「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ノルマン・コンクエスト」とは一体何だったのか?

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案外日本の百科事典には統括的説明がなかったりします。

「征服王(William the Conqueror)あるいは庶子王 (William the Bastard)」ウィリアム1世(William I 、ノルマン朝(Norman dynasty、1066年〜1154年)イングランド王1066年〜1087年、ノルマンディー公ギヨーム2世1035年〜1087年) - Wikipedia

ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨームGuillaume)と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている。

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ノルマンディー公時代ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノルマンディー公ロベール1世の庶子として、フランスのファレーズで生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット。出生のため庶子公ギヨームGuillaume le Bâtard)とも呼ばれる。


1035年、父から継承者に指名され、エルサレム巡礼に出発して戻る途中に没した父の後を継いでフランス王の臣下であるノルマンディー公になったが、若年のため重臣達との争いが起こり、1047年にフランス王アンリ1世の助けを得てヴァル・エ・デュヌの戦いで諸侯の軍に勝利、領内の安定化に尽力して勢力を蓄えると、1049年ウェセックスルフレッド大王マーシアオファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚したが、近親であることを理由にローマ教皇レオ9世から婚姻の無効を申し立てられた。

*何かこう「本来の出自が日本列島先住民系部族か渡来人か定かではないが、とにかくヤマト王権内における渡来人代表の地位を保つ為に何世代にも渡って渡来人との政略結婚を重ねてきた結果、血統的には渡来人そのものと成り果ててしまった蘇我氏」とか「モンゴル世界帝国に対して臣従を誓う為に何世代にも渡ってモンゴル人王妃を迎え続けてきた結果、血統的にはモンゴル人そのものと成り果ててしまった高麗王室」を連想させる。実際の「臣」は、こういうプロセスを経て形成されてくるのである。

この頃のイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王デーン人に祖国を逐われノルマンディ公と政略結婚したエゼルレッド2世の末裔)がイングランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいないエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていた。

「エゼルレッド無策王/無思慮王(Æthelred the Unready)」イングランド王エゼルレッド2世(Æthelred II、在位978年〜1013年、1014年〜1016年) - Wikipedia

エドガー平和王とその妻エルフリーダ・オブ・デヴォンの子。兄のエドワード殉教王が暗殺されたため10歳で王位についたが、その治世を通じて絶えずデーン人の侵入に苦しめられた。デーン人が侵入する都度、イングランドは「デーンゲルド」と称される退去料を支払ってきた。これは一時的な平和には寄与したものの、度重なる支払いでイングランド財政には大きな負担となった。
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エゼルレッドは、デーン人がノルマンディーを拠点としてイングランドに攻撃を仕掛けることを恐れた。そのため、ノルマンディー公国と友好関係の樹立を図り、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと結婚した。またデーン人に対する懸念から、国内のデーン人を虐殺した。このことは、当時のデンマーク王スヴェン1世の反発を招き、デーン人の侵入を激化させることになった。イングランドの国内勢力をまとめ上げることもかなわず、ついに1013年、デーン人の攻撃に屈して姻戚関係にあったノルマンディーへの亡命を余儀なくされた。
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こうしてスヴェン1世にイングランド王位を奪われたが、翌1014年にスヴェン1世が急逝した。そのため、エゼルレッドはイングランドに帰国して復位を果たした。しかし、デーン人のカヌート(のちのデンマーク王クヌーズ2世)がイングランド遠征を引き継いだため、引き続きデーン人との攻防は続いた。だが、1015年には3代の国王に仕えて「デーンゲルド」政策推進の中心人物であった重臣エアドリチがカヌートに内応して離反してしまう。これによってイングランド側は苦境に立たされる。こうした状況の中、生涯を通じてデーン人と争ったエゼルレッドは、1016年に病没した。

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その後、エゼルレッドの息子エドマンド2世が王位を継承した。しかし、間もなくエドマンドも死去したため、デーン人のカヌートがイングランドの王位につくことになる。エゼルレッドは旧セント・ポール大聖堂に埋葬されたが、その墓は1666年のロンドン大火で聖堂とともに焼失した。

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デーン人に国を奪われたために後世「無思慮王」と呼ばれ、歴代のイングランド王の中でもジョン王と並ぶ暗君と言われ続けたが、その一方で同時期の古文書の研究の進展とともに、エゼルレッドの治世において初めて文書による行政運営が行われたことや、法典編纂などが進められた事がわかり、その後のイングランドの政治の範となった要素も少なくないことが知られてきた。

