「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「封建時代」とは一体何だったのか?

特定の誰かの自由のみを無制限に尊重し続ける体制は、それ以外の人間に一切の自由を認めない専制体制に成り果てる。

ここで述べた「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマは、体制史上何よりもまず最初に中世的な「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」から近世的な「必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)」への推移として現れねばなりません。「主権は宮廷=国家側にあるのか、それとも国民側にあるのか?」なる議論が成立するのは、あくまでその次段階なのです。

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 領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制

それでは中世的とされる「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」とは具体的に如何なる体制だったのか?

  • しばしば「封建制(Feudal system)」と呼ばれてきたシステムの一部だが、それ自体はそれぞれの文化圏の歴史的段階や地域的状況に応じて全く異なる権威体系を形成する為、そう簡単に一括しては扱えない。
  • むしろこの定義はかかる認識下、そうした展開に比較史展開上便利で考古学的検証も比較的容易な共通の最低単位「在地有力者の地域支配」を一応与えてみようという試みに過ぎないともいえる。

一方、いわゆる各国の封建制は、それぞれが自然法の一部と信じる普遍的価値観を統合しようという試みの過程で致命的な齟齬が次々と浮上して自壊する事が多かった。「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマはこの次元においてはその様に作用し、むしろ反面教師として「(十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚体制が徴税によって養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)」や「(暴力的手段を独占する国家理念が、その権力を担保に法源としての有効性を保証する)法実定主義(Legal Positivism)」への移行を積極的に推進する役割を果たしてきたともいえる。

  • 例えば英国の大貴族連合の場合は薔薇戦争(Wars of the Roses, 1455年~1485年/1487年)、フランスの大貴族連合の場合は公益同盟戦争(The War of the League of the Public Weal, 1467年~1477年)とフロンドの乱(Fronde, 1648年~1653年)における内ゲバで勝手に自壊。かえって対抗馬たる「国王を頂点に頂く中央集権体制の大幅伸長」を許し、それぞれの国に「絶対王政(Absolute monarchy)」を成立させてしまう。

とはいえかかる理念の世界史からの完全退場は、第一次世界大戦(1914年~1918年)前後に集中した中華王朝(紀元前221年~1911年)、オスマン帝国(1299年~1922年)、(神聖ローマ帝国(800年/962年~1806年)継承国としての)オーストリアハンガリー二重帝国(別名ハプスブルグ君主国、1867年~1919年)、帝政ロシア(別名ロマノフ朝、1613年/1721年~1917年)の滅亡まで待たねばならなかった。

中華王朝の場合 

封建」の語源となった古代中国の統治制度において、この語は主に文献上において理想視された周王朝の体制理念、すなわち(領土を安堵する側としての)天子と(領土を安堵される側としての)諸侯を峻別するイデオロギーを意味してきたが、必ずしも考古学的検証が間に合っている訳ではない。考古学的アプローチから捕捉可能なのはむしろその下部単位ともいうべき「(地域ごとに発展してきた伝統的氏族共同体)」であり、かかる歴史分析構造における「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の適用範囲ともなり得るが、その詳細は各地各時代ごとに多様で多態であって、やはりその変遷過程の全貌は明らかにされていない。ましてや複数の邑を君臣供給源として組織されたであろう事が想定される「諸侯」概念の実態と変遷過程に至っては五里霧中の彼方に茫漠と広がっているばかりである。

ならば逆に、具体的に明らかになっているのはどういう内容か。

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  • 紀元前2千年紀前半までに「」や「諸侯」では長子相続を根幹する宗族制度が一般的になった(まさに春秋時代の士大夫階層に孔子を産んだ「父子有親。君臣有義。夫婦有別。長幼有序。朋友有信」の五輪概念に由来する古典的儒教イデオロギー)。

  • 周王朝の天子はこれらと実際に血縁関係をむすんだりある種の盟約(冊封)によって擬制的血縁関係をつくりだして支配下に置いていたと想定されている。この概念こそが後世ある種理想視される様になった「封建制」理念の由来となった。

  • 実際の古代中国史の主体はやがて宗族や功臣を君臣供給源とする国家に移行。周王朝が衰え、各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなってくると「会盟政治」が現れる。これは「会盟の誓約」なる祭儀的権威に付託して覇者と呼ばれる盟主的国家が会盟参加国に者に緩い上位権を築く仕組みであり封建理念同様、後世ある種理想視される様になっていった。

