ハリカルナッソス(古希: Ἁλικαρνᾱσσός、Halikarnassos, 英: Halikarnassus)
アナトリア半島(小アジア)のカリアの南西海岸にあった古代ギリシア都市。現在のトルコのボドルムにあたる。歴史家ヘロドトスの生誕地。
海岸のすぐ近くに小さな島があり、1404年ロードス騎士団がその島にボドルム城(聖ペテロ城)を建設。その後市街地の拡張による埋め立てなどで島と本土が繋がった。
とりあえず「カリア近隣」というのが重要。
カリア(英語: Caria、古希: Καρία)
アナトリア半島南西部の古代の地名。北にリュディア、南東にリュキアが接する。今のトルコのアイドゥン県、ムーラ県一帯に相当する。
ドーリア人やイオニア人がカリア西部に植民し、そこにギリシアの都市国家を形成した。
- ロードス島同様、クニドスやハリカルナソスにもそれ以前から(「紀元前1200年のカタストロフ」などを契機に移住した)ミケーネ文明圏残党が割拠していた可能性が指摘されている(ただしおそらくロードス島同様、都市は形成していなかった)。そもそも最近ではドーリア人の南ギリシャへの移動についても、キプロス島やアナトリア沿岸部へミケーネ文化の人々が移動した空白地帯に流入しただけで武力衝突はなかったとする説も発表されおり、この時も両者の間に武力衝突があったとは限らない。
ヘレニズム時代に再建された現地の「(各都市とヘカテー神殿を結ぶ)神聖な道(Sacred Road)」も、そうした時代から使われてきた可能性がありそうとされる。
紀元前1250年頃のヒッタイトの碑文には、ヒッタイトの西にある敵国として、ルッカー(リュキア)と並んでカルキシャまたはカリヤという名前が見え、カリアを意味していると見られる。
- イオニア人やドリア人が入植してくる以前から存在し、カリア語として知られるアナトリア語を話したカリア人についてヘロドトス「歴史」はミノア・ギリシャ人の子孫とする。一方当初より優れた航洋技術で知られたカリア人自身は同じアナトリア本土人たるミシア人やリュディア人と同種と主張。彼らもどうやら移住者だったらしくレゲス人(彼らより先にこの地に存在した先住民社会の構成員。彼らに先行してこの地に渡った初期カリア人とも)を先行集団として挙げる。
ヘロドトスによるとエジプト第26王朝(紀元前664年~紀元前525年)プサメティコス1世はイオニアとカリアの傭兵による軍事力を背景としていた。それを裏付けるようにエジプトのイシス像の土台にはカリア語を記したプサメティコス1世時代の碑文が残る。南のブヘンに至るナイル川沿いにカリア語の落書きが残っており、これらはヌビア遠征に従軍したカリア人によるものと考えられている。
- エジプト第26王朝王統はかつてサイスを拠点に下エジプトを支配した第24王朝の王家に連なるリビュア(エジプトとカルタゴの間に広がるアフリカ北岸)系であり、この地は古くからクレタ島経由でミノス/ミケーネ文明やカナン諸族の影響を受けてきた。そしてギリシャ時代にはこの範囲から東方化様式文化が興る。
その後、カリア本土を含むアナトリアはアケメネス朝に服属するが、紀元前4世紀になるとサトラップであったヘカトムノスが事実上の王としてカリアに君臨した。ヘカトムノスの子のマウソロスは権勢を振るい、その没後には巨大なマウソロス霊廟がハリカルナッソスに建造された。紀元前334年にヘカトムノスの娘のアダはアレクサンドロス3世に降伏し、カリアの統治者として認められた。
ヘレニズム時代にはギリシア化しアフロディシアスのような都市が作られた。
紀元前2世紀に共和政ローマがセレウコス朝に勝利すると、アナトリア西部はマイアンドロス川を境にペルガモン王国とロドスに分割され、カリアの大部分はロドスに属した。紀元前129年にペルガモン王国はローマに編入され、ローマのカリア属州が成立した。ロドスも紀元前42年にブルートゥスによって征服された。
