イタリア半島南部の大半を占める「ピザ発祥の地」ナポリの歴史上における最大の特徴。それはシチリア島と並んで「比較的まとまった広域行政単位として複数の君主の間で継承されてきた」点にあるとされています。
縮小する飲食業界の中で伸びるピザのブランド力 | 起業家.com
- 「南イタリアの特殊性」…都市国家が群雄割拠していた北イタリアと異なり、南イタリアには13世紀末のシチリアの晩祷事件以降、領域的に半島全体の1/3を占めるナポリ王国(Regno di Napoli)が存在してきた。むろん1504年にアラゴン王フェルナンド2世に再征服され、カスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン)へ併合されてからの2世紀は王国としての立場も喪失し「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督(副王)の統治下にあったが、スペイン継承戦争(1701年~1714年)の結果、一時オーストリアの支配下に入るった後でポーランド継承戦争(1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世(1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。
*日本人にいわせると南イタリア人は「大阪人の様に狡賢く曖昧な人達」?
ま、実際にはスイス人文化史家ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」ですら「未開発のまま放置された田舎部には山賊が闊歩し、ルネサンス期イタリア全体にとって暗殺者の格好の供給源となってきた」と述べられ、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」に至っては「南イタリアは近代資本主義的発展から最も程遠い地域である」と名指しで罵倒されるくらい現代につながる暗黒面も抱えていた訳ですが、それはそれ。
ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス(新しいポリス)」であり、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。
- その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあった。当時の遺構としては、79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたナポリ近郊のカンパニア州ポンペイ(羅Pompeii、伊Pompei)が有名。ローマ人の余暇地として繁栄したこの地の最盛期の人口は約2万人といわれ、18世紀に発掘が開始されると「新古典主義」発祥の発端となった。
- 476年の西ローマ帝国滅亡後、南イタリアは東ゴート族やランゴバルド族の支配が及ぶなど流動的な状況となる。6世紀に入ると東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島はラヴェンナを首府とするビザンツ帝国の属州となった。ナポリ市には660年にビザンツ系の公国が設置されている。
- 11世紀にはノルマン人が南イタリアに到来し、イスラム教徒が支配するシチリア島を征服してシチリア王国を建国するが、ノルマン人の支配は南イタリアでも拡大され、ナポリ公国も1140年ノルマン人の手に落ちた。12世紀にはシチリア王国は婚姻関係によって神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタウフェン家の支配に移った。1224年には異色の皇帝フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)がナポリ大学を設立。
- フランスのシャルル・ダンジューによりホーエンシュタウフェン家のシチリア支配が断絶すると、ローマ教皇クレメンス4世は1266年シチリア王国をシャルル・ダンジューにあてがい、アンジュー家は王国の首都をパレルモからナポリに遷都した。しかし1284年シチリアの晩鐘事件でシチリア島で反乱が起こると、スペインのアラゴン家がシチリアに入るが、ナポリを中心とする南イタリアはアンジュー家が依然として押さえていたので、王国は二つに分離された。双方ともシチリア王国の名を要求しているが、アンジュー家のナポリ移転によってナポリ王国が成立したと見ることができる。
- アラゴン王国のアルフォンソ5世は内紛続きのアンジュー家ナポリ王国を征服し、1443年ナポリに入り、シチリアとナポリをまとめた両シチリア王アルフォンソ1世として即位した。アルフォンソはアラゴン王であるにもかかわらず、ナポリに長く滞在して統治した。1458年のアルフォンソの死後は私生児のドン・フェランテがフェルディナンド1世としてナポリ王位のみを継承するが、失地回復をめざすヴァロア朝フランスのシャルル8世がこれに付込んで1494年、ナポリを武力占領した。これに対してスペイン・ハプスブルク家から派遣されたコルドバ将軍は1503年ナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ・アラゴン家は取り潰され、スペインのナポリ総督によって支配される属州となった。
- スペイン継承戦争(1701年~14年)のさなか、1707年オーストリア・ハプスブルク家の軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ポーランド継承戦争が起こると、フランス・ブルボン家はスペイン・ブルボン家の支援を求め、1734年スペインのドン・カルロスがナポリに入城してナポリ王カルロ7世として即位、シチリアも回復した。カルロスは1759年にスペイン王カルロス3世として即位するため、ナポリ王位を息子のフェルディナンド4世に譲った(1734年をもって両シチリア王国の成立とする見方もある。ただこの時は正式名称としては使用されなかった)。
- ナポレオン戦争中ナポリ王フェルディナンドはナポリから追放されシチリアを領有するだけとなった。ナポリは1806年~1815年にフランス人の王ジョアッキーノ1世を戴くことになる。1816年にフェルディナンドがナポリとシチリアの王として返り咲くが、まもなく王国名は正式に両シチリア王国に変更された。1860年両シチリア王国はジュゼッペ・ガリバルディに征服されイタリア王国に併合される。
スペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española、1701年~1714年)
18世紀初頭スペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。ウェストフェリア体制下ではスウェーデンと並ぶ有利な立場となったフランスだったが、スペインに手を伸ばした事で反対勢力を結束させてしまう。
- スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、フェリペ4世の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名マリー・テレーズ、1683年死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)とフランス王ルイ14世(フェリペ3世の娘アナ(アンヌ)の子でもある)の子であるフランス王太子ルイ(グラン・ドーファン、後のルイ15世の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合となってしまうため反対が多く、フランス側からも王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。これに対して、スペイン王家とは同族で、フェリペ3世の娘マリア・アンナ(マリア・アナ)の子であるオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世も候補になったが、これもスペインとオーストリアの合邦を招くため、レオポルト1世は末子のカール大公を候補者に推していた。
- 各国の思惑が交錯する中、スペイン王カルロス2世は1700年11月に突如崩御したが、その遺言書にはフランス王孫フィリップに位を譲る旨が記されていたが、これはルイ14世の画策によるものであったという。ここにおいて、フランス・ブルボン家のアンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位したため、オーストリアはフランスの勢力拡大を恐れるイギリス、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告。
戦争はまずオーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指してオイゲン公率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。
- イギリスは新たに即位したアン女王のもとで、女王の友人サラの夫であるマールバラ公ジョン・チャーチルが司令官に任命されて大陸に派遣され、イギリス軍はオランダ軍と連合してフランドルに迫った。ポルトガルやドイツの諸領邦国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、バイエルン公国の同盟を得てアルザスを占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。しかしこれに対してイギリスのマールバラ公が長躯南ドイツに至り、オイゲン公のオーストリア軍と連合してブレンハイムの戦いでフランスを破る(1704年)。
- フランスは反撃をはかり、オーストリア側についたサヴォイア公国の首都トリノを攻囲したが、1706年にオイゲン公率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された。またスペイン領ネーデルランド(現ベルギー)では、マールバラ公率いるイギリス軍にラミリーの戦いで敗れた。
- スペインも、1707年にイタリア半島を南下したオーストリア軍にスペイン領のナポリ王国を占領された。さらにスペイン国内ではオーストリアの推す国王候補カール大公を支持してバレンシアとカタルーニャがスペイン王室に反旗を翻したので、イギリス軍がジブラルタルを占領してこれを支援。スペイン軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス軍は執拗に持ちこたえる。
- 1707年フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、アウデナールデの戦いでフランス軍を破った。
- 翌1708年、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペのスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争が再開され、マールバラ公はパリ進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍はマルプラーケの戦いで激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着。
この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、またイギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。そこで1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うと、イギリス政府も和平に傾き始めた。
- 1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、また同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいたヨーゼフ1世が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、イギリスはカールのスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。
- 1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。
- 同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ディナンの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。
- 1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させる。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国にシチリア(後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを獲得し、反フランス同盟はその代償としてフランス王孫フィリップ(フェリペ5世)のスペイン王即位を承認した。1714年フランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた。
- マールバラ公やオイゲン公の活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争によって17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになる。
