「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「紀元前1200年のカタストロフ」以前のオリエント世界

 なんと「ハルマゲドン」概念の起源はこの時代にまで遡るのです。

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これまでの投稿では中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン1332年~1406年)のアサビーヤعصبية 'aṣabīyah)論における「部族的紐帯が強固な辺境住民による中央都市住民の打倒が繰り返される王朝循環史観」の影響もあって古代エジプト/古代メソポタミア文明の本質を「天文観測によって農業歴を保守し続ける神殿宗教の神官達が維持する(何人たりとも抜本的改変を許されない)奴隷制灌漑農業」としてきました。

  • 紀元前8世紀以降現れた多民族帝国は、こうした頑固な生産単位が服従を拒絶する場合には「神殿破壊」「住民の強制移住」「かくして生じた空白地帯への異邦人の植民」なる抹殺手段を選択する様になっていく。

  • その結果、アラム人ヘブライディアスポラ化し、かつヘブライ人はそれでも宗族的アイデンティティを喪失しない為に「啓典の民」に移行する。

こうした「メソポタミア起源の多民族帝国」の大源流も、当然この時代まで遡れます。

アッカド帝国はメソポタミア、レバント、アナトリア半島に影響を与え、アラビア半島のディルムンとマガン(現代のバーレーンオマーン)へ軍事遠征を行った。 紀元前3千年紀頃シュメール人アッカドとの間にはかなり親密な文化的共生関係が発達し、話し言葉としてのアッカド語は徐々にシュメール語に置き換わっていった(正確な年代は論争中)。

アッカド帝国は、建国者サルゴンによって征服された後の紀元前2400~2200年頃に最盛期を迎える。サルゴンとその後継者の支配下で、アッカド語は短期間の間エラムグティなどの近隣の被征服国家にまで強要された。この時期におけるその意味は正確ではないにせよ、アッカド帝国は歴史上最初の帝国と見なされることもある。

そしてアッカド帝国滅亡後、メソポタミア人は最終的に北のアッシリア、そしてその成立の数世紀後に登場した南のバビロニアなる2種類のアッカド語ネイティブに分類される様になっていく。

いずれにせよ初めてシュメールを統一したアッカド帝国(紀元前2334年~紀元前2154年)も、シュメール人が建てた後継のウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)も滅ぶとアモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)となり、北部アッシリアと南部バビロニアの地域差が表面化してくるのです。

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南部バビロニアは概ね「アモリ人王朝カッシート人王朝アモリ人王朝カルディア人王朝」とアサビーヤ論的王朝交代を積み重ねていきます。

これに対し、アモリ人同士の党争が北部アッシリアにまで及んだ事は、結果としてヒッタイトなる鬼子を解き放ってしまった?

いずれにせよ「紀元前1200年のカタストロフ」が迫りくる時期にはどちらも不調。代わってヒクソス支配(紀元前17世紀~紀元前6世紀)を脱したエジプト新王国紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)と、アナトリア半島を本拠地にシリアを支配下に置いたヒッタイト(Hittites, 紀元前16世紀~紀元前1180年)が雌雄を決する時代を迎えます。

ちなみに当時のエーゲ海方面はこんな感じ。

紀元前20世紀にはクレタ島ミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀クレタ島を占領した。

この頃よりクレタ文明の影響下、カナン(パレスティナ)地方では「イスラエル民族の祖先アピル人(紀元前15世紀/紀元前14世紀)が、アフリカ北岸では古代リヴィア人の暗躍が始まります。おそらく確実に「エジプト異民族王朝ヒクソス」「海の民」「ペリシテ人」などの成立と深く関わってくる話なのですが、詳細は明らかになっていません。

かかる不穏な動きとは裏腹に、当時のオリエント世界においてはアッシリアの交易ルートを巡って、エジプト王朝がシリアを含むメソポタミア北部(その支配階級がインド・アーリア語派の出自を持つと推定される)を支配したフルリ人国家ミタンニ/ミッタニヒッタイト語Mitaanni/Miittani、アッシリア語Ḫanigalbat(ハニガルバト))やアナトリア半島を支配するヒッタイト(Hittites)などがカナン人都市国家メギド(英語Megiddo, ヘブライ語מְגִדּוֹ, アラビア語المجیدو, 紀元前7000年~紀元前586年)カディシュQadesh/Kadesh)の帰趨を巡って戦争を繰り広げたのです。

