研究が進めば進むほど「紀元前1200年のカタストロフ」とは何か分からなくなっていく悪循環。とにかくそれまでオリエント貿易を独占してきたウガリットやカデシュの様な交易都市が灰塵に帰して再建されず、ミケーネ文明やヒッタイトが滅び、エジプト王朝が衰退期に入り、アッシリアやバビロニアの様なメソポタミアの大国も数百年に渡って雌伏を余儀なくされた事実だけは動きません…
当時、地中海東部(古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土)を席巻した大規模な社会変動。それまでヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がる事で青銅器時代が終焉を迎え、鉄器時代が始まったと考えられている。原因については諸説あり、未だその内容について結論は得られてないが、この社会変動の発生により分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代が始まったのである。
災厄の原因
一応は以下の様な説が有力視されている。
- 気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなった。
- なまじエジプト、メソポタミア、ヒッタイトの勢力均衡が全体を支えていたが故に、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退した。
ドイツ考古学研究所の調査によれば、少なくともミケーネ時代のティリンス激しい地震活動が発生したことが確認されているが、それはあくまで特定の国のみを襲った災厄であり、環東地中海全体が地震によって崩壊したとする説は現実的ではないと考えられている。
フェルナン・ブローデルの分析
以下の3項目に分けることができる。
しかしヒッタイト帝国が崩壊したことで、キリキア、シリア北部で行っていたと考えられている鉄の浸炭は海の民の動乱により各地へ広がった。
- この出来事により鉄器が各地で普及、大衆化された。各地の国家、民族がその製法を手に入れ各地にある鉄鉱石で鉄器を製造したが、この技術革新はそれまで存在した各地の国家の屋台骨を揺るがすこととなった。このことをブローデルは『鉄は解放者であった』と記している。
- 製鉄技術の拡散は各地に技術革新をもたらした。手工業、鉱山業、農業技術、灌漑技術の発達など社会、経済に大きな影響を与えた。しかし、一方で鉄器は武器の「改良」も進めることになった。
ただし鉄の精錬を行うには燃料が必要であり、局地的な生態系の破壊を引き起こす事もあった。
ヒッタイトの崩壊
ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によればヒッタイトの崩壊は紀元前12世紀初頭とされている。このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェルによれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロス、シチリア、カルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャはその痕跡は残っていない。
また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されている。
しかしこれは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない。
ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在している。
- 侵入者がハットゥシャ、カニシュなどあらゆる建物に火を放ったとする説。
*しかし実は流通網さえ破壊してしまえば、中継交易都市などまとめて息の根が止まる。別に全拠点を焼き討ちするまでもないのである。
- ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊した後、アッシリアの攻撃を受けた事によりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊した。
シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルは旱魃と地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している。
さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。
