イベリア半島のアンダルシア地方の中心を流れるのはこの川…
グアダルキビール川(Guadalquivir) - Wikipedia
スペイン・アンダルシア州を流れる河川。全長は657kmであり、イベリア半島では5番目、アンダルシア州のみを流れる河川としては最長である。流域面積は56,978km2。
- ローマ時代にはバエティス(Baetis)と呼ばれた。
- ギリシアの地理学者からは伝統に従って「タルテッソスの川」と呼ばれる事もあった。
現在の名称は、アラビア語で「大きな川床」を意味する「al-wādi al-kabīr(الوادي الكبير)」に由来している。古典アラビア語Wadi(ワジ)は、現代アラビア語マグリブ方言ではOuedと発音される。
そう、フェニキア人が交易を独占した伝説の地たるタルテッソス(希 Τάρτησσος, 羅 Tartessus)と結び付けて考えられているのですね。
データはほとんどないものの、他の地中海民族と同様に、多神教の宗教であったと推定されている。
- タルテシュ人は、フェニキアの文化的な変容の結果として、女神アスタルテ(Astarte)またはポルニア(Potnia)と男性の神バアル(Baal)またはメルカート(Melkart)を崇拝したと考えられている。
- フェニキアの建築に触発された聖域はCástulo(リナーレス、ハエン県)とCarmonaの近くに発見された。
カディス、ウェルバ(Huelva)、セビリア(Sevilla)において、フェニキアの神々のいくつかの彫像が発見されている。
謎多き古代イベリア人とケルト人の邂逅からケルティベリア(ケルト・イベリア)文化が生まれ、フェニキア商人やギリシャ商人やカルタゴ商人との金属交易を通じて発展。最終的にはローマ属州となります。
スペインのケルト人
ガリシアという地名は、ローマ時代イベリア半島のカライキイ族に由来。
部族ごとに住み、青銅技術、農業、金属加工術を備えていた古代イベリア人はやがて都市化し、金属(製品)をフェニキア人、ギリシャ人、カルタゴ人と貿易した。
ケルト人が紀元前1000年紀に2度にわたってイベリア半島を訪れる。古代イベリア人が南部に住み続ける一方、ケルト人が北部と西部に定住した結果、中央部で文化がミックスされケルティベリア(ケルト・イベリア)文化が生まれ、東部沿岸にも広まった。古代イベリア人、ケルティベリア人は地中海広範囲にわたって貿易を行い、イベリア陶器がフランス、イタリア、北アフリカで見つかっている。
ギリシャ文化からも多くを学び、墓所から発掘された「エルチェの貴婦人(紀元前5世紀)」「バーサの貴婦人(紀元前4世紀)」像はギリシャの芸術様式の影響が顕著に見える。
イベリア人とケルティベリア人は第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)の後、しばらくしてからカルタゴに支配され、第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)ではハンニバルの軍勢に兵隊を送った。
その後、カルタゴに代わってローマの勢力が入りむが、当初その実質的支配は地中海に面した海岸部と、半島の南部に限られていた。しかし第一次ケルティベリア戦争(紀元前181年~紀元前179年)、第二次ケルティベリア戦争(紀元前153年~紀元前133年)、ヌマンティア戦争(紀元前153年~紀元前133年)」など幾たびもの戦争を通じて支配を広げ、1世紀までかかって全域をローマの属領にした。
ちなみにヌマンティア戦争期、ヒスパニアの西側ではルシタニア戦争(紀元前155年~紀元前139年)が続いている。
現在のポルトガルおよびスペイン西部(現在のエストレマドゥーラ州)に該当するルシタニア(羅Lusitania)に最初にやってきた人種はルシタニ族と呼ばれている。インド・ヨーロッパ語族という事から紀元前6世紀頃アルプスより移動してきた可能性が指摘されているが歴史学、考古学としてはいまだ時代の裏付けは定まっていない。
カルタゴの傭兵として初めてティトゥス・リウィウスの記述に登場。紀元前179年、第一次ケルティベリア戦争でルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスがルシタニ族を撃破した功績で凱旋式を敢行している。紀元前155年にはジブラルタルまで南下し紀元前153年に同地のプラエトルルキウス・ムンミウスに敗れた。そしてセルウィウス・スルピキウス・ガルバが同盟を結ぶと騙してルシタニ族を破り、捕虜にした者を奴隷として売り払うとこれがさらなる反乱を引き起こした(ルシタニア戦争)。その後紀元前113年にデキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクスとガイウス・マリウスが勝利を挙げ、この頃までにルシタニアの大部分がローマ領となった。
紀元前70年代にローマへ反乱を起こしたクィントゥス・セルトリウスが支配体制を強固にし、紀元前60年にはガイウス・ユリウス・カエサルがルシタニ族やガッラエキ族を討伐。最終的にアウグストゥスによってイベリア半島全域がローマの支配下に入り、イベリア半島は3分割され北東方は「タッラコネンシス」、南方は「バエティカ」、西方は「ルシタニア」と名付けられた。ルシタニア属州の州都はエメリタ・アウグスタ(Emerita Augusta、現:メリダ)に置かれた。
皇帝ネロの時代にはネロの友人でもあったオトが総督としてこの地域を統治、善政を布いたがタッラコネンシス総督ガルバがネロに反旗しオトもガルバを支持、ネロは元老院より「国家の敵」と宣言され自殺。ユリウス・クラウディウス朝は断絶し内戦の幕開けとなった。
