「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「地中海の十字路」としてのナポリ

イタリア半島南部の大半を占める「ピザ発祥の地ナポリの歴史上における最大の特徴。それはシチリア島と並んで「比較的まとまった広域行政単位として複数の君主の間で継承されてきた」点にあるとされています。
縮小する飲食業界の中で伸びるピザのブランド力 | 起業家.com

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ま、実際にはスイス人文化史家ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」ですら「未開発のまま放置された田舎部には山賊が闊歩し、ルネサンス期イタリア全体にとって暗殺者の格好の供給源となってきた」と述べられ、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」に至っては「南イタリアは近代資本主義的発展から最も程遠い地域である」と名指しで罵倒されるくらい現代につながる暗黒面も抱えていた訳ですが、それはそれ。

ナポリ(Napoli)略史

ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア特にアテネ)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス新しいポリス)」であり、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。

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1995年世界遺産文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録される。

 スペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española、1701年~1714年)

スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)

18世紀初頭スペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。ウェストフェリア体制下ではスウェーデンと並ぶ有利な立場となったフランスだったが、スペインに手を伸ばした事で反対勢力を結束させてしまう。

  • スペイン・ハプスブルク家カルロス2世は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、フェリペ4世の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサフランス名マリー・テレーズ、1683年死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)とフランス王ルイ14世フェリペ3世の娘アナ(アンヌ)の子でもある)の子であるフランス王太子ルイグラン・ドーファン、後のルイ15世の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合となってしまうため反対が多く、フランス側からも王太子の次男(後のルイ15世の叔父アンジュー公フィリップを後継者に推した。これに対して、スペイン王家とは同族で、フェリペ3世の娘マリア・アンナマリア・アナ)の子であるオーストリアハプスブルク家オポルト1世も候補になったが、これもスペインとオーストリアの合邦を招くため、オポルト1世は末子のカール大公を候補者に推していた。

  • 各国の思惑が交錯する中、スペイン王カルロス2世1700年11月に突如崩御したが、その遺言書にはフランス王孫フィリップに位を譲る旨が記されていたが、これはルイ14世の画策によるものであったという。ここにおいて、フランス・ブルボン家アンジュー公フィリップスペイン王フェリペ5世として即位したため、オーストリアはフランスの勢力拡大を恐れるイギリス、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告。

戦争はまずオーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指してオイゲン公率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。

この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、またイギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。そこで1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラアン女王の信任を失うと、イギリス政府も和平に傾き始めた。

  • 1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、また同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいたヨーゼフ1世が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、イギリスはカールのスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世スペイン王退位要求に消極的となった。

  • 1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。

  • 同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ディナンの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。

  • 1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させる。この条約でスペインはオーストリアスペイン領ネーデルラントベルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国シチリア後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾アカディアを獲得し、反フランス同盟はその代償としてフランス王孫フィリップ(フェリペ5世)のスペイン王即位を承認した。1714年フランス王国オーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた。

  • マールバラオイゲン公の活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世スペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争によって17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世フランス軍ヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになる。

こうして一旦はオーストリア支配下に入ったナポリだったが、ポーランド継承戦争1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。

早速問題となったのは「王国経営の方法」でした。

  • まず前段階の話。17世紀後半以降、ハプスブルグ家支配下で「法律家市民層ceto civile(togato))」が官僚供給層として台頭。これ経由でアルプス以北(英・仏・蘭)の新思想(デカルトニュートン、ロック等)がナポリに伝わり、アントニオ・ジェノベージAntonio Genovesi 1713年~1769年)を始祖とするナポリ啓蒙運動が流行する。スコットランド啓蒙主義同様「富と徳の関係」に関して激論が交わされる。
    経済学の最初の講義はナポリ大学から始まった
  • そして修道院長にして役人だったフェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani 1728年~1787年)が1759年~1769年にフランスのナポリ大使館に詰めており、同時代のフランス経済学者達の多くと知り合いだった。やがて(フランス革命が始まると守旧派に粛清されて消滅するスコットランド啓蒙主義にも(フランス飢饉の時も「自然状態」がどうといった観念論に興じる事しか出来なかった役立たずの集まりに過ぎない)フランス重農主義にもNoを突きつけ、1751年の論文において効用と希少性の両方に基づく新しい価値理論を導入し「限界革命の始祖」となり、1770年の論文において国際収支に関するかなり現代的な分析を提供して(経済主体としての政府に関する真剣な分析と、自然価値に関する効用ベースの理論を特徴とするイタリア効用主義の伝統の創始者の一人となる。立場的にはフランスの新コルベール主義ドイツの新官房学派に近く、実際ガリアーニは自著で国を「善意の独裁者」と呼んでいる。
    18世紀ナポリ王国における政治経済学の形成

