まさしく古代メソポタミア文明の有史時代とそれ以前の狭間…
ウルク(Uruk)
メソポタミアにかつて存在した古代都市。現在のイラク領ムサンナー県のサマーワ市からおよそ30キロメートル東にある。
- シュメールおよびバビロニアにおける有力都市であり、この地方における最大級の遺跡の1つである。元来はユーフラテス川の流路の南西に位置していたが、この古代の流路は現在では干上がっており、今のワルカ遺跡はユーフラテス川の北東にある。これは、歴史上のある時期にユーフラテス川の流路が移動したことによるものであり、この流路変更がウルクの衰退の一因であったかもしれない。
- ウルク期の標式遺跡。紀元前4千年紀、シュメールでは都市化が進んだが、その際に指導的役割を果たした。
- 最盛期の紀元前2900年頃には、6平方キロメートルの広さの市壁内に50,000~80,000人が住み、当時において世界最大の都市であった。
- シュメール王名表(シュメール王朝表)から得られる編年に従えば、伝説的な王ギルガメシュは紀元前27世紀にウルクを支配した。
- 紀元前2000年頃のバビロニアとエラムの戦争によりその重要性を喪失。
セレウコス朝(紀元前312年~紀元前63年)およびパルティア(紀元前227年~紀元後224年)の時代を経てイスラームのメソポタミア征服(西暦633年~638年)直前まで人が居住し続けていた。
地名
ウルク(楔形文字:𒌷𒀕 または 𒌷𒀔、URUUNUG)はシュメール語でウヌグ(Unug)、アッカド語でウルク(Uruk)と呼ばれた。その地名は現代に至るまで比較的原型を保っており、アラビア語ではワルカ(アラビア語: وركاء または أوروك、Warkāʼ または Auruk)と呼ばれている。
- 『旧約聖書』ではエレク(אֶרֶךְ, ʼÉreḵ)と呼ばれており、その伝承ではニムロドが創建した都市の1つとして登場する。聖書の物語を歴史学的に裏付ける研究が盛んであった19世紀、この地名の一貫性が古代のウルク、聖書のエレク、現代のワルカを同定することを容易なものとした。
- ヒエロニムス(4世紀)のような古代の学者はエレクをシリアの都市エデッサ(オルハイ、現:トルコ領)に同定していたが、現在では、エレクは南メソポタミアのシュメール都市ウルクであることが定説となっている。
- 1849年にこの遺跡を訪れたウィリアム・ケネット・ロフタスが『旧約聖書』のエレクがワルカ遺跡であると特定した。また、ギリシア語の文献ではオレク、オルカ、オルコエ、オルゲイア(Ὀρέχ / Orekh、Ὄρχα / Orcha、Ὀρχόη / Orkhoē、Ὠρύγεια / Ōrugeia)等と呼ばれている。
古代のバビロニアを含む現代のイラク(アル=イラーク)という地名は、ウルク(Uruk)から派生したとする見解もあるが、イラクという地名の語源には様々な説明が行われており、ウルクから派生したとする意見が特に有力というわけではない。イラクの語源としてはアラビア語のアラカ(araqa、汗をかく、深く根差す、潤いのある、等の意)に由来するとする説明や、中世ペルシア語のエラーク(erāq、低地)に由来するとの説明もある。
ウバイド期(紀元前5500年頃~紀元前3500年頃/紀元前4000年頃)
ウルクは歴史上初めて文字記録が行われた地域の1つであるが、その歴史は文字の登場よりも遥かに早く始まっている。少なくとも前5千年紀にはウルクでの居住が始まっていたことが確認されている。
- この時代はウバイド期(ウバイド村落文化、紀元前5500年頃~紀元前4000/紀元前3500年頃)と呼ばれ、南部メソポタミアでの本格的な居住が開始され始めた時期である(最も初期の居住跡はテル・ウェイリ遺跡で発見された前6千年紀後半のもの)。
- ウルクの最初期の層は発掘調査が不十分であり、その具体像を描きだすのは難しい。この理由としては、イラクの政情不安によって新たな発掘が妨げられていることや、同じ場所に多数の建物跡が堆積していることで、より古い時代の層を調査することが困難なこと、遺跡の地下水位が高いことなどが挙げられる。
