「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【欧州歴史区分】欧州中世における「ゴシック時代(12世紀~16世紀)」について。

ゴシック時代は概ね前期(12世紀~13世紀)/中段期(14世紀)/後期(15世紀~16世紀)と分類される様です。あまりに長く漠然としてますね。

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欧州文明の最初の国際展開は建築史上の時代区分でいうところのロマネスク(Romanesque)時代(10世紀〜12世紀)にまで遡ります。

カール大帝ザクセン戦争(772年〜804年)を契機に北欧諸族の文明化が始まったが、それはハスカール(従士)によって組織されたヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)の始まりでもあった。

とはいえ彼らの部族社会は文明化の過程で崩壊し、名家として残る事なく圧倒的多数を占める領民にただ飲み込まれてしまう。

それは(エルサレム、ローマ、イベリア半島サンティアゴ・デ・コンポステーラを目的地とする)礼文イベリア半島におけるレコンキスタ運動(711年~1492年)が発展し、エルサレム十字軍国家が建設された十字軍運動(11世紀末~13世紀末)が始まった時代でもあったのです。

これに続いたゴシック時代前期(12世紀~13世紀)はフランスイングランド十字軍国家の宮廷で王侯貴族や名族が勢力争いを繰り広げる時代となりました。後世に伝わるのはフランス王妃で英国王妃というとんでもない経歴を持つ(間に「十字軍離婚」なる前代未聞のイベントを挟む)アリエノール・ダキテーヌ(1122年~1204年)や「欧州初のルネサンス有識者」の異名を持つシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220年~1250年)フランス国王の弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou,1266年~1285年)、「お騒がせ一族リュジニャン家エルサレム王国で存在感を発揮したイブラン家などの名前。

ゴシック建築は、歴史的区分としては1150年頃から1500年頃までの時代を指す。北フランス一帯において着実に発展していた後期ロマネスク建築のいくつかの要素を受け継ぎ、サン=ドニ修道院付属聖堂において一つの体系の中に組み込まれて誕生し、12世紀中葉から、サンスやラン、パリ、そしてシャルトル、ランス、アミアンでは、これに倣って大規模かつ壮麗な聖堂が建てられることになった。当然、西ヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築物が建設されていたが、イル=ド=フランス地方をはじめとするフランス王国の中心地においてのみ、初期から盛期にいたるゴシック建築の首尾一貫した発展の状況を見ることができる。

一方、イングランドにおけるゴシック建築カンタベリー大聖堂建立によって1180年頃から定着しはじめる。

一方ウェストミンスター寺院は大陸の意匠を上手く融合させ、新たな空間を創出。

当時の建築との関係で言うと「国王の側近」としても働いたフランスのサン=ドニ修道院シュジェール(Suger, 1081年頃~1151年)やイングランドカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルター(Hubert Walter, ?~1205)、そして側近をフランス人で固めウェストミンスター寺院を現在の姿に大改築したヘンリー三世(在位1216年~1272年)などの名前が挙がります。それではこうした人達は当時の実際の歴史において他の登場人物とどういう関係にあったのでしょうか? まずは各国首長の推移について目を向けてみましょう。

カペー朝フランス王国

  • 第5代国王肥満王(le Gros)/戦争王(le Batailleur)」ルイ6世(在位1108年~1137年)…強力なイングランド王ヘンリー1世神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世に挟まれながらフランス王権の防衛に努めた。

    父王の崩御によって1108年に即位したルイ6世はフランス諸侯の反乱に苦しめられたが、幼少時からの親友であるシュジェール(聖職者で、サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として重用し、宗教政策による諸侯の統率、父の代から対立するイングランドとの交渉などを行なって、国内の安定化に努めた。

    それでも諸侯の統率が今ひとつまとまっていなかったため、時のローマ皇帝ハインリヒ5世の侵攻を受ける。

    フランスは危機に陥ったが、シュジェールは聖ドニの軍旗である「オリフラム」を掲げることで、信仰心ということからフランスの諸侯を参集させてまとめ上げ、これを撃退することに成功した。

    またシュジェール主導のもと、修道院改革なども遂行された。

  • 第6代フランス国王若王(le Jeune)」ルイ7世(在位1137年~1180年)…アリエノール・ダキテーヌの最初の夫。妻を伴って第2回十字軍(1147年~1148年)に参戦したがその後、離婚。国益からシェルジェールやは最後まで何とか二人を繋ぎ止め様とし続けた様である。

    父の代から国王がパリに長期滞在する様になり、フランスの首都に位置付けられて統治機構が整備された。そしてサン=ドニ修道院パリ大学の存在もあり政治・宗教・文化の中心地としての発展を開始する。その一方でアリエノールが北フランスに広めた南フランスの文化を嫌い、離婚した後は払拭に取り掛かった(十字軍で国内が疲弊し文化人を雇えない財政問題もあった)。かくしてフランス宮廷からは騎士道物語恋愛詩が追放され、文法論理学修辞学といった修道院の教育が主流になっていくのである。

  • 第7代フランス国王尊厳王(Auguste)」フィリップ2世(在位1180年~1223年)…父王の崩御により15歳で即位。当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を開始した。エノー伯シャンパーニュなどの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを獲得。

     

    さらにイングランド王ジョンとの抗争に勝利してプランタジネット家がフランス南部に所有する広大な領地をフランス王領に併合し、アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)を利用して王権をトゥールーズオーヴェルニュプロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。

    第8代フランス国王獅子王(le Lion)」ルイ8世(在位1223年~1226年)…フィリップ2世の長男。母が西フランク王家だったカロリング家の血を引いており、カペー家カロリング家の両方の血統を受け継ぐ事によりフランス王の正当性を高めた。1214年にはフランスの挟撃を狙いギエンヌから侵攻したイングランド王ジョンポワチエで撃退して南方の憂いを軽減し北方におけるブーヴィーヌの戦い(1214年)の勝利に貢献した。

    第一次バロン戦争(2015年~2017年)に際しては1216年、ジョン王に不満を持つイングランド諸侯と連携してイングランドに渡る。ロンドンを占領下に置いて戴冠目前だったが、ジョン王が急死し跡を継いだヘンリー3世マグナカルタを承認し諸侯と和解した為、イングランドからの撤退を余儀なくされる。

