョンが応じなかったことを口実に欠席裁判で大陸領没収を宣言、フランスに臣従させたアーサーを陣営に加えてノルマンディー侵攻を開始。
  • アリエノールはポワティエ安定のため仲裁に乗り出しトゥアールの貴族とジョンを和解させたが、高齢で病床に臥せっていたためジョンの再婚を止められず、フィリップ2世アーサーをアンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワティエの領主に任命し、1199年の臣従で保障された自分の権利を踏みにじられるのも防げなかった。
  • フィリップ2世はノルマンディーの各地の城を奪い取り、アーサーはフランス人騎士200人とリュジニャン家の援軍を加えてポワティエへ進軍。孫に身柄を狙われたアリエノールはポワティエを脱出してミルボー城へ逃げ込み、包囲されると防衛強化に全力を尽くし抵抗、敵との和平交渉で時間を稼ぎつつ、ノルマンディーのル・マン近郊でフィリップ2世と戦うジョンシノンにいるウィリアム・ド・ロッシュへ使者を派遣して援軍を要請した。7月30日アリエノールの使者から報せを受け取ったジョン130km余りの道を2日で踏破、勢いのまま8月1日にミルボー城へ急行、アーサーら包囲軍を逆包囲して捕虜にした(ミルボーの戦い)。こうしてアリエノールは無事救出され、フィリップ2世もノルマンディーから撤退して危機は去った。

ジョン王はさらに戦後処理で失敗する。捕虜たちを過酷に扱いアーサールーアンの塔に幽閉したことが周囲の支持を失い、アンジュー帝国崩壊を加速させたのである。

  • ルーアンの塔に幽閉されたアーサーが行方不明になり、暗殺の噂が流れたことがブルターニュの貴族たちの復讐心を呼び起こしただけでなく他の大陸領でも貴族の離反を招いてしまった。
  • ウィリアム・ド・ロッシュはトゥーレーヌとアンジューの領地をフィリップ2世に献上、ノルマンディー侵攻を再開したフィリップ2世に次々と多くの町が落とされてもジョン王はなす術も無く手をこまねいているしかなかった。

アリエノールはミルボーの戦いの後でフォントヴロー修道院へ戻り隠棲、1204年4月1日80歳を超える当時としては稀な長寿を全うし死去。晩年のアリエノールの心境については分かっておらず、亡くなる3週間前の3月6日リチャード1世が精魂込めて築城したレ=ザンドリのガイヤール城がフィリップ2世に落とされた報告を聞き、失意の内に死去したとも、事実を冷静に受け止めていたともされる。遺体はフォントヴロー修道院地下室に埋葬され、現在はヘンリー2世リチャード1世と共に眠っている。

ベルナール・ド・ヴァンタドゥールら吟遊詩人を庇護して多くの文芸作品を誕生させ、洗練された宮廷文化をフランス、イングランドに広めた存在として知られる。子孫が各地の君主及び妃となったことから「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。中世盛期の西欧において、最も裕福で地位の高い女性の一人であった。

それにつけても不甲斐ないのがジョン王(John, King of England, 在位1199年~1216年)である。

1194年リチャード1世イングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなるとすぐにノルマンディーからイングランドに渡り、イングランド王として戴冠した。

  • 一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公アルテュール(アーサー)はアンジュー伯領を確保して王位を主張したがヒューバート・ウォルターを始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。
  • リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールアルテュールを押さえてジョンを支持している。

1200年にはイザベル・オブ・グロスターと離婚、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと再婚。

  • イザベラの婚約者ユーグ9世・ド・リュジニャンは封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、1202年フィリップ2世ジョンを法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶。これを契機にフィリップ2世アルテュールジョンの戦争が勃発。
  • 当初ジョンは劣勢だったが、1203年アルテュールポワチエにいたアリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応して逆にアルテュールを捕らえた。
  • 幽閉されたアルテュールはまもなく消息不明となったため、人々はジョンアルテュールを殺したと考え、ブルターニュの諸侯はフランス王を頼ってジョンに反旗を翻した。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前にノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーはほとんど抵抗せずに降伏した。
  • わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュのみがジョンの下に残ったが、これは元々アキテーヌは諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。

1205年カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿ラングトンを任命した。

  • ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した。
  • ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランド教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額千マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。

大陸領土を失ったジョンは、ウェールズアイルランドスコットランドへの影響力の強化に努め、一時的に成果を挙げている。さらに、大陸領土奪回のために海軍を整備し、フランス王と対立する甥の神聖ローマ皇帝オットー4世フランドル伯フェランと提携を深めたが、大陸領土喪失による収入減に加え、軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけたため、諸侯・庶民の不満が高まった。