後世の神話においてはウルクの建設は神話的な王エンメルカルと結びつけられている。
「シュメール王名表」には、「メスキアッガシェルの子、ウルクを建設した者、ウルクの王、王となって420年在位」した王として、エンメルカルが記録されている。
ウルク期(紀元前3500年頃/紀元前4000年頃~紀元前3100年頃)
まさにこのウルクの遺跡から名を取ってウルク期(ウルク文化)と呼ばれる時代。メソポタミアにおける都市形成が飛躍的に進み、ウルクはこの人類史上初の都市化と国家形成の潮流の中心にあった。
- シュメール神話「エンメルカルとアラッタの領主」において、ウルクの「建設者」エンメルカルは、文字(楔形文字)による記録体系を発明した王としても語られている。無論、これは史実ではないが、最初期の文字の痕跡もウルク期のウルクから発見されている。ウルクで発見された古拙的な絵文字は、その後の楔形文字の原型となった。
- 前例のないウルクの成長は、地理的要因によって支えられていた。ウルク市は古代文明が栄えたメソポタミアの南部、ユーフラテス川沿いにあり、ザグロス山脈の丘陵地帯から得られた野生種の穀物が緩やかに、かつ最終的に栽培種化され、広範囲に灌漑技術が普及したことにより多種多様な食用植物を生産するようになっていた。穀物の栽培化と河に間近に迫る立地により比較的容易に人口と面積の双方においてシュメール人の最大の居住地となったのである。
発掘調査によって、ウルク市は中心部の東西2つの神殿域を備える特異な構造をしていたことが明らかになっている。現代の研究者は、後の初期王朝時代にそれぞれの場所に立っていた神殿の名前に基づいて東側の神殿域をエアンナ地区、西側の神殿域をアヌ地区と呼んでいる。
- この都市はウバイド期の2つの小さな集落が合体して形成されたと考えられ、それぞれの中核にあったイナンナ神とアヌ神に捧げられた神殿複合体がエアンナ地区とアヌ地区へと成長したと目されている。
エアンナ地区と合体する前は、アヌ地区は元々クッラバ(Kullaba)、あるいはクラブ(Kulab)、ウヌグ・クラバ(Unug-Kulaba)などと呼ばれていた。その建設はシュメールで最も古い重要都市の1つであるエリドゥの建設と同時期に年代づけられる。
エリドゥ(紀元前5000年~紀元前2050年)
ケイト・フィールデン(Kate Fielden)は、次のように報告している。
- 紀元前5000年頃最初期の村落が形成され、紀元前2900年までには、広さ8~10ヘクタール(20~25エーカー)の都市に成長した。その頃の都市の建物は、壁がレンガ造りで屋根は萱葺きとなっていた。 そして紀元前2050年までには、都市は衰退した(外部から侵略された形跡がないため、「衰退」と考えられえる。)。
グウェンドリン・レイク(Gwendolyn Leick)によれば、もともとは3つの異なる生活様式をもった集団が相互に交流し、合流することによって形成されていったという。
- 第一の集団は農村集落であり、起源は最も古い。これらの集落は北方からきたサーマッラー文化に由来する灌漑農業が基盤になっていると考えられる。彼らは運河を建設し、日干し煉瓦による建築を行った。
- 第二の集団はペルシア湾沿岸の漁労・狩猟文化に立脚していた。これら集団の存在は、海岸沿いに貝塚が広く分布していることに裏付けられている。彼らは葦の小屋に居住していたとみられる。
- 第三の集団は羊・山羊を放牧していた遊牧民の一群であり、エリドゥの建設に貢献した。彼らは半砂漠地域にテントを張って居住していた。
これら3つの集団は、エリドゥ市建設の最初期において、相互に交流関係が見られた。また、市の郊外においては、導水設備を伴った小さな窪地の中に日干し煉瓦で建設された大寺院を中心に、上記三者とは別に宗教的な集団が拠点を持っていた。
