「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「無能な働き者」ジョン王(在位1199年~1216年)の華麗なる足跡

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シェークスピアの愛国史」ではこんな風に「味付け」されてたりもしてる人。

正統な王位継承者であるアーサーに代わってイングランド王になったジョンに対し、アーサーの母コンスタンスはフランス王に援助を求め、戦争になろうとする。しかし、ジョン王とフランスのフィリップ王はお互いの利益から和解し、アーサーはイングランドに連れて行かれることになり、コンスタンスは半狂乱になる。

しかし、カンタベリー大司教任命に伴う諍いで、ジョン王はローマ教皇から破門され、フランスは平和協定を破って、イングランドを攻撃する。

ジョン王は年若いアーサーの目を潰そうと腹心のヒューバートを幽閉先に遣わせる。しかし、アーサーの懇願で、ヒューバートはアーサーを死んだことにして助ける。

国内の貴族たちはジョン王がアーサーを殺したと聞き、フランス側につこうとする。ジョン王は手を下したヒューバートを激しくなじるが、ヒューバートから真相を聞かされほっとする。しかし、アーサーは自ら命を絶ってしまう。

追い詰められたジョン王はやむなく教皇に屈服し、その直後、病死する。

1598年には既に存在しており、ヴィクトリア朝時代には盛んに上演された模様。スペクタクルと壮観さがその時代の観客たちの趣味に合っていたからとか。現在ではあまり人気がなくなり、