こうした経緯からナポリでは「国家を経済の主体と見做し、国民の徴税負担を縦軸に、対価として国民が受ける公的サービスへの満足度を横軸に取った計測値に基づいて叛乱の勃発などを予防する」独創的な政治経済学が生み出される事になったのでした。

ヴェストファーレン条約とドイツ官房学の誕生」

ドイツの重商主義mercantilism:16世紀中旬~18世紀)」とも言われる官房学独Kameralismus, 英Cameralism:17世紀~18世紀) )」の「官房独Kammer)」は、ラテン語の "camera"(部屋・国庫)に由来し、当時のドイツでは領邦議会を意味していた。ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国が事実上解体されて以降、各領邦議会は自らの領邦を政治的・経済的に自立させるべく公的な支配地域の管理・行政を掌握したが実務遂行には「いかに君主の国庫を富ませるか」といった技術的方法論が不可欠で、各国や各領邦の経済や行政の管理に関わる諸原理を体系的にまとめる「官房学」という新たな研究分野が誕生したのである。ただしフランスで発達した初期コルベール主義同様(ナポリ政治経済学の影響を受けるまでは素朴な重金主義が中心だった。

こうした諸概念の大源流を遡ると複式簿記Double-entry Bookkeeping System)の世界に辿り着くのです。

  • 任意の期首と期末を定め、その間の簿記的取引の全てを仕訳帳や総勘定元帳などに記録として残す。すると(不正や誤謬がなければ)借方の合計と貸方の合計が常に一致する。
  • これを貸借平均の原理(Principle of Loan Average)資産+費用=負債+純資産+収益といい貸借対照表等式損益計算書等式の大原則となっている。

ここで重要なのが「あらかじめ期首と期末が設定されるからこそ、期内全ての借方取引と貸方取引の二重性が捕捉可能となる」なる実証科学的思考様式

  • 中世地中海交易圏でアラビア商人が発案し、ルネサンス期のイタリア商人を通じてアラビア数字とセットで欧州に広まったとされている。
  • その起爆剤となったのが当時の出版革命で、より具体的に「スムマ算術・幾何・比及び比例全書,1494年)」の一章として「簿記論」を著したイタリア商人出身の数学者ルカ・パチョリ1445年頃~1517年)が「複式簿記の父」として崇められていたりする。
  • そして医術や占星術を本業としていた数学者カルダノ1501年〜1576年)が「アルス・マグナ(Ars Magna, 1545年)」の中で三次方程式Ars Magna, 1545年Cubic Equation)に虚数の概念を導入して解いたのも同じルネサンス期イタリアの出来事だったのである。 さらにオイラーの師匠ベルヌーイ(1667年〜1748年)は自然指数関数e^1=(1-1/N)^N導出を巡る思考実験で「複利発生期間の設定極限」の例えを用いている。そもそも写実絵画や建築分野で「対数尺=透視図法」の研究が最初に本格化したのも、やはりルネサンス期イタリアではなかったか?

思わぬ場所で政事(光の世界)と商事(闇の世界)が交錯を? 

  • そもそもグロティウス戦争と平和の法1625年)」自体には国家を人間社会における様々な活動の主体として考える発想自体が存在しない。その意味では、こうした政治経済学にはまさに「ヴェストファーレン体制の落とし子」という側面が確実に存在する。

  • 絶対王制官僚達が重視したのは軍事力による交易と徴税の独占、徴税と国債発行によって国民から吸い上げた富を宮廷が戦争と文化活動に投資される構造によるインフレ抑制策であり、原風景として史上初めて「貨幣数量説」に到達しながらこれを国家経営に生かせなかったスペイン絶対王制のシステムの批判的継承という側面も?

  • 日本の江戸幕藩体制下でも初期には同様の動きが見られたが、戦国時代に楽市楽座を通じて選別・庇護されてきた現地御用商人達は元禄時代までに全国規模のネットワークを武器とする新興商業集団「株仲間」の競争で敗れ全滅してしまう。

近代歴史哲学の創始者ジャンバッティスタ・ヴィーコが主著「新しい学(Principi di scienza nuova, 1725年)」を出版したのもまさにこの時代。「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史とは無から人間の行為事業を積み上げたものである」なる定義は、まさにかかる時代のナポリだったからこそ生まれた表現だったのです。