イルハン朝(ペルシア語 : ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate, 1256年/1258年 - 1335年/1353年) - Wikipedia
現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権。首都はタブリーズ。
国名の呼称
イルハンのイルとは、元来テュルク諸語において互いに仲間である人間の集団を意味し、特に遊牧民においては遊牧民が支配層を構成する遊牧国家・遊牧政権そのものをこの語によって表現した。
- モンゴル語のウルスとほぼ同義であるが、モンゴル語にもそのままの形で取り入れられ、モンゴル帝国ではもともと敵方であった人間集団や都市、国家をモンゴル帝国側に吸収し、また引き入れることに成功したときに「仲間となる」という意味合いで「イルとなる」と表現した。
- そのため、これに遊牧政権の君主を意味するハン、あるいはカンを付したイル・ハン(il χan 〜 il qan > ايلخان īl-khān)やイルカンは「部衆の君長」「国民の主」を意味し、ほぼ同義のウルシュ・イディという称号とも併せて、モンゴル帝国を構成する諸ウルスにおいて、必ずしもイルハン朝の君主のみが用いた称号ではなかった。
- しかし、この政権の建設者であるチンギス・カンの孫フレグがこのイル・カンの称号を帯びていたこと、また特に西欧において発展した近代史学においては、1824年フランスの東洋史学者アベル・レミュザが公表した研究で、第4代君主アルグンがフランス王国のフィリップ4世に同盟を申し入れた書簡において、アルグンの称号としてイル・カンが用いられていたことが注目され、イルハン朝、あるいはイル=ハン国、イル・ハン国、イル・カン国といった通称が広く用いられるようになった。
『集史』など、この政権自身や周辺が編纂した記録では、ペルシア語でウールーセ・フーラーグー、つまりモンゴル語で「フレグのウルス」を意味する呼称を翻訳した表現がみられることなどもあり、モンゴル研究者からは、フレグ一門のウルスという意味で、フレグ・ウルスと呼ばれることも多い。
建国と最初の存続危機
フレグは兄のモンゴル帝国第4代大ハーンモンケよりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征(フレグの西征)を命ぜられて1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得。実質的にイラン政権としてのイルハン朝が誕生した瞬間であった。
- 1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャーが降伏するとイラン制圧は完了した。
- 1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)。アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き西部進出を伺った。
- 1260年にはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻)、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。
1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けるとカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断。シリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍がマムルーク朝のスルタンクトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失。以降マムルーク朝とは対立関係に陥った。
また成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争、1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフル(ササン朝ペルシャ時代のソグディアナ)の支配権を巡って対立したが、キプチャク・チャガタイの両ハン国がオゴデイ家のカイドゥを第5代大ハーンクビライに対抗して大ハーンに推戴したため、対抗上クビライの支配する大元ウルスとの深い友好関係を保った。一方ジョチ・ウルスのベルケはマムルーク朝のバイバルスと友好を結び、イルハン朝挟撃の構えを見せる。
対抗してイルハン朝は東ローマ帝国とも友好を結んだ。これについてはフレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年第2代ハンとなったアバカがネストリウス派キリスト教徒であった影響が指摘されている。
- 1268年バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。
- 1269年バラクとカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。
- 1270年第8回十字軍(1270年)で苦戦していたアッコン防衛にイングランド王エドワード1世(在位1272年~1307年)が派遣される。
- 1270年7月21日カラ・スゥ平原の戦い。
ところでイルハン朝は、フレグの征西の為にモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。
- そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。
- ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカ死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至ったのである。
アルグン(ارغون خان Arγun, Arghun, 1258年?~1291年)は、イルハン朝第4代君主(ハン、在位1284年~1291年)。第2代君主アバカの長男。アバカの側室の一人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)の息子。第5代君主ゲイハトゥの異母兄で、第7代君主ガザン・ハン、第8代君主オルジェイトゥの父。『元史』の漢字表記では阿魯渾大王、『集史』などのペルシア語表記では ارغون خان Arghāūn khān と書かれる。
継承争い
父アバカ没後のクリルタイで、後継を巡って叔父であるテグデル(フレグの7男)、モンケ・テムル(フレグの11男。フレグとアバカの正妃オルジェイ・ハトゥンの息子)らを推すグループと対立した。
- モンケ・テムルがアバカの死から25日後の1282年4月26日にモースルで急死すると、テグデルの母クトイ・ハトゥンとモンケ・テムルの母オルジェイ・ハトゥンの両名がアバカ一統が推すアルグンを後援した。
- しかし、他のフレグ家の王族たちや部将たちの多くがテグデルを推し、また「ヤサ」の規定に従い君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった。このため、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルが即位することとなった。
- しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイ(フレグの9男)をテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。
- アルグンは一時離反した叔父のフラチュ(フレグの12男)と和解すると、ゲイハトゥらの推戴を受けて、マラーガ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した。
1286年2月24日(諸説あり)、モンゴル皇帝(カアン)クビライから勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アルグンの君主位継承が追認された。
晩年
晩年は病を得て1291年3月10日にアッラーン地方(現在のアゼルバイジャン共和国)で冬営中に34歳で病没。その遺骸はイラン中部ザンジャーンとアブハルの中間にあったモンゴル語で「クンクル・ウラン」と呼ばれたシャルーヤーズ草原の南部、スィジャース山に埋葬された。このクンクル・ウランに後年オルジェイトゥは自らの廟墓(オルジェイトゥ廟)を含むソルターニーイェを建設している。
アルグンのヨーロッパ宛使節派遣
アルグンの治世にはマムルーク朝対策のため、ヨーロッパの勢力に使者を交していたことが知られている。主にローマ教皇庁とフランス王国へのものが有名である。
- アルグン発令のフィリップ4世宛て勅書。イルハン朝側がエジプトを制圧し、1291年2月21日頃までにフランス王国側がダマスクス周辺を奪取する計画が提案され、成功した暁にはフィリップ4世にエルサレムを与える事が書かれている(1289年6月21日付)。
- アルグン発令のローマ教皇ニコラウス4世宛て勅書(1290年)。
1288年、ネストリウス派の「カタイとオング諸都市の首都大主教」バール・サウマらがローマへ派遣され、教皇ニコラウス4世(在位1288年~1292年)に謁見して国書を手渡した。
- ニコラウス4世はこれを大いに歓迎してキリスト教徒の君主であるアルグンを称讃し、返書では「聖地エルサレムをキリスト教徒側に奪還してエルサレム王国の解放は遠からず容易に達成するであろう」とアルグンのエルサレム入城を進言している。またエラダク、トクダンのふたりのモンゴル王妃がカトリックに改宗したと聞き、両妃にも別途に書簡を送って言祝いだと伝えられる(前者はエラダクはアルグンと妃ウルク・ハトゥンとの娘オルジェイ・ハトゥンあたりかと考えられ、後者のトクダンは弟ゲイハトゥの母后トクダン・ハトゥンと考えられる)。
- また1289年にはアルグン側近のジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフがローマにたどり着き、先に教皇からの返書に同意して聖地エルサレムの攻略案を了承する旨アルグンからの声明を伝え、さらにイングランド国王エドワード1世(在位1272年~1307年)とフランス国王フィリップ4世(在位1285年~1314年)にも同様にシリア・パレスティナ遠征の提案を了承する書簡をラテン語による注釈付きで届けたと言う。
- 1291年1月にはこれらの書簡がフランス、イングランドに届き、8月には教皇ニコラウスはエドワード1世宛の親書でアルグンが自らの愛子にニコラウスという洗礼名を与えたことを引いて、アルグンからの書簡の紹介と十字軍への参加を要請している。
しかし、この周到に錬られたシリア遠征計画も、フランスに達した2ヶ月後には、当のアルグンが病没してしまい事実上頓挫した。アルグンがこれらヨーロッパの教皇と君主たちへ発した勅書の内、ニコラウス4世とフィリップ4世宛の、朱印入りのウイグル文字モンゴル語国書がそれぞれバチカン図書館とフランス国立図書館に現在でも伝存している。
