カッパドキア(Cappadocia)は地名や集団名というよりある種の概念?
カッパドキアのカルスト状の山
この頃以降になって,南メソポタミアでは初めて土地の私的所有を前提とした耕地の売買や〈タムカールム〉と呼ばれる一種の商業資本家を中心とした活発な商業活動がみられるようになる。
当時のアッシリア商人は、メソポタミア(現イラク)からユーフラテス河を遡り、シリア砂漠の東端を北上するとアナトリア高原に到る路を使って錫や織物をアナトリアに運び、アナトリアから金や銀を持ち帰る様になった。交易の相手は始めはボアズカレのハッティ人であり、後のヒッタイト人であったのだろう。
アナトリア南部から中部には多くの、アッシリアの交易植民市(カールム)が置かれ、交易を支えていた。この交易路を通じメソポタミアの文化がアナトリアに、アナトリアの貴金属がメソポタミアに運ばれた。これは古代オリエントに於けるシルクロードとも言えだろう。
アッシリア商業植民地時代の始まりと終わりは、実はまだよく解っていません。アッシリア商業植民地時代の始まりはアッシリア商人の活動の始まりとして解釈されていますが、メソポタミアとアナトリアの間の商業活動はそれよりずっと古くから行われていた可能性が高いのです。それはアッカド王サルゴン(紀元前2334年~紀元前2279年頃)がアナトリアの都市プルシュハンダの商人の要請によってアナトリアに遠征した事が書かれた文書が出土していることからも伺えます。
カッパドキア(羅:Cappadocia)
トルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。
- 古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokya、ギリシア語:Καππαδοκία)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。例えばヘロドトスの時代には「カッパドキア人」はタウロス山脈から黒海までの全域の住人を意味していたのである。この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していたが、その境界を正確に定義することは不可能である。
青銅器時代からケステル(Kestel)を中心としてスズの産地であった。
タルススを中心とする南部キリキア地方を隔てる位置にあり、トロス山脈に設けられた山道はキリキアの門(Gülek Boğazı)と呼ばれた。
第一次世界大戦中、トロス山脈に設けられたドイツとトルコを結ぶ鉄道は、中央同盟国側にとって戦略上重要であった。戦争の結果、キリキアは一時的にフランス領となる。
- 多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。
カッパドキアという呼称の最初の記録は紀元前6世紀後半に遡る。
- そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世(在位紀元前522年~紀元前486年)とクセルクセス1世(在位紀元前486年~紀元前465年)について3言語で書かれた碑文に、ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。エラム語とアッカド語版の碑文も、類似の名称を含んでいる。
- ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。 彼が言及したカッパドキアの部族の一つはMoschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによると、旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェク(Meshech)に結び付けられ、ここにある「マザカ」という都市はメシェクが訛ったものとされた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章の解説より[1]。『ミシュナー』のw:en:Ketubot 13:11も参照。)
- ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。この分割はクセノフォン(Xenophon、紀元前427年?~紀元前355年?)の時代以前に既になされていた。 ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、両者の区別は恒久化された。カッパドキアは内陸の州(時に大カッパドキアと呼ばれる)に限定され、これのみが本稿の焦点となる。
カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。
- キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域に与えられた名前である。
- ストラボンは、カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。それは カエサレア(元はマザカとして知られた)とテュアナ(Tyana)で、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。
後期青銅器時代には、そこの住人はハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。
- 「紀元前1200年のカタストロフ」によるヒッタイト帝国滅亡後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に彼らをして外国の奴隷制度に適した者とした。
- アケメネス朝のダレイオス1世によって設置された区画の中では第3サトラペイアに含まれたが実態は伴わず、ペルシア王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。
- 紀元前4世紀中頃にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死している。
- やがて単一の統治者アリアラテス1世のもとで独立を回復した。アレクサンドロス3世と同時代の人である。アケメネス朝が滅びた後もカッパドキア王位を維持したが、この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。当人も自らの統治権への暗黙的承認で満足した。
- しかし土着王朝の承認はアレクサンドロスの死後撤回される。その版図の再分割に際して王国はアリアラテスの許可を得ることなくエウメネスのものとなったのである。紀元前322年摂政ペルディッカスはアリアラテスを磔刑に処したが、エウメネスに死をもたらした内紛に託けてアリアラテスの息子が遺産を回復してこれを継承。
- アリアラテス4世の治下に共和政ローマとの関係を持つにいたった。最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。
- 王達はこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗すべく共和政ローマと同盟した。アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスとともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世)に対して軍を進めたが、紀元前130年に殲滅される。彼の死後の混乱が勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。
- カッパドキア人は、ローマの支援を受けつつポントス王ミトリダテス6世に対抗して、紀元前93年後継領主にアリオバルザネス1世を選任したが、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、誰からも所領安堵の認可を受ける事が出来なかった。
- ローマの内戦中にはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従った。その過程でアリオバルザネス王朝は終わりを迎え、代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの権限によって統治した。この従属的独立は紀元17年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となった。
カッパドキア属州は州都をカエサレア(現カイセリ)に置き、1世紀後半にはポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられた。ローマ帝国にとって最北東の属州であり、2個軍団と幾つかのアウクシリア(支援軍)が常駐した。
- 284年皇帝となったディオクレティアヌス(在位284年~305年)は東方属州の再編を行い、カッパドキア属州は元々の属州面積に戻された。
- 330年、カッパドキア属州の東半分がアルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため分離された。
*あれ? これじゃない?