  • 一方、実際の古代中国史においては秦の始皇帝による中国統一(紀元前221年)を契機に地域行政が在地有力者による血縁原理ではなく「郡県制」に立脚し官吏と律令によって運営される様になる。その結果、中華王朝においては以降の時代「(公を善, 私を悪と認識する農本主義的権威体制の一種たる)公地公民」概念に立脚し「(諸侯が天下を分有して私有する事を悪と見做す)封建制反対論」と「(天子が天下を私有する事を悪と見做す郡県制反対論」がイデオロギー的に鋭く対峙していく展開を迎える。

とどのつまりそれはそもそも歴史的実態というより理念、すなわち中華王朝的価値判断体系における自然法解釈=伝統的権威体制において支配を正当化する威信の源泉として継承されてきた概念だったといえよう。

しかも考えてみればこのイデオロギー、日本に輸入されて文明開化期、版籍奉還1969年)、廃藩置県と藩債処分1871年)、秩禄処分1876年)を遂行して「封建制=江戸幕藩体制」から「郡県制=革命後のフランス地方行政」への大回転を支え最小限の効力で大日本帝国を誕生させている。むしろ本家本元の中華王朝ではこの機能が上手く働かず、共産主義革命導入が必要になったとも。

日本の場合

この様に中華王朝的価値判断体系における自然法解釈=伝統的権威体制の輸入国であった日本においては、むしろそれと全く合致しない「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の変遷過程は比較的封建制度概念と完全に切り離されて議論されてきたとすらいえる。

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  • ヤマト王権成立(4世紀中旬以降、佐紀盾列古墳群に他の古墳とは規模が突出した大王墓=大規模古墳が安定してた間隔で構築される様になったのを考古学的エビデンスとする)以降の古代日本においてまず「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」として観測されるのは(物部氏や大伴氏といった)直臣層、(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏といった畿内豪族、そして吉備、伊勢、琵琶湖周辺、北陸、出雲、東海、九州北部、日向などに割拠する地方豪族などである(考古学的区分における各地の大型前方後円墳築造史に対応)。しかし5世紀後半から次第に陸海の街道を守る海人や山人、独自に群衆墓や彩色古墳を築造する在地有力者が現れる一方、渡来人の在地有力者化が進行し次第に「氏姓(うじかばね)」なる新たな支配原理が台頭してくる。

    『新撰姓氏録』氏族一覧

    氏姓(うじかばね)」の運用に失敗したヤマト王権は中華王朝より律令制と仏教を輸入し律令国家への移行を進める。この時全国に国分寺国分尼寺を建立して国内統一の象徴とする中央集権的動きとそれぞれが独自の氏神を奉ずる在地有力者の地方統治への参加を促すべく「一宮, 二宮,...」といった神社格式の整備が並行して進められ日本独自の神仏習合体制が構築される展開を迎える。
    *これに先行する形で帰化人達が資金を持ち寄って「知識寺」を築造したり、古墳時代の支配確立メカニズムの延長線において中央指導で在地有力者に氏寺を築造させる動きもあり、こうした運動の絡み合いの複雑怪奇さが新たな日本の封建体制的現実を構築していくのである。

    「氏寺(氏の寺)」と「知識寺(知識の寺)」

  • 律令制が全国規模で相応の成功を収めたのは平安時代794年~1185年/1192年)中旬とされるが、それは(それまでの日本で地方行政の中核を担って来た伝統的在地有力者の没落を意味していた。

    代わって台頭して来たのが、しばしばプロイセン王国においてエルベ川以東の東部ドイツに割拠したゲマインシャフトGemeinschaft=地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団)的でグーツヘルシャフトGutsherrschaft=自らの所領で暮らす領主が在住農民に賦役を課し、領主裁判権・警察権も行使する強力な農民支配形態)的特徴を備えながら近世以降は常備軍将校や官僚供給層として生き残りを図ったユンカーJunker)階層と比肩される「武家=在郷開拓領主層」や武家政権成立後に現れた「悪党」達。