ところでシュメール都市文明の成立期、すなわちウバイド期(紀元前5500年頃~紀元前3800年)の主要都市エリドゥからウルク期(紀元前3500年~紀元前3100年)の主要都市ウルクへ「メー(文化の恵み)」の移転事件があり、それが前者の衰退による終焉と後者の発展の開始を決定付けたとする伝承が存在します。
メソポタミア神話において、イナンナは知識の神エンキの誘惑をふりきり、酔っ払ったエンキから、文明生活の恵み「メー(水神であるエンキの持っている神の権力を象徴する紋章)」をすべて奪い、エンキの差し向けたガラの悪魔の追跡から逃がれ、ウルクに無事たどりついた。エンキはだまされたことを悟り、最終的にウルクとの永遠の講和を受け入れた。この神話は、太初において、政治的権威がエンキの都市エリドゥ(紀元前4900年頃に建設された都市)からイナンナの都市ウルクに移行するという事件(同時に、最高神の地位がエンキからイナンナに移ったこと)を示唆していると考えられる。
そして所謂「ウルク型都市」が模倣によってチグリス・ユーフラテス川流域の至る所で複製され、運用される様になって「メー(文明の恵み)」の独占は敗れ、シュメール文明が始まったという次第。ここで案外重要なのは「農民と狩猟民と遊牧民の合同文化」から始まるせいで、粘土板に刻まれた状態で発見される様々な当時の「物語」も単純に「(草木としての地上生活と種としての地下生活を繰り返す農作物に死と再生のイメージを重ねた農民向けの)豊穣儀礼譚」とか「(超自然的な助力を得て大収穫を達成する狩人や漁師向けの)収穫祈願譚」みたいな典型的枠組みに収まってないケースが多い事かもしれません。
イナンナとドゥムジの求婚
イナンナの結婚相手候補には牧夫ドゥムジと農夫エンキムドゥの2人がおり、兄シャマシュは牧夫は素晴らしいとしてドゥムジとの婚姻を勧めた。だがイナンナの「牧夫なんか嫌よ」と言った。どうやらドゥムジのことは気に召しておらず、エンキムドゥの方に少しばかり思いを寄せていたようである。ドゥムジ自身は自分の方が農夫より優れていると言うが、エンキムドゥの方は控え目だった。ドゥムジにイナンナを譲ると言い、祝福の品もたくさん用意すると約束した。こうしてイナンナはドゥムジと結婚することになった。
*当時の伝承には「蛮人は迂闊に都会で暮らそうとすると、たちまち騙されて労働奴隷にされてしまう。郊外に住んで果樹園を経営したり、狩漁の獲物を売って暮らす道を選びなさい」とアドバイスする内容のものもある。こういう方向に「物語とは伝統的宗教儀礼の背景にある思考様式に被せる別種の糖衣」的な硬直思考から脱却し「現実をありのまま直視して適切な対応を考える」リアリズムがを打ち出す作品が現れるのも、あるいは「農民と狩猟民と遊牧民の合同文化」がもたらした異化作用のせいかもしれない。
イナンナの冥界下り
天界の女王イナンナは、理由は明らかではないものの、地上の七つの都市の神殿を手放し、姉のエレシュキガルの治める冥界に下りる決心をした。冥界へむかう前にイナンナは七つのメーをまとい、それを象徴する飾りなどで身を着飾って、忠実な従者であるニンシュブルに自分に万が一のことがあったときのために、力のある神エンリル、ナンナ、エンキに助力を頼むように申しつけた。
冥界の門を到着すると、イナンナは門番であるネティに冥界の門を開くように命じ、ネティはエレシュキガルの元に承諾を得に行った。エレシュキガルはイナンナの来訪に怒ったが、イナンナが冥界の七つの門の一つを通過するたびに身につけた飾りの一つをはぎ取ることを条件に通過を許した。イナンナは門を通るごとに身につけたものを取り上げられ、最後の門をくぐるときに全裸になった。彼女はエレシュキガルの宮殿に連れて行かれて、七柱のアヌンナの神々に冥界へ下りた罪を裁かれた。イナンナは死刑判決を受け、エレシュキガルが「死の眼差し」を向けると倒れて死んでしまった。彼女の死体は宮殿の壁に鉤で吊るされた。