    1217年イングランドから戻ると、南仏諸侯の反撃に苦戦するアルビジョア十字軍を支援。1223年のフィリップ2世の崩御により即位し、ユダヤ人から借金することを禁じる布告を出したが、大諸侯であるシャンパーニュ伯ティポー4世が従わず対立した。

    1224年アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の指導者だったアモーリ・ド・モンフォールから南仏(ラングドック)の支配権を譲り受け、1225年トゥールーズ伯レーモン7世を再び破門に追い込み、1226年に新しい十字軍を率いてラングドックからオーヴェルニュ、さらには当時神聖ローマ帝国領だったプロヴァンスの征服に乗り出す。戦い疲れた南仏の諸都市はほとんど抵抗せずに降伏し、アヴィニョンでの抵抗も3ヶ月で制圧して南仏への王権伸張に成功した。しかし同年11月にパリへの帰路、オーヴェルニュ、モンパンシエ城において崩御。死因はおそらく戦地で感染した赤痢とされるが、王妃ブランシュとシャンパーニュ伯ティボー4世が結託して、王を毒殺したとの噂が流れた。

    第9代フランス国王聖王ルイ/聖王ルイ(Saint-Louis)」ルイ9世(在位1226年~1270年)。死後カトリック教会より列聖された事からこう呼ばれる様になった(米国ミズーリ州の都市セントルイスの地名の由来)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。内政に力を入れ長期の平和を保った為に彼の治世下のフランス王国は繁栄。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価された。ただし宗教的情熱が高じて2回の十字軍を強引に遂行。莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わった挙句、陣没。

    その両方にシャルル・ダンジューは同行した。

    第10代フランス国王大胆王(le Hardi)」フィリップ3世(在位1270年~1285年)…勇猛だが、単純で騙され易いと評され、後半生は野心家の叔父シャルル・ダンジュー(アンジュー伯、後にシチリア)の操り人形といわれた。

    1285年シャルル・ダンジューを支持する教皇マルティヌス4世アラゴン王ペドロ3世を破門してアラゴン王位をフィリップ3世に与える。フイリップ3世アラゴンに侵攻するが成功せず、逆に打ち破られ、撤退時にペルピニャンで病没した。同年にシャルル・ダンジューペドロ3世マルティヌス4世も亡くなる。

  • 第11代フランス国王端麗王(le Bel、ル・ベル)」フィリップ4世(在位1285年~1314年,ナバラ王1284年~1305年)…アラゴンとの争いはナポリ王カルロ2世に対する義理立てに過ぎなかったので1291年に条約を締結し和睦が成立。官僚制度の強化に努め、やがて絶対王政へとつながる中央集権化の第一歩を踏み出した。

プランタジネット朝イングランド

  • ヘンリー2世(在位1154年~1189年,ノルマンディー公1150年~1189年,アンジュー伯1151年~1189年)および「共同国王若ヘンリー(在位1170年~1183年)…アリエノール・ダキテーヌの2番目の夫。ノルマン朝(1066年~1154年)を滅ぼしプランタジネット朝を開闢。

  • 獅子心王(Richard the Lionheart)」リチャード1世(在位1189年~1199年)…ヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの次男。即位するや否や内政を母アリエノール・ダキテーヌに託し第3回十字軍(1189年~1192年)に出発。帰途捕虜になり、ハインリヒ獅子公の仲介でホーエンシュタウフェン朝二代目皇帝ハインリヒ6世15万マルク(10万ポンド)もの莫大な身代金を払う。中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月。解放後はイングランドカンタベリー大司教で大法官のヒューバート・ウォルターにまかせてフランス王フィリップ2世と争い、各地を転戦。1199年アキテーヌ公領シャリュでシャリュ城攻撃中クロスボウの矢を受け、その傷からの壊疽で死去。

  • 欠地王(John Lackland)」ジョン(在位1199年~1216年)…ヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの末子。即位して早々の失政で大陸領を喪失。アリエノールの敏腕を駆使してもそれを防ぐ事は出来ず、そのまま亡くなってしまう。

    さらに1205年カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると後継者争いが発生。教皇権強化を狙うローマ教皇インノケンティウス3世も独自の候補を立てたがジョンはこれを認めるどころか教皇派司教達を追放して教会領を没収し大陸再侵攻への軍資金とした。1207年インノケンティウス3世イングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門。さらに1213年にはフランス王のイングランド侵攻を支持し諸侯の反乱が計画される。そこでジョンはイングランド及びアイルランド教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額千マルクを支払う事を約して破門を解かれる。その間にもウェールズアイルランドスコットランドへの影響力強化に努め、大陸領土奪回の為に海軍を整備し、フランス王フィリップ2世と対立する甥神聖ローマ皇帝オットー4世フランドル伯フェランと提携を深めた。しかし大陸領土喪失による収入減に加え、軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけた事から諸侯や庶民の不満が高まる。一方、教皇からイングランドへの侵攻支持を取り消されたフランス王フィリップ2世は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍により船舶の大半を失って撤退。好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てたがブーヴィーヌの戦い(1214年)で惨敗してしまう。この結果連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世はフリードリヒ2世に皇帝位を奪われた。

    帰国したジョンを待っていたのは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)臨時課税を乱発し苛政への不満を鬱積させていた国内諸侯の反発だった。ジョンが強圧を持ってこれを抑えようとすると諸侯は結束して反抗し、内戦状態に陥る。結局、以前から突き付けられていた(国王の徴税権の制限や法の支配といった)諸侯の要求事項を受け入れたマグナ・カルタ(大憲章)が制定され1215年6月15日ラニーミードで調印されたが、すぐに不服をローマ教皇インノケンティウス3世に訴えて無効破棄を宣言してもらい、再び圧政と恣意的重税を行うようになったので再び内戦状態となり、諸侯がフランス王太子ルイに援軍を求めて招聘した事から第一次バロン戦争(2015年~2017年)へと発展した。

    ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊との戦いを繰り広げるも赤痢を罹って1216年病没。

  • ヘンリー3世(在位1216年~1272年)…ジョンの息子。ジョン当人の崩御によりバロン戦争を継続する理由が無くなると、諸侯はウィリアム・マーシャルを摂政に立てて王位を9歳のヘンリーに継承させた上でマグナ・カルタ1216年11月改めてイングランド王ヘンリー3世の名前で発行させた。以降イングランド諸侯が信じられなくなったヘンリーは、母方の親族にあたるリュジニャン一族などのポワチエ人、妻の生国のプロヴァンス人、縁戚のサヴォイア家の一族といったフランス人を側近として重用しこれに激怒したイングランド諸侯が(教皇インノケンティウス3世の提唱に従って北フランス諸侯が南フランスを攻めた)アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の英雄シモン・ド・モンフォール(第5代レスター伯爵)の息子シモン・ド・モンフォール(第6代レスター伯爵)を総大将に推戴した第2次バロン戦争(1264年~1267年)を起こす。

    最終的に反乱自体は鎮圧され、シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)も戦死したが、これを契機に英国議会制への道が開けた。

  • 長脛王(Longshanks)」エドワード1世(在位1272年~1307年)…その治世は戦争に明け暮れウェールズスコットランドに侵攻して併合。またアキテーヌを巡ってフランスと戦争した。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて百年戦争(1337年/1339年~1453年)に繋がる。

神聖ローマ帝国皇帝

  • ホーエンシュタウフェン朝初代皇帝赤髭(Barbarossa=バルバロッサ)」フリードリヒ1世(在位1152年~1190年,イタリア王1155年~1190年,1178年ブルグント王として戴冠)…イタリア政策に力を注いで教皇1157年から対立。1159年教皇ハドリアヌス4世が死去すると反皇帝派が推すアレクサンデル3世と親皇帝派が推す対立教皇ウィクトル4世が対立し18年間にわたる教会分裂が始まり1160年教皇アレクサンデル3世から破門される。1162年には敵対するミラノを侵攻して破壊。現地に皇帝の任命するポデスタ (独裁官)を置いた。

    ザーリアー朝(1027年~1125年)時代の叙任権闘争によって失われたのは何か。ホーエンシュタウフェン朝の時代に入って初めて「神聖帝国」の呼称が登場する。1157年3月のミラノ討伐イタリア遠征のための諸侯に対する召集状においてフリードリヒ1世が初めて「神聖帝国」の語を用いたのである。神聖である事が自明の理で無くなったからこそ「神聖」を名乗る必要が生じた訳である。さらに中世的国家体制の崩壊が進んだ1254年ローマ王ヴィルヘルムが「神聖ローマ帝国」の語を初めて用いる

    これを危惧して1168年から北イタリア諸都市がロンバルディア同盟を結成。1174年における再征はハインリヒ獅子公から援軍を拒否され「藁の都市の包囲戦レニャーノの戦い(1176年)で大敗を喫してしまう。

    これを受けて同年10月にアナーニで教皇と交渉。アレクサンデル3世を正式な教皇として承認しヴェネツィアの和約(1177年)により都市同盟側との6年間の休戦を実現し18年間にわたる教会分裂も終結した。その後都市同盟側の内紛につけ込んで「コンスタンツの和約(1183年)」を締結して都市同盟を承認する代償に同盟側に皇帝の諸権利を認めさせ、イタリア問題に一応の決着をつける。内政面では国王直属官僚(ミニステリアレス)登用によって諸侯の力を抑え様と図ったが、逆に彼らを統御する事が出来なくなった。1189年第3回十字軍(1189年~1192年)の総司令官としてイングランドリチャード1世フランス王フィリップ2世と共に遠征しイコニウムの戦い(1190年)でイスラム軍を破るも同年6月渡河中に落馬し溺死。

  • ホーエンシュタウフェン朝二代目皇帝ハインリヒ6世(在位1191年~1197年,ローマ王/ドイツ王1169年~1197年,イタリア王1186年~1197年,シチリア王1194年~1197年)…オートヴィル朝(ノルマン朝)シチリア王国(1130年~1194年)の継承権を王女コンスタンツェとの結婚によって獲得。「反シュタウフェン陣営の有力者イングランドリチャード1世を捕らえ、その身代金で2度目の南イタリア遠征を成功させるも夭折。

  • ヴェルフ朝皇帝オットー4世(在位1209年~1215年,ローマ王1198年~1215年,イタリア王1208年~1215年)。ホーエンシュタウフェン朝と対立したヴェルフ家唯一のローマ皇帝イングランドリチャード1世と懇意だったハインリヒ獅子公の子。1210年ローマ教皇インノケンティウス3世から破門を宣告されており、のブーヴィーヌの戦い(1214年)でフリードリヒ2世に敗れ帝位を断念。1215年廃位。

  • ホーエンシュタウフェン朝三代目皇帝世界の驚異フリードリヒ2世(在位1220年~1250年,シチリア王1197年~1250年,イタリア王1212年~1250年,ローマ王/ドイツ王1212年~1220年,エルサレム王1225年~1228年)…学問と芸術を好み時代に先駆けた近代的君主として振る舞い(シチリア王国にローマ法に基づく国家法典を制定しナポリ大学を建設)スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトから「王座上の最初の近代人」と呼ばれた。その知性によってイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了し第6回十字軍(1228年~1229年)をほぼ無血で成功させる一方、教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し(ローマ教皇から破門を受ける事2回)十字軍国家でも歓迎されなかった。その一方でドイツでは帝国の分裂・領邦化が進み、ドイツ騎士団の東方進出によりプロイセン形成の基礎が形成される。
  • その後フリードリヒ2世の死後を継いだ次男コンラート4世在位4年で死去。幼い息子のコッラディーノや末弟のマンフレーディローマ教皇と争い、ローマ教皇の支持を受けたシャルル・ダンジューによって滅ぼされた。

    さらに1272年にフリードリヒ2世の庶子エンツォが嗣子のないままボローニャで獄死。ホーエンシュタウフェン朝の男系が断絶して神聖ローマ帝国大空位時代(1250年/1254年/1256年~1273年)に突入した。一方、シチリア王国についてはシャルルがシチリア晩祷戦争(1282年)でシチリア島を失い、マンフレーディの娘コスタンツァと結婚していたアラゴン王ペドロ3世に奪われてシチリア王国ナポリ王国が再統一されるのは1504年となる。