    ちなみに私の中の「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」なるイメージの少なくとも一部は、カナダの歴史家ウィリアム・H・マクニールWilliam Hardy McNeill、1917年~2016年)「世界史講義(The Global Condition: Conquerors, Catastrophes, and Community, 1992年)」がフロンティア論において活写した(十字軍/大開拓時代(11世紀末~13世紀末)の中東やイベリア半島や東欧、開拓時代のアメリカやシベリアに原則として孤立無縁状態で割拠した様な)開拓領主達の共通心理に由来しており、その意味合いではプロイセン王国のユンカー階層や源平合戦当時の坂東武者の概念は割とそのド真ん中となる。

    ちなみに奴隷制自体は環境によって真逆に働く事も。幸村誠ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA, 2005年~) で「鉄鎖のハーフダン村長」が実践してたみたいな感じで…

    しかもこうして生まれた「農奴」概念、フランス革命戦争当時の浮浪小作人層同様、自作農に戻る事しか考えず、その願いが叶った途端不満が消失して現状維持しか考えなくなるので「革命の原動力」として 問題だらけ。二月革命(1848年)/三月革命(1848年~1849年)を契機に社会主義者のスローガンが「全国の小作人と労働者よ団結せよ」から「全国の労働者よ」に差し替えられて民主集中制が台頭してくる背景にはそういう事情もあった。カリブ海沿岸諸国の奴隷制砂糖農園における解放奴隷も大半はそうで「新たなる外貨獲得手段の開発」なんぞ望むべくもなく多くが世界最貧国へと転落していった(モノカルチャー経済依存国の悲哀)。ただ社会主義化したキューバのみが砂糖農園を維持して市場崩壊を防ぎつつ必要にして十分なだけの外貨を獲得して歴史のその時点における没落を免れる(ただし第三国の安価な砂糖輸出に屈服。代替案はやはり浮かばず。モノカルチャー経済依存国の悲哀

    当時の支配体制の乱れは日本中世を特徴付ける「(一つの土地に複数の所有権や使用権が設定される)職の体系」を発生せしめ、これを解消したのが応仁の乱(1467年~1477年) 以降、全国に点在する公家領や寺社領を積極的に横領して回り一円領主化を達成した守護大名守護代。彼らの中から戦国大名が現れ、江戸幕藩体制下における地方行政単位となっていく訳だが、この時代に見受けられる「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」というと惣村や(悪党に起源を有する)国人一揆が該当する。そういえば徳川家臣団毛利家臣団国人一揆出身と目されている。

細部の妥当性はともかく、このアプローチからの議論がいわゆる既存の「封建体制的社会論」とは全く異質なものにならざるを得ないであろう直感的感触こそが重要である。

西欧の場合

西欧の封建制Feudalism=フューダリズム)は、しばしばローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)や古ゲルマン人社会の従士制度軍事的奉仕)などをその起源として仮冒する。しかしながら実際にはヴァイキング(Viking, 北欧系諸族の略奪遠征, 全盛期800年〜1050年)やマジャール人侵攻(ハンガリー人の祖先による略奪遠征, 全盛期930年代~950年代)に屈して以下の三王統のみが生き延びる考古学的暗黒期(9世紀末~10世紀)を挟むのである。

  • ウェセックス王国王統イングランド最北端に位置しアングロ・サクソン七王国Heptarchy)の中で唯一デーン人の猛攻を生き延びた。最終的にはデーン人の手によりブリテン島から追放されたが、ノルマンディ亡命中に現地妻との間にもうけた子供の末裔がノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England, 1066年)を遂行してノルマンディ朝イングランド(Norman dynasty, 1066年~1154年)を開闢する。

  • シテ島ヴァイキングから守り抜いたパリ伯…次第に西フランク国王を兼務する様になり、ノルマンディー泊地のヴァイキング族長ロロ(860年~933年)を臣下に加え(911)、カペー朝フランス王国(dynastie des Capétiens, 987年~1328年)が開闢される。