三日三晩が過ぎ、ニンシュブルは最初にエンリル、次にナンナに経緯を伝えて助けを求めたが、彼らは助力を拒んだ。しかしエンキは自分の爪の垢からクルガルラ(泣き女)とガラトゥル(哀歌を歌う神官)という者を造り、それぞれに「命の食べ物」と「命の水」を持って、先ずエレキシュガルの元へおもむき、病んでいる彼女を癒すよう、そしてその礼として彼女が与えようとする川の水と大麦は受け取らずにイナンナの死体を貰い受け、死体に「命の食べ物」と「命の水」を振りかけるように命じた。クルガルラとガラトゥルがエンキに命じられた通りにするとイナンナは起き上がった。しかし冥界の神々はイナンナが地上に戻るには身代わりに誰かを冥界に送らなければならないという条件をつけ、ガルラという精霊たちが彼女に付いて行った。
まず、イナンナはニンシュブルに会った。ガルラたちは彼女を連れて行こうとしたが、イナンナは彼女が自分のために手を尽くしたことと喪に服してくれたことを理由に押しとどめた。次にシャラ神、さらにラタラク神に会うが、彼らも喪に服し、イナンナが生還したことを地に伏して喜んでだため、彼らが自身に仕える者であることを理由に連れて行くことを許さなかった。
しかし夫の神ドゥムジが喪にも服さず着飾っていたため、イナンナは怒り、彼を自分の身代わりに連れて行くように命じた。ドゥムジはイナンナの兄ウトゥに救いを求め、憐れんだウトゥは彼の姿を蛇に変えた。ドゥムジは姉のゲシュティンアンナの元へ逃げ込んだが、最後には羊小屋にいるところを見つかり、地下の世界へと連れ去られた。その後、彼と姉が半年ずつ交代で冥界に下ることになった。
*これも原型が農民向け豊穣儀礼譚の典型ともいうべき「(一般にエレウシスの秘儀の別糖衣と目されている)ハデスとペルセポネとデメテルの物語」なのは明らかだが、肝心の主要機能に関わる部分で原型を留めてない。しかも後世に「七枚のベールの踊り=ストリップ」なるジャンル概念を残した問題作という…
さらに最近知って驚いたのが、社会人類学者ジェームズ・フレイザーの労作「金枝編(The Golden Bough, 1890年)」的意味合いで「地母神が為政者を選ぶ」概念すらアモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)における、それぞれの都市国家の守護神の称揚合戦を通じて「再発見」されたものかもしれないという観点でした。
この時代には各地で自立した王朝がそれぞれの都市神の地位を向上させ、新たな神々も登場させてきた。バビロンの都市神マルドゥクやエシュヌンナの都市神ティシュパク、そしてアッシリアの神格化された都市アッシュール。それに付帯して「国土統治権は神に帰する(そして選んだ為政者にその権利義務の地上における代行権を付与する)」なる概念も広まった。
もちろん一般にアッシリア、すなわちアッカド北部の場合は終始一貫して「国土統治権は神に帰する(そして選んだ為政者にその権利義務の地上における代行権を付与する)」なる概念が保たれたと考えられています。
ギリシャ神話の主神ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)の配偶神が「バール(Baal=男主人)/バーラト(Baalat=女主人)」神話構造上対となる天空の女神ディオーネー(古希: Διώνη, Diōnē, 実は語源的には主神ゼウスの呼称の女性型に過ぎない)から(おそらくペロポネソス半島の地母神)へーラー(古希: Ἥρα, Hērā、イオニア方言: Ἥρη, Hērē ヘーレー)に推移し、かつそれだけでは足りなくて(それぞれの在地有力者の祖先起源譚を併合すべく各地の地母神と)浮気して子供を残し回る背景にもこうした伝統は存在しています。
*へラは恐らくペロポネソス半島を代表する地母神?…あくまで一般にへラが主にドーリア人に信仰された地母神である事からの類推で、本当にペロポネソス半島を代表する地母神であったかも、彼女がゼウスの配偶神に選ばれた経緯も不明。ヘシオドス「神統記」や「労働と日」によればボスポラス地方を代表する地母神はヘカテであり、かつアテナイは「ゼウスが独力で産んだ」女神アテナを信仰の中心に据えている訳で、この辺りについてはさらに複雑な政治的背景が存在した事が類推されるのである。