また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる『海の民』らのヒッタイトへ侵入がヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説を否定している訳でもない。
エジプトにおける海の民の襲撃
古代エジプト最大のファラオとも言われるラムセス2世を輩出したエジプト第19王朝(紀元前1293年頃~紀元前1185年頃)末期、エジプトにはマシュワシュ族、リブ族と呼ばれる人々が定住しつつあった。彼らはリビュアのキュレネからの移民であったが、エジプトの支配の及ばない地域であった。
当時の王、ラムセス2世はこれを警戒して砦を築くなどの対策を採っていたが、マシュワシュ族などは商業活動でエジプトと関係していたため、さほど問題は生じておらず、ラムセス2世がヒッタイトと激戦を交わしたカデシュの戦いの際には傭兵として後に『海の民』と呼ばれるシェルデン人(サルディニア人?)も参加している。
しかし、メルエンプタハ王が即位すると風向きが変わった。「イスラエル石碑」によるとエジプトで大規模な飢饉が発生したことで、メルエンプタハはリビュア人らを追い返し、1万人近くを切り殺した。さらに非リビュア系のシェルデン(サルディニア人?)、シェケレシュ(シチリア人?)、トゥレシュ(エトルリア人?)、ルッキ/ルッカ(アナトリア半島西南部に住んでおり、紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世に征服され古代ギリシア語を受容した古代リュキア人?)らの部族も侵入を開始したが、これら移民らの侵入は第20王朝のラムセス3世によってからくも撃退された。
しかし、ラムセス3世の治世(紀元前1186年/紀元前1184年頃~紀元前1156年/紀元前1155年/紀元前1153年頃)、さらなる問題が生じた。この問題はリビュアなどの西側ではなくヒッタイト、シリアなど東側から生じた。これがいわゆる「海の民」による襲撃であった。ただし、この「海の民」は一部の部族のことではなく、少数民族が集まって部族連合を組織したものであったが、彼らはラムセス3世によって撃退された。これらについてロバート・モアコットによれば全ての部族がリビュア(ベルベル人)と関係しており、さらに少人数であったとしており、これらはリビュアに雇われた傭兵隊であった可能性を指摘している。
さらに「海の民」らの侵入はエジプトに留まらず、シリアの諸都市、ウガリット、エマルも破壊された。そしてこの中でもパレスチナには「海の民」の一派であるペリシテ人らが定住することになった。旧約聖書上では否定的に描かれた彼らは実際には優れた都市建築者で鉄器の製造者であり、移住先に先進的物質文化が持ち込まれた。
エジプトにおける王権の衰退
この様に『海の民』自体の襲撃は撃退したエジプト王朝であったが、レヴァントの重要な勢力圏であったシリア、パレスチナへの海の民らの襲撃を防げなかった事はエジプトの王権や民族問題や経済問題に影響を与えた可能性が指摘されている(ただし証拠が少なく確定できない状態)。さらにはラムセス3世の死後即位した第20王朝時代(紀元前1185年頃~紀元前1070年頃)の8人のファラオはラムセス9世とラムセス11世以外揃って短命であった。またラムセス9世の時代、アメン大神殿の壁画のレリーフがラムセス9世の彫像と同じ大きさで描かれ、既にこの時代にはアメン大司祭の権力と王の権力が同等であったことが推測されており王権の衰退が暗喩されている。
そして第21王朝の時代、エジプトは軍事的、経済的に著しく衰退し、紀元前11世紀末にはテーベの神殿でさえもが放棄され朽ち果てることとなる。
その奴隷制への傾倒が衰退の主要因の一つとなったとする説もある。ちなみに新王朝滅亡後のエジプト第3中間期(紀元前1069年頃~紀元前7世紀中旬)には当時の史料に奴隷側として名を連ねるリビュア人(ベルベル人)やヌビア人の王朝が台頭。
ミケーネ文明の崩壊
紀元前13世紀、ミケーネ文明は繁栄していた。しかし、災厄の予兆を感じていたのかギリシャ本土の諸都市は城壁を整えており、アテナイやミケーネでは深い井戸が掘られ、まさに篭城戦に備えているようであった。また、コリントス地峡では長大な城壁が整えられ、ミケーネ文明の諸都市はある脅威に備えていたと考えられる。
ミケーネ文明の諸都市、ミケーネ、ピュロス、ティリンスは紀元前1230年頃に破壊されており、この中では防衛のために戦ったと思われる兵士の白骨が発見された。この後、これらの諸都市は打ち捨てられており、ミケーネ人がいずれかに去ったことが考えられる。このことに対してペア・アーリンは陶器を調査した上でミケーネの人々はペロポネソス半島北部の山岳地帯アカイアに逃げ込んだとしており、アルゴリス、南メッセリア、ラコニアを放棄してアカイア、エウボイア、ボイオティアに移動したとしている。
