「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】アモリ人の興亡

お手本はシュメール人のこれ辺り。

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<『世界の歴史』1 中央公論社 前川和也 1998 p.190>

シュメール人がウルを中心に独立を回復し、メソポタミアを支配した王朝(紀元前2112年~2004年)。ウルに都をおいた三番目の王朝という意味でウル第3王朝と言う。

  • アッカド帝国(紀元前2334年~紀元前2154年)の衰退(最終的にアッカド語圏は北部がアッシリア、南部がバビロニアに分裂)に乗じてウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われシュメール法典「ウル=ナンム法典」ともいう)が編纂された。

  • 法に基づく行政や裁判も行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。

5代約100年続いた後、紀元前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラムによって滅ぼされた。

紀元前22世紀末シュメール人ウル第3王朝時代に編纂された世界最古の法典。バビロニアハンムラビ法典に先行する。

  • 紀元前22世紀末~紀元前21世紀メソポタミアを支配したシュメール人のウル第3王朝のウル=ナンム王の時、最初の法典の整備が行われた。このウル=ナンム法典と言われるもの世界最古の法典編纂である(なおこの法典を次の王シュルギの時とする異説もある。)。

  • シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト=イシュタル法典紀元前20世紀)などを経て、古バビロニア王国ハンムラビ法典につながっていく。

ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものであり、世界最古の法典ではない。法典の整備ということが、領域国家の出現と結びついていることに留意しておこう。

 正義の維持者としての王

メソポタミア文明のなかで国家の形成が進み、国王が国家権力を握る王権が成立した。その王権のあり方(正統性)は、シュメール都市国家段階では、都市国家の防衛と豊饒と平安の確保という責務を果たすことにあった。そのためには神々を祀り、神殿を建設し、灌漑施設や運河を造営することが王権に不可欠であった。

シュメール人のウル第3王朝の時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家の段階となる。この段階での「国家の防衛と豊饒・平安の確保」に加えて、新たに「“正義”の維持」が王の責務に加わった。

国王は神格化され、神の機能の一部を担うこととなった。そしてシュメールの王たちは、王の責務を明らかにするために、法典を制定した。この「正義」について、中田一郎氏は『メソポタミア史入門』で次のように説明している。

<中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書 p.107>

ここでいう正義とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときは、その正義を回復することが、王の責務となったのです。

シュメール法の系譜

メソポタミアにおける、ハンムラビ法典に至る方の整備の過程は同書によると次のようになる。

<中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書 p.108~111> 

ウルナンム法典

メソポタミア最古の法典。ウル第3王朝初代の王ウルナンム在位紀元前2112年~紀元前2095年, ウル=ナンムとも表記)が作らせた法典で、シュメール語で書かれている。現在のこっているのは断片的な粘土板だけであるが、その前書きに「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声の原因を取り除いた。私は国王として正義を確立した」と述べている。

リピト=イシュタル法典

イシン王朝第5代の王リピト=イシュタル在位紀元前1934年~紀元前1924年)が作らせた法典で、シュメール語で書かれた粘土板写本が数点残っている。この前書きでも「そのとき、アヌム神とエンリル神は、国土に正義を確立し、正義を求める叫び声の原因をなくし、憎しみと暴虐を取り除き、シュメールとアッカドの地に福祉をもたらすために、……リピト=イシュタルを召命した」と書かれている。

エシュヌンナ法典

アッカド語で書かれたエシュヌンナの王が定めた法典。この王の治世年は不明だが、ハンムラビ王の始めと一部重なる可能性がある。粘土板写本3本だけで法典の意図はまだわかっていない。

ハンムラビ法典

ハンムラビ法典は4番目に古い法典で、古バビロニア王国バビロン第1王朝)のハンムラビ王の時に作られ、アッカド語で書かれている。その前書きでハンムラビ王は、みずからの責務を「国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために」神々から召し出されたと述べ、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために……わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べ、ハンムラビ法典の作成意図が社会正義の確立と維持にあったことを明言している。