*ヘカテは明らかにギリシャ神話内の政争に敗れた女神であり、後代に至るほど(反体制的な)魔女の守護神としての性格を強めてくる。
ローマ神話においてゼウスと同一視されたユーピテルもしくはユッピテル(羅 Jūpiter, Juppiter, 古典綴 IV́PITER, IVPPITER, 英語読みだとジュピター)が時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもあるのも、かかる「バール(Baal=男主人)/バーラト(Baalat=女主人)」神話構造に由来するが、ローマ神話においてもその配偶神はユーノー(ラテン語: Juno、古典綴:IV́NÓ)に推移している。
欧州文明の規定をなすケルト文化やゲルマン文化もそうで、だからローマ時代に「現地地母神がギリシャ・ローマ神話の男性神を夫に選んだ」神像が多数残されている。
ここではむしろ(豊穣神信仰に立脚する伝統的農業から脱却して天体観測によって農業暦の補正を続ける神官達がイニチアシブを握った)ナイル川流域やチグリス・ユーフラテス流域で営まれた灌漑農業に立脚して発祥した古代エジプト文明やバビロン文明(アッカド地方南部)の特異性が浮上してくる辺りが興味深いという話…
アヌ地区
シュメールの天空神アヌ(アン)に捧げられた広大な地区であり、エアンナ地区より古くから存在したが文書史料がほとんど見つかっていない。エアンナ地区と異なり1つの巨大な基壇で構成されており、儀礼妹に破壊される石造神殿(Stone Temple)の上に巨大な白色神殿(White Temple)が建てられた。これは後にメソポタミア各地で建設される「ジッグラト」と呼ばれる高層建造物の先駆を成すものである。
エアンナ地区と中間地帯
工房用スペースを含む複数の建造物で構成されており、壁で市街地から区切られていた。ウルク期を通して一貫して女神イナンナに捧げられいる。
エアンナ地区とアヌ地区の周辺には、中庭のある家が並んでいた。また、同じ職業の者が集まり、まとまった地区を形成していた様子がうかがえる。そして「砂漠のヴェネツィア」とも描写される運河網が市内に広がっていた。この運河網は市内全域を流れ、古代ユーフラテス川にまで至って河川交易に活用されたほか、都市とその周辺農業地帯を結びつける役割を果たした。
シュメール初期王朝時代(紀元前2900年頃~紀元前24世紀頃)
紀元前2900年頃からシュメール初期王朝時代と呼ばれる時代に入る。南メソポタミアを中心に数々の都市国家が勢力を拡大し、次第にそれらの中から都市を超えた領域を支配する有力国家が誕生していった。この時代は紀元前24世紀頃、あるいはその前後のアッカド王サルゴン(シャル・キン)による統一によって終わる。
- ウルクはこの時代の間、有力な勢力の1つであった。既にウルク期に「世俗」の王権の下で都市国家と呼べる政体を形成していたからである。ジェムデト・ナスル期(紀元前3100年頃~紀元前2900年頃)を経て初期王朝時代に入ると、ウルク型の都市国家がユーフラテス川・チグリス川の下流域に林立し、シュメール社会の根幹を成すようになった。
- 日本の学者前田徹は初期王朝時代中盤に地域的な統合を果たした有力諸都市国家をドイツ史の用語である領邦国家(Territorialstaat)を参考に領邦都市国家と名付けており、このような都市国家としてウルクの他、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルを分類している。
既に文字が登場していた時代であるが、政治史を語る情報が十分に得られるのは紀元前2500年頃からの初期王朝時代の最終盤に入ってからであり、この間のウルクの歴史を具体的に復元することはできない。