イスラーム王朝への転身
1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。
西アジアで初めて紙幣の発行をしたことで有名である。大元朝の交鈔(中統元寶交鈔など)に倣ったもので、チャーウ چاو chāw (チャーヴ chāv 、鈔の音写)と呼ばれた。ただしこれはゲイハトゥ自身の放蕩による乱費で国庫が悪化したため、緊急的な経済対策として行なわれたものであり、紙幣の発行はかえって物価騰貴などの経済混乱を招き、わずか2ヶ月で紙幣は無効化され、ゲイハトゥ自身の権威も地に墜ちる結果となった。
ガザンはハン位奪取にあたってイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。この時自ら「イスラームの帝王(Pādshāh-i Islām=パードシャー)」を名乗り、その称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも継承されていく。
- ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用。
税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀粛正を敢行。さらにはイスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させたのである。
- さらには政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復する為、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。
その一方でパレスチナ戦線 (1299年–1300年)及びマージ・アル・サファーの戦いでマムルーク朝に敗れ、以降マムルーク朝によるシリアの支配が確定。
それに伴う権威失墜を埋め合わせるべく「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設を各地に建設し、また各地でモスクやマドラサその他宗教・公共施設の建設や改修、ワクフ物件の設定を行った。
最盛期
ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続。また1301年にカイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。
- オルジェイトゥは新首都スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラーム神学に関わる著作集を執筆させている。
- さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の規格化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。『集史』編纂の影響から地方史編纂も盛んとなり、挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成される様になる。
衰退
1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョパンが宰相として実権を握った。
- 1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。
成人したアブー・サイードは、チョパンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョパンと対立するようになり、1327年にチョパンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。
- ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、若きディルシャド・ハトゥンを寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。
こうしてアブー・サイードが「陣没」すると、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーン・ムハンマドが、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。
- しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れ殺害された。
以来イランは様々な家系に属するチンギス・ハーンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。
- 1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからチンギス・ハーン一門の君主は消滅。
- 一方アブー・サイードの死去以来、イランの各地に遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立する様になる。
これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝(1370年~1507年)の支配下に組み入れられていく事になる。
モンゴル世界帝国の継承者争いというと、チンギス統原理(Chingisid principle)がイスラム法学(シャリーア)やチベット仏教教学と優先権を争う修羅場が想起される訳ですが…