イングランド国王エドワード懺悔王 / 証聖王(Edward the Confessor、在位1042年〜1066年) - Wikipedia

エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。聖公会カトリック教会で聖人。白子(アルビノ)で柔弱な性格であったといわれる。「エドワード懺悔王」は Edward the Confessor の定訳だが、この「Confessor」とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号のひとつで、日本のカトリック教会ではこれを「証聖者」と訳している。そこから、近年ではこの王のことをエドワード証聖王エドワードしょうせいおう)と記した書籍も多い。

デーン人のデンマークノルウェー王スヴェン1世の侵略を逃れ、幼くして母エマの故郷ノルマンディーの宮廷に亡命する。4半世紀をそこの修道士達と過ごし、ノルマンディーの風習を取り入れる。1041年、異父弟であるハーディカヌートデンマークノルウェーイングランド王クヌートとエマの息子。スヴェン1世の孫にあたる)に招かれて共同統治者となった。ハーディカヌートの死後の1043年4月3日、ウィンチェスター寺院でイングランドの王として戴冠された。

1045年に結婚した妻エディスの父であるウェセックス伯ゴドウィンの勢力に対抗するため、ノルマン人を教会と国家の高い地位につかせ勢力の均衡を図った。ロバート・オブ・ジュミジエールをカンタベリー大司教に据えたことなどが挙げられる。ゴドウィンはエドワードを王に推戴したのであるが、エディスとは形式として婚姻関係を結んだにすぎず、エドワード自身は修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。1051年マーシアノーサンブリアの伯と共同し、ゴドウィンを宮廷から追放することに成功したが、翌年にゴドウィンと息子ハロルド(後のハロルド2世)は亡命地から帰還し、逆にノルマン人の有力者を追放することになった。

1066年死去。甥で異母兄エドマンド2世の息子エドワード・アシリングを後継者に定めていたが、1057年に亡くなると又甥エドガー(エドワード・アシリングの息子)を改めて後継者に指名した。しかし、若すぎたことから諸侯会議はハロルドをイングランド王に指名、ハロルド2世として即位したが、弟トスティとノルウェー王ハーラル3世、ノルマンディー公ギヨーム2世(エドワード懺悔王の従甥)が反発、最終的にギヨーム2世がイングランドウィリアム1世として即位した。

支配者というより心情としては修道士で、柔弱と無為無策ぶりでサクソン国家を定着させる機会を逸し、彼のノルマン人への信頼はノルマン・コンクエストの下地をつくったとされる一方、後世に徳の高い王者として聖人視され、王朝の守護者として尊崇された。その信仰心は、1045年~1050年にテムズ河上流に基礎を造られたウェストミンスター寺院によってもうかがい知ることができる。ヘンリー3世以後、イングランド王はエドワードが建てた聖堂で戴冠され、代々の王たちはエドワード懺悔王の法を守ることを誓うこととなった(ヘンリーの王子エドワード1世は懺悔王にちなんで命名されたという)。しかし実際のところ、懺悔王自身は立法者ではない。

ノルマン・コンクエスト以前の最後の王として「自由なイングランド」に普及していたとされる法を象徴する人物として、年代記において理想化され伝説となった。死から95年後の1161年に列聖されている。

1052年イングランドへ渡海、懺悔王から王位継承を約束されたとされる。懺悔王の母エマがギヨームの大叔母であることがギヨームの王位継承権の根拠となっており、また懺悔王はデーン人の支配をのがれて20年あまりをノルマンディーに亡命生活を送ってギヨームとは親しい関係にあった。
ノルマンディーへ帰還後の1053年マティルダと改めて結婚、レオ9世の結婚禁止令は1059年になって教皇ニコラウス2世によって解除され、イングランド王家と縁戚を得るに至った。マティルダとの間にノルマンディー公ロベール2世、イングランド王ウィリアム2世、ヘンリー1世、アデル(ティーブンの母)などが生まれた。後に腹心となる(ブルグント族末裔たるブルゴーニュ貴族出身だったアンセルムス同様、ランゴバルト族末裔たるロンバルディア貴族出身だったという伝承が存在するランフランクともこの頃に出会い、彼をルーアン大司教に任命した。1063年ル・マンとメーヌを征服、領土を拡大した。

カンタベリーのランフランクス - Wikipedia

アンセルムス - Wikipedia

1064年、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)がフランスに渡ろうとして嵐で難破、ノルマンディーに漂着した。ギヨームはハロルドを歓待、ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り、懺悔王亡き後のギヨームの王位継承を支持することも約束した。しかし、ハロルドはイングランド帰国後にこの約束を破ることになる。