で「真似して同化した人達」の歴史…

アムル人英: Amorite

主に紀元前2000年期前半に中東各地で権力を握った諸部族の名称。アッカド語ではアムルAmurrū)、シュメール語ではマルトゥmar.tu)と呼ばれる。旧約聖書にはアモリ人もしくはエモリ人の名で登場し、ハムの子であるカナンの子でありカナンの諸部族の一つとされる。なお、アラム人と混同されることが多いが、全く別ものである。

  • アムル語はアフロ・アジア語族の北西セム語に分類されるが、彼らはウル第3王朝の後継者という意識を強く持ち、シュメール的な宗教観・王権観を強く受け継いだ。そのためアムル人によって建てられたイシン第1王朝などでは碑文や法典などほぼ全てがシュメール語によって書かれた。その後も彼らは行政語その他にほぼシュメール語やアッカド語を用いたため、アムル語の記録はあまり残されていない。
  • アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名であり、そこから二次的に西の方角をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになった。それが転じ、メソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになったとされる。
  • アムル系と見られる人名はウル第3王朝時代から記録に登場し、傭兵等様々な形でメソポタミア社会に入り込んでいた。ウル第3王朝の後半には多数のアムル人が都市部を含むメソポタミア周辺地域へと定住していき、同王朝は度重なるアムル系部族の侵入に対して城壁の建造や撃退のための遠征を行っている。

シュメール人達の記録にはしばしば野蛮人として記録される。あるシュメール語の碑文には以下のように記述される。

マルトゥの手は破壊的であり、その特徴は猿のものである。…敬意を表す事を知らず、神殿を憎悪する…麦を知らず、家も町も知らぬ山の住人であり、神域の丘でキノコを掘り起こし、膝を曲げること(耕作)を知らず、生涯家に住むこともなく、死者を埋葬する事も知らない。…

 彼らとの戦いはウル第3王朝衰退の一因ともなったが、一方で傭兵労働者、更には役人としてメソポタミア全域に浸透していった。

  • ウル第3王朝末期にはウルの上級役人にもアムル人が採用された。
  • 紀元前2千年紀にはメソポタミア各地でアムル系の王朝が成立。
  • アムル系王朝の時代ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシンラルサバビロンマリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立した。ただし、アムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではない。彼らは互いに覇権を争う競合関係にあったのである。実際、アムル人が再建した交易国家マリは、同じくアムル 人が起こした第1バビロン王朝のハンムラビ王が滅した。ただしこれを契機に次第にメソポタミア中流域を牛耳るカッシートが力を蓄え始め、紀元前1595年バビロン第1王朝ヒッタイトの攻撃を受け崩壊し混乱状態に陥るとバビロン第3王朝(紀元前1475年頃~紀元前1155年)を開闢する。

  • アムル人が具体的にどのような経過を辿って権力を握ったのかについて正確にわかる事は少ない。確実にいえる事は、ウル第3王朝の滅亡以後、メソポタミアで権力を握ったほとんど全ての王達がアムル系であった事である。

アムル人の中でも有名な人物にはアッシリアシャムシ・アダド1世やバビロンのハンムラビがおり、ハンムラビは自らを「アムルの王」と称した。ハンムラビ法典で知られる「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたという説が有力である。

  • これらの王がアムル人より輩出されて以降もアムル人メソポタミアへの流入は続きメソポタミアにおけるアムル人の割合は増加した。
  • しかしながら、総じてアムル人の浸透はシュメール・アッカド以来の王権、宗教観に決定的な影響は与えず、むしろアムル人達はシュメール・アッカドの文明を受け入れ同化していく事になる。

バビロニアアッシリアに移住したグループは紀元前17世紀頃までに現地人と同化してアムル系である事が意味を持たなくなった。しかし、シリア地方に残ったグループは紀元前12世紀頃まで記録に残っている。