そう、この時代が始まった時中心にあったのは「8歳から80歳まで現役政治家だったヨーロッパの祖母アリエノール・ダキテーヌ(1122年~1204年)であり、終わる時に中心にあったのは「野心家の王弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou,1266年~1285年)であり、イングランドエドワード1世(在位1272年~1307年)やフランス王フィリップ4世(在位1285年~1314年,ナバラ王1284年~1305年)の代から突如として百年戦争(1337年/1339年~1453年)を経て英仏の国境が確定し、両国が「(国としての体裁を保つのに十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制に立脚する徴税で養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)」の時代がおもむろに幕を開ける事になるのでした。そしてその為には何よりもまず前時代に始まった「(イスラム諸国とビザンティン帝国を巻き込んだ)十字軍運動」に決着をつける必要があったのです。

エルサレム王国の陥落過程

1174年にシリアのザンギー朝開闢者ヌール・アッディーンアモーリーが没した。

  • ヌール・アッデーンの死去により、サラーフッディーンの勢力はエジプトだけでなくシリアにも及ぶ様になり、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。
  • 一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世はらい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユイザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世(エルサレム王ボードゥアン2世の孫)がいた。
  • 従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。
  • 宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンのリュジニャン兄弟トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。
  • 一方、貴族派トリポリ伯レーモンを中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン・ディブランなどのイブラン一族が加わっていた。

1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世トリポリ伯レーモンのバランスを取りながら国政を運営し、シビーユモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。戦況はモントジザールの戦い(1177年)でサラーフッディーンに勝利したもののマルジュ・アユーンの戦い(1179年)ヤコブの浅瀬の戦い(1179年)以降しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。

  • 貴族派は、シビーユボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワと結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモンや勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。
  • 1183年ルノー・ド・シャティヨンの挑発に怒ったサラーフッディーンが、ルノー・ド・シャティヨンの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモンを摂政とした。

1185年ボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。

  • 貴族派を中心に諸侯は、シビーユ即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対しトリポリ伯レーモンボードゥアン・ディブランなどの貴族派がイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワが寝返って失敗に終わった。
  • 反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノー・ド・シャティヨンと組み、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めた。1186年休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラーフッディーンの捕虜解放交渉はギールノーに無視され、ここに休戦は破れた。

トリポリ伯レーモンサラーフッディーンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモンに対してサラーフッディーンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモンは屈してギーと妥協しヒッティーンの戦い(1187年7月4日)でサラーフッディーンと激突したが、十字軍は大敗し、ギールノーテンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。

  • サラーフッディーンモンフェラート侯コンラードが守るティールを除くアッコンナビュラスヤッファトロンシドンベイルートアスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。
  • エルサレムにはバリアン・ディブランの他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラーフッディーンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行ったが衆寡敵せず、間もなく降伏。

1187年10月2日に開城したが、サラーフッディーンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。

十字軍国家「キプロス王国」の興亡

中世キプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍1189年~1192年)の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家エルサレム王国の末裔が統治した。

1194年ギーが没すると、エルサレム王の称号はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世在位1192年~1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。

東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアやエジプトを襲っている(1344年のスミルナ十字軍、1365年のアレクサンドリア十字軍など)。一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていく。

  • 中でもヴェネツィア貴族のコルナーロ家との関係は厚く、その支援に対して度々特権を付与することが行われた。また1464年に王位に就いたジャック2世はその即位前に異母妹と王位を巡って争ったが、この時もヴェネツィアからの支援を受けてこれに勝利し、コルナーロ家の娘カタリーナを妻に迎えている。
  • しかしジャック2世は後継者の男子を得て程なく病死し、ジャック3世となったその男子も夭折するとカタリーナが女王となり、その16年後1489年に彼女はキプロスを自らの祖国であるヴェネツィアに譲り、ここにキプロス王国はその幕を閉じた。

その後キプロス島1571年オスマン帝国により陥落する。レパントの海戦で勝利するも、キプロス奪還には失敗。

レヴォン5世の跡継ぎとして、彼の従兄弟に当たるキプロス王子ギー・ド・リュジニャンが指名され、1342年コスタンディン4世として戴冠した。ルジニャン王朝の始まり、そしてキリキア・アルメニア王国の終わりの始まりである。

  • 本名からもわかるように、コスタンディン4世はフランス出身の十字軍騎士ギー・ド・リュジニャンの子孫であり、自分たちの慣れ親しんだカトリックの信仰や西ヨーロッパの常識をキリキアに持ちこもうとした。貴族たちは大歓迎だったが変化をきらう農民たちは拒絶反応をしめし、紛争が頻発する。
  • 1343年にはその隙をついてマムルーク朝が侵攻を再開し、ルジニアン朝の王達はヨーロッパの同胞に助けを求めるも応えるものはなく、無為に年月だけが経過する。
  • 1374年~1375年に主要都市すべてが陥落した際、コスタンディン4世の甥でアルメニア王となっていたレヴォン6世と王女夫婦が捕虜となり、キリキア・アルメニア王国は滅びた。その後安全を確保されて出国し1393年パリで没する。

その後、キリキア・アルメニア王の称号は彼のいとこのキプロスジャック1世が受けつぎ、代々のキプロス王がアルメニア王を称することになった。キプロス王国がヴェネツィア共和国に併合された時、この称号はサヴォイア公カルロに引きわたされ、以後サヴォイア家が保持している。

同時に進行したのがアンジュー帝国(1154年~1259年)の消滅。

ノルマン朝(1066年~1154年)断絶を契機にアンジュー家イングランド王家の手に渡った結果、英仏を跨ぐ形で巨大なアンジュー帝国(1154年~1259年)の興亡。

  • 立役者は何と言っても「ヨーロッパの祖母」アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, オック語: Alienòr d'Aquitània, 1122年~1204年)…

ラ・マルシュ伯ユーグ9世・ド・リュジニャンらフランス諸侯の反発を招いてしまい、その息子ラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンらの策謀にも関わらず一旦はイングランド側がガスコーニュ以外の大陸領全てを放棄する形で問題解決が図られる展開を迎える。

  • ここに登場するリュジニャン家の始祖はドラゴン人魚メリュジーヌとされる。

  • 第一次バロン戦争(1215年~1217年)で叛旗を翻しフランス王太子ルイ(後のフランス国王ルイ8世)を総大将に担ぎ上げたイングランド諸侯が信じられなくなったイングランド王ヘンリー3世は、母方の親族にあたるリュジニャン一族などのポワチエ、妻の生国のプロヴァンス、縁戚のサヴォイアの一族といったフランス人を側近として重用。これに激怒したイングランド諸侯は(教皇インノケンティウス3世の提唱に従って北フランス諸侯が南フランスを攻めた)アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の英雄シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)の息子シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)を総大将に第2次バロン戦争(1264年~1267年)を起こす。調停を依頼されたフランス国王ルイ9世は反乱者への寛大な処置を望みつつヘンリー3世の肩を持つ。最終的に反乱自体は鎮圧され、シモン・ド・モンフォール (第6代レスター伯爵)も戦死したが、これを契機に英国議会制への道が開ける。

