12世紀欧州における台風の目玉が明らかにアリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine,1122年~1204年)だった様に…
13世紀欧州における台風の目玉は明らかにシャルル=ダンジュー(Charles d'Anjou,1227年~1285年)だったのです。
ある意味「無能な働き者」とは、こういう人を指すのでは?
シャルル=ダンジューの夢はシャルルマーニュの後継者を自負するフランス王国、ロベルト・イル・グイスカルド以来東ローマ帝国を狙い続けてきたシチリア王国、聖地回復を望むローマ教皇の願望の統合であり、甥のフィリップ3世を神聖ローマ皇帝につけ、コンスタンティノープルを征服して地中海帝国を築き、エルサレムを奪回する計画を練っていた。
- 兄ルイ9世が起こした第7回十字軍(1248年~1254年)に参戦してエジプトに一緒に攻め込むも共に捕虜となる(後に解放)。
- 第8回十字軍(1270年)にも参加し、夢を実現に近付けるべくチュニジア攻めを仕向けるも兄ルイ9世が遠征先で病没するという残念な結果に終わる。かえって敵たるマルムーク朝の侮りを招き、アッコン陥落(1290年)に至る。
ビサンティン帝国にも魔の手を伸ばす。
- まずは1267年に男子後継者の見込みがないアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンとヴィテルボ協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となる事を決定。
- 次いでミカエル8世パレオロゴスに国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーを保護し、彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリス(1275年没)を結婚させて保護者に収まり1273年にラテン皇帝の地位を相続。
- 1277年にはエルサレム王国の継承権も手に入れエルサレム王を称する様に。
- 1277年に次男フィリップ、1278年にアカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、以降はアカイア公も兼ねる事に。
- さらに幾つかの領土をアドリア海岸に獲得して東ローマ帝国侵攻の準備を整えたがミカエル8世が東西教会統一政策を打ち出したので一時中断。
1282年に再度侵攻計略に取り組み始めたが、これに脅威を感じたミカエル8世は、アラゴン、ジェノヴァと結び、遠征のために重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽り始める。
- 同1282年春に発生したシチリアの晩祷事件自体は偶発的だったが、ある意味工作の結果が実ったとも言える。当初シャルルはこの反乱を軽く見ていたため対応が遅れ、シチリア全土を失った。
- シチリア住民はローマ教皇に保護を願い出たがシャルルを支持する教皇はかえって住民を破門。このためシチリア住民はホーエンシュタフェン朝王統の娘婿アラゴン王ペドロ3世に援助を求め、これを受けたペドロ3世はシチリアに上陸しシチリア王即位を宣言する。実は彼自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引くオートヴィル朝(ノルマン朝)の潜在的王位請求者。
以降、ナポリを拠点とするシャルルとペドロ3世の間の戦争が続く(シチリア晩祷戦争)。
- ペドロ3世がピレネー山中から連れてきた傭兵隊アルモガバルス (アラゴン語:Almogabars, カタルーニャ語:Almogàvers, スペイン語:Almogávares, アラビア語:al-Mugavari)はイベリア半島のレコンキスタで鍛え上げられた蛮兵で乗馬突撃してくる重装騎兵をアズコナと呼ばれる重い投槍の投擲で落馬させ、コルテルと呼ばれる肉切り包丁とナイフを合わせた様な鋭利な短剣で(刃の通る関節部を狙って)四肢を切り落とす戦い方で恐れられたという。
- シャルルは、ローマ教皇マルティヌス4世にペドロ3世を破門させ、甥のフランス王フィリップ3世にアラゴン王位を与えるよう工作。シャルルの意を受けたフィリップ3世がアラゴンを攻めたが、成果は上がらず、逆に敗北した。
- 1284年のナポリとアラゴンの海戦もシャルル側に利は無く、長男シャルル2世が捕虜となり1285年に失意のうちに病死。
- 同1285年フィリップ3世、ペドロ3世、マルティヌス4世も相次いで死没した。
シャルル死後は1288年に捕虜から解放されたシャルル2世が後継者となりシチリア王を称し続けたが通常はナポリ王と称される。後にシャルルの曾孫カルロ・ロベルトがハンガリー王となった。この王朝はハンガリー・アンジュー朝と呼ばれる。