イシンシュメール語: I3-si-inki, Isin

紀元前20世紀に繁栄したメソポタミア南部の都市だが、シュメール時代のイシン王については知られておらず、「イシン王朝」といえば、主にウル第三王朝衰退に乗じて独立を果たした南部メソポタミアのアムル人国家「イシン第1王朝」のことを指す。都市神はグラ(Gula。Nintinugga, ニンイシンナとも)。

シュメール時代

現在のイシャン・アル・バフリヤト遺跡がイシン市であるとされている。20世紀に2度の大規模発掘調査が成され、ジッグラトや宮殿が発見されている。最古の居住跡はウバイド時代にまで遡るが、シュメール時代までの歴史を明らかにする情報はほとんど存在しない。

イシン第1王朝

イシン市が歴史に名を現したのはウル第三王朝末期頃からであり、同王朝の将軍であったアムル人イシュビ・エッラ紀元前2017年頃にイシン市を拠点に独立(イシン第1王朝)したのを契機に、メソポタミア政治史に大きく登場することとなった。これ以後、バビロン第1王朝(紀元前1830年~紀元前1530年)の王ハンムラビがメソポタミアを統一するまでのアムル 人王朝乱立期イシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)と言う。

  • ウル第三王朝最後の王イビ・シンの治世において、王朝は西からのアムル人の侵入と東からのエラムの攻撃に曝され、その対応に追われた。さらに紀元前2022年頃、シュメール地方で大規模な飢饉が発生すると、王朝の弱体化は如何ともしがたい様相となった。イビ・シン王はウル第三王朝に仕えていたアムル人イシュビ・エッラに食料調達を命じて彼をイシン市に派遣したが、イシュビ・エッラは反旗を翻し、イシン市を拠点にウル第三王朝から独立しイシン第1王朝を開闢。弱体化したウル第三王朝にはこれを止める術はなく、イビ・シン王は彼の独立を承認せざるを得なかった。
  • 紀元前2004年エラムがシュメールに侵入し、イビ・シン王は敗れエラムに連れ去られた。エラム人は南部メソポタミアの都市を破壊して支配下に置いた。このウル第三王朝の滅亡は『ウル市滅亡哀歌』などの文学作品を通して語り継がれた。

  • しかしエラム人は南部メソポタミアから更に支配領域を拡大することはなかった。独立勢力を築いていたイシン王イシュビ・エッラは、エラム人の北上を食い止めることに成功。逆に攻勢に出てエラム人をシュメールから排除し南部メソポタミアの大部分を手中に収めた。イシュビ・エッラ以降のイシンの歴代王は、ウル第三王朝の後継者たることを主張し、マラドやウルクなど混乱の中で独立していた周辺国を次々と制圧していく。

イシン王たちはシュメールの後継者をもって任じ、紀元前20世紀前半、南部メソポタミア最大の国家として栄えた。この時代に発布されたリピト・イシュタル法典は、ハンムラビ法典ウル・ナンム法典と並び、人類最古の法律文書として名高い。しかし第5代リピト・イシュタルの治世にラルサが独立。

紀元前1944年頃ラルサ市でアムル人ザバイアが支配権を握り、その次のラルサ王グングヌムの治世になるとラルサ王朝は急激に勢力を拡大した。グングヌムはイシン王リピト・イシュタルと南部メソポタミアの覇権を巡って激しく争った。

