「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】テンプル騎士団

「テンプル騎士団(キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち:Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici:1096年~1314年)」 - Wikipedia

第1回十字軍(1096年~1099年)の後、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護する為に1119年設立。

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フランス人貴族ユーグ・ド・パイヤンのもとに9人の騎士たちが集まり聖ヨハネ騎士団修道会の先例にならい聖アウグスティノ修道会の会則を守って生活する誓いを立てた。

  • 所属騎士達の強さと勇敢さは伝説級であり聖地維持の為に何らかの貢献をしたいと考える当時のヨーロッパ貴族の注目を集める。フランス王だけでなく多くの王侯貴族から寄進を得て入会者も増えた。1139年教皇インノケンティウス2世テンプル騎士団国境通過の自由課税の禁止教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与した事が勢力拡大の契機となった。
  • 第2回十字軍1147年~1148年)に際してはフランス王ルイ7世を助け奮闘した為、十字軍終了後、ルイ7世は騎士パリ郊外の広大な土地を寄贈されここにテンプル騎士団の西欧における本拠地拠点を建設。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。
  • 1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅Omne Datum Optiumを出して、修道会と財産の聖座による保護司教からの独立などの特権を賦与。
  • モントギサールの戦い(1177年)ではサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、第3回十字軍1189年~1192年フランス王フィリップ2世イングランドリチャード1世獅子心王)とも共闘。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとする。
  • シリアで砂糖農園を接収し、欧州に最初に砂糖を伝達した集団としても名前を残す。「暗殺教団」との腐れ縁がこの時に出来たとも。
  • しかし1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどり、当時の総長ジェラール・ド・リデフォールは宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じてしまう。これにより「投降より死を選ぶ」という騎士団の勇名に泥を塗ったばかりか解放後再び捕虜となって斬首されヨーロッパにおけるテンプル騎士団の威信を地に落とした。

    アッコン陥落(1290年)以降、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失う。軍事活動なしには存続出来ない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、テンプル騎士団だけは特権と財産に守られ危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止してしまった。

テンプル騎士団はまたその経済活動でも知られる。地域司教たちや他の修道会からの批判の声も何のその。一切の課税を免除され、自前の艦隊まで所有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団テンプル騎士団の肥大化は商人や製造業者達まで怒らせた。

  • 財務機関としてのテンプル騎士団会の活動目的が聖地守護と軍事活動であったとしても実際に前線で戦うのは会員の数%に過ぎず、残りの大半はそれを支援するための兵站および経済的基盤構築にあたる。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた)は、欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有してそこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、自前の艦隊を保有し、最盛期にはキプロス全島すら所有していた。パリ支部は事実上フランス王国の非公式国庫となり、1146年にはルイ7世の命により王国の国庫が正式にテンプル騎士団に預けられている。
  • また(現金を持ったまま巡礼の道を移動する事により起るリスクを防ぐ為)巡礼者に対し自己宛為替手形lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行っていた。現在で言う預金通帳のような書類bon de dépôt)もテンプル騎士団の当時の事務処理に遡るという。

そしてフィリップ4世の財政改革によってフランス・テンプル騎士団は破滅する。「国王より富裕になったから粛清された」とする説も。

  •  13世紀末頃、王権強化を進めていたフランス王フィリップ4世美男王, 在位1285年~1314年)は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす、という夢であった(テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したものの即座に拒絶)。
  • いずれにせよ現実のフランスは(英国との戦争によって抱えた多額の債務もあって)慢性的財政難にあえいでおり腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出てまとまった資産を手に入れる。次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。なぜならフランス王家にとってテンプル騎士団は最大の債権者でもあり、「債務の帳消し」と「テンプル騎士団の壊滅と資産没収略奪)」の一石二鳥が狙えたからである。
  • とはいえ、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しいので匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いて有罪に持ち込む事を考える。異端審問遂行には教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人教皇クレメンス5世であり、テンプル騎士団を入会儀式における男色(ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴するのに何の問題もななかった。かくして1307年10月13日になるとフランス全土で一斉に何の前触れもなくテンプル騎士団の会員が一斉検挙され、不当な罪名を被せた上で罪を「自白」するまで拷問を行い、全資産を聖ヨハネ騎士団へ移行した上で以後の活動を全面禁止にし、資産没収を完了した1314年になると口封じの為に投獄されていた4人の最高指導者を生きながら火炙りに掛けている。

それ以外の国ではテンプル騎士団は姿を変えて生き延びた。

ロマネスク時代(10世紀~12世紀)にゴシック時代(12世紀~13世紀)の先駆的存在として台頭しつつも主権国家の時代(14世紀~20世紀初頭)においては概ね前時代的遺物としてのみ存在した騎士修道会の典型例とも。