1066年1月エドワード懺悔王が死去すると、ハロルドが名乗りをあげてイングランド王ハロルド2世に即位した。その弟トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル3世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。ギヨームもエドワード懺悔王とハロルドとの約束を掲げて9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸に侵入した。両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティとハーラル3世を9月25日スタンフォード・ブリッジの戦いで討ち取ると、反転して10月14日にヘースティングスでギヨーム軍と戦った(ヘイスティングズの戦い)。騎兵を主力とするノルマン軍ははじめ歩兵中心のイングランド軍に苦戦を強いられたが、敗走すると見せかけて後退し、それを追って敵軍が陣形を崩したのを機に反転して攻勢をかけ、ついにハロルド2世を討ち果たした。ドーバーカンタベリーも落とし、12月にロンドンを降伏させた。
*ここで興味深いのはハロルド2世も「私生児ギヨーム」同様に家臣団をハスカール制に基づいて組織していたとされる点。

ハスカール(古ノルド語:Huskarl)

暗黒時代から中世初期にかけてのゲルマン民族、特に北欧やイングランドなどにいた職業軍人、傭兵の一つ。ハウスカール(英Housecarl)とも。

封建制度が確立した中世ヨーロッパ社会であれば土地を媒体として騎士を戦争に参加させるなどして職業軍人を確保できるが、封建制度が無い、あっても未成熟な社会においてはハスカールは必要な存在であった。彼らは小規模ではあるが常備軍であり、幼少の頃から高度な戦闘訓練を受けて、首領や王侯貴族に私兵として仕え、その報酬として主に金銭や略奪品の分け前などを受け取っていた。しかしこうした首領や王侯貴族が十分な略奪を行わずハスカールへの報酬を払えない場合、ハスカールは彼らを排除したり見捨てたりすることもあった。自発的な戦闘集団であったため、このように主君に絶対服従を誓う決定力のある戦力とは言いがたかったが、ヘイスティングズの戦いでは例外的にハロルド2世が戦死した後も彼の配下であったハスカールは最後の一人に至るまで果敢に戦い、討ち死にしていったという。 また、時代が下ると傭兵全般を指してハスカールと呼ばれた。

文献として初めて記録されたのは11世紀初頭からで、スヴェン1世がイングランドを征服しハスカールの制度をイングランドに持ち込んだことから始まる。イングランドでのハスカールは王宮に住み、1人の伯に対して250~300人が仕えていたという。当時のイングランドとしてはほぼ最強の戦士集団であり、相次ぐ戦いでハスカールを消耗したこともハロルド2世がウィリアム1世に敗北した要因の一つだと言う。

1066年12月25日、ギヨームはウェストミンスター寺院イングランドウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。

エドワード懺悔王の又甥で後継者に指名されていたエドガー・アシリングを擁立したスコットランドマルカム3世エドガーの姉マーガレットと再婚していた)とデンマークスヴェン2世1068年に北部貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻したが、1071年に阻止、マルカム3世を臣従させてエドガーと和解、イングランド支配を安定させた。

イングランドの統治ウィリアム1世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣に与え、同時に戦時への参戦を約束させ、イングランド封建制度を確立した。王領もイングランド全域の5分の1に達し、御料林の拡大と直轄軍所有で王権も拡大した。1070年にランフランクをカンタベリー大司教に任命、1072年ランフランクがヨーク大司教を従属させようとして生じた争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功した。
*ヨークはデーン人とノルマン人の勢力争いに巻き込まれたのである。

ヨーク (York)の歴史(~ノルマン朝)

イングランド北部ノース・ヨークシャーの単一自治体かつシティ。ローマ時代には、属州ブリタンニアの要塞エボラク (Eboracum) であった。「ヨーク」の名前の由来は「イチイの木(yew trees)」 といわれている。

