「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【三体】論考準備メモ

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元来古代ギリシャ・ローマ時代の形而上学は直接欧州に伝播した訳ではなく、イスラム文化圏において君主のパトロネージュを受けたアラビア哲学者達が「宗教家の押し付けてくる教条主義的倫理規範」に対抗するイデオロギーとして練り上げられる過程を経てきました。

フォルスForce=権力)とヴィオランスViolance=暴力/抵抗)の関係が当初からそういうものであったとするなら、全体を俯瞰した景色もまた違って見えてくるのです。

  • 山本義隆少数と対数の発見2018年)」によれば、そもそも(古い時代より測量や建築や航海といった実践技術の世界では習得が必須となっていた実証主義科学の発展を妨げてきたのは「少数点以下での展開」を嫌う形而上学や商用数学の偏見のせいだった。また魔術や錬金術との境界線が曖昧だったのも致命的だったのである。

    山本義隆世界の見方の転換2014年)」序文

    レギオモンタスからケプラーに至るまでの1世紀半でヨーロッパは物理学的天文学、ひいては数学的天文学というものを初めて創出した。その過程は、世界の見方としての宇宙像から太陽中心の天文学への変革であるとともに、手作業による観測機器の製作、何年にも渡る継続的な天体観測、そして桁数の多い数(観測データ)の膨大な計算等の中世の大学ではあまり目にする事のなかった職人的・商人的作業をベースとし、そして観測によってその成否が判定される、全く新しい自然研究の在り方を生み出した。それはまた、観測と計算に基づく天文学を定義と論証に基づく自然学の上位に置く事で過去の学問的序列を転倒させ、それまでの定性的な自然学を数学的な物理学に書き換え、物理的天文学すなわち天体力学という観念を生み出す過程でもあった。すなわち天文学における認識の内容、真理性の基準、研究の方法、そして学問の目的、その全てを刷新する過程、端的に「世界の見方と学問の在り方の転換」であり、こうして17世紀の新科学を準備する事になる。

  • 数学史でも政治史でも全く触れられる事がない絶対王政下におけるシャルル・ペローの業績。著名な新旧論争querelle des anciens et des modernes)ばかりではない。「絶対王政下では帯剣貴族が誇る神話や歴史に由来する家格や法服貴族が誇る現時点での富裕ではなく中央権力に到達したしかるべき後見人のサポートを得られるかどうかで立身出世可能かどうかが決まる」とする「シンデレラ」の政治的イデオロギー性…時代遅れの伝統的権威主義によって自らの悪事を隠蔽してきた悪徳領主が「(暴力的手段を国家が十分に独占している状態を法源とする法実証主義に基づいて、必要にして十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家羅civitas sui iurisの重要成員たる常備軍将校自分も殺されかかる悲劇のヒロインの兄弟)」によって討ち果たされる「青髭」の近代性…

     

  • そしてリスボン地震1755年11月1日)以降、人類は「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」なる概念に捉われる様になる。

    欧州のギリシャ哲学は概ねアラビア哲学経由で伝来している。

    スンニ派古典思想の完成者ガザーリーAbū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)は「神は無謬の存在の筈なのに、どうしてこの世には悪や対立が存在する」理由についてネオ・プラトミズムの流出論をもってこう説明する。

    • 神の英知そのものは確かに無謬である。
    • しかしながら神の英知は理念の世界から現実の世界へと全方向に向けて流出していく過程で数多くの誤謬を累積させていく。
    • こうした誤謬の累積がやがては矛盾や対立、さらに究極的には悪をもこの地上に誕生させる事となる。

    こうした考え方は概ね欧州知識人の間でも共有されてきた。その発展例の一つがゴットフリート・ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz, 1646年〜1716年)が「弁神論Essai de théodicée sur la bonté de Dieu,la liberté de l'homme et l'origine du mal、神の善性、人間の自由、悪の起源に関する弁神試論、1710年)」で提言した神義論theodizee)となる。それを全面崩壊させたのがリスボン地震1755年11月1日)で、フランス革命勃発の遠因の一つとなった大規模モラルハザード状態を引き起こした。