フランス国王ルイ9世はフランス王領となったアンジュー家を弟シャルルに与え、王弟シャルルアンジュー伯を名乗る様になった(シャルル=ダンジュー)。

神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタフェン家によるイタリア併合の野望。

イタリアに隣接するシュヴァーベン大公神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタフェン家は代々イタリア併合を望んできた。

  • 初代皇帝フリードリヒ1世は敵対するミラノの破壊自体には成功するも(ランゴバルト貴族が影響力を喪失した後、教皇に忠誠を誓う様になった)北イタリア諸都市のロンバルディア同盟レニャーノの戦い(1176年)で大敗を喫っし、第三回十字軍(1189年~1192年)従軍中、鎧を着たまま河に落ちて溺死。
  • 第2代皇帝ハインリヒ6世は(ノルマン系王朝たる)オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)は滅ぼして併合する事に成功するも1197年急死。
  • さらに1208年にはローマ教皇インノケンティウス3世ヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世と謀って(ヴェルフ家の対立王オットー4世を下し神聖ローマ皇帝として戴冠する直前だった)第4代ローマ王フィリップを暗殺。代わりに帝位を承認したオットー4世南イタリアに攻め込む気配を見せたので1210年に破門してフィリップの甥のフリードリヒ2世(Friedrich II.,ローマ皇帝在位1220年~1250年,シチリア王在位1197年~1250年,イタリア王在位1212年~1250年,ローマ王/ドイツ王在位1212年~1220年,エルサレム王在位1225年~1228年)を代わりに帝位に就けた。

    フリードリヒが生まれた当時のシチリア島は、ノルマン人王朝(オートヴィル朝)建国前から根付いていたイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質にもされた。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し、ラテン語ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した。

    一方、帝国北部(ドイツ)ではシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥とヴェルフ家のオットーをローマ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた。1208年フィリップが暗殺されると、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをローマ王に選出。

    1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがローマ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが帝位に就いた。

    ところが強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家ヴェルフ家の対立が再発し、帝国に内乱が起きる。 オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、帝国の反乱を扇動した。

    この処分を受けて1211年に諸侯はニュルンベルクオットーの廃位とフリードリヒのローマ王選出を決定し、フリードリヒには帝国北部(ドイツ)へ向かうよう要請した。フリードリヒはその前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子ハインリヒへのシチリア王譲位という条件を呑み、1212年にアルプスを越えた。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐している。

    12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはローマ王に選出され12月9日マインツで戴冠した。フリードリヒはフランスからの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した。ブーヴィーヌの戦い(1214年)での敗北でオットーの没落は決定的になり、フリードリヒは名実共にローマ王として認められた。

    1215年フリードリヒアーヘン大聖堂でローマ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した。フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒが帝国に移ることを認め、翌1216年に没した。帝国滞在中、フリードリヒはエルザス、ライン河畔、ヴォルムス、シュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった。フリードリヒは帝国の統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した。

    シチリア再建

    フリードリヒは荒れ果てたシチリアでは帝国とは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を撤廃。貴族の拠る城砦を破壊して新たに皇帝直轄の城を建設し、自治都市には皇帝直属の行政官を派遣した。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとしたメッシーナは弾圧を受け、教会にも帝国の介入が及んだ。

    フリードリヒの軍はさらにシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、10,000人イスラム教徒を捕らえ新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる。 1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学を創立。

    第六回十字軍(1228年~1229年、別名「破門十字軍」)

    1222年エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行がシチリア王国ブリンディジに上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる。1225年11月9日フリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた。

    1227年ホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた。しかしグレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。

    教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。

    フリードリヒアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた。フリードリヒは血を流すこともなく、1229年2月11日アル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。①キリスト教徒への聖墳墓教会の返還。②イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサー・モスクの保有。③軍事施設の建設の禁止。

    しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはチュートン騎士団だけで聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団は不快感を示した。エルサレムに入城したフリードリヒエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団に任せてシチリアに帰国。

    帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲。5月1日に包囲を解いて密かに帰国したがアッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせている。

その後ローマ教皇インノケンティウス4世シャルル・ダンジューを招聘。やっとホーエンシュタフェン家の断絶に成功し神聖ローマ帝国大空位時代(1254年~1273年)開始。

第4回十字軍(1202年~1204年)ビザンティン帝国の凋落

ローマ教皇インノケンティウス3世はまたフランドル伯やシャンパーニュら北フランス諸侯をヴェネツィアの船団が運んだ第4回十字軍(1202年~1204年)を提唱した。

  • この十字軍は船賃が全然足らず、エジプトに辿り着くどころか行き掛けの駄賃で(ヴェネツィアと怨恨関係にあった)キリスト教国ザラ市(現在はクロアチアの都市ザダル)を攻略し、さらに(内紛に巻き込まれて)ビザンチン帝国を滅ぼしてラテン帝国(1204年~1261年)を建国。
  • フランドル伯が新皇帝に即位したが、翌1205年に侵攻してきたブルガリア軍に大敗し捕虜となって消息を絶った。一方、これを契機にヴェネツィアビザンチン帝国と近しい関係にあったライバルのジェノヴァに対し、地中海貿易でしばらくの間優位に立つ事になる(当然、ビザンチン帝国が復活したら仕返しされる訳である)。

結局、ビザンチン帝国パレオロゴス王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 在位1261年~1282年)の手によって再建されたが、以前の繁栄は望むべくもなくオスマン帝国の手によって首都コンスタンチノープルが陥落する1453年5月29日まで無力な小国に止まり続ける羽目に陥る。

第5回十字軍(1217年~1221年)

ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。 1204年コンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世が、1213年教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年第4ラテラン公会議で正式に発布した。