  • 考古学的証拠から、中石器時代紀元前8000年~紀元前7000年には今ヨークがある場所に人が定住していた痕跡があるが、それが永久的な定住だったのか不定期なものだったのかわかっていない。
  • 古代ローマ帝国ブリタニア征服時より、一帯はローマ人にブリガンテスパリジという名前で知られた種族に占領されていた。ブリガンテス族はすぐに隷属を受けたがのちより敵対的になった。結果として、第9軍団ヒスパナがハンバーの北へ送り込まれた。
  • 都市として創設されたのは紀元71年、第9軍団ヒスパナがブリガンテス族を征服し、フォス川とオウス川の交わる平地に軍事要塞カストラを建設した時であった。要塞はのち石で再建され、総面積は50エーカー (20ha)で6,000人の兵士が暮らした。ローマ時代の要塞のほとんどは今ヨーク・ミンスターの基金管理下にあり、ヨーク・ミンスター内地下室の遺跡は原型の城壁を露わにしている。
  • ハドリアヌスセプティミウセヴェルスコンスタンティウス1世ローマ皇帝は全員、彼らの遠征の最中、ヨークで宮廷をかまえた。滞在期間、セヴェルス帝はヨークをブリタニア・インフェリオル県の首都とするよう命じた。彼はヨークにコロニアか都市の特権を与えようとしたのだった。コンスタンティウス1世は滞在時にヨークで亡くなり、彼の子コンスタンティヌス1世は要塞内の軍隊を前に即位を宣言した。
  • 7世紀のヨークは、アングロサクソン人のノーサンブリアエドウィンの主要都市だった。最初のミンスター教会は、627年エドウィン王が洗礼を受けた時期に建てられた。エドウィンはこの小さな木造教会を石造りに再建させたが、彼は633年に敗死し、石造りのミンスター完成の義務は彼の後継者オズワルドへ引き継がれた。
  • 866年ノーサンブリアヴァイキングが急襲しヨークを獲得した際、内戦のまっただ中にいた。ヴァイキング支配下で都市は主要川港へと成長し、北欧へ広がるヴァイキングの拡張する貿易航路の一部となった。ヴァイキングたちは、新たに獲得したこの街を「ヨルヴィーク」と呼んだ。独立の最後の支配者エリク・ブラッダクセ965年にヨークからエドレッド王より駆逐され、イングランドの再統合は完成した。
  • 1069年、ヨークはウィリアム征服王によって敵とみなされ破壊された。古いアングロサクソン期のヨーク・ミンスターはこの時の火災で致命的な損傷を受け、ノルマン人はまっさらになった場所に新たなミンスター建設を決めた。1080年頃大司教トーマス1世の時代に大聖堂建設が始まり、これが現在のミンスターである。

ヨークは再び繁栄し始め、特に羊毛で有益な港と商業中心地となった。ヘンリー1世はヨークへ最初の特権を授け、イングランド及びヨーロッパでの貿易権を認証した。

ローマ教皇グレゴリウス7世は世俗君主による聖職者の任免を問題としていたが、ウィリアム1世イングランド国内の聖職者に対する国王の優越を主張、後にイングランドにも叙任権闘争が生じるきっかけとなった。

エドワード懺悔王の財務・文書制度は継承したが、国王裁判所の設置などで司法制度も整え、1085年には最初の土地台帳とも言うべきドゥームズデイ・ブックDomesday Book)が作成され税制度も定められ、同時に軍事力も把握された。1086年にソールズベリーでイングランド全ての領主を集め、自分への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの宣誓)。この宣誓は以後のイングランド王も繰り返し行い、貴族の家臣である陪臣も国王と直接忠誠を誓う義務を負った。

ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England) - Wikipedia

以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世イングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の封建制を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。

緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世の一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された。その後も1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達はロビン・フッドのモデルの1人といわれるヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。


エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。2人の間の娘イーディス(マティルダ)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1世と結婚することになる。

ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時代のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。

ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、国民全体から見ればごく少数の領主・貴族に限った征服だとも言える。当然ながら、民衆の中から古英語やイングランド文化が消滅したわけでもない。

ウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われた。サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるか東ローマ帝国に傭兵として雇われるものもいた。

ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(マナー manor)を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。

フランス王の封建臣下であるノルマンディー公が同時にイングランド王を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。

ウィリアム1世に従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいにウェールズアイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。

ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に代わり、ノルマンディー方言(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となった。また、英語もこれらの言語の影響を強く受け、中英語へと変化した。

動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚 - pig, swine/豚肉 - pork; 牛 - cow, bull, ox/牛肉 - beef; 羊 - sheep/羊肉 - muttonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。その他 yard と garden、dove と pigeon などの例が挙げられる。

このほかにも、文化的な語彙を中心に、多くのフランス語が英語に流入した。なお、当時のフランス語では ch (多くラテン語の c /k/ に由来)と書いて /tʃ/ と発音したが、その後転訛が進み、現代フランス語では /ʃ/ となった。当時の発音は英語の中に遺されているということになる(例:Charlesはフランス語ではシャルル、英語ではチャールズと読む)。

また、法廷や公文書などもフランス語で表記された。これは1362年に『訴答手続規則』(The Statute of Pleading)において英語を用いるように定められるまで続けられた。

1087年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因で、ルーアンに近いサン・ジャーヴェにて60歳で亡くなった。死因はマンテの攻城戦の折、落馬した時に鞍頭で受けた胴部の傷が原因だった。遺体はノルマンディーのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬された。

  • 次男ウィリアムはウィリアム2世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノルマンディー公に叙位された。後にロベール2世はフランス王フィリップ1世と結んで2度に渡ってウィリアム2世と対峙した。

ウィリアム1世イングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだ。またウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。