    その結果、欧州は以下の様な展開を迎える。

    • 理神論Deismの拡大…一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。神は世界を超越する創造主であるが,神の活動性は宇宙の創造に限られ、以降の宇宙は独力で自己発展していくが、その方向は善にも悪にも向かい得るとした。人間理性への信頼が背景に存在し、奇跡・予言といった神の介入はあり得ないとして除けるのが特徴。
    • ルソーJean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年の自然回帰論…ある意味、今日なお日本で跳梁し続けている盲目的反原発派の大源流。啓蒙主義を代表する思想家の一人たるヴォルテールVoltaire)ことフランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet、1694年〜1778年)が翌年3月に「リスボンの災害についての詩Poème sur le désastre de Lisbonne)」を発表し「やはり地上に悪は実在する」と結論付けると「人間に悪をもたらしたのは神でなく人間そのものであり、もし人間がもし野生人のように素朴な生活のままだったら、こんな災害に遭う事もなかっただろう。火災や地震などのために、さまざまな都市が崩壊し、あるいは全滅していること、そのために何千もの人々が死亡していることも考えてほしい」と反論。都市の放棄とより自然な人間らしい生活様式への回帰を訴えた結果、両者の関係は完全なる断絶を迎えたが、かかる理想は「ルソーの理塗られた右手ロベスピエール率いるジャコバン派の恐怖政治として顕現して破壊の限りを尽くし、フランスの産業革命開始を半世紀以上遅らせ大英帝国一強時代を到来させる事に成功するのだった。
    • 英国のピクチャレスクPicturesque概念の影響を色濃くうけたカントの観念哲学の誕生…当時のドイツでは、英国と同君統治状態にあったハノーファー王国1714年〜1837年)経由で英国思想が際限なく流入しドイツ知識人に知的刺激を与える状態が続いていた。アイルランドより彗星の如く現れた若手時代のエドマンド・バークEdmund Burke, 1729年~1797年)が「崇高と美の観念の起原A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful、1757年)」を発表し、その中で「崇高Sublimeには美と戦慄が同居するイメージの源泉はスコットランドあたりの峻険な山岳地帯あたり)」と述べると、ドイツのイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)がこれに反応して「美と崇高の感情に関する観察Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen、1764年)」を発表。そこでの考察が認識可能な「独Ding、英Thingの世界」の外側に茫漠と広がる認識不可能な「物自体独Ding an sich、英Thing-in-itselfの世界」を対峙させる構想の出発点になったのもこうした流れの一貫であった。

    そう、こうした歴史展開は同時に「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」なる概念を台頭させたのだった。

この当時の数学者や物理学者は王党派が多いのです。まぁ絶対君主のパトロネージュを受け、他の臣下から一族もろとも「役立たずの癖に、もてはやされやがって!!」とやっかまれる立場だった立場だった事が大きいといえましょう。そして直面するのが「ベルヌーイ家多過ぎてしかも喧嘩し過ぎ」問題…

 

 

1676年に英国に旅した折にロバート・ボイルとロバート・フックに会い、その後、科学と数学の研究に一生を捧げることになった。1682年からはバーゼル大学で教鞭をとり、1687年には同大学の数学の教授に就任する。

彼は、ゴットフリート・ライプニッツと交流をもちライプニッツから微積分を学び、弟のヨハンとも共同研究を行う。 彼の初期の業績である超越曲線(1696)とisoperimetry (1700, 1701)はこの共同作業がもたらした成果である。対数螺旋の伸開線および縮閉線は自分自身に一致することを示した。

Ars Conjectandi, Opus Posthumum (推測法、1713)は、彼の確率論の偉大な貢献である。ベルヌーイ試行とベルヌーイ数はこの著作から、彼の功績を記念して名づけられた。

  • 周の長さが一定である長方形の中で,面積が最大のものは正方形。
  • 周の長さが一定である三角形の中で,面積が最大のものは正三角形。
  • 周の長さが一定である四角形の中で,面積が最大のものは正方形。
  • 長さが一定である閉曲線 C の中で,C が囲む面積が最大となるものは円。 