  • 一方、ジョン教皇の封建臣下になったため、フランス王によるイングランド侵攻への教皇の支持は撤回された。フランス王は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍によりフランス王軍は船舶の大半を失って撤退を余儀なくされる。
  • 好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀ってフィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ・フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので1214年に入るとジョンはギュイエンヌから侵攻し、ポワチエ・アンジューを回復したがオットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり進軍が遅れた。この間にフィリップ2世王太子ルイを南部に派遣したため、ジョンは戦線を支えきれずギュイエンヌに撤退した。こうして、南部の負担が少なくなったフィリップ2世率いるフランス王軍と皇帝連合軍が1214年7月27日にフランドルのブーヴィーヌで会戦し、数で劣るフランス軍が皇帝連合軍を打ち破った(ブーヴィーヌの戦い)。

  • これによりフィリップ2世の優位が確定し、ジョンは占領地を全て放棄して撤退を余儀なくされた。連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世フリードリヒ2世に皇帝位を奪われることになる。

ブーヴィーヌの惨敗でイングランドに戻ったジョンを待っていたのは、国内諸侯の反発だった。ジョンは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)臨時課税を乱発しており、苛政への不満が鬱積していたのである。

  • 強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して諸侯は結束して反抗し内戦状態となった。戦いが起こるとジョンを見限る者が多く、支持を失ってロンドンを制圧されたジョンは、以前から突き付けられていた諸侯の要求事項を受け入れざるを得ないと決意。1215年6月15日ラニーミードにて行われた調印で、国王の徴税権の制限や法の支配などが明記されたマグナ・カルタ(大憲章)が制定された。

  • 保身のためマグナ・カルタへの合意を余儀なくされたジョンだったが、すぐに不服をローマ教皇に訴えて、インノケンティウス3世に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった。
  • これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起してまたも内乱となり、諸侯がフランス王太子ルイに援軍を求めて招聘したことで第一次バロン戦争が勃発。

  • ジョンは一旦ロンドンから撤退してフランス王太子ルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に赤痢に罹って1216年10月19日に病没。

    ローマ教皇インノケンティウス3世の要請で始まったアルビジョワ十字軍(1209年~1229年)にも積極的に入れ込んで現地で亡くなった人でもある。

当人の崩御により戦争理由が無くなると、諸侯はウィリアム・マーシャルを摂政に立てたうえで、王位を9歳のヘンリー(ジョンの息子)に継承させた。同年11月マグナ・カルタイングランド王に即位した息子ヘンリー3世(在位1216年~1272年)の名前であらためて発行された。

そして…

アンジュー帝国(1154年~1259年)の消滅。

ノルマン朝(1066年~1154年)断絶を契機にアンジュー家イングランド王家の手に渡った結果、英仏を跨ぐ形で巨大なアンジュー帝国(1154年~1259年)が出現。ラ・マルシュ伯ユーグ9世・ド・リュジニャンらフランス諸侯の反発を招いてしまい、その息子ラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンらの策謀にも関わらず一旦はイングランド側がガスコーニュ以外の大陸領全てを放棄する形で問題解決が図られる展開を迎える。

  • ここに登場するリュジニャン家の始祖はドラゴン人魚メリュジーヌとされる。

  • 第一次バロン戦争(1215年~1217年)で叛旗を翻しフランス王太子ルイ(後のフランス国王ルイ8世)を総大将に担ぎ上げたイングランド諸侯が信じられなくなったイングランド王ヘンリー3世は、母方の親族にあたるリュジニャン一族などのポワチエ、妻の生国のプロヴァンス、縁戚のサヴォイアの一族といったフランス人を側近として重用。これに激怒したイングランド諸侯は(教皇インノケンティウス3世の提唱に従って北フランス諸侯が南フランスを攻めた)アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の英雄シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)の息子シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)を総大将に第2次バロン戦争(1264年~1267年)を起こす。調停を依頼されたフランス国王ルイ9世は反乱者への寛大な処置を望みつつヘンリー3世の肩を持つ。最終的に反乱自体は鎮圧され、シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)も戦死したが、これを契機に英国議会制への道が開ける。

フランス国王ルイ9世はフランス王領となったアンジュー家を弟シャルルに与え、王弟シャルルアンジュー伯を名乗る様になった(シャルル=ダンジュー)。

そんな感じで以下続報…