  • ウル市争奪戦…特にその初期の戦いで焦点となった。ウルは旧ウル第三王朝の都であり、「ウル第三王朝の後継者」という立場を取る両王朝にとっては大義名分を支える政治的意味合いが強かった上に、ペルシア湾を通じた交易の拠点でもあり、戦乱で損傷していたとはいえその支配権は重大問題だったのである。この戦いはラルサの勝利に終わり、イシンはペルシア湾への出口を失った。
  • ニップル市争奪戦…続いてシュメールの最高神であり、王権を授けるとされたエンリルの神殿があった宗教都市ニップルを巡ってまたも両王朝が争ったが、ここでもラルサが勝利し、イシン第1王朝の覇権の芽は潰えた。
  • マリ争奪戦…ユーフラテス川中流域の重要拠点マリでは紀元前19世紀中旬までに支配権を確立したアムル系ハナ族のヤギト・リムと、やはりアムル系で隣接するテルカを勢力範囲としたイラ・カブカブと同地の支配権を巡って争った。彼らは周辺のアムル系部族をそれぞれ味方につけて争ったが、この戦いはイラ・カブカブの敗北に終わり、彼はエシュヌンナ方面へ逃れ、マリ市にはヤギト・リムが「リム王朝」と呼ばれる王朝を開いた。
  • エシュヌンナの隆盛…イシンよりも早く紀元前2025年頃にはシュ・イリア王の下でウル第三王朝から独立していたエシュヌンナ市は南部メソポタミアイシンラルサが争っている間、周辺のアムル系部族などとの婚姻外交によって基盤を固め紀元前19世紀中旬イピク・アダド2世と、続くナラム・シンの下で東部メソポタミアに勢力を拡大した。エシュヌンナ法典と呼ばれる古い法典がこの時期のエシュヌンナから発見されている。同じ時期にマリ近辺での勢力争いに敗れたイラ・カブカブの勢力がエシュヌンナの領域に侵入し、イピク・アダド2世らはこれらを撃退すべく戦争を繰り返した。
  • バビロン第1王朝の台頭と最初の挫折紀元前1894年頃メソポタミア中部の都市バビロンでやはりアムル人の王スムアブムが独立勢力を築くことに成功(バビロン第1王朝)。この時点では地方の一都市に過ぎなかったが、スムアブムとその後継者達が城壁の建造を始め各種の建築事業を通じこの都市を首都に相応しく造り変えていく。周辺には他にもキシュカザルマラドシッパルなどでアムル系の王朝が成立していたが、これらとの戦いに勝利し中部メソポタミアに勢力を伸ばす。スムアブム治世下においてカザルは破壊され、次の王スム・ラ・エルの治世までにはシッパルも征服しキシュと争った。サビウムの治世には南方のラルサとも戦い、この時は勝利を収めたが紀元前18世紀の再戦に敗れて拡大路線は頓挫してしまう。当時のバビロン王シン・ムバリットはラルサに対抗するために、既に弱小国となっていたイシンやウルクと同盟を結んだが、ラルサの英主リム・シン1世はこの同盟軍を破り、紀元前1802年にはウルクが、紀元前1794年にはイシン第1王朝がラルサに併合されて滅亡し、バビロンも国境を大きく後退させる。
  • アッシリア王シャムシ・アダド1世の台頭…エシュヌンナに侵入していたアムル人イラ・カブカブの勢力は、彼の死後息子のシャムシ・アダド1世によって受け継がれた。この頃には彼らの支配する領域はエシュヌンナの北側に移動しており、シャムシ・アダド1世はエカラトゥム市を拠点にアッシュール市を攻略しアッシリアの王位についた。当時アッシリアは錫を中心とした交易によって経済的繁栄を享受しており、それを基に彼は活発な征服活動を行っていったのである。
  • メソポタミア統一…シャムシ・アダド1世の征服活動の中でも最大のものがマリに対する攻撃である。父イラ・カブカブと争ったヤギト・リムは既に亡く、その息子ヤフドゥン・リムが王位についていた。両者の争いは激しかったが、最後にはシャムシ・アダド1世が勝利し、紀元前1801年頃、マリはアッシリア支配下に入った。更に周辺領域も統合して、ここに北メソポタミア全域を支配する大国が出現。当初シャムシ・アダド1世と敵対していたエシュヌンナを始め多くの国がアッシリアと同盟関係を結び、また幾つかの国は属国となった。バビロン王シン・ムバリットの後を継いだハンムラビ王もまた、シャムシ・アダド1世との友好関係維持に著しい努力を払い、当時の彼が造った碑文にはシャムシ・アダド1世が連名で登場する。また、西方の国カトナもアッシリアの同盟国となった。しかしアッシリアシャムシ・アダド1世紀元前1781年に死去するや瞬く間に弱体化し、その覇権は失われた。これによって「一人で十分強力な王はいない」といわれる群雄割拠の状態が到来。
  • マリ王国復活シャムシ・アダド1世がマリを併合した時、ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムは西の大国ヤムハドアレッポ)へと亡命していた。マリはシャムシ・アダド1世の息子ヤスマフ・アダド支配下にあったが、シャムシ・アダド1世の死後、ジムリ・リムがヤムハドとバビロンの支援を受けてヤスマフ・アダドを倒し、マリ王位を取り戻した。ジムリ・リムアッシリア時代からの行政機構を拡充し、周辺の遊牧民を傘下に納めてマリは再び大国の地位を取り戻した。