- 初期王朝時代初期のウルクの王たち(ウルク第1王朝)について伝えるのは「シュメール王朝表」であり、それらの中には実在の可能性が想定されている王もいる。上述したウルクの創建者エンメルカルの他、牧夫ルガルバンダ、3分の2が神、3分の1が人間とされたビルガメシュ(ギルガメシュ)などがそれにあたる。これら3名の王は英雄叙事詩的な文学作品が今日に残されており、とりわけウルク王ギルガメシュを主人公とした「ギルガメシュ叙事詩」は古代オリエントにおける文学作品の最高傑作と言われる。ギルガメシュはまた、ウルクの城壁の建設者ともされているが、事実であるかどうかは不明である。建設者の問題は別としても、初期王朝時代、ウルクの城壁内の面積は600ヘクタールに達しており、ウルクの市域はこの時代に最も拡大した。
紀元前2500年以降、初期王朝時代最後の争いにおいてもウルクは中心的な役割を果たした。
- 紀元前2400年頃のウルク王エンシャクシュアンナ(ウルク第2王朝)は初めて「国土の王(Lugal kalam ma.KI)」という称号を用いた。これはシュメール全土の支配権を明瞭に象徴する称号と考えられ、この称号はその後、ウンマの王で後にウルクに拠点を遷した王ルガルザゲシ(ウルク第3王朝)に受け継がれた。
ルガルザゲシは紀元前24世紀にシュメール全域を統一したが、間もなくアッカド王サルゴンによって倒され、メソポタミアはアッカド帝国の下で統合されることとなった。
アッカド帝国の崩壊とウル第三王朝
アッカド帝国は紀元前22世紀頃に崩壊した。アッカドによる支配の終焉は一般に蛮族グティ人(グティウム)の侵入という文脈で語られるが、これは後世作り上げられた「物語」としての要素が大きく、この時代の実像は詳らかではない。
- アッカド支配が揺らぐ中、ウルクはシュメールの都市の中でいち早く独立を達成した。ウルクの独立はアッカド王シャルカリシャッリ(在位紀元前23世紀末、または紀元前22世紀前半)の時代であり、ウルク王ウルニギンに始まる王たちはウルク第4王朝と分類されている。
- この後紀元前22世紀末にウルク第5王朝の王とされるウトゥ・ヘガルがウルク王となった。ウルク第4王朝の王はウルニギンとウルギギルという最初の2名以外の実在性が不確かであり、ウルク第4王朝の王達とウトゥヘガルの関係は不明である。
- ウトゥヘガルは後世の伝承において、グティ人の王ティリガンを打ち倒しシュメールを再統一したとされるが、アッカドの崩壊とグティ人の関係の史実性が不明瞭であるのと同様にウルク第5王朝とグティ人の関係についての伝承もまた後世の潤色を数多く含むと考えられる。
やがて、ウトゥヘガルがウルに派遣した将軍ウルナンムが、その地で自立して新たな王朝(ウル第三王朝)を打ち立て、シュメール全域を支配する勢力に成長した。この王朝の下で、ウルクは経済及び文化の中心地として復興を果たす。
- 大規模な再建活動によって、イナンナ神殿及びエアンナ地区は修復された。ウルク期のイナンナ神殿遺構の北東にあったジッグラトと「世界の家(House of the Universe, E2 .SAR.A)」はこの神殿の一部であった。このジッグラトは建設者ウル・ナンムに因み、ウル・ナンムのジッグラトとしても言及される。
しかしながらウル第3王朝崩壊後(紀元前2000年頃)、ウルクは数百年間にわたる衰退の時代に入る。
- 紀元前2千年紀後半~紀元前1千年紀にかけて、ウルクは再び繁栄の時代に入り建設活動が活発化した。アッシリア(新アッシリア時代)が紀元前850年にこの地方を併合し、ウルクを地方の首都としたこともこれを後押しした。
- アッシリアに続く新バビロニア王ナボポラッサルの時代、ウルクの全ての神殿と運河が修復された。この時代のウルクは5つの主要な地区(アダド神殿、王宮果樹園、イシュタル門、ルガル・イッラ(Lugalirra)神殿、シャマシュ門)に分割されていた。
紀元前250年頃、新たな神殿複合体(Head Temple、アッカド語:Bīt Reš)がウルク期のアヌ地域の北西に追加された。Bīt Rešはエサギラ神殿と共に、バビロニア天文学の拠点の一つであった。