また、クレタ島にもミケーネ人らが侵入したと考えられており、ケファレニア島西岸、ロドス島、コス島、カリムノス島、キプロス島に移動している。これらミケーネ人の移動により、ミケーネ文明は崩壊した。この民族移動にはさまざまな意見がある。
- ドーリア人らが移動する以前にインド・ヨーロッパ語族がギリシャに侵入していたとする説
- 侵入など存在しなかったとする説
- 海の民の侵入という説。
ミケーネ文明の崩壊についても諸説存在する。文化的な衰退が始まったためにミケーネ文化が「バルバロイ」によって征服されたとする説は19世紀後半文化的退廃理論が発達した時代では人気があった。また、「海の民」の襲撃によって東地中海諸国が荒らされたさいにミケーネもそれに巻き込まれ滅亡したとする説も19世紀には主流であった。
- インド・ヨーロッパ語族であるイリュリア人がバルカン半島に侵入したために先住民がアナトリア、ギリシャへ追いやられた。
- さらにフリュギア人らがヒッタイトを滅ぼした事で、このあおりを受けてアナトリアから追い出された人々が「海の民」であり、この海の民はキプロス、シリア、パレスチナを襲いさらに南下したがエジプトで撃退された。
この説はガストン・マスペロによって主張されたものであるが、都合の良い理論であり現在では主流ではなく、さらに宮殿こそ打ち捨てられているが、都市部にはその跡が見られず、侵入者が定住したことを疑問視する声もある。そしてリース・カーペンターは侵入者などは存在せず、ミケーネ文明が崩壊したのは自然の影響による破局であるとしている。
一方「海の民」の侵入とする説は北方で発生した民族移動によって故地を追い出された古地中海人種やインド・ヨーロッパ語族に属する人々などいろいろな要素を持った人々が集団を形成してギリシャへ侵入したとする説である。これらについては証拠も乏しく、また、海の民自体も侵入した先の人々と融合することにより速やかに姿を消したとしている。
暗黒時代(Dark Age)の到来
紀元前1200年のカタストロフを迎えた環地中海地帯は低迷期を迎える。
- 特にギリシャの衰退は激しかった。それまで使用されていた線文字Bは忘れ去られ、芸術品、壁画、ありとあらゆる文化的なものが失われ、それまで華やかであった土器も単純な絵柄である幾何学文様と化した。
- アナトリアではヒッタイト帝国が崩壊し、エジプトでは全ての保護領が失われ王権は失墜しはじめた。メソポタミアも闇を迎え、好戦的なアッシリア帝国でさえ逼塞を余儀なくされる。内紛の続くバビロニアも思い切っては動けない…
またエジプト、メソポタミア、ヒッタイトといった巨大国家が消失したせいで、近東において小国家が乱立。
- 小アジアではウラルトゥが勃興してアッシリアと激しく戦い、アナトリア高原ではフリュギア人らが勢力を拡大。
ちなみに紀元前585年にスキタイ人がウラルトゥ王国を滅ぼすと、アケメネス朝成立後、アルメニア高原に「アルメニア人」が定住。
- アナトリア半島西部ではヒッタイト遺臣末裔のリュディアが勢力を広げ、シリアではアラム人らが勢力を広げた。
- そしてパレスチナの地域ではイスラエル人らの王国も築かれ「ソロモン王の栄光」を迎える。
これらの激動的変化の要因については答えが未だに確定していない。しかし、東地中海周辺諸国の内外の様々な要因が複雑に絡み合った上で発生したことは間違いない。地質学的には気温と海面の上昇が指摘されており、各地の青銅器時代の「宮廷」社会が崩壊して地域全体の生活、交易、交通の大変化が見られる。それまで宮殿や宮廷を中心に活動していた人々は町を離れたために村落的な社会へと変化、パレスティナ、シリア、ギリシャなどでは牧畜が生業と化した事が考えられている。
*最近これについて「中央アジア乾燥化による現地住人の峻別」すなわち「現地に残って草原の道を闊歩する遊牧民族となるか(それはそれで政争に破れると南下を余儀なくされる)、あるいは反農半牧の定住生活を墨守すべく南に移住するか」みたいな背景があったのではと考えてます。それ自体が「紀元前1200年のカタストロフ」の原因というより、彼らの南下を放置し続けた結果が「紀元前8世紀頃のギリシャ民族の人口爆発→植民市建設ラッシュ」みたいな流れ…
アッシリアの衰退期
紀元前14世紀、アッシリアはメソポタミア北部に割拠するミタンニの圧力に悩まされていたが、ミタンニがヒッタイトの攻撃によって衰退すると勢力を増した。中期アッシリア時代と呼ばれるこの時代、アッシリア王アッシュルウバリト1世はエジプトとの対等関係を要求したことがアマルナ文書で確認されており、紀元前13世紀以降、アッシリアはさらに勢力を増し、シリアへ進出、これはエジプトとヒッタイトの間で友好関係を結ばせる結果となった。