ラルサ王朝によってイシン第1王朝が滅ぼされた後、イシンはハンムラビ率いるバビロンによって制圧されるも、以後バビロニアの重要都市の一つとして存続。カッシート朝バビロン第3王朝)時代にも、この都市が地方の中心地であったと考えられる。

ハンムラビの征服 - Wikipedia

バビロン第1王朝(紀元前1830年~紀元前1530年)の王ハンムラビが即位した紀元前1792年、既に北方ではアッシリアシャムシ・アダド1世が、南方ではラルサのリム・シン1世がその最盛期を迎えており、バビロンはこれらに挟まれて厳しい立場にあった。

  • シャムシ・アダド1世との友好関係維持に細かく注意を払い、その支持を得て南のラルサに対抗。紀元前1784年頃までこの路線を続けつつイシンウルクウルなどを攻略しバビロンの勢力を拡張。さらにエシュヌンナとも戦って領域を拡張。

  • シャムシ・アダド1世が没するとその息子たちを見限り、マリのジムリ・リムに接近して同盟を結んだが、当然シャムシ・アダド1世の支援ほどの効果は得られず、大規模な軍事活動など起こせなかった。その後20年前後にもわたり、ほとんど専ら国内整備と防御に時間を費やす。

転機となったのは紀元前1764年の戦いである。この年、エシュヌンナ、アッシリアグティ人、エラムなどの同盟軍がバビロンを攻撃。マリの支援もあってこの戦いに勝利したハンムラビは、やっと待ち望んでいた行動の自由を得たのだった。

  • 翌年、一挙に南下してラルサのリム・シン1世を打ち破りラルサを併合。
  • 続いて長年にわたる同盟相手であったマリのジムリ・リムも滅ぼしてマリを併合。
  • 紀元前1757年頃にはエシュヌンナ市を水攻めで完全に破壊し、アッシリアへも出兵してこれを征服(征服した範囲については明確ではない)。

こうして極めて短期間の征服活動の末に再び全メソポタミアを支配する王朝が登場し、バビロン市がメソポタミアの中心都市として舞台に登場する展開を迎えたのだった。

ちなみにこの時代に各地で自立した王朝によってそれぞれの都市神の地位が向上され、新たな神々も登場しました。バビロンの都市神マルドゥクやエシュヌンナの都市神ティシュパク、そしてアッシリアの神格化された都市アッシュール。かくして「国土統治権は神に帰する」なる概念が誕生したのです。

イシン第2王朝

カッシート朝バビロニア(起源前1475年頃~紀元前1155年)滅亡後、この都市を拠点にしたアムル人王朝がマルドゥク・カビト・アヘシュによって再び成立した。これをイシン第2王朝バビロン第4王朝)と呼ぶ。ただしマルドゥク・カビト・アヘシュはイシンの出身ではあったが、イシン第2王朝の王たちは基本的にバビロンを拠点としている。
この王朝の中でも最も高名な王はネブカドネザル1世(在位紀元前1125年頃~紀元前1104年頃)であり、エラムに侵攻して短期間ながらスーサを支配した。カッシート朝滅亡時にエラムによって奪われていたバビロンの都市神マルドゥク神の神像も取り戻し、マルドゥク神祭祀が復活。この事はバビロニアにおいて政治的にも宗教的にも重大な意味をもっていたらしく、ネブカドネザル1世の勝利を扱った文学作品が多数残されている。