  • この時点では、神聖ローマ帝国においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家のオットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が名実共にローマ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた。
  • しかし1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いが再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達には参加する余力がなかったのである。
  • 一方、十字軍参加を誓ったものの、元々宗教的に寛容なシチリアに育ったフリードリヒ2世イスラム教徒との戦いには熱心でなく、イタリア政策において対立するローマ教皇との条件闘争が先決だった。
  • ローマ教皇はこれまでの失敗の反省から、第2回十字軍第3回十字軍のような国王中心の十字軍や、第4回十字軍のような諸侯の自由な主導によるものでもなく、第1回十字軍のような教皇使節が主導する十字軍を意図していたが、結局、新たに教皇となったホノリウス3世の呼びかけに対して(ブービーヌの戦いでその強さを見せつけた)フランスの騎士はさほど集まらず、ハンガリーアンドラーシュ2世やイタリア、ドイツ、フランドルの騎士等が主力となったのである。

アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退。

アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)

1209年フランス王国フィリップ2世の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派)を殲滅するための十字軍。

ローマ教皇インノケンティウス3世の要請に応じる形北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。

  • アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けた。シモン=ド=モンフォールから指揮を継承したルイ8世は現地で病没している。

  • ルイ9世の時の1299年アルビジョワ十字軍の勝利に終わった。

  • これによってフランス国内の異端が殲滅されると同時に王権がトゥールーズオーヴェルニュ(当時まだ神聖ローマ帝国領だった)プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぶ様になってフランスの統一が進んだ。その反面、トゥルバドゥール(吟遊詩人)などの南フランスの独自の文化も失われた。

ルイ9世の弟シャルル1246年プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の末娘ベアトリスと結婚し、プロヴァンス伯領を継承。さらに1247年にフランス王家からアンジュー、メーヌ伯領を親王采地として受け取った。とはいえプロヴァンス伯の妻のベアトリスや他の娘達が末娘のプロヴァンス継承に不満を唱え上、プロヴァンスは法的には神聖ローマ帝国(アルル・ブルグント王国)領であり、支配下の諸侯やマルセイユ、アルル、アヴィニョン等の都市は大幅な自治を享受していたためシャルルのフランス風の集権的な支配に対して不満を持ち、反乱を起こす様になる。シャルルが完全にプロヴァンスの反乱を鎮圧するには1262年までかかった。

シャルル=ダンジューの野望

シャルル=ダンジューの夢はシャルルマーニュの後継者を自負するフランス王国ロベルト・イル・グイスカルド以来東ローマ帝国を狙い続けてきたシチリア王国聖地回復を望むローマ教皇の願望の統合であり、甥のフィリップ3世神聖ローマ皇帝につけ、コンスタンティノープルを征服して地中海帝国を築き、エルサレムを奪回する計画を練っていた。

  • ルイ9世が起こした第7回十字軍(1248年~1254年)に参戦してエジプトに一緒に攻め込むも共に捕虜となる(後に解放)。
  • 第8回十字軍(1270年)にも参加し、夢を実現に近付けるべくチュニジア攻めを仕向けるも兄ルイ9世が遠征先で病没するという残念な結果に終わる。かえって敵たるマルムーク朝の侮りを招き、アッコン陥落(1290年)に至る。

ビサンティン帝国にも魔の手を伸ばす。

  • まずは1267年に男子後継者の見込みがないアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンヴィテルボ協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となる事を決定。
  • 次いでミカエル8世パレオロゴスに国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネを保護し、彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリス(1275年没)を結婚させて保護者に収まり1273年ラテン皇帝の地位を相続。
  • 1277年にはエルサレム王国の継承権も手に入れエルサレムを称する様に。
  • 1277年に次男フィリップ1278年アカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、以降はアカイア公も兼ねる事に。
  • さらに幾つかの領土をアドリア海岸に獲得して東ローマ帝国侵攻の準備を整えたがミカエル8世が東西教会統一政策を打ち出したので一時中断。

1282年に再度侵攻計略に取り組み始めたが、これに脅威を感じたミカエル8世は、アラゴンジェノヴァと結び、遠征のために重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽り始める。

  • 同1282年春に発生したシチリアの晩祷事件自体は偶発的だったが、ある意味工作の結果が実ったとも言える。当初シャルルはこの反乱を軽く見ていたため対応が遅れ、シチリア全土を失った。
  • シチリア住民はローマ教皇に保護を願い出たがシャルルを支持する教皇はかえって住民を破門。このためシチリア住民はホーエンシュタフェン朝王統の娘婿アラゴン王ペドロ3世に援助を求め、これを受けたペドロ3世シチリアに上陸しシチリア王即位を宣言する。実は彼自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引くオートヴィル朝(ノルマン朝)の潜在的王位請求者。

以降、ナポリを拠点とするシャルルペドロ3世の間の戦争が続く(シチリア晩祷戦争)。

  • ペドロ3世ピレネー山中から連れてきた傭兵隊アルモガバルス (アラゴン語:Almogabars, カタルーニャ語:Almogàvers, スペイン語:Almogávares, アラビア語:al-Mugavari)はイベリア半島レコンキスタで鍛え上げられた蛮兵で乗馬突撃してくる重装騎兵をアズコナと呼ばれる重い投槍の投擲で落馬させ、コルテルと呼ばれる肉切り包丁とナイフを合わせた様な鋭利な短剣で(刃の通る関節部を狙って)四肢を切り落とす戦い方で恐れられたという。
  • シャルルは、ローマ教皇マルティヌス4世ペドロ3世を破門させ、甥のフランス王フィリップ3世アラゴン王位を与えるよう工作。シャルルの意を受けたフィリップ3世がアラゴンを攻めたが、成果は上がらず、逆に敗北した。
  • 1284年ナポリアラゴンの海戦もシャルル側に利は無く、長男シャルル2世が捕虜となり1285年に失意のうちに病死。

同1285年フィリップ3世ペドロ3世マルティヌス4世も相次いで死没した。

シャルル死後は1288年に捕虜から解放されたシャルル2世が後継者となりシチリアを称し続けたが通常はナポリと称される。後にシャルルの曾孫カルロ・ロベルトハンガリー王となった。この王朝はハンガリーアンジュー朝と呼ばれる。