等周問題

与えられた長さを持つ閉曲線のうち,面積最大の図形は円である」は「ディドの問題」とも呼ばれています。その由来を書いておきましょう。

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ディドはカルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王です.元はフェニキア都市国家の国王の 娘で,父国王の死後,遺言にしたがって,兄と共同で国を治める予定であったが,兄は王位の独占と財産目当てのため, ディドの命をも狙った. そのため彼女はすべてを捨て,航海に出,現在の北アフリカのチェニジアにたどり着いた.そこで,彼女はこの地の王に 土地の分与を申し入れ,一頭の牛の皮で囲えるだけの土地ならば与えてもよいとの返答を得た.そこで, 彼女は,海岸沿いに牛の皮を細かく引き裂いて,予想より大きい土地を 取り囲み,砦を築くだけの土地を得たといわれます.このディドの囲いかたがディドの問題といわれる所以です. なお,囲い方分かりますね. 海岸から半円を描いたわけです.ちなみにこの囲い方は内陸に円を描くより大きく(面積が2倍)なります。

兄とともに、ライプニッツ微積分法の発展に寄与した。他にも、重力場における粒子の運動に関する問題など、応用数学の様々な分野で多くの貢献を成した。さらに、1690年にはカテナリー曲線の方程式を発見し、1691年には指数関数の微積分法を確立。

1738年に出版された最も重要な著書は、Hydrodynamica流体力学)である。すべての結果が一つの原則(この場合はエネルギー保存の法則)に結びついていくところなどは、ラグランジュMechanique Analytique解析力学)に似ている。「空気や水の流れがはやくなると、そのはやくなった部分は圧力が低くなる。はやく流れるほど圧力は下がる。」というベルヌーイの定理は、流線や渦線に沿ってベルヌーイ関数が保存されるという形に友人のオイラーが洗練して今日の流体力学の基礎を築いた。

潮汐に関する彼の論文は、オイラーとマクローリンとによる論文と合同でアカデミー・フランセーズに表彰された。3人の論文は、ニュートンの『プリンキピア』出版とラプラスの業績までの間に、この主題について論議されたすべての問題を含んでいる。

また、ベルヌーイは弦の振動に関して微分方程式の解を三角関数で展開する方法で、振動弦の式を求めた。彼は気体運動論の先駆者であり、ボイルとマリオットの名がついた法則を解釈した。反動によって船舶を推進させる着想もある。

リスクの測定に関する新しい理論

自然科学の分野以外で特記すべきは、経済理論への先駆的な貢献である。1738年に、「リスクの測定に関する新しい理論」というラテン語で書かれた論文が、学術雑誌『ペテルブルク帝国アカデミー論集』に掲載された。

  • 歪みのないコインを表が出るまで投げ続ける、というゲームを想定する。表が初めて出るときが第1回目なら2ルーブリ、第2回目ならば4ルーブリ、第3回目ならば8ルーブリ…というふうに賞金は幾何級数的に増大する、と仮定せよ。ただし、ゲーム参加料は100万ルーブリである。果たしてこのゲームに参加することで、利益を得られると期待できるだろうか。ここで、通常の感覚ならば、ゲームには参加しないだろう。しかし、利得の期待値は無限大となり、参加料の100万ルーブリを上回る。したがって「ゲームに参加すべし」という結論が出てしまう。これをサンクトペテルブルクの逆説と呼ぶ。
  • ベルヌーイはこのパラドックスを、「ごくわずかな富の増加から得られる満足度効用はそれまで保有していた財の数量に反比例する」という、現在では〈限界効用逓減の法則〉と呼ばれる論理で解決した。その発想は、同じ1ルーブリ獲得といっても、所得がゼロの状態からの獲得と、所得10ルーブリからのそれでは、その効用(価値)は同じではない、という点から始まる。上述のコイン投げゲームにおいて、人が「利益」として勘定に入れるべきなのは、各賞金額の期待値を総計することではなくて、各賞金額から得られる「効用」の期待値を総計することである。すると、もし限界効用の低下が著しい場合には、ゲーム参加の期待効用の総量が有限値となり、参加料から獲得可能な効用量を下回るだろう。

かかった費用ではなく限界効用に重きをおくこの考え方は、100年以上たってジェヴォンズによってベルヌーイとは別に確立された。期待効用理論が完全に復権するのは、200年後に出版された数学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテルンの大著『ゲーム理論と経済行動』(1944年)においてである。