余談だがこの名を持つイギリス船籍の客船に起こった「ルシタニア号事件(1915年)」が、第一次世界大戦におけるアメリカ参戦(1917年)の契機となる。
ケルト系ともいわれる。569年ガリシア中北部のルーゴで開かれた宗教会議には「ブリトン人の教区(セデース・ブリトノールム)」が記され、572年のブラーガでの宗教会議では、マイロックという人物が、「ブリトン人の教会の司教(ブリトネンシス・エクレシアエ・エピスコプス)」として署名した。こうした記述は、移住してきたブリトン人が集団で居住し、そこに教会なり修道院があったことを想像させる。
ブリトン人の司教の名は、633年のトレドの宗教会議から675年のブラーガの第三回宗教会議まで見られる。以降まったく見られなくなるが、ブリトン語は次の世紀まで使われ続け、9世紀のノルマン人襲来によって壊滅してしまったというのが研究者の見解である。
第二次世界大戦後、ブルターニュ中南部アン・ノリアン(ロリアン)の町で開催され続けている「インターケルティック・フェスティヴァル(ケルト文化交流祭)」には、伝統的なケルト文化圏六地域(ブルターニュ、コーンウォール、ウェールズ、スコットランド、マン島、アイルランド)のほかに、ガリシアとアストゥリアスが参加しているが、この歴史的経緯がもとになって、加わっているのである。ただし現代ガリシア語はれっきとしたロマンス系言語で、そこにケルトの痕跡はほとんどない。
現在のスペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。
その歴史
古代ローマ時代には、属州ヒスパーニア・バエティカの首都であった。現在でもローマ寺院やローマ橋などの遺跡が遺されている。
スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州のムニシピオ(基礎自治体)。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都であり、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。金銀細工の伝統工芸品「ダマスキナード」がある。
ダマスキナードの呼称は、世界古代文明の一つチグリス・ユーフラテス川の流域に位置し、イスラム文化の中で最高の装飾工芸を育んだダマスカス (現 シリア)の地名から「ダマス物」として呼ばれ継がれた事に由来します。ダマスカスの地から発祥した工芸技術は、東は中国、西はスペインへと広がっていきました。実際、その技術は、紀元前のギリシャ人にも知られており、ホーマーの ”イリアダ”という作品にも既に述べられています。
金銀を巧みな技術で象嵌加工した装飾品は、世界文化遺産の地、トレドで大輪の花を咲かせ、貴重で価値ある工芸品となりました。
8世紀~15世紀にイスラムの文化、思想、宗教の影響を強く受けたトレドにあって、特に技術継承を受け、そこで創作され成長したのがアクセサリー・家具・ペーパーナイフ・甲冑・剣・額絵・皿・水差し・花瓶などへの象嵌細工だったのです。
- 先史時代から人が住みローマ領邦となってからは「トレトゥム」と呼ばれた。
- 西ゴート王国がイベリア半島を支配したのち、560年にアタナヒルド王によって首都とされた。400年に第1回トレド教会会議が開かれたが西ゴート時代にもたびたび教会会議が開かれた。これによりトレド司教座の権威が高まり、イベリア半島全体の首座大司教座となった。
- 711年ウマイヤ朝の指揮官ターリク・ブン・ジヤードによって征服され(グアダレーテの戦い)、イスラム支配下に入った。1031年後ウマイヤ朝が崩壊すると、タイファ諸国の1つトレド王国の領域となった。
- 1085年カスティーリャ王国による長期の包囲ののちトレドは降伏し、カスティーリャ国王アルフォンソ6世が5月26日にトレドに入城した。
- サグラハスの戦い(1086年10月23日)でムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーン率いるイスラム軍の救援部隊の前にアルフォンソ6世は敗走したものの、カスティーリャはムラービト朝の攻撃からトレドを守り抜いたため、トレド征服はレコンキスタの節目の1つとなっている。
- 12世紀~13世紀にトレド翻訳学派と呼ばれる学者集団が活躍した。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の共同作業によって、古代ギリシア・ローマの哲学・神学・科学の文献がアラビア語からラテン語に翻訳され、この成果が中世西ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな刺激を与えた。
- とりわけ、トレド出身であるカスティーリャ王アルフォンソ10世は翻訳を奨励、アラビア語のラテン語翻訳からカスティーリャ語(現在のスペイン語)翻訳に移り変わり、後にカスティーリャ語が公用語に定着していった。トレド翻訳学派の拠点はアルフォンソ10世の支援で広がり、セビリア、ムルシアにも翻訳研究の学校が設立された。
- 鉄製品、特に剣の生産でも有名となり、現在でもナイフなど鉄器具の製造の中心地である。
トレド征服以降、カスティーリャ王国やスペイン王国は定まった首都を持たず、トレドは一時的な宮廷の所在地であった。1561年フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、マドリードが首都として確定し、トレドはゆるやかに衰退を始め、現在に至っている。
とりあえず以下続報…