アフロディシアスは名前のとおりアプロディーテーの聖地だったが、5世紀頃にキリスト教化し、スタヴロポリス(十字架の町)と名前を変え、東ローマ帝国のカリア教区の府主教が置かれた。
12世紀にセルジューク朝、ついでルーム・セルジューク朝の支配下にはいった。ルーム・セルジューク朝が衰えると、カリアの地にはメンテシェ侯国やアイドゥン侯国のようなベイリクが成立した。
ハリカルナッソスの歴史
ハリカルナッソス建設については様々な議論があるが、ドーリア人の植民都市であることはほぼ定説になっており、硬貨にメドゥーサの頭やアテーナーやポセイドーンや三又の槍が描かれていることから、母都市はトロイゼーンおよびアルゴスだとされている。
- 「母都市はトロイゼーンおよびアルゴス」…「エジプトとインドを結んだフェニキア人航路」とか「ミケーネ文明残滓」といった古代ギリシャ文明の最古層と関係の深い地域であった。
(後のギリシャ神話においてアテナイの伝説王テセウスの息子にされてしまう)ヒッポリュトス伝説にまつわる信仰は、この古代都市周辺で生まれた。トロイゼーンの娘たちは伝統的に、結婚する前に一房の髪をヒッポリュトスに捧げていた。
また小アジアのハリカルナッソス人が建てたイシスの神殿がある。トロイゼーンが彼らの母都市だったためである。イシスの像はトロイゼーンの人々によって奉納された。
(2007年)11月の国立劇場「摂州合邦辻」の筋書(歌舞伎のパンフレットのこと)の解説には、「継母が息子を恋する説話は、インドに源流をもつとされ、それが西に伝わりギリシアの悲劇の題材となり、さらにラシーヌの『フェードル』を生み、一方、東へ流布してこの作品(注:「摂州合邦辻」のこと)に結実したともいわれています」と書かれていました。
ラシーヌの『フェードル』がエウリピデスとセネカ(の手になる王の実子(ヒッポリュトス、イポリット)に継母(パイドラ、フェードル)が愛を告白する悲劇譚)を下敷きにして書かれたということは、ラシーヌ自身による序文に書かれています。エウリピデスは、現存している『ヒッポリュトス』以前に、もうひとつ別の同名の劇を作ったそうで、第一作を「顔を蔽うヒッポリュトス」、第二作を「花冠を捧げるヒッポリュトス」と呼んで区別するそうです。セネカは、「顔を蔽うヒッポリュトス」に影響を受けたといわれています。またエウリピデスの訳者松平千秋の解説によれば、ヒッポリュトス伝説の起源は、古くはペロポネソス半島東北のトロイゼンにあるそうです。
エウリピデスの『ヒッポリュトス』の初演は紀元前428年の春ですから、これは『今昔物語集』の説話に登場するアショカ王の在位(紀元前268年から232年)より200年も前になります。両者に共通するインドの説話があったかどうか、ぽん太には確認するすべはありません。しかしぽん太には、どっちが先でどっちに後から伝わったかを云々するよりは、継母が継子に恋をするという話しが、人類に共通する説話の類型なのだと考える方が自然なような気がします。
アルゴスからミケーネに向かって45スタディア(約8.3km)のところに、新石器時代の居住区があり、その近くにアルゴリア地方の中央聖域がある。この聖域はヘーラー(Argivian Hera)を祀ったもので、この神殿(寺院)の主な祭はヘカトンベー(Hecatomb。100匹の牛を生贄に捧げること)だった。
ヴァルター・ブルケルトはその著書「Homo Necans(p.185)」で、この祭をヘルメースによる百眼の巨人アルゴス暗殺の神話と結びつけているが、かつては、ヘルメースの異名「アルゲイポンテース(Argeiphontes, 早い時期から「アルゴスを殺した者」として理解されていた)」という言葉は、実際には、インド・ヨーロッパ祖語のarg-(*arǵ-、転じてargyrosは銀の意味)を語源とする形容詞のargós(ちらちら光る、動きの速い)で、「明るく輝く」またはそれに類似する意味を持ち、地名や百眼の巨人アルゴスとの関係は二次的なものに過ぎないという推論があった。