  • デーン人やマジャール人との戦いに勝利したザクセン公…さらにイタリアへと進出しザクセン神聖ローマ帝国(962年~1024年)を開闢。ちなみに儀礼の席に呼ばれた三国大王(イングランド王1016年~1035年, デンマーク王1018年~1035年, ノルウェー王1028年/1030~1035年)クヌート1世Canute / Cnut / Knut I、デンマーク語:Knud 2、995年~1035年)は、こうした「蛮族鎮圧の英雄」達がこぞって文盲であったという衝撃的証言を残している。実際、考古学的暗黒期(9世紀末~10世紀)に次いで現れたロマネスク文化Romanesque, 10世紀末~12世紀)の主要な担い手は、むしろ彼らというよりノルマンディ地方イングランドイタリア半島南部に割拠した(当時欧州各地より遥かに先進的状態にあった地中海のビザンチン帝国やイスラム文明からの影響を色濃く受けた)ノルマン貴族や、(イスラム遠征軍にピレネー山脈以北に追い立てられた、イベリア半島における西ゴート王国遺臣が割拠した)アストゥリアス貴族(Asturias)や、(ラインラント(Rheinland)すなわちドイツ西部のライン川沿岸からローヌ川流域に移動しフランク王国支配下に入ったブルグント貴族英:Burgundians, 仏:Burgondes, 独:Burgunden, 羅:Burgundiones)の割拠したブルゴーニュ(Bourgogne,フランス北部)や、(東ローマ帝国イスラム遠征軍への対応に追われた6世紀後半にイタリア半島への進出を果たした)ランゴバルト貴族(英:Lombards, 伊:Longobardi, 独:Langobarden, 仏:Lombards, 羅:Langobardi, 希:Langobardoi)の割拠したロンバルティア(Lombardia)を緩やかに結ぶ部族連合的紐帯だったと推定されていたりする。

    一方、かかるザクセン朝に叙任権闘争(Investiturstreit)で著名なザーリアー朝(Salian dynasty, 1027年~1125年)や、アルプス山渓を超えてイタリヤとドイツを結ぶスイス街道を構築し赤髭王(Barbarossa=バルバロッサ) 」フリードリヒ1世Friedrich I., 1122年~1190年, 神聖ローマ帝国皇帝1155年~1190年, ローマ王1152年~1190年, イタリア王1155年~1190年, ブルグント王1178年)や「王座上の最初の近代人フリードリヒ2世Friedrich II., 1194年~1250年, 神聖ローマ帝国皇帝1220年~1250年, シチリア王1197年~1250年, イタリア王1212年~1250年, ローマ/ドイツ王1212年~1220年, エルサレム王1225年~1228年。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれる事が多い)を輩出したホーエンシュタウフェン朝Hohenstaufen, 1138年~1208年、1215年~1254年)が続いた時代には(神聖ローマ帝国におけるゲルマンの遺習と目される)選挙王制を押し切って事実上の世襲が遂行され続け比較的政治的安定性が保たれた。この特殊性に注目し「三王朝時代(962年~1254年)=中世盛期」なる歴史区分導入を考える向きもある。

こうして当時を実際に生き延びた欧州側勢力はどれも、すなわちスカンディナヴィア半島を含むバルト海沿岸部から出発してリガ湾フィンランドに流れ込む河川を遡り、ロシア平原経由ドニエプル川を下って黒海に現れ、ビザンチン帝国に到達して略奪遠征を遂行したり逆に対ヴァイキング兵力として雇われたりした民族系統不明のヴァリャーグ単数形, 古東スラヴ語:Варягъ, ギリシア語:Βάραγγος, 古ノルド語:Væringjar, ウクライナ語:Варя́г/Variah、ベラルーシ語:Вара́г/Varah, ロシア語: Варя́г/Varyag)/ヴァリャーギ複数形, 古東スラヴ語:Варягы/Варязі/Варяже, ギリシア語:Βάραγγοι/Varangoi/Βαριάγοι/Variagoi, ウクライナ語:Варя́ги/Variahy, ベラルーシ語:Вара́гі/Varahi, ロシア語:Варя́ги/Varyagi)も含め、ヴァイキング側の船団運用や兵装やハスカール制(Huskarl, 食客)を積極的に模倣した。また逆にフランク王国時代に発明され、おそらくはそのフランク王国に吸収併合された遊牧民族アラン人アヴァール経由で後世に伝わったであろう「鎧で踏ん張る重装槍騎兵Heavy Shock Cavalryの乗馬襲撃(状況により無双が可能だったのは10世紀中旬~13世紀中旬)」については北方諸族ヴァリャーグ/ヴァリャーギ側が積極的に取り入れたと考えられている。

だからノルマン=アストゥリアス=ブルゴーニュ=ロンバルティア部族連合が勝手に自壊した後、それに代わって十字軍運動/大開拓時代に躍り出た(ランスを中心地とするシャンパーニュ地方など主にフランス北部に割拠するフランス帯剣貴族の先祖達神聖ローマ帝国を構成した諸侯は見掛け上全く区別が付かなかった。鼻を守る独特の張り出しを備えた兜を被り、チェーンメイルで身を包み、鎧で踏ん張って乗馬突撃する重装槍騎兵