そして紀元前1114年に即位したティグラトピレセル1世はニネヴェへ遷都、中期アッシリア法典を制定するとアッシリアは絶頂期に入ったが、すぐさま衰退期に入る展開を迎える。
ティグラト・ピレセル1世(在位紀元前1115年~紀元前1077年) - Wikipedia
即位した後の最初の5年でアナトリアのミタンニ故地に数多く成立していたフルリ人の小国群に遠征を行ってこれらを征服した他、ユーフラテス川を超えて地中海まで軍を進めた。アッシリアの王が地中海に到達したのはこの時が初めてである。このほかカッパドキア地方のキリキア人を攻撃してこれらも征服。この業績を持って「42の国を征服した」と記録にはある。更にイシン第2王朝(バビロン第4王朝)のマルドゥク・ナディン・アヘ王と戦ってこれを破り、北部バビロニアを獲得した。
彼の時代に「中期アッシリア法典」が作成されたといわれている。これは中アッシリア時代のアッシリア社会を知る上で重要な情報を我々に提供しており、女性に関する規定が多いことで知られる。
しかしこの頃から各地で大規模な飢饉が発生し、それに伴うアラム人の侵入によって国内が混乱した。これに対処するためにたびたび西方遠征を行ったが大きな成果があったのかは不明である。このアラム人の侵入は旧約聖書以外の史料でアラム人について記録されたものとして最古のものである。
紀元前1077年に暗殺され、その後アシャレド・アピル・エクルが王位についた。以降はティグラト・ピレセル2世(紀元前967年~紀元前935年)の代までアラム人に対する敗北の歴史が続く。
紀元前10世紀のアッシュルダン2世(紀元前934年~紀元前912年)以降徐々に革新への動きが見られ、紀元前9世紀前半にアッシュルナツィルパル2世(紀元前883年~紀元前859年)がカルフ(ニムルド)へ遷都するとアッシリアは再び繁栄を迎えたが、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀中旬に再び停滞・現状維持状態に陥ってしまう。
現在のイラク北部ニーナワー県にある、古代アッシリアの重要な考古遺跡。ニネヴェ遺跡の南方、現代の都市モースルより南東30kmにありチグリス川に面している。遺跡の範囲は41平方kmにおよぶ。旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ、Calah, Kalakh)の場所と同定されている。
アッシリア時代にはカルフ(Kalḫu, Kalchu, Kalkhu)と呼ばれる一時期のアッシリア帝国首都。後のアラブ人はこの都市の遺跡を、狩人の英雄でありアッシリア地方の強力な王であったニムロドにちなみ、ニムルドと呼んだ。
アナトリア半島の攻防
ヒッタイト滅の後、フリュギア人らは東部へ定住してアナトリアにおけるユーフラテス川、シリアとの交易ルートを押さえることに成功したが、統一国家を築くことはなかった。
隣接するアッシリアに対抗するべくメソポタミア北部やシリアに割拠するアラム人らと協力することになる。紀元前8世紀後半に王国を築き、ミダス王の時代に最盛期迎えたが、紀元前717年、アッシリアのサルゴン2世との戦いで敗北、さらに紀元前7世紀前半(アッシリア帝国の傭兵として台頭し独立した)キンメリア人らの攻撃を受けて滅亡した。
そしてフリギュア人ら滅亡後、キンメリア人らを追い出し、アナトリアの大部分を占領したのはシロ・ヒッタイト国家群末裔リュディアであった。
シリア、パレスティナの「解放」
ヒッタイトが滅亡し、エジプトが弱体化した結果、北シリアでは(滅亡したヒッタイトの人々がセム系、フルリ系の人々を支配下にしたと考えられている)新ヒッタイト諸国が支配し、中部シリアのハマーもこれにに占領された。
また、アラム人らがユーフラテス川上流、ハブール川周辺へ移住、新ヒッタイト、アッシリアとしのぎを削りながらサムアル、ビト・アグースィ、ビト・アディニ、ビト・バヒアニなどの小国家を打ち建て、さらに紀元前1000年にはシリア中部から南部、さらにはメソポタミア南部にまでその勢力を広げた。
そしてダマスクスがベンハダド2世やハザエルらの時代に勢力を拡大したが、広範囲に広がったアラム人らは結局、統一国家を築くことはなかった。
バビロニアの攻防
メソポタミアでは紀元前1155年、カッシト朝がエラムによって滅ぼされたが、翌年イシン第2王朝(紀元前1157年~紀元前1025年)が勃興、その王であるネブガドネザル1世がエラムに侵攻して短期間ながらスーサを支配した。しかしネブガドネザル1世死後、アラム人らが侵入を開始、バビロンを代表とするバビロニア諸都市は壊滅的打撃を受けた。そして第2海の国、バジ王朝、エラム王朝などが勃興を繰り返したが、これ以降、バビロニアは事実上、暗黒時代を迎える。
