ドイツ騎士団(Deutscher Orden)チュートン騎士団(Teutonic Knights)(1191年~1523年)- Wikipedia
その前身は聖ヨハネ騎士修道会に帰属していた「エルサレムのドイツ人の聖マリア病院」とも。創設者はおそらく世俗貴族と思われるドイツ人夫妻で、ドイツ語以外分からないドイツ人巡礼者の為にこの病院を創設したと言われている。多数の協力者がいたようで、この病院で働く者達は修道士として聖アウグスチヌス修道会の会則を守り、白衣に黒い十字の僧衣を纏っていたらしい。ただし自らの出自が自立していたと主張したいドイツ騎士修道会は今日なおこの病院が自らの前身と認めていない。
正式名称は「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum)」。12世紀後半にパレスチナ聖地巡礼者の保護を目的として設立されたアッコンの兄弟団(1191年ローマ教皇クレメンス3世が公認)を起源とするがイスラム教徒に根拠地を奪われ、パレスチナを離れた。
1226年バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛するためにポーランド貴族に招聘され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなる。やがて「リヴォニア帯剣騎士団(Schwertbrüderorden(Fratres Militie Christi de Livonia=リヴォニアのキリスト騎士修道会)、1202年~1237年)」を接収した。
- 当時リヴォニア(現在のラトビアからエストニアにかけての地域)ではキリスト教徒と現地異教徒の軋轢が日に日に高まり小競り合いも頻発していた。そんな最中、リヴォニア司教区の司教に任命されたシトー会のアルベルトが教皇インノケンティウス3世に十字軍の許可を願い出る(1199年)。アルベルトは十字軍兵士を集めて1200年3月にリガへと移動。十字軍の力によりその周辺の異教徒リーヴ人を服属させる事に成功したのである。そしてリーヴ人を使役してリガを増築し、1201年に自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させる。翌1202年にはリガ城を本拠地とするリヴォニア帯剣騎士団を設立。
- 当初の騎士団のメンバーはリガまで連れてきた十字軍兵士から勧誘され、入団した人間は永続的にリガに留まり防備に従事。この騎士団の目的はあくまでバルト三国周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することと規定され、その点で聖地エルサレムの守護・奪回や巡礼者の保護を目的とする他の騎士修道会とは本質的に異なっていた。団員は白いマントを身に纏い、教皇インノケンティウス3世より賜った赤い剣と小さな十字の紋章を左肩につけており、この剣の紋章こそが騎士団の呼称「帯剣」あるいは「刀剣」の語の由来である。基本的な規則と内部構造はテンプル騎士団と同じく、騎士、聖職者、一般兵・職人の3階層に分かれていたが、他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教が君臨していた。
- 彼らの活動によりリヴォニアはあらかた征服され、エストニアの支配権を巡ってスウェーデンと争った。デンマーク王ヴァルデマー2世の支援を受けた騎士団はバルト海に浮かぶエストニア人が居住する島々と北部エストニアを占領し、1230年にデンマークが領有していたレヴァル(タリン)を占領。
- 騎士団の征服活動はローマ教皇から正式な認可を受けて正当化されたが、エストニア土着部族の抵抗は一層激しくなり、また征服地の領有を巡って騎士団とアルベルトが対立しインノケンティウス3世からの仲介を受けた。困った事に征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道さがローマ教会でも問題になるほどであり、挙句の果てにそれを掣肘しようとした教皇特使にまで狼藉を加えてしまう。1236年にリトアニアのザウレ(シャウレイ)にてリトアニア軍に惨敗を喫し、翌1237年にはドイツ騎士団に吸収合併され、リヴォニア騎士団として自治的な分団の地位に置かれた。
リヴォニア帯剣騎士団に引き続き、ドイツ騎士団領は次第に領民から敵意を向けられる存在に。そしてポーランド王国が彼らの救世主として台頭してくる。
- 1224年、ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領とする選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制「ドイツ騎士団領」の経営を開始。14世紀に最盛期を迎える。
- ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は皇太子ハインリヒのドイツ王即位を認めさせる為に聖俗諸侯に出した特許状をドイツ騎士団にも与えた。リミニの金印勅書(1226年)によって、ドイツ騎士団にクルムと隣接する地域、プロイセンの征服と支配を認められている。クルム特権状(1233年)によって騎士団の権利が補完され、1234年にはグレゴリウス9世も騎士団に特権を授与した。フリードリヒはドイツ騎士団を信頼のおける一勢力に構築し、騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァは彼の腹心として助言を与えた。フリードリヒがドイツに到着した当時微弱な勢力だった騎士団は、年代記に「帝国はもはや騎士団の団員の助言によって動いている」と書かれる一大勢力に成長。法的な権利を認められた騎士団は先住民と戦いながら東方への植民を行い、騎士団国家の建設を進めていった。
- 騎士団勃興と同時期に規模拡大が始まった東欧から西欧への穀物輸出(古代ギリシャ世界におけるアテナイの繁栄が黒海沿岸からの、古代ローマ帝国の繁栄がシチリア島やエジプトからの穀物輸入に支えられていたのと同様の対応)を武器としてハンザ同盟都市と経済的に深く結びついていった。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はこうした体制下で発展を遂げた貿易都市であり、いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。
- 一方エルビンクとライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランド(ドイツ騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領し、マゾフシェにまで触手を伸ばした事から関係かが完全に決裂していた)の庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返す。そして14世紀後半に入るとエルビンクの住民だけでなく、あらゆる在地勢力や都市、地方領主がドイツ騎士団の狂信的で頭の固い専権的支配に反感を感じポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになっていく。
- ドイツ騎士団がタンネンベルクの戦い(1410年)で敗北するとエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1440年にダンツィヒやエルビンクなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主としてプロイセン連合を組織、ポーランド王国の準加盟組織となり、ポーランドとプロイセン連合がドイツ騎士団と戦った十三年戦争後の講和条約である第二次トルンの和約(1466年)を経て1569年には正式にポーランド王国に加盟する。
- ポーランド王国はポーランド王領プロシアにおける司祭の選定権をドイツ騎士団から剥奪した上でドイツ騎士団の主だった者達にポーランド国会(セイム)における議席を提供し国政への参政権を与えたが、司祭の独自選定権にこだわった騎士団はセイムに代表を送ることを拒否し、司祭戦争(1467年~1479年)が勃発。この戦争もにポーランドの圧勝によって終結しピョトルクフの講和(Treaty of Piotrków)で王国側が騎士団が1467年に選出したニコラウス・フォン・チューンゲンをヴァルミア司教として認める代償として騎士団側はポーランドへの服属を再度誓わされる事となった。戦闘はその後も継続したが大した騒動には至らなかった。
宗教革命以降、ドイツ騎士団領はその姿を大きく変貌させる。
- 1510年に総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、同調する騎士団員とともに騎士団を離れてルター派に改宗、ドイツ騎士団と対立したうえでこれをプロイセンから追い出した。こうしてカトリック教会の騎士修道会国家は歴史的な役割を終えたのである。
- アルブレヒトは1525年にポーランド王ジグムント1世に改めて臣従の誓いをしてポーランド王臣下となり、アルブレヒトの配下の者の所領はすべてポーランド王国の宗主権下に入り、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗領邦プロイセン公国に変わる。これ以降ドイツ騎士団はプロイセンの国家運営と完全に切り離される事になった。
- その後、アルブレヒトの血統が絶えると、同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントが公位を相続し、以降ブランデンブルク選帝侯の飛び地領土となる。
- そしてプロイセンは神聖ローマ帝国の域外であったことから、後に王号の使用も認められプロイセン王国が成立し(スペイン継承戦争などに際しての太陽王ルイ14世側陣営への荷担のの見返り)19世紀後半のドイツ帝国成立(1871年)に際してはその核となる役割を演じたのだった。
- 一方騎士団直轄領経営から閉め出されたドイツ騎士団自体はドイツ南部に持つ封土を中心にカトリック教徒のドイツ人によって維持され、ヴュルテンベルク地方で主にハプスブルク家の成員を総長として継続する事になった。その後、騎士団は1809年に世俗的な領土をすべて失い、第一次世界大戦でハプスブルク家の後援が断たれたが、騎士団は一種の慈善団体となり、現在も存続している。
西欧のゴシック時代(12世紀~13世紀)と並列して東欧中心に存在した大開拓時代(13世紀~15世紀)を代表する歴史的存在。