1285年アラゴン十字軍の遠征の帰りに病没した父フィリップ3世の後を継いでフランス新国王フィリップ4世(Philippe IV、在位1285年~1314年)が即位して以降は時代精神そのものが入れ替わった感がある。封建関係の頂点に立ちながら国家の防衛や国益を最優先に考える立場から従来の慣習を超えて官僚制度の強化と中央集権化に努め、やがて絶対王政へとつながる中央集権化の第一歩を踏み出したのである。ちなみに建築史上の時代区分でいうと14世紀は「ゴシック中断期」に該当する。

  • アラゴンとの争いはナポリ王カルロ2世に対する義理立てに過ぎなかったので1291年に条約を締結し和睦が成立。

  • ローマ教皇とも対立しフランス国内の支持を得てアナーニ事件(1303年)を起こし、最終的には教皇権を王権に従えて教皇庁アヴィニョンに移す(アヴィニョン捕囚、または「教皇のバビロン捕囚」)。教会の徴税権に対する権益拡大を目しての事だった。また腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって1296年には教皇庁への献金を禁止して通貨改鋳をおこない、さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕して資産を没収した後に追放する暴挙にも出た。ただしユダヤ人に対するこの仕打ちはドーバー海峡の向こう側のイングランドエドワード1世(Edward I在位1272年~1307年)もフランスやスコットランドへの遠征費用捻出に用いている。
  • また裕福でフランス王家にとっての最大の債権者でもあったテンプル騎士団1307年異端として弾圧して解散に追い込み、その財産を没収。
  • またパリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりした。これにより(当時の経済的発展が生んだ)新興富裕層に法服貴族に昇進する道が開かれる。

後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得たが、こうした行動の背景にあったのはフランスの慢性的な財政難だったのである。さらには毛織物業で栄え経済的に豊かであったフランドル地方の支配に向けられており、フランドル諸都市の市民と激しく争った。

1297年にはフランドルの併合を宣言。1300年イングランドと結んで対抗するフランドル伯ギー・ド・ダンピエールを捕らえジャック・ド・シャティヨン(Jacques I er de Chatillon)をフランドル総督に任命した。しかしその支配が過酷だった為に1302年5月18日ブルッヘにおいて市民の反乱が起こり、フランス人が虐殺される。

  • 再び侵攻して来たフランス軍に対しフランドルの諸都市は同盟を結んでこれに抵抗し、コルトレイクにおける金拍車の戦い(1302年7月11日)にで歩兵中心のフランドル都市連合軍が騎士中心のフランス軍を破る。
  • その後もフランスとの戦争は続き、リール近辺のモン=アン=ペヴェルの戦い(1305年)ではフランス軍が若干優勢という結果に終わっている。和睦と戦闘の繰り返しはフィリップ4世が死没する1314年まで続いた。

百年戦争期間中もフランドルは概ねイングランド側に就いており、その後ブルゴーニュ公国領、ハプスブルク家領、スペイン・ハプスブルク家領となりながらフランス革命ナポレオン戦争期までフランス領になることはなかった。

軍事技術面では、短槍歩兵の密集縦隊が、側面防御を条件に、いかなる騎兵の猛攻にも不敗であることを実証した戦いとなった。特に、それまで圧倒的優勢にあった封建制騎士軍の凋落を象徴する最初期の戦いとなった。

封建制軍隊は、直接の家臣でなければ主従関係が成立しないことから、命令系統の一貫性に欠けていた。従軍は臣下の封建的義務であるものの、12世紀以来、主君に従軍するのは年に1回40日程度が慣行だった。そのため、封建軍は大規模な戦闘が不可能であった。また、14世紀当時の騎士は重装備であり、騎士自身だけでなく、馬の動きも鈍重で長距離の駆走も困難だった。

金拍車の戦いは単に市民軍がフランス軍に勝ったという観点だけで捕えるべきではありません。多くの歴史的変換点、以後の歴史に多大な影響を与えた戦いなのです。

1.戦法・戦術の変換

当時の最強と言われた戦法は重装騎兵による集団突撃です。大河ドラマの戦場シーンで使われる馬はせいぜい30騎から50騎程度だと言われます。それ以上の数がいてもカメラのフレームで捉えきれないのだそうです。

つまり、30騎や50騎の馬であの迫力ある攻撃シーンが撮れるのですから、実際の戦闘で数百騎の騎馬が押し寄せてきたら戦場に留まる勇気は持てないのかも。実際、重装騎兵の突撃で戦列が大幅に崩れるのは当然のこととされていました。

対して市民軍が採ったのは密集方陣。守る側の恐怖心を取り除くために兵士互いが身を寄せ合い、長槍を付き出し、まるでハリネズミのような陣形が出来るのです。戦史に残る初めての対重装騎兵用戦法です。

歴史上の最大の皮肉。「トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers,732年)って何だっけ?

1週間目の正午から全面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。カールマルテルは日頃から厳格に兵の訓練をおこなっていた。このよく訓練されていた重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。これまで数々打ち勝ってきたイスラム重装騎兵による突撃戦術は、フランク軍の盾の壁に跳ね返され、アラブ兵はフランク軍の前に屍を重ねた。モサラベ年代記によると“北の人々は海のように動かすことができず、まるで氷の砦を作るように互いに堅固に立ち、強い打撃でアラブ人の首をたたき落とす”。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。アル・ガーフィキーの遺骸もあった。将軍を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。

この勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがマルテルにより撃退された。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。

2.軍団構成員の変換

フランスに於ける戦闘員の主力は、配下の領主や小領主達により構成される騎士団です。王や領主達は直属の常設戦闘軍を持っていませんので戦いのたびに呼び集められた騎士や雇われ騎士や傭兵によって軍団が形成されます。イングランドのように農民兵は基本的に存在しなかったようです。しかしながら、云わばプロの軍団が素人の市民軍に敗北したのですから、フィリップ4世の驚きと落胆は大きなものだったでしょう。以後フィリップ4世は近衛兵を初めとする常設軍の創設を果たすことに繋がります。

日本に於いても、かの豊臣秀吉軍が強かったのは秀吉が足軽上がりであり生え抜きの家来がいなかったため、職業武士集団を作った点にあるとされます。農民兵を駆り出すため、種蒔きや稲刈りと言った繁忙時に出兵できなかった他の大名たちとの最大の相違点だと言われています。

フランドルの市民軍は、商人達から財政的な援助を受ける事が出来、最新の武器を入手することが可能であり、ブルッヘの反乱で多数のフランス人を殺していることから、敗戦は死をも意味しますので、戦意が高く、訓練を積み、指揮系統が確立されていたようです。 