ヘレニズム時代
そしていよいよオリエント時代末期を経てオリエント文明とギリシャ文明が融合するヘレニズム時代が到来する。
- ウルクを含む古代オリエント世界の中枢部を支配していた新バビロニアは紀元前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世)によって滅ぼされ、バビロニアはアケメネス朝の邦国(ダフユ、サトラペイア)としてその支配下に入った。このアケメネス朝ペルシャが滅亡するまでの 時期を概ねオリエント時代と呼ぶ。
- さらに紀元前331年にマケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝を滅ぼしバビロニアを征服したが、紀元前323年に彼が病没すると、その配下の将軍たちはディアドコイ(後継者)たることを主張して激しい戦いを繰り広げ、オリエント世界全域にグレコ・マケドニア人(以下、ギリシア人)たちが建てた王朝が林立した。この時代はヘレニズム時代と呼ばれる。
最終的にウルクを含むバビロニアはセレウコス1世が建てたセレウコス朝の領域となった。ヘレニズム時代のウルクが、何等かの政治的重要性をもって記録上で語られることはほとんど無いが、ウルクはこの時代も繁栄を続けており、300ヘクタールの面積と40,000人の人口を抱えていた。
- 紀元前200年頃イシュタルの「偉大な聖域(E2.IRI12、シュメール語:eš-gal)」がアヌ地区とエアンナ地区の間に付け加えられた。この頃に再建されたアヌ神殿のジッグラトはメソポタミアにおいて史上最大の大きさであった。
- ギリシア語の史料においてはウルクはカルデア人の学問の中心地として言及されるのみであり、その具体的な歴史を復元する術は限られている。考古史料においても状況は同様であり、政治史の復元は困難である。
しかし歴史学・考古学においてこの時期のウルクは特別の興味を引く存在である。なぜなら当時、楔形文字による筆記文化は終焉を迎えつつあったが、バビロニアの主邑バビロンと並び、ウルクではなお楔形文字が継承され続けていたことによる。
- ヘレニズム時代のオリエント世界は現地史料が非常に乏しいが、バビロンとウルクから得られる楔形文字史料の存在によって、バビロニアは相対的に史料が多く残されている地域となっている。ウルクから発見された楔形文字史料と、僅か3例ながら存在するギリシア語の碑文などによって、ウルクにおけるギリシア文化の影響、ヘレニズムの浸透について様々な見解が提出されている。
- この時代ウルクの楔形文字史料にはギリシア人と思われる、あるいはギリシア語名を持つバビロニア人と思われる人名が登場する。また、パルティアの侵攻によってセレウコス朝が紀元前141年に放逐された後の日付(紀元前111年10-11月)を持つギリシア語碑文では、なおセレウコス暦が用いられており、ウルクにおいてギリシアの文化が何等かの影響を与えたであろうことを推測させる要素はいくつかある。
しかし、史料的制約のためにそれがどの程度浸透したのか、また流入したギリシア人の人口がどの程度のものであったのか、ウルク人とギリシア人の政治的関係はどのようなものであったのかなど、多くのことについて確かなことはわからない。
- 日本の学者大戸千之は「全体的に、ギリシア文化がウルクに強烈なインパクトをあたえたという印象は、どちらかといえば希薄であったように思われる」と述べるが、同時に楔形文字文書というウルクの保守的な部分を代表しているであろう史料群にギリシア人名が登場することなどは重視すべき変化であるとも指摘している。
ヘレニズム時代のウルクについてこれ以上の具体的な姿を復元するための材料が欠如しているため、明確なことはわからない。
パルティア時代(紀元前141年~紀元後226年)、そしてサーサーン朝時代(226年-651年)
この間も居住こそ続けられたが次第に衰退。634年のアラブ人によるメソポタミア侵攻の前か、あるいはほぼ同じ時期に放棄された。
以下続報…