さらに「モンゴル人がイスラム教を殺した」なんて指摘もあって、混戦の様相を呈しています。
キリスト教圏内ですら(ビザンチン帝国皇帝を頂点と仰ぐ)東方正教会文化と(ローマ教皇庁を頂点と仰ぐ)カソリック文化の衝突が国を滅ぼしてしまう事例がありました。
おそらく中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論の主題もまさにこれだったのです。
で、この概念に含まれる「心の奥がザワザワする感じ」を辿ってみると…
1332年5月27日にハフス朝の首都チュニスで生まれる。南アラビアのハドラマウト(現イエメン共和国領の都市)出身のアラブ人ワーイル族を祖先とする。
- ハルドゥーン家の始祖は8世紀にアラブの征服事業の一環であるイベリア半島遠征に従軍し、以降ハルドゥーン家の人間はアンダルスに定住する。
- 9世紀にはハルドゥーン家はセビリアの有力貴族として力をつけ、1248年のセビリア陥落直前まで、一族はセビリアを統治したイスラーム系王朝の下で支配貴族の地位を保った。セビリア陥落の直前にハルドゥーン家はイフリーキヤ(現在のチュニジア、アルジェリア東部にあたる地域)のハフス朝の首都チュニスに亡命、かつてムワッヒド朝でセビリア太守を務めていたハフス朝創始者アブー・ザカリーヤー1世の庇護を受ける。
- ハルドゥーンの祖父ムハンマド(?~1337年)は高位への登用を断り、隠棲してイスラム神秘主義(スーフィズム)に没頭する宗教的な生活を送った。この祖父の影響を受けてハルドゥーンの父ムハンマド(?~1349年)も学問に没頭。クルアーン、イスラーム法学(シャリーア)、アラビア語文法、作詩の知識を習得した。
少年時代のハルドゥーンは当時の良家の子弟と同じように、チュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学び、政界への進出に必要な教養を習得。しかし、ハルドゥーン自身は少年期について多くを語っておらず、不明な点が多い。
- 1347年にチュニスはマリーン朝のスルタンアブル=ハサンに占領されるが、アブル=ハサンがモロッコより帯同した学者たちとの出会いがハルドゥーンの学究心を刺激し、恩師となる哲学者アル=アービリーの教えを受けるきっかけを生み出した。
- 父ムハンマドはモロッコの学者と交流し、学者たちが家に出入りしたため、ハルドゥーンは彼らから教えを受けることができたのである。家に出入りした学者たちの中でハルドゥーンが最も師事したのがアービリーであり、アービリーを中心として行われた読書会に彼も参加した。通常の講義ではただ哲学概論を講義するだけであったが、読書会ではイブン・スィーナー、イブン・ルシュド、ファフル・アッディーン・アッラーズィー(Fakhr al-Din al-Razi)らイスラームの哲学者の著書を読解する手法がとられ、ハルドゥーンはここで優れた理解力を示した。
1349年、ヨーロッパと北アフリカ一帯で流行していたペストがチュニスも襲われ、多くの教師たちとハルドゥーンの両親も病に倒れた。1351年にアービリーがモロッコに帰国するまでハルドゥーンは彼の元で研究を続け、1351年4月には『宗教学概論要説』を完成させる。そしてアービリーの元での学習を終えたハルドゥーンはハフス朝を振り出しに、マリーン朝、ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界のイスラム政権の宮廷を渡り歩くことになる。
- 勉学の続行、ハフス朝の将来への不安、両親の死の直後という境遇のために西方への旅立ちを思い立つが、長兄ムハンマドに諌められて旅を断念しなければならなかった。おそらくは長兄ムハンマドの働きかけによって、19歳の時にハフス朝の国璽書記官に任じられるが、ハルドゥーンは西方への憧れを捨て去ってはいなかった。1352年の春にスルタンイブラーヒーム2世アル=ムスタシルの反乱鎮圧に従軍した際、密かに軍から抜け出してフェズに向かう。
- 当時の北アフリカは極めて政情が不安定であり、ハルドゥーンは知人とハルドゥーン家の縁者の助けを受けながら、テベサ、ガフサ、ビスクラと北アフリカ各地の都市を渡り歩いた。マリーン朝のスルタンアブー・イナーンがベジャーヤを占領した情報を受け取るとアブー・イナーンに会うためにベジャーヤへと向かい、ベジャーヤ付近の陣営でアブー・イナーンの歓待を受けた。フェズに帰国したアブー・イナーンはかつてハルドゥーンが師事した学者たちより彼のことを詳しく聞かされ、1354年にマリーン朝の使者がベジャーヤに留まっていたハルドゥーンの元へと送られた。
マリーン朝ではアブー・イナーンに近侍する学者の集団に加えられて宮廷に出入りし、公文書を作成する書記官の官職に任ぜられた。
- 書記官の地位はさして高いものではなく、ハルドゥーンもこの役職に満足していなかったが、安定した地位を得たことで落ち着いた生活を送ることができ、フェズの学者たちから教えを受けた。
- 他方、勉学の傍らで宮廷を訪れる他国の外交官、政治家とも接触をし、マリーン朝の人質となっていたハフス朝の王族アブー・アブドゥッラー・ムハンマドとも交流を持った。
- 1356年の終わりにアブー・イナーンが病に倒れると、ハルドゥーンとアブドゥッラーは密かに語り合い、アブドゥッラーの領地であるベジャーヤに帰還し、ベジャーヤの支配権を奪回する約束を交わした。
- しかし計画は露見し、ハルドゥーンとアブドゥッラーはいずれも投獄され、アブー・イナーンは事件の発覚後にチュニス遠征の軍を率いて出陣した。アブドゥッラーの方は間も無く釈放されたが、ハルドゥーンは1年9か月の間獄中に置かれ、何度もアブー・イナーンに釈放を嘆願したが聞き入れられなかった。