こうして一旦はオーストリアの支配下に入ったナポリだったが、ポーランド継承戦争(1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世(1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。
早速問題となったのは「王国経営の方法」でした。
- まず前段階の話。17世紀後半以降、ハプスブルグ家支配下で「法律家市民層(ceto civile(togato))」が官僚供給層として台頭。これ経由でアルプス以北(英・仏・蘭)の新思想(デカルト、ニュートン、ロック等)がナポリに伝わり、アントニオ・ジェノベージ(Antonio Genovesi 1713年~1769年)を始祖とするナポリ啓蒙運動が流行する。スコットランド啓蒙主義同様「富と徳の関係」に関して激論が交わされる。
経済学の最初の講義はナポリ大学から始まった - そして修道院長にして役人だったフェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani 1728年~1787年)が1759年~1769年にフランスのナポリ大使館に詰めており、同時代のフランス経済学者達の多くと知り合いだった。やがて(フランス革命が始まると守旧派に粛清されて消滅する)スコットランド啓蒙主義にも(フランス飢饉の時も「自然状態」がどうといった観念論に興じる事しか出来なかった役立たずの集まりに過ぎない)フランス重農主義にもNoを突きつけ、1751年の論文において効用と希少性の両方に基づく新しい価値理論を導入し「限界革命の始祖」となり、1770年の論文において国際収支に関するかなり現代的な分析を提供して(経済主体としての政府に関する真剣な分析と、自然価値に関する効用ベースの理論を特徴とする)イタリア効用主義の伝統の創始者の一人となる。立場的にはフランスの新コルベール主義やドイツの新官房学派に近く、実際ガリアーニは自著で国を「善意の独裁者」と呼んでいる。
18世紀ナポリ王国における政治経済学の形成
こうした経緯からナポリでは「国家を経済の主体と見做し、国民の徴税負担を縦軸に、対価として国民が受ける公的サービスへの満足度を横軸に取った計測値に基づいて叛乱の勃発などを予防する」独創的な政治経済学が生み出される事になったのでした。
- そもそも管理会計の概念を最初に洗煉させたのは「レパント交易の覇者」14世紀ヴェネツィアであり、文書主義に元ずく精密な官僚制はオスマン帝国起源とされる事から、ナポリではこれらの諸制度のバリエーションの一つを上手に組み上げただけとも。また「コルベット主義やオーストリア官房学といった絶対王制的綬金主義の批判的継承」という側面も見逃せない。
「ヴェストファーレン条約とドイツ官房学の誕生」
「ドイツの重商主義(mercantilism:16世紀中旬~18世紀)」とも言われる官房学(独Kameralismus, 英Cameralism:17世紀~18世紀) )」の「官房(独Kammer)」は、ラテン語の "camera"(部屋・国庫)に由来し、当時のドイツでは領邦議会を意味していた。ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国が事実上解体されて以降、各領邦議会は自らの領邦を政治的・経済的に自立させるべく公的な支配地域の管理・行政を掌握したが実務遂行には「いかに君主の国庫を富ませるか」といった技術的方法論が不可欠で、各国や各領邦の経済や行政の管理に関わる諸原理を体系的にまとめる「官房学」という新たな研究分野が誕生したのである。ただしフランスで発達した初期コルベール主義同様(ナポリ政治経済学の影響を受けるまでは)素朴な重金主義が中心だった。
こうした諸概念の大源流を遡ると複式簿記(Double-entry Bookkeeping System)の世界に辿り着くのです。
- 任意の期首と期末を定め、その間の簿記的取引の全てを仕訳帳や総勘定元帳などに記録として残す。すると(不正や誤謬がなければ)借方の合計と貸方の合計が常に一致する。
- これを貸借平均の原理(Principle of Loan Average)資産+費用=負債+純資産+収益といい貸借対照表等式や損益計算書等式の大原則となっている。
ここで重要なのが「あらかじめ期首と期末が設定されるからこそ、期内全ての借方取引と貸方取引の二重性が捕捉可能となる」なる実証科学的思考様式。
- 中世地中海交易圏でアラビア商人が発案し、ルネサンス期のイタリア商人を通じてアラビア数字とセットで欧州に広まったとされている。
- その起爆剤となったのが当時の出版革命で、より具体的に「スムマ(算術・幾何・比及び比例全書,1494年)」の一章として「簿記論」を著したイタリア商人出身の数学者ルカ・パチョリ(1445年頃~1517年)が「複式簿記の父」として崇められていたりする。
- そして医術や占星術を本業としていた数学者カルダノ(1501年〜1576年)が「アルス・マグナ(Ars Magna, 1545年)」の中で三次方程式(Ars Magna, 1545年Cubic Equation)に虚数の概念を導入して解いたのも同じルネサンス期イタリアの出来事だったのである。 さらにオイラーの師匠ベルヌーイ(1667年〜1748年)は自然指数関数e^1=(1-1/N)^N導出を巡る思考実験で「複利発生期間の設定極限」の例えを用いている。そもそも写実絵画や建築分野で「対数尺=透視図法」の研究が最初に本格化したのも、やはりルネサンス期イタリアではなかったか?
思わぬ場所で政事(光の世界)と商事(闇の世界)が交錯を?
- そもそもグロティウス「戦争と平和の法(1625年)」自体には国家を人間社会における様々な活動の主体として考える発想自体が存在しない。その意味では、こうした政治経済学にはまさに「ヴェストファーレン体制の落とし子」という側面が確実に存在する。
- 絶対王制官僚達が重視したのは軍事力による交易と徴税の独占、徴税と国債発行によって国民から吸い上げた富を宮廷が戦争と文化活動に投資される構造によるインフレ抑制策であり、原風景として史上初めて「貨幣数量説」に到達しながらこれを国家経営に生かせなかったスペイン絶対王制のシステムの批判的継承という側面も?
- 日本の江戸幕藩体制下でも初期には同様の動きが見られたが、戦国時代に楽市楽座を通じて選別・庇護されてきた現地御用商人達は元禄時代までに全国規模のネットワークを武器とする新興商業集団「株仲間」の競争で敗れ全滅してしまう。
「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコが主著「新しい学(Principi di scienza nuova, 1725年)」を出版したのもまさにこの時代。「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史とは無から人間の行為事業を積み上げたものである」なる定義は、まさにかかる時代のナポリだったからこそ生まれた表現だったのです。