数理物理学の分野ではニュートン力学幾何学的表現を解析学的に修正して、現代的なスタイルに変更した。 1736年に初めて力をはっきり定義し、解析的な形で運動方程式を与えたのを皮切りにこの定式化に基づいて振動弦の問題を論じ、また地球の章動の研究において運動方程式による3体問題の定式化を行った。 そして1755年には流体力学の基礎方程式(連続方程式と運動方程式)を導いて体系化。 さらに1760年には剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系を導入してオイラー運動方程式を得、これを発展させた。剛体の方位を規定する3つの角は「オイラー」と呼ばれている。 その一方で1760年代までニュートンの重力理論を容認できず、デカルトの充満理論・エーテル理論に固執変分法に関する業績も多い。

ライプニッツによって定義された関数を初めてy=f(x)の形で表したのもオイラーである。 このような近代的関数の概念は1748年に導入され、物理学など応用方面でも使いやすいものとなった。

意外なのが(君主や貴族のパトロネージュにそれほど依存していなかった)ドイツの数学者、天文学者、物理学者ガウス独: Johann Carl Friedrich Gauß, 羅Carolus Fridericus Gauss, 1777年〜1855年)も、皇帝ナポレオンに噛み付いて問題を起こすほどの君主制支持者だった事。

今まさに詰まってる「ガウス積分からヤコビ行列へ」の流れも、無限大(Inf)から無限小(-Inf)を扱う直交座標系Rectangular coordinate system/Orthogonal coordinate system)と(透視図法的パースペクティブに立脚する片対数尺的概念をもたらす自然指数関数自然対数関数のセットと(分割を無限に進めると周長の合計が2πとなる円概念に立脚する極座標Polar coordinates system)の相互変換プロセスにも関連してくる話。

こうして全体像を俯瞰してみると「中央宮廷へのコネが全てとなった」フランス絶対王政下のサロン文化を足掛かりとして現れた百科全書派のディドロDenis Diderot、1713年〜1784年ダランベールJean Le Rond d'Alembert、1717年〜1783年)やダランベール、および彼に引き立てられたラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)の人脈の特異性が浮かび上がってくるのです。「たかがフランス啓蒙主義、されどフランス啓蒙主義」という次第。

その一方で「(暴力的手段を国家が十分に独占している状態を法源とする法実証主義に基づいて、必要にして十分なだけの火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家羅civitas sui iuris)」は、軍人や警官や官僚に必要とされる資質を与える為の学校整備を続けてきました。

10年に渡って新たなエビデンス追加もなくダラダラと続けられてきた「フランスのモリカケ事件ドレフェス事件1894年〜1906年)に終止符を打ったのもまた「科学の勝利確率学者ポアンカレが、裁判官が全員ベルトランの教科書でベイズの法則を学んだ軍学校出身者である事を逆手に取ってベイズの法則に従って論破)」でしたが、フランスのインテリ層はこの事実を隠蔽して自分達の手柄にしてしまいます。困ったのは後世の人間。再現を試みても絶対成功しない筈です。だって全部嘘と妄想の産物なんだから。

異端の統計学 ベイズ (The theory that would not die : how Bayes' rule cracked the enigma code, hunted down Russian submarines, and emerged triumphant from two centuries of controversy, 2013年)」より

理論家の非難と実践家の有効利用の裂け目に向かって行進したのが、政治力ある数学者ジョセフ・ルイ・フランソワ・ベルトラン率いるフランス軍だった。ベルトランは、無数の不確定要素に取り組む砲術担当の佐官級将校の為にベイズの法則を仕立て直した。砲兵隊は敵の正確な位置や空気の密度や風の方向、さらには手作りの大砲に生じる誤差や射程や方向や発射物の初速といった不確定要素と向き合わねばならなかった。ベルトランは広く用いられたその教科書の中で、ラプラスが考案した原因の確率は、新しい観測結果にに基づいて仮説を検証する際に有効な唯一の手段だと論じた。ただしラプラスの信者達は道を見失っており、事前原因の確率を見境なく半々にするのはやめるべきだ、というのがベルトランの考え方だった。そしてそれを裏付ける為に近所の岩だらけの海岸で難破が起きる原因を突き止めるのに、海の潮の流れが原因である可能性と、それよりさらに危険な北西の風が原因である可能性が等しいとしたブルターニュの愚かな田舎者の話を引き合いに出した。ベルトランに言わせれば、事前確率を等しくするのは(極めて稀なケースだが)あらゆる仮説が実際に同じ様に起きやすいか、あるいはそれらの仮説が起きる可能性について何も分かっていない場合に限るべきだった。