前置きはさておき、アルゴスはミケーネ文明の時代、重要な要塞であった。ミケーネやティリンスといった近隣の都市国家の中で、肥沃なアルゴス平野の中央の見晴らしの良い場所にあったため、かなり早い時期から居住区になった。Argolid(アルゴス人)のことは、ローマでもアルゲイア(Argeia)として知られていた。しかし、アルゴスの重要性は紀元前6世紀以降、近隣のスパルタによって影が薄くなってしまった。
さらに、ペルシア戦争への参加を拒否したことで、アルゴスはギリシアの他のほとんどの都市国家から孤立してしまった。それでもアルゴスは中立を貫いた。紀元前5世紀のスパルタとアテナイの争いでは、アテナイと同盟を結んだが、何の役にも立たなかった。
古くはインダス文明(Indus Valley civilization, 紀元前2500年頃~紀元前1500年頃)やインド半島南岸部のドラヴィタ/タミル語族まで遡る「(破壊神カーリーの原型と目される)黒い地母神」をフェニキア人が地中海文化圏に伝え、それがエジプトの女神の表象の一つとして定着したさらなる大源流について、現段階でエラム-バビロニア(アッカド地方南部)文明圏経由の「内陸伝播説」と「ディルムン(Dilmun, メソポタミア文明の記録に登場する交易相手で原料の産地年tれだけでなく、メソポタミア文明とインダス文明の物資の集散地としても記録されている。正確な位置は明らかになっていないが、バーレーン、サウジアラビアの東部地方、カタール、オマーン、ペルシャ湾のイラン沿岸部などと関連があると考えられている)」経由の「海路伝播説」が存在する。とりあえずここで関係してくるのは後者。
ストラボンによれば、住民は伝説上の建設者をAnthesだとしAntheadaeという呼称を使っていたという。カリア語碑文に見られる Alos-δ karnos-δ がハリカルナッソスの古代名ではないかとも言われている。
初期のハリカルナッソスは、コス、クニドス、リンドス、カメイロス、イアリソスと共にドーリア人のヘクサポリスの1つだった。しかし、ヘクサポリスの競技会で優勝したハリカルナッソス市民 Agasicles が賞品である三脚台をアポローン神殿に奉納せずに家に持ち返ったことから、ハリカルナッソスがその同盟から離脱することになった。
紀元前5世紀前半にはカリアのアルテミシア1世が統治していた。彼女はサラミスの海戦でアケメネス朝側の指揮官として戦ったことで知られている。その息子で後継者の Pisindalisについてはよく分かっていない。
その後ハリカルナッソスを支配したリグダミスは、詩人パニュアッシスを死においやり、ヘロドトスが生まれ故郷のハリカルナッソスを離れる原因を作った(紀元前457年頃)。
マケドニアの影響
ハリカルナッソスを支配したピクソダロスは力を強めてきたマケドニア王国との同盟を目論み、若きアレクサンドロス3世の嫁として自身の娘を差し出す約束をしたと言われている。しかし、アレクサンドロスの父ピリッポス2世が反対し、結婚は成立しなかった。
アレクサンドロス3世の東征初期の紀元前334年、マケドニア軍はハリカルナッソスでメムノン率いるペルシア軍と対峙した。要塞を攻略するため掘に細い橋をかけたが、その橋が壊れたため多数の死者が出たという。要塞を攻略できないアレクサンドロス3世は、それを包囲し続けるしかなかった(最終的にマケドニア側が勝利している)。この要塞と掘の遺跡は、今ではボドルムの観光名所となっている。
アレクサンドロス3世はハリカルナッソスの統治をサトラップを務めていたマウソロス一家、特にマウソロスの妹アダに任せた。その後間もなく、プトレマイオス1世がこの地にギュムナシオンを建てており、市民がプトレマイオス1世を称えて柱廊またはポルチコを建てた例も見つかっている。
ハリカルナッソスはアレクサンドロス3世による包囲攻撃の痛手から完全には回復せず、キケロはその地をほとんど廃墟だと記している。
ローマ時代にはとりあえず廃墟?