カディシュの戦い(紀元前13世紀) 戦闘開始まで

①メギドの戦い(紀元前1457年/紀元前1482年/紀元前1479年)…古代エジプトアッシリアを結ぶ貿易ルート(狭い峠の西側)の帰趨を巡ってシリアでエジプトのファラオたるトトメス3世在位紀元前1479年頃~紀元前1425年頃)の軍勢とカナン連合カディシュ、メギド、ミタンニ)が激突。カナン連合軍は大敗を喫っし、カデシュを含めたシリア南部の都市国家群がエジプトの覇権下に入った。

②カデシュの王とエジプトのファラオアメンホテプ4世/アクエンアテン在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)の間に交わされた書簡がアマルナ文書の中に残っている。アマルナ文書など同時代の記録にはスッタルナSuttarna、紀元前1350年頃)、エタッカマEtakkama、紀元前1340年代頃)、アリ=テシュブAri-Teshub、紀元前1330年 - 1325年頃)なる3人のカデシュ王の名が伝わっており、自らをエジプト王の臣下と述べている。

  • 一方、ミタンニ王国は政略結婚によって安泰を計ろうとした。その一部始終がアマルナ文書に記録されている。

  • 王国がヒッタイトの攻撃により疲弊した時期に即位したアルタタマ1世王の娘はトトメス4世(トトメス3世の孫)と結婚。理由は不明だがエジプト側の申し出に対して7回連続で断り続けたという。

  • アルタタマ1世の息子スッタルナ2世王の娘ギルキパ(Gilukhipa)はエジプト王アメンホテプ3世トトメス4世の子)と結婚。王国は権力と繁栄の頂点を迎えつつあり、多額の持参金を持参したという。北の国境から侵入しようとしたヒッタイトの撃退にも成功。

  • シュッタルナ2世の息子トゥシュラッタダシャラッタ, 紀元前1380年~紀元前1350年頃)王の娘タドゥキパ(Tadukhipa)はアメンホテプ3世の結婚の申し出を受けたが、アメンホテプ3世は到着前に死亡。その息子アメンホテプ4世アクエンアテン)の2番目の后になった。王妃キヤ王妃ネフェルティティに比定される。

  • 一方、ヒッタイトシュッピルリウマ1世(在位紀元前1355年頃~紀元前1320年頃)は領土を三倍に広げ、自国をオリエントでエジプトに次ぐ大国へと育て上げた。そして北シリアの交易拠点都市ウガリットを傘下に納めて従属条約を締結すると、婚姻外交によってバビロン第3王朝カッシート)と同盟を結んでミタンニへ侵攻。トゥシュラッタの政敵アルタタマ2世(在位紀元前14世紀後半)をミタンニ王に即位させ、新たな国境線を定める条約を締結した。トゥシュラッタは逃避行の最中に息子の一人に暗殺されたという。アルタタマ2世の息子シュッタルナ3世が、ヒッタイトの属国となったミタンニ王国を継承。

  • 紀元前1330年頃にはこのシュッタルナ3世がかつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリアアッシュール・ウバリト1世紀元前1363/1365年~紀元前1328年/1330年,  ミタンニの圧力からの解放もあって数百年ぶりにまとまった記録が残る)との連携を当て込んでヒッタイトからの独立を宣言。しかし期待は裏切られヒッタイトに撃破され、トゥシュラッタの弟シャッティワザマッティワザ)がヒッタイトのシュッピルリウマ1世の庇護下で即位した。

  • その後ミタンニ王シャットゥアラ1世は遠征してきたアッシリアアダド・ニラリ1世紀元前1307年~紀元前1275年, アッシュール・ウバリト1世の息子)に全土を支配下に置かれ臣従。紀元前1300年頃シャトゥアラ1世が死去すると後継者となったワサシャッタが貢納を打ち切り、ヒッタイトの後援を受けて蜂起したがこれも敗った。その後、分裂後の首都タイデを占領し、ワサシャッタの家族等王族をアッシュール市へ連れ去った。その治世の間に領土がユーフラテス川にまで達した。