砲術の将校達はベルトランの厳密な基準に従って、同一の工場、同じ条件の下でほぼ同じ職人が同じ材料を使って同じ手順で鋳造した大砲に限って等しい確率を割り振る様にした。こうしてフランスやロシアの砲術将校達は1880年代から第二次世界大戦までの約60年、ベルトランの教科書を頼りに大砲を撃ち続けたのだった。

ドレフェス事件とベイズ推定

ベルトランによるベイズの法則の厳密化は、一八九四年から一九〇六年にかけてフランスを揺るがしたスキャンダル、ドレフュス事件にも影響を及ぼした。ユダヤ系フランス人で軍の将校だったアルフレッド・ドレフュスは、ドイツのスパイであるという不当な嫌疑により終身刑の判決を受けた。ドレフュスに不利な証拠はただひとつ、本人がドイツの大使館づき武官に送って金を得たとされる一通の手紙だけだった。警察に所属する犯罪学者で身体測定に基づく本人確認システムを発明していたアルフォンス・ベルティヨンは、確率の数学によると有罪の証拠とされる手紙をドレフュスが書いた可能性がもっとも高い、と繰り返し証言した。ベルティヨンがいう確率は数学的なたわごとでしかなく、その論旨も珍妙きわまりなかった。保守的な反共和派やローマ・カソリック教会や反ユダヤ主義者たちがドレフュスの有罪判決を支持するなか、ドレフュスの一族や教権に反対する人々やユダヤ人や左翼政治家や知識人によって、小説家エミール・ゾラをリーダーとするドレフュスの身の証しを立てるための運動が組織された。

ドレフュスの弁護士は一八九九年に開かれた軍事裁判に、フランスのもっとも有名な数学者で物理学者のアンリ・ポアンカレを招聘した。ポアンカレは一〇年以上にわたってソルボンヌ大学で確率を教えており、頻度に基づく統計を信じていた。ところがベルティヨンが証拠とする文書がドレフュスの手になるものなのかと問われたポアンカレは、ベイズの法則を持ち出した。法廷が新たな証拠に基づいてそれまでの仮説を更新したいのなら、この手法こそが良識ある方法であって、このような文書のねつ造に関する問題は、ベイズの法則に基づく仮説検定の典型的問題だというのである。ポアンカレはドレフュスの弁護士に皮肉の利いた短い手紙を託し、弁護士が法廷でこの手紙を読み上げた。ベルティヨンが「もっともわかりやすい点と述べているものは誤りであって……この途方もないまちがいゆえに、その後のすべてが疑わしくなる……なぜあなたがたが判断に悩むのか、わたしにはわからない。被告が有罪になるかどうかはわたしのあずかり知らぬところであるが、かりに有罪になるとすれば、その根拠はこの手紙とは別の証拠であるはずだ。このような論拠によって、しっかりした科学教育を受けてきた公正な人間を動かすことはできない」弁護士がここまで読み上げたところで──法廷の速記者によると──法廷は「長期にわたり大騒ぎ」になったという。ポアンカレの証言は起訴の根拠を木っ端みじんにした。裁判官は全員軍学校を出ており、ベルトランの教科書でベイズの法則を学んでいたのである。

科書でベイズの法則を学んでいたのである。裁判官たちは妥協案として、ドレフュスはそれでも有罪だが、刑期は五年に短縮されるという評決を下した。ところが一般大衆は怒り狂い、二週間後には共和国大統領が恩赦を発令することになった。ドレフュス自身は昇進してレジヨン・ドヌール勲章を受け、政府の改革によって教会と国は厳密に分けられるようになった。ところがアメリカの法律学者の多くはドレフュスが確率論のおかげで解放されたことに気づかず、この裁判は数学が暴走した例であり、それゆえ刑事事件における確率論の応用は制限すべきだと考えた。

 この辺りが「中国共産党においては工学博士号資格保持者しか頂点に登り詰められない」話と関与してきそうなのですが…とりあえず以下続報。