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彼らこそが欧州封建制の主体の原型であり、英国やフランスにおいては絶対王政(Absolute monarchy)成立期に(その出自の多様性・多態性もあって)一枚板にまとまり切れず勝手に自壊していくが、神聖ローマ帝国の版図、イベリア半島、東欧、ロシアなどでは後々まで近代化、すなわちの阻害要因として残留し続けるのである。

ちなみに、これまでの投稿で「解体に成功した」としてきた「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」について改めてまとめると以下。

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日本の場合

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  • 日本書紀古事記新撰姓氏録に祖先起源伝承が採択されたその歴史が古墳国家時代まで遡れる様な旧族在地豪族やその下部組織よしての在地有力者律令制導入による解体…こうして伝統的宗族は朝廷への官僚供給層に再編され、その朝廷における党争で「宰相家系藤原氏を頂点と仰ぐ貴族制が成立していく過程で残りが「都落ち」によって在野に溶け込んでいき「有力武家の上洛」を準備する。

    日本史上の主権者が朝廷から武家集団に推移していくプロセス、イスラム世界においてアッバース朝750年~1517年)が没落するにつれカリフが宗教的権威のみを継承する様になり、実際の政治は形式上その認可を受けたテュルク系諸王朝マルムーク朝が遂行する様になっていく過程と似ている?

  • 江戸幕藩体制版籍奉還1969年)、廃藩置県藩債処分1871年)、秩禄処分1876年などによる解体…公家や大名家が華族に再編されて(恩給の代償に)政治的主権者の立場を放棄させられる一方、切り捨てられ在野に落とされた下級士族達不平士族の反乱(1869年~1878年)や自由民権運動(1874年~1890年)を経て(江戸幕藩体制時代の延長線上において当時はまだ日本の在野を主幹していた)全国規模の伝統的富商・富農ネットワークに吸収されていく。そしてかかる在野集団の支持に立脚する形で日本の議会制民主主義や政党政治は最初の足掛かりを得る。

欧州の場合

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  • ロマネスク時代Romanesque Age, 10世紀末~12世紀)…考古学的暗黒期(9世紀末~10世紀)を契機に現れたノルマンディ地方イングランドイタリア半島南部に割拠した(当時欧州各地より遥かに先進的状態にあった地中海のビザンチン帝国やイスラム文明からの影響を色濃く受けた)ノルマン貴族や、(イスラム遠征軍にピレネー山脈以北に追い立てられた、イベリア半島における西ゴート王国遺臣が割拠した)アストゥリアス貴族(Asturias)や、(ラインラント(Rheinland)すなわちドイツ西部のライン川沿岸からローヌ川流域に移動しフランク王国支配下に入ったブルグント貴族英:Burgundians, 仏:Burgondes, 独:Burgunden, 羅:Burgundiones)の割拠したブルゴーニュ(Bourgogne,フランス北部)や、(東ローマ帝国イスラム遠征軍への対応に追われた6世紀後半にイタリア半島への進出を果たした)ランゴバルト貴族(英:Lombards, 伊:Longobardi, 独:Langobarden, 仏:Lombards, 羅:Langobardi, 希:Langobardoi)の割拠したロンバルティア(Lombardia)の緩やかな部族連合的紐帯。(イブン・ハルドゥーンの王朝交代論に盲目的に従う)部族連合的組織の宿痾によって自然消滅していく。ただし彼らは別に帝政ローマの様に「より強い部族連合的紐帯を備えた辺境の蛮族の侵入」に敗北したわけではない。クリュニー修道院シトー修道院が奢侈に耽溺する殿堂へと変貌していく様な堕落の過程で勝手に弱体化していったのである。

