コンスタンティノープル陥落(1453年)によって東ローマ帝国が滅んだ際、ローディの和(伊Pace di Lodi、1454年)を締結したルネサンス期イタリア五大国の内訳…
ローディの和―中世イタリアに40年和平をもたらした5ヵ国同盟
ナポリ王国(伊Regno di Napoli) - Wikipedia
長くローマ帝国の支配下にあり、当時の遺構としてはヴェスヴィオ火山噴火(79年)による火砕流によって地中に埋もれたナポリ近郊のカンパニア州ポンペイ(羅Pompeii、伊Pompei)が有名。ローマ人の余暇地として繁栄したこの地の最盛期の人口は約2万人といわれ、18世紀に発掘が開始されると「新古典主義」発祥の発端となった。
最初に建国されたのはノルマン貴族大遠征時代(11世紀〜12世紀)で、(イタリアに隣接するシュヴァーベン大公が皇統となった)ホーエンシュタウフェン朝時代(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年 〜1254年)に神聖ローマ帝国の支配下に入る。
やがてフランス南部やイタリア北部で積極的な勢力拡大を行いったカペー系アンジュー家(アンジュー=シチリア家)のカルロ1世(伊Carlo I d'Angiò、別名アンジュー伯シャルル / シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou)、1227年〜1285年、シチリア王1266年〜1282年、ナポリ王1282年〜1285年)がローマ教皇の支持を得てホーエンシュタウフェン家を滅亡させシチリア王国を征服し、さらには東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建設を夢見たがシチリアの晩祷事件を契機に失敗に終わる。
「ナポリ王国」が誕生したのは、にシチリア王国で発生した住民反乱「シチリアの晩祷(1282年)」に端を発する戦争(シチリア晩祷戦争)の結果である。それまでシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国は、シチリア島側と半島側に二分されることとなった。この戦争によって、1266年からシチリア王の座にあったアンジュー家(アンジュー=シチリア家。フランス王家カペー家の分家)はシチリア島から追われた。シチリア島はバルセロナ家(アラゴン王家あるいはその分家)の支配下に入った。一方で半島南部は、ナポリに本拠を移したアンジュー家の支配下にとどまった。その後カルタベッロッタの和平(1302年)によって、分裂した両国が互いを承認。半島南部のみを統治することとなった「シチリア王」の国家が、ナポリ王国と通称される王国である。
14世紀前半ロベルト1世(在位1309年〜1343年)のもとで繁栄を迎えた。教皇派と皇帝派の争いの中では教皇派(ゲルフ)に属している。ロベルト1世没後は長く内紛が続き、最終的に1435年アンジュー=ドゥラッツォ家の女王ジョヴァンナ2世が死去してアンジュー=シチリア家の男系は断絶。ヴァロワ=アンジュー家がナポリ王となったが、その統治は長続きしなかった。
その結果1442年、トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世(これ以前にシチリア王にもなっている)によってナポリ王国は征服された(アラゴン連合王国。ナポリ王としてはアルフォンソ1世、在位:1442年〜1458年)。イタリア五大国の一つとしてローディの和(1454年)に参加。アルフォンソは、ナポリ王国貴族の支持を得るために各種特権を付与し、あるいは既得権をそのまま承認し、こうした貴族の中にはジョヴァンニ・アントーニオ・ディ・バルツォ・オルシーニ (伊Giovanni Antonio Orsini del Balzo) なる人物がおり、ナポリからターラントまで所領伝いに通れたというがこうした「小王」らの実態は現在なお未解明。
アルフォンソはシチリアとナポリの王を兼ねたことから「両シチリア王」を称したが、その没後、ナポリの王位はその庶子フェルディナンド1世(在位1458年〜1494年)の家系に継承され、シチリアの王位と分離。
その後も紆余曲折を経て地域アイデンテティを多持ち続ける。
都市国家が群雄割拠していた北イタリアと異なり、南イタリアにはシチリアの晩祷事件(13世紀末)以降、領域的に半島全体の1/3を占めるナポリ王国(Regno di Napoli)が存在してきた。
1504年にアラゴン王フェルナンド2世に再征服され、カスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン)へ併合されてからの2世紀は王国としての立場も喪失し「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督(副王)の統治下にあったが、スペイン継承戦争(1701年~1714年)の結果、一時オーストリアの支配下に入るった後でポーランド継承戦争(1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世(1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。
以下続報…