 しかしネブガドネザル1世死後、アラム人らが侵入を開始、バビロンを代表とするバビロニア諸都市は壊滅的打撃を受けた。そして第2海の国バジ王朝エラム王朝などが勃興を繰り返す暗黒時代を迎える。

その一方でエラムは隆盛期を迎えており、ウンタシュナピリシャがチョガザンビルに巨大なジッグラトを建設、さらには紀元前12世紀末シュトルクナフンテメソポタミアを攻撃、ハンムラビ法典を代表とする戦利品をスーサに運び去り、その子、クティルナフンテイシン第2王朝を攻め滅ぼしてしまう。

以降、バビロニアでは強力な中央権力が存在せず、多くの短命王朝が興亡する不安定な状況が続く。バビロニアの政治的・神学的中心都市はバビロンであり「バビロンの王」がバビロニア王とみなされたが、実際には、諸都市は独立状態にあった。さらに、元々遊牧民であったアラム人やカルデア人の諸部族がバビロニアに定住し、特に(後にその天体観測技術や暦法ギリシャ人の称賛の的となるカルデア人が政治的に重要な役割を果たす事になるのである。

アムル王国

紀元前15世紀末レバノン北部に位置する歴史的シリア内部の山岳地域においてアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国された。

  • 遊牧民を主体としながら海岸に位置する近隣諸都市からの逃亡者を受け入れることで軍を強化し、内陸部に位置する諸都市へと拡張した。
  • アブディ・アシルタ死後の混乱期を越えて王国を取りまとめたアジルの時代になると、当時超大国であったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となった。

その後紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたが「紀元前1200年のカタストロフ」によるによる社会の混乱によってアムル人の独立国家は消滅してしまう。

ヤムハドYamhad, Jamhad, Yamkhad

古代のシリアにあったアムル人の王国。その中心はハルペハラプ、ハルパ)の街(現在のハラブ、別名アレッポ)にあった。アムル人のほかにもフルリ人が住んでおり、フルリ文化の影響がみられる。

  • 青銅器時代中期、紀元前19世紀頃~紀元前17世紀後半頃にかけて栄え、南の王国カトナと争った。

  • 最終的に紀元前16世紀ヒッタイトにより滅ぼされる。

ヤムハド王国の中心はハルペ今日のアレッポ)で、その周辺の広い範囲を勢力圏としていた。その正確な範囲は分からないが、主に現在のシリア北部からトルコ南東部が領域だった。

  • シリア砂漠の北「肥沃な三日月地帯」の北部一帯を占め、豊かな農業地帯のほかメソポタミアから地中海を結ぶ交易路を手中に収め、1世紀半にわたり北シリア・北メソポタミアに君臨する豊かで強力な国家となった。
  • キプロス島中央アジアアナトリアレバノンの山から切りだされる木材エーゲ海メソポタミア奢侈品などがもたらされ、こうした物資を中継したほか、周囲の農村からの穀物織物などを各地に輸出した。
  • フルリ人も多く、アムル人の信仰するヤムハドの主神・風の神ハダドHadad、アッカド語: アダド)のほかに、フルリ人の信仰する同様の風の神テシュブTeshub)が祀られた。アレッポ人が信仰した神は、メソポタミアの東にあるヌジから地中海側のウガリット、北の小アジアに至る幅広い範囲で信仰される風神が土着化したものである。

中東に広がる風神信仰の中心地であり交易の中心地という好条件のそろうハルペは、紀元前3千年紀後半アッカドの王ナラム・シンによりシュメール人が建設した古い交易都市国家エブラが破壊された後、エブラに代わるこの地方の中心都市へと浮上した。