  • ゴシック時代Gothic Age, 12世紀~16世紀前期(12世紀~13世紀)…英国とフランスにまたがるアンジュー帝国(1152年~1259年)樹立からアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)の仕掛けたシチリア島ナポリの支配権を巡る一連の宮廷間の党争にイングランドプランタジネット王統フランスのカペー王統ばかりか、ローマ法王庁神聖ローマ帝国王統(ホーエンシュタフェン家とその政敵達)、東ローマ帝国、十字軍諸国、スペインのアラゴン王家といった地中海に面する諸勢力が否応なく巻き込まれた。その背後にはさらにリュジニャン家の様な広範囲の宮廷で影響力を発揮した名族やイングランド王室とフランス王室の抗争などに便乗したシャンパーニュ地方プロヴァンス地方ブルターニュ地方、十字軍諸国などの中小諸侯の暗躍も垣間見られる。応仁の乱1467年~1478年)を巡る勢力関係の推移が日本人にもややこしく感じられる様に、この時代の欧州における勢力関係の推移は欧州人にすらややこしい。

    要するに各国の範囲も曖昧なまま各国の宮廷を壟断する王侯貴族間の党争が国際的政局を左右した時代であり、古くはフランク・ハーバートデューン(Dune)シリーズ(1965年~1986年)」、最近ではジョージ.R.R.マーティン「氷と炎の歌A Song of Ice and Fire)シリーズ(1996年~)」を原作とするネット・ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones, 2013年~2019年)」に克明に描かれた「宮廷における陰謀の渦が突然予想外のタイミングにおける粗相街の場所での武力衝突に発展する仁義なき中世っぽい雰囲気」はこの辺りに由来する。ジョージ.R.R.マーティン自身は「薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)の頃のそれ」を参照したとしているが、私欲の皮ばかりむやみやたらと突っ張った陰険なる仁義なき宮廷貴族の振る舞いそのものに「時代ごとの特徴」など、それほどある筈もないのである。


    一方、中世史のこういうドロドロした部分を嫌悪したJ.R.R.トールキンは自作「ホビットの冒険The Hobbit, or There and Back Again, 1937年)」や「指輪物語The Lord of the Rings, 執筆1937年〜1949年, 初版1954年〜1955年)」における支配階層の設定を(彼らが奢侈要求に捕まって堕落する以前の)ロマネスク時代(10世紀末~12世紀)のそれに寄せて描いた感がある(まぁ歴史家としてのトールキンの専門範囲も大体この辺り)。映画版では冥王サウロンの「影の国モルドールMordor)の脅威から「南方王国ゴンドールGondor)を防衛する戦争絵巻なる側面が強かった「ロード・オブ・リング(The Lord of the Rings)シリーズ(2001年~2003年)」より「(邪竜スマウグを呼び寄せてしまったドワーフの都エレボールの財宝が、この邪竜退治後に新たな軍勢を呼び寄せる悲劇を克明に描いた)ホビットの冒険(Hobbit)シリーズ(2012年~2014年)」の方が原作者のこうした意図を忠実に再現していた様に見受けられる。

    ゴシック時代中期~英仏絶対王政樹立期13世紀末~18世紀初旬)…かかる貴族の宮廷壟断政治を嫌ってか、あるいは互いの王室への憎しみからか、イングランドにおいてはプランタジネット朝エドワード1世(Edward I, 在位1272年~1307年)以降、フランスではカペー朝フィリップ4世Philippe IV, 1285年~1314年)以降、国王と直臣による中央集権化に向けての動きが本格化する。

    百年戦争(1337年/1339年~1453年)によって英仏国境が定まると、イングランドでは薔薇戦争(Wars of the Roses, 1455年~1485年/1487年)における大貴族連合の自滅を経て絶対王政色の強いテューダー朝Tudor dynasty, 1485年~1603年)開闢され、新たなる藩屏としてジェントリー階層の育成が始まると同時に、ローマ教皇庁から独立した英国国教会を創始する。

    一方ガリカリムス(Gallicanisme, フランス国教会運動)を通じて次第にローマ教会から距離を置く様になったフランスでも公益同盟戦争(The War of the League of the Public Weal, 1467年~1477年)とフロンドの乱(Fronde, 1648年~1653年)を通じて大剣貴族と法服貴族が内部対立によって勝手に自滅。その後「太陽王ルイ14世在位1643年〜1715年)の絶対王政が実現する。

    こうして英仏の封建時代は絶対王政開始によって終焉に向かったが、実は「(必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う)主権国家体制(Civitas sui Iuris)」の軍事的側面にのみ注目するなら、オスマン帝国ムガール帝国の方が体制として先行していた時代があった。ただしこれらの国々は平和獲得後に中央集権的官僚制が徴税によって常備軍を養う動機を失い、地方が「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」に回帰するのを防げなかったのである。