  • アッシリアシャルマネセル1世在位紀元前1274年~紀元前1245年, アダド・ニラリ1世の息子)はミタンニ王国の残存領土に注目。紀元前1263年に遠征を開始し、ヒッタイトの庇護下にあったシャトゥアラ2世王を撃破し旧領全域を手中に収めた。危機感を募らせたヒッタイトハットゥシリ3世は、バビロニアカッシート朝)王カダシュマン・トゥルグと同盟を結び、エジプトに娘を嫁がせて対アッシリアの備えを固めたがシャルマネセル1世バビロニアに勝利。アッシリアの拡大に歯止めにはならなかったのである。

    アッシリアトゥクルティ・ニヌルタ1世在位紀元前1244年~ 紀元前1208年,, シャルマネセル1世の息子)は「征服王」の名で知られる。即位するとすぐに父の拡大路線を受け継いで各地への遠征を遂行。とりあえずザグロス山脈方面とウラルトゥ方面への遠征成功により銅と馬を確保した。さらに紀元前1235年頃年代については諸説あり)条約を破ってアッシリア国境を超えたバビロニアカッシート朝)のカシュティリアシュ4世王を返り討ちにして首都バビロンまで追撃。カシュティリアシュ4世を捕縛するとバビロニアを征服し膨大な戦利品を獲得した。更にバビロニアの同盟国であり、かねてより緊張が続いていたヒッタイトとも戦端を開く。西進してユーフラテス川を越え、ヒッタイト領に侵攻。ヒッタイトトゥドハリヤ4世との戦いでこれを破り北シリアへも領土を拡大した。しかし治世末期には内部対立が激化。紀元前1208年頃、息子の一人によって暗殺され死去。さらにその息子も殺され、別の息子アッシュール・ナディン・アプリが即位したが以降はティグラト・ピレセル1世在位紀元前1115年~紀元前1077年)まで短命王が続き、記録もそれまで途絶えてしまう。

③しかしカデシュアメンホテプ4世没後エジプトに属さず、ツタンカーメン(紀元前1342年頃~紀元前1324年頃)とホルエムヘブ(在位紀元前1323年~紀元前1295年)は両方ともヒッタイトからカデシュを奪回するのに失敗。

④エジプト第19王朝第2代王セティ1世(在位紀元前1294年~紀元前1279年)のシリア遠征では、都市を防衛しようとするヒッタイト軍を破りカデシュを攻め落とした。セティ1世は息子ラムセス2世とともに意気揚々と市内へ入り、勝利の記念碑を建てたが、この勝利は一時のもので、セティ1世がエジプトに帰るとすぐにヒッタイトの王ムルシリ2世(在位紀元前1322年頃~紀元前1295年頃, シュッピルリウマ1世の息子)が南へ進軍しカデシュを占領。ヒッタイトは、カルケミシュに置いた副王を通じてカデシュを支配し、カデシュははシリアにおけるヒッタイトの要塞と化した。

こうしてカデシュ紀元前13世紀の大国同士の決戦である「(古代世界の戦争の中で最も多くの文献が残る)カデシュの戦い」の舞台となる。およそ150年にわたりエジプトの臣下であったのにヒッタイトの宗主権の下へと離反したため、対立する二大国の間の最前線となってしまったのだった。

カデシュの戦い(紀元前1285年):古代エジプト軍VSヒッタイト…世界最古の戦車戦。エジプト軍2000両ヒッタイト3500両もの戦車を投入→両者痛み分け。史上初の講和条約が結ばれる。

ちなみにこの時代から活訳したフェニキア人都市といったらビブロス

とはいえ、当時西アジア地中海世界との接点として栄えていたのは、あくまでエジプトとヒッタイトの間を上手く往復し金属貿易としてタウロス山の銀エジプトの金キプロスの銅を独占し続けた都市国家ウガリットウガリット語: 𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、英: Ugarit, 全盛期紀元前1450年頃~紀元前1200年頃)だったとされています。