  • 紀元前19世紀メソポタミア北西部の強国マリの王ヤフドゥン・リムの時代、ヤムハドの王スム・エプフとの貢納関係がマリ文書には記録されている。スム=エプフの後継者ヤリム・リム1世は、カトナのイシ・アッドゥ王とともに、アッシリアシャムシ・アダド1世と同盟を組んだ。シャムシ・アダド1世はマリを征服したが、マリ王ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムはヤムハドのヤリム・リム1世のもとに逃げた。ジムリ・リムはヤリム・リム1世の一族と婚姻関係を持ち、ヤムハドの後ろ盾を得てシャムシ・アダド1世没後のマリヤスマフ・アダドから奪還した。
  • 紀元前1770年前後ジムリ・リム時代の外交関係などを記した粘土板文書がマリから大量に出土したが、この文書からヤムハドがバビロンラルサエシュヌンナカトナなどと並ぶオリエントの大国だったことがうかがわれる。ヤリム・リム1世とその息子ハンムラビ1世バビロン王のハンムラビとは別人)は、マリなどとともに、バビロンの王に即位しメソポタミアに覇を唱えたハンムラビとも同盟を組んだ。マリが滅んだあとも勢力圏を拡大しオリエントの大国の地位を維持した。

ヤムハド王ハンムラビ1世の息子アッバエルは兄弟のヤリム・リム2世に北の都市アララハを与えているが、紀元前1750年頃に反乱に遭い、ハルペは破壊された。

  • 紀元前18世紀中旬~紀元前17世紀紀元前1650年頃)には、再建されたハルペとヤムハド王国についての記録は少ない。
  • 北のアララハにはヤムハドの王家から分かれたヤリム・リム2世の子孫の王朝が築かれたが、ここから出土した文書にヤムハドは言及される。この時期ヤムハド王国アララハ王国を従えていた。ヤムハドの地位を揺るがす出来事は少なかったが、東に勃興するフルリ人の国家群との争いが起こっている。

一方、北にあったヒッタイト王国では、ハットゥシリ1世紀元前17世紀後半に即位し、南へ遠征を開始した。

  • 彼はヤムハドの影響下にあった都市多数を陥落させ、ヤムハドの属国アララハを破壊した。
  • 数年後、再び北シリアへ軍を向けヤムハドを攻撃し、ハッシュワHašuwa / Hašum)の街でヤムハドの援軍と戦いこれを陥落させた。
  • こうした戦いの過程でアムル人やフルリ人の神だったハダドなどの神像が戦利品としてヒッタイトに持ち去られたが、ヒッタイトではこれらの神像とその信仰が広がり、ヒッタイトの土着宗教と融合することになる。

ハットゥシリ1世の跡を継いだムルシリ1世は、ハットゥシリが完遂できなかったヤムハド征服への努力を続けた。

  • ヤムハドの名はこの時代までは文献などに登場するが、ヤムハドの終焉がいつ訪れたかについては明らかでない。
  • この200年後ヒッタイトの王となったムルシリ2世在位紀元前1322年頃~紀元前1295年頃)の時代にムルシリ1世によるハルペ破壊が記されているがその正確性には疑問もある。
  • この後のヤムハドについては、ヒッタイトによる破壊の1世紀後に再建されたアララハの王イドリミの石碑(現在は大英博物館に所蔵されている)に言及されている。
  • それによれば紀元前16世紀末~紀元前15世紀初頭の時期、ハルペの王子だったイドリミエマルへ逃れ、カナンなどを放浪した後、ミタンニの王バラタルナ紀元前1470年頃 ~紀元前1450年頃)の臣下となり、支援されてアララハに自らの王朝を築いたとされる。

ヤムハド自身による記録は少なくヤムハド王国の首都の遺跡も見つかっていない。ヤムハド王国の文書庫や王宮は、あるとすればおそらく今もアレッポ市街の地下のどこかに埋もれていると考えられる。