- 371年、ウァレンス帝(在位364年~378年)はさらにカッパドキア属州の南西部をカッパドキア・セクンダ(Cappadocia Secunda)として分離させ、残った北東部にカッパドキア・プリマ(Cappadocia Prima)と名付けた。
- その一方でカッパドキアは幾つもの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒に隠れ場所を提供した。その一方で4世紀のカッパドキアの神父達は、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在となる。
カッパドキアに、最も大きな足跡を残したのは4世紀頃~12世紀頃でこの地に隠棲した、キリスト教徒たちでした。この地域は紀元17年頃に古代ローマ帝国の傘下に入り、産声を上げたばかりのキリスト教も流入します。まだキリスト教の弾圧の激しかった時代、カッパドキアの凝灰岩の大地は柔らかく、内部を掘って住居や教会堂をつくるにはうってつけだったのでしょう。ここに多くのキリスト教徒たちが信仰生活を求めて住みつくようになり、いくつもの洞窟聖堂(キリセ)がつくられはじめます。
こうしたなか4世紀にキリスト教が公認され、ローマ帝国が東西に分裂すると、カッパドキアはビザンチン帝国のキリスト教信仰の中心地のひとつとなり、「カッパドキアの三教父」といわれる聖人も出現しました。なかでも聖バシル(バシレイオス)はギョレメを拠点に、修道士の模範生活の規範をまとめたほか、いまなお「聖大ワシリイ聖体礼儀」として用いられている儀式を整え、聖人に列せられています。
4世紀までの間に1000にのぼるキリセがつくられたといわれ、現在ギョレメにある野外博物館には、現存する大小15ほどのキリセが公開されています。
壁面にびっしりと壁画が描かれたエルマル・キリセ(リンゴの聖堂)や、「偶像禁止令」が発令されていた時代に、鮮やかな弁柄色で十字や植物を描いたバルバラ・キリセなど、保存状態の良いキリセのなかで、とくに見事なのが11世紀建造のカランルク・キリセ(暗闇の教会)。保存状態が良く、キリスト誕生から昇天、最後の晩餐などがまるでタイムカプセルを開けたかのような色彩で、生き生きと描かれています。
この地にキリスト教が入ったのが何時かはっきりしないが1世紀後半のアナトリアでは、キリスト教徒が住民の半分以上を占めていたという。
4世紀になると、カッパドキア東部の町・カイサレア出身のバシレイオス(AD329年~379年)が提唱する新しい修道院活動--統制のとれた規則正しい共同生活の中で積極的に礼拝と勉学・労働に励み、その中で、周りの住民たちとともに信仰生活を送る活動--がこの地に入り、これに同調する修道士たちが社会の中に溶けこんだ修道院活動を押し広げ8世紀にはカッパドキアだけでも10万人にも達する修道士たちが居たという。
こうした活動の拠点となったのが、カッパドキア各地に見られる洞窟修道院だが、そこに残されている壁画などからみて10世紀以降のものがほとんどで11世紀~12世紀が最盛期だったという。
- ローマ帝国が分裂すると東ローマ帝国に従属。535年にユスティニアヌス1世(在位527年~565年)がプリマとセクンダの2つの属州を再び統一のカッパドキア属州として統合した。
- その後イサウリア人による襲撃を受け、7世紀前半までサーサーン朝支配下へ入った。
- サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると再び東ローマ帝国の領土に再び組み入れられ、アナトリコン(Anatolikon)とアルメニアコン(Armeniakon)の2つのテマ制に再編された。
マラズギルトの戦い(1071年)でセルジューク朝が東ローマ帝国を破るとカッパドキアの支配権も移行。セルジューク朝崩壊後、一時期Karamanoğluが支配したが、15世紀までにオスマン朝が支配権を回復し現在はトルコ共和国の領土内にある。
「パサージュ」というか、誰も実際には訪れない「隠れ家には最適の」僻地?