その一方で(シュメール人やバビロニア人に倣って紀元前2千年紀頃より楔形文字を使用する様になり、インダス文明とメソポタミア文明を仲立ちする存在になったと考えられている)エラムは隆盛期を迎えており、ウンタシュナピリシャがチョガザンビルに巨大なジッグラトを建設、さらには紀元前12世紀末、シュトルクナフンテがメソポタミアを攻撃、ハンムラビ法典を代表とする戦利品をスーサに運び去り、その子、クティルナフンテがイシン第2王朝を攻め滅ぼした。
以降、バビロニアでは強力な中央権力が存在せず、多くの短命王朝が興亡する不安定な状況が続く。バビロニアの政治的・神学的中心都市はバビロンであり「バビロンの王」がバビロニア王とみなされたが、実際には、諸都市は独立状態にあった。さらに、元々遊牧民であったアラム人やカルデア人の諸部族がバビロニアに定住し、特に(後にその天体観測技術や暦法でギリシャ人の称賛の的となる)カルデア人が政治的に重要な役割を果たす事になるのである。
イスラエルの興亡
イスラエル人の起源には諸説あり、確定したものはない。しかし、紀元前1200年頃、彼らがパレスチナ中央山岳地帯に出現した事は間違いないとされ、それまで牧畜を営んでいた彼らはこの時期に定住して農業を営むようになったと推測されている。
- イスラエル人らは「士師」と呼ばれる指導者を中心にペリシテ人やカナーン人らと戦い、西方へ勢力を伸ばしたが、紀元前11世紀後半、サウルが王に即位して王制へ移行、諸部族統一に成功した。そして紀元前1010年頃に即位したダビデの元でイスラエル王国は躍進し、次王ソロモンの時代に最盛期を迎えたが、ソロモンの死後、王国はイスラエル王国とユダ王国へと分裂。
- そしてイスラエル王国は紀元前722年/紀元前721年に新アッシリア帝国のサルゴン2世によって、ユダ王国は紀元前586年/紀元前587年に新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって滅ぼされた。
新アッシリア帝国のサルゴン2世(Sargon II, アッカド語Šarru-kīn=恐らく「真の王」または「正統なる王」の意, 在位紀元前722年~紀元前705年)も、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II, 本来のアッカド語表記ではナブー・クドゥリ・ウスル(Nabû-kudurri-uṣur), 紀元前634年~紀元前562年)も「(フェニキア人やヘブライ人に存続を危ぶませた)メソポタミア起源の多民族帝国」。当時は他に以下の様な大国が互いに鎬を削り合っていた。
- アナトリア西方に割拠するシロ・ヒッタイト末裔国リュディア/リディア(古希Λυδία, 英:Lydia; , 紀元前7世紀~紀元前547年)…アナトリア半島沿岸部のギリシャ人植民地を圧迫し、戦費支払の為に世界で初めて硬貨(コイン)を導入した(金と銀の合金たるエレクロン貨)。ヘロドトスはリュディア人のことを「我々の知る限り金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の人々であり、また最初の小売り商人でもあった」と記述。
- イラン北西部から現れた謎多きメディア王国(Media、古代ギリシア語:Mēdía/ Μηδία、古代ペルシア語:Māda、アッカド語:Mādāya, ?~紀元前550年)…アケメネス朝ペルシャ(古波𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš=ハカーマニシュ、古希 Ἀχαιμένης=アカイメネース, 紀元前550年~紀元前330年)に取って代わられる。
- アッシリア支配下より脱した臣下が立てたエジプト第26王朝(サイス朝, 紀元前664年~紀元前525年)…古王国時代の美術を手本とした伝統回帰運動たるサイス・ルネサンスで知られる。
ヌビア人が建てたエジプト第25王朝(紀元前747年~紀元前656年)を新アッシリア帝国が駆逐し、さらにその新アッシリア帝国が滅ぼされた後に自立を宣言。
リヴィア人(ベルベル人)王朝で、ギリシャ人(特に東方様式時代を牽引したドーリア人商圏)と親密だった事で知られる。最終的には全ての国がアケメネス朝ペルシャに併呑されて新しい時代が始まった。アナトリア半島沿岸部のギリシャ人植民地を後援するギリシャ本土の都市国家連合との対立が悪化する一方、中東のフェニキア系諸都市はアケメネス朝ペルシャに形成逆転の望みを託す。
海の民の襲撃によって荒廃した紀元前13世紀~紀元前12世紀の東地中海に「フェニキア人の地中海商圏」が立ち現れてくるのは、まさにこんな時代だったんですね。フェニキアの都市は難民を受け入れてその規模を拡大し、西方へ進出。そしてライバルとしてギリシャ人とローマ人が台頭…