    江戸幕藩体制が同じ展開を迎えなかったのは「経済戦争」なら以降も国内で延々と続いたからである。戦国大名が自給自足経済運用を一任してきた御用商人は、元禄時代(1688年~1704年) までに株仲間(参勤交代実現の為に整備された交通インフラを利用して形成された富商や富農による全国規模のネット大名)に駆逐され、次第に新たな在地特権階層へと変貌していった彼らも文化文政時代1804年~1830年)には新興の仲間外商人との激しい競争に巻き込まれていく。「(経済人類学者カール・ポランニーも注目した)囲い込み運動(Enclosure 第一次15世紀末~17世紀中旬, 第二次18世紀~19世紀初旬)」のあった大英帝国同様、それは組織規模の動員を伴わなかった戦争状態に他ならず「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が残存した地域特有の(思考能力を喪失した封建領主が無策のまま何世代にも渡って領土と領民を支配し続ける)停滞状態なと訪れ様がなかったのである。

    スペイン王国の辿った道はさらに悲劇的だった。有力貴族を弾圧して下級貴族の文官やユダヤ人を重用して中央集権化を志向し、その振る舞いから「残酷王Pedro el Cruel)」とも「正義王Pedro el Justiciero、古い綴りではPedro el Iusteçero)」と呼ばれたカスティーリャ国王ペドロ1世Pedro I, 在位: 1350年~1366年, 1367年~1369年)が大貴族連合との戦いに敗れて敗死し、逆に彼らの傀儡に過ぎないトラスタマラ朝Casa de Trastámara, 14世紀~16世紀)が開闢されてしまうのである。神聖ローマ帝国アウグスブルグの和議(1555年)以降の領邦国家化によって独自主権国家化を断念せざるを得なくなる。そして19世紀に入ると独自近代化を志向して(神聖ローマ帝国に臣属義務を有さない)「サルディーニャ王統サヴォイア家がイタリア王国(1881年~1946年)を「プロイセン王統」ホーエンツォレルン家がドイツ帝国(1781年~1918年)を開闢するも、急造国家の悲しさで大日本帝国が遂行した版籍奉還1969年)、廃藩置県藩債処分1871年)、秩禄処分1876年)の様な国家体制の全面的刷新までは手が出せず、かかる後進性の放置こそがファシズムナチズム発祥の大源流となってしまう。

    ところで不思議と21世紀以降登場した日本の漫画は、扱ってる時代を問わずこの領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」から「必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)」への移行過程を前提とした作品が多い。
    *もしかしたら宮下英樹センゴク・シリーズ(2004年)」などを筆頭に「織田信長物」の伝統的強さと深く関与してるのかもしれないが詳細は不明。そういえば同じくらい日本人の大好きな三国志も天下統一物ではある。

    ただし後者(秦の始皇帝による中華統一)を戦乱の世を終わらせる救済手段に掲げる原泰久キングダム(2006年)」は、(おそらく読者の要求に忠実に従って)その内容自体について作中で深く吟味する事なく合戦場面ばかり続けている。

    幸村誠ヴィンランド・サガ(Vinland Saga, 2005年)」はロマネスク時代を扱いながらノルマン人やビザンチン帝国への言及を注意深く避けつつデーン人の三国王クヌートの覇道に焦点を当て、なおかつ主人公はそれとは別の人間救済の道を探すアメリカ大陸への移民船団準備者に設定している。

    まぁ最近では「ロマネスク時代にノルマン人がもたらした部族統治的平和」という定見も疑問符だらけだし、どんなクレームを受けるか分からないのでイスラム世界に触れたくないというマーケティング上の事情もあるのかもしれない。

    <高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.183-184>

    ノルマン=シチリア王国ではアラブ・イスラーム文化、ギリシア東方正教文化、ラテン・カトリック文化が共存していたが、それぞれの文化集団に属する人々が混在していたのではなく、モザイク状に棲み分けていた。彼らは地域的に偏在していただけでなく、社会的立場も異なっており、世俗の領主や教会・修道院の聖職者はラテン系かノルマン系、王に仕える役人はアラブ人、ギリシア人、ラテン系であり、農民たちの多くはシチリアではアラブ人、ギリシア人、イタリア半島部ではギリシア人か南イタリア人であった。それらの文化的背景の異なる集団を、ノルマン人が統合して一つの王国を作り上げていた。