3.騎士道精神

当時の戦闘では騎士は殺さずに捕虜とし身代金を取る慣行がありました。要は騎士はギブ・アップをすれば命は助かったのです。敵の騎士を捕まえて金にするというのが功名となったわけです。

領主や王から戦争の支度金や遠征費は期待できず、戦に勝っても王や領主から新たに領地を与えられたり、特別の報奨金も期待出来ないのです。

金拍車の戦いにおいては、市民軍に騎士は僅か400騎しかいません。対してフランス軍は騎士2,500騎、功を焦る騎士たちは司令官にせっつき早めの突撃を要請したのです。

ところが、足場は悪く機動力が発揮できず、ようやく敵陣にたどり着いたらハリネズミの陣形に突撃を阻まれ、集団に取り囲まれて個別殲滅。ギブ・アップも通じず叩き殺されてしまいます。この状態に騎士群は集団パニックに陥ったと思われます。

さらに事態を悪化させたのは撤退が出来ないこと。騎士道は敵に後ろを見せて逃げるというのは卑怯な行為とされていました。フランス軍の司令官も市民軍に対して後ろを見せることは出来ず、最終的な撤退時期を失い甚大な被害をもたらしたのです。

4.市民軍

フランスに於いては、農民の反乱を除いて市民が軍に対抗するなどということはありませんでした。市民決起軍にとってはフランス占領時に反乱を起こしフランス人を虐殺していますので、負けた時の反動が恐ろしい。また、自由都市防衛のために十分な武器を用意できていたのです。当時の最新鋭の武器はボウガンです。弓部分は鋼鉄製ですから弦を引くのに150㎏相当の力(弓力)を要したとされ、歯車が付いた弦を張るための巻き上げ機が付いていました。当然、威力はあるものの連射が利きません。

フランス軍は1,000張のボウガンがありましたが、騎士道精神によれば基本的に飛び道具は卑怯とされ、接近戦での一斉射撃などは行うはずがありません。対して、市民軍はそんな騎士道精神などは一切関係ありませんので、近づいてきた騎士に対してはボウガンをどんどん使ったでしょうし、殺すのは当たり前。戦なのですから。

騎士道にはアラゴン王カルロ3世ピレネー山中のゲリラ戦から連れ出したアルモガバルスだって敬意を払わなかった。むしろ彼らにとって重要だったのは、手足を切り落とされた味方の負傷兵は生かしておいても運ぶ手間がかかるし、始末しても心理的負担が掛かるし、いずれにせよ多くが壊疽で死んで戦場に戻ってこない事だった。

まとめ 

このようにいくつかの歴史的特徴を有する金拍車の戦いですが、単に歩兵が重装騎馬に勝ったとする結果論だけ取り上げられることが多いようです。

フランス軍が敗退した戦場には金メッキされた多くの拍車(靴に取り付けられた金具で馬を蹴り、走らせる道具で11世紀に発明され、従前必要であった鞭を持たなくても済むようになり、両手で扱う大きな槍を持つような戦法に変わった。西部劇でカーボーイの靴に付いている金具。中世ヨーロッパでは剣と共に騎士の象徴であり、騎士となる若者には騎士叙任式の際に授けられていた)、一説には500個とも言われる数の拍車が散乱していたので市民は戦勝記念として持ち帰り、コルトレイク聖母教会にいまでも飾理続けています。まさしく歴史の節目…

ちなみに、それまで純粋な要毛の供給地に過ぎなかったイングランドにおいて14世紀から現地での毛織物加工が始まるが、これはマンチェスターなどに移住したフランドル市民が主導した動きだったと考えられている。フランス軍の執拗な攻撃は、こうした技術移転を伴う移民を加速させる効果もあったであろう。

13世紀末からの急激な状況変化については、以下の様な説明もある。

1300年代中期のペスト流行期には人口の40〜60%が犠牲になった地域もある。当事者にとっては大惨事のように思えただろう。しかしペスト流行に至るまでのヨーロッパの状況を見ると、既に進行していた多くの問題がパンデミックをきっかけに加速したことがわかるだろう。

1200年代の終わりから続く長期的な景気後退の末に、黒死病の流行が訪れたのだ。それ以前のヨーロッパは「商業革命」による経済の全盛期で、遠距離の貿易が瞬く間に広がり、より多くの貨幣が流通し、経済は成長し続けた。しかしこの経済成長は、人口の増加に支えられたものだった。ヨーロッパ全体を見ると、この時期に人口が倍増したり3倍にまで膨れ上がった地域もあった。

そうして13世紀(1200年代)の終わり頃には、農耕に使用できる土地はほとんど残っていなかった。じめじめして起伏があり農業に適さないような土地ですら耕作に使われる状態だった。ただ賃金が極端に低い人々を農業に使えた。多くの人々は自分の土地を持たず、ギリギリの生活を送っていた。土地を使わせてもらう代わりに領主に対して無償でサービスを提供しなければならないという交換条件が当時盛んだった農奴制度を支えていたのだ。

気候的な要因もある。経済の全盛が長く続いた背景には、穏やかで暖かい天候があったのだ。種まきと収穫の時期さえわかればよい農夫にとって、天気良いかどうかというよりも、先の天気がどうなるか予測することの方が重要だ。しかし1200年代の終わりから1300年代初頭にかけて、天候が非常に悪くなった。天気が予測しにくくなり、雨が多く気温も下がった。さらに1315年〜1322年には西ヨーロッパを「大飢饉」が襲い、数え切れないほど多くの人々が亡くなった。その時点で、何らかのシステム的な誤りの兆候が現れていたと言える。そしてこの状況が黒死病の大流行まで続いたのだ。

いずれにせよ根本的原因たる「イングランド王がフランス国王の家臣でもある」捻れ構造自体は英仏の国境が確定する百年戦争(1337年/1339年~1453年)まで完全解消する事はありませんでした。

その一方でホーエンシュタフェン朝シチリア王国(1197年~1266年)のパレルモ宮廷を賑わせ、アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)を逃れて南仏宮廷からイタリアへとに逃げ込んだトゥルバドゥール(吟遊詩人)の「ラテン語によらない騎士道物語や恋愛詩」に刺激される形で(世俗イタリア語による)ルネサンス文学は最初の産声をあげたとも。

そんな感じで以下続報…