アレッポアラビア語: حلب(Halab) ['ħalab], トルコ語: Halep、フランス語: Alep, イタリア語・英語: Aleppo

現在はシリアシリア・アラブ共和国)北部にある都市。トルコとの国境に近く人口は2008年現在約167万人とシリア最大の都市といえる。

  • アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。
  • シリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。
  • かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。

もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。

  • 紀元前1800年から居住が始まり、ヒッタイトの記録にも記されている。ヤムハド王国の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアムル人王朝紀元前1600年頃に倒れるまで続いた。
  • 同じアモリ人が再建したエブラ(紀元前2000年頃再建。最盛期紀元前1850年頃~紀元前1650年/1600年再滅亡)隣国アルミArmi、当時のアレッポの呼び名)の文書双方に条約を結んだことが記されている。

  • 紀元前800年頃までヒッタイト(シロ・ヒッタイト諸国)の支配下に。

  • 次いでアッシリア帝国、ペルシア帝国の支配下に置かれる。
  • 紀元前333年セレウコス朝によって古代ギリシア人の支配するところとなり、セレウコス1世はこの都市をベロエアと改称。その支配は、紀元前64年にシリア地方がローマ帝国に征服されるまで続いた。

その後東ローマ帝国の一部となったが、637年にアラブ人によって征服された。

1517年時点での人口は約5万人だった。アレッポでは欧州の羊毛とイスラム圏の綿花が交換された。

  • 商業発展にともなう公式・非公式のカピチュレーションが領事館を増やしていった。1548年ヴェネツィア共和国の、1562年フランスの、1583年イングランド王国の、1613年オランダの領事館が設置された。
  • 1722年サファビー朝が崩壊して、イランの絹は減産した。

そして近代の「シルクロード」は広東システムにとって代わられた。

近現代

エジプト・シリア戦役(1798年~1801年)に際して、フランス商人は財産・諸特権を没収・剥奪され拷問にかけられたが、シドニー・スミスがフランス人釈放を交渉した。

アレッポ第二次世界大戦近代的都市計画により計画都市へと変貌。

  • 1952年フランス人建築家・都市計画家でボザールおよびパリ大学都市計画研究所の教授だったアンドレ・ギュトンAndre Gutton)は、近代的な自動車交通に対応するよう、町並みを貫くように何本かの広い車道を計画した。

  • 同年、ハーフィズ・アル=アサドが地元飛行仕官学校へ入学。

  • 1970年代には、古い町の大部分が近代的なアパート街区建設のため破壊された。一方で再開発に反対する住民運動により、1977年には旧市街を分断する道路計画に変更が加えられた。残った市街地の保全が公私の資金で進み、1986年にはアレッポ市街は世界遺産に登録された。急激な開発は外資の受容だけでなく治安対策もかねた。すなわち、アレッポハマー虐殺発端の一地域であった。

1977年には国際農業研究協議グループ傘下の国際乾燥地農業研究センターが置かれているが、次節のシリア内戦でベイルートに避難した。

シリア内戦

2011年から続く内戦に端を発した政府軍と反体制派(自由シリア軍)との対立は、2012年7月下旬アレッポ市内にも拡大。

  • 一部では市街戦の様相を呈したため、市民の多くが市街地から避難を余儀なくされた。2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が発生し、歴史的な店舗の大半は消失した。

  • 2013年には市内においてアルカーイダ系組織のアル=ヌスラ戦線の活動が活発化。同年4月、同組織と政府側が大モスクウマイヤド・モスク)をめぐり攻防を行う中でミナレットが爆破された。また、モスクの宝物が盗まれる被害が出ている。

  • 2014年以降空爆などにより市街地が破壊され、多数の犠牲者が発生している。

2016年12月22日、政府軍がアレッポの全域を奪還したと宣言。

 それにつけてもシリア4千年の歴史って、本当に闘争ばっか何ですね…