    このような異文化集団の共存を可能にしたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や争乱のときには必ずと言ってもよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。

    それにつけても、北欧はヴァイキング時代以降が(オランダ同様に主権国家化に成功した地域であとカウントするのをつい忘れてしまうほど)地味過ぎる。実際「主権国家間の協調体制」の原点とされるウェストファリア体制が成立した1648年時点では三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg, 1618年~1648年)において最新装備の常備軍を率いて連戦を続けたグスタフ2世アドルフ王が活躍したスウェーデンもフランスと並ぶ主要国に名前を連ねているにも関わらず(逆に歴史のその時点では清教徒革命の最中にあったイングランドが脱落)、大北方戦争(1700年~1721年)でロシアに敗北して影響力を失ってしまう。そして以降は(スイス同様、その伝統的中立主義もあって)欧州勢力均衡史に全く顔を出さないのである。

    百年戦争の最中のフランスを舞台とする石川雅之純潔のマリア(Sorcière de gré, pucelle de force, 2008年~2013年)」においてはヒロインのマリアは「人間同士の殺し合いをあえて放置し、辿り着くべき帰結を迎えさせる」天使ミカエルの方針に反逆する魔女という設定。領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」から「必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)」への推移を歴史的必然と認めつつ、あくまでどちらにも過度の共感も反感も抱かない態度こそが現代の読者の求めているレギュレーションなのかもしれない。

著者の選好によって、これだけ異なる史観がそれぞれ別途構築されてきた(しかも三番目のグループに至っては中世物としてパッケージングする事自体を諦めている)歴史を重ねてきた辺りがある意味、欧州封建時代の奥深さなのかもしれません。それにつけても…

さらに話をやややこしくしてるのが、最近の欧州史における「3世紀~8世紀を古代末期(英語: Late Antiquity, 独語: Spätantike, 仏語: Antiquité tardive)と呼ぼう」運動…

最近の研究によれば領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の解体に成功して「必要にして充分なだけ火器と機動力を装備した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家体制(Civitas sui Iuris)」への推移に成功した国家というのは以下の特徴を有するそうです。
アフタヌーンティの歴史

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  • 貴族階層の官僚や常備軍将校供給階層への改変。
    *官僚と軍人が主要ブルジョワ階層階層を興成したプロイセン王国におけるユグノー階層の転身が著名。近代化に際しても「農奴を所有する領主」から「出稼ぎポーランド小作人を雇う農業主」に鮮やかに転身。一方、解放された農奴は棄農して上京し産業革命に労働力を提供したという。例えばクルップの所有する鉱山は「家族が家畜や商品作物を育てられる幅広い裏庭」を備えた鉱夫用団地を準備して彼らを誘致した。

  • 伝統的インテリ階層(王侯貴族や聖職者)の(極少数の)上層構成員の大ブルジョワ階層への編入と、(圧倒的多数の)下層構成員の庶民落ち。特に後者は、スノビズムなどの援用によってその国大衆向け娯楽の内容底上げ(より高付加価値な商品への誘致)に貢献するのが常だった。
    *フランスではオルレアン/7月王朝期(1830年~1848年)よりこの流れが加速。その情景を景色をバルザック「人間劇場」が記録に残した。

  • 没落した英国ジェントリーや本国脱出を果たしたフランス貴族は植民地で起死回生のチャンスを狙った。成功して本国に戻れたのは極少数だったが、死んだら死んだで口減らしになるので歓迎すべき展開だった。
    *で、孤児院育ちの子供が、こういう帰国成金に血縁者として発見されたりするのが当時のファンタジー。その一方でシャーロック・ホームズ・シリーズとかでは「植民地の毒に染まって」殺人とか辞さない凶悪な人間に変貌してたりもする地獄ガチャ…

そしてどうやら元来「中世風味」というのは(ケルト起源説やゲルマン起源説に憧憬する)貴族趣味が(上掲の様な下層貴族階層の没落によって)大衆的娯楽の世界にまで落ちてきた物だった様なのです。一方、米国において1960年代指輪物語」の様なハイ・ファンタジーを受容したのは当時のアメリカ的現実に失望し切って「全く別の世界観に心を遊ばせる体験」を渇望していた大学生/ヒッピー層だった様です。果たしてこういう話がどう絡んでくるやら…