- ハルドゥーンは最後に200行にも及ぶ詩を書いて慈悲を乞い、トレムセンに駐屯していたアブー・イナーンはその詩を見て満足し、彼の釈放を約束した。アブー・イナーンはフェズに帰還後病状が悪化して急逝(もっとも、彼の死因については宰相のハサン・ブン・アマルによる暗殺説も唱えられている)、ハルドゥーンはハサン・ブン・アマルによって他の囚人と共に釈放され、接収された財産も返還された。釈放後、ハルドゥーンはチュニスへの帰国を願い出るが、この届出はハサン・ブン・アマルに受理されなかった。
アブー・イナーンの死後マリーン朝はムハンマド2世・アッ=サイードを擁立するハサン・ブン・アマルと、王族の一人マンスール・ブン・スライマーンを支持する諸侯の二派に分かれ、とりあえずハルドゥーンはスライマーンの側に付いた。
- イベリア半島から帰国したアブー・イナーンの弟アブー・サーリムがカスティーリャ王国の支援の元にスルタンの位を請求すると、アブー・サーリムの参謀である法学者イブン・マルズークより、ハルドゥーンの元に密使が派遣された。
- 友人でもあるマルズークの誘いを受けたハルドゥーンはマンスール派の王族、将軍にアブー・サーリムの支持に回るよう説得を行い、彼らを翻意させることに成功。ハサン・ブン・アマルが降伏するに及んで1359年7月12日にアブー・サーリムがスルタンに即位、ハルドゥーンは即位の功労者として国璽尚書の高位に任命された。
国璽尚書に任命された当初、ハルドゥーンは職務に熱意を傾け、周囲も彼の文章を称賛した。しかしアブー・サーリムはハルドゥーンが期待する名君像とはかけ離れた暴君であり、マルズークがハルドゥーンを初めとする有力者を讒言して権力を掌握すつようになると、次第に政務への熱意を失っていった。
- アブー・サーリムはハルドゥーンに対して一定の信頼を示し、彼を訴願院(マザーリム、行政裁判所にあたる施設)の裁判官に任命。
- 1361年にマルズークを専横を不服とする廷臣が起こしたクーデターによってアブー・サーリムは殺害されマルズークも失脚する。クーデターの中心人物である宰相アマル・ブン・アブドゥッラーはハルドゥーンの親友であり、クーデター後もハルドゥーンの地位が保証されたばかりか、俸禄と封地(イクター)が加増される。
- ハルドゥーンはアマルとの関係を当てにしてより高い地位を要求するが期待したような返事は得られず、自宅に引き籠ってしまった。ハルドゥーンはチュニスへの帰郷を願い出るが、おそらくはその申し出の裏には東方で再興されつつあったザイヤーン朝に仕官する目論みがあり、彼がザイヤーン朝に仕官することを恐れたアマルによって申し出は拒絶された。それでもなおフェズを離れたいという思いをアマルに伝え続け、ついにトレムセン以外にならどの土地へ行ってもよいという許可を得る。
彼は妻子を妻の兄弟がいるコンスタンティーヌに預け、1362年10月にかつて交友のあったナスル朝のスルタンムハンマド5世と宰相イブン・アル=ハティーブを頼ってイベリア半島のグラナダに渡る。
- 三度目の仕官先であるナスル朝ではムハンマド5世の寵臣として立身し、カスティリャ王国への使節に任ぜられるなど重用されるが、それが高じて宰相イブン・アル=ハティーブとの間に亀裂を生じ、退去を余儀なくされる。
- 四度目の仕官先である地方都市政権ベジャーヤでは旧知のハフス朝の王子の知遇を得、執権として重きをなすが、相次ぐ戦乱の中でペジャーヤ政権は壊滅し、戦死したスルタンに代わって敵のザイヤーン朝の軍勢に街を明け渡す。
このようにイブン・ハルドゥーンの政治家人生は流転の連続であり、それが後に学者としての彼の思想体系に大きな影響を及ぼしたとされる。
- ペジャーヤを去った後は政治の表舞台から身を引き、学究の道に邁進する。現アルジェリアのイブン・サラーマ城にて西アジアイスラム史の体系化を試み、歴史書『イバルの書』を著して、学界において確固たる地位を築く。
- カイロに移住して活発な講演活動を展開し、マムルーク朝のスルタンバルクークの信任を得て、多くの学院の教授職を歴任し、マーリク派の大法官に任ぜられた。
- この後クーデターに関与したとされて政治的には失脚するが、学者としての名声は衰えることがなかった。ティムールのシリア遠征によるダマスクス包囲に巻き込まれるが、その名声を聞きつけたティムールによって陣中に招かれ、大いに弁舌を振るって周囲を圧倒した。
14世紀末~15世紀にかけて、ティムールは次々を外征を展開した。1401年にはマムルーク朝のスルタンファラジュが率いる軍を一蹴しダマスクスを占領。このときエジプト側を代表してティムールとの和平交渉に当たったのがイブン=バットゥータであった。すでに『世界史序説』の著者として高名であったイブン=ハルドゥーンは1382年以来、北アフリカからマムルーク朝治下のカイロに移り住み、そこで歴史学やイスラーム法学を講じていた。今回は若いスルタンから直々に請われてのダマスクス行きであった。
64才のティムールと68才のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた…会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人にるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれた。
再びエジプトに帰還した後には何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て歿した。
もしかしてこの人「14世紀のアントニオ・ネグリ」だったのでは?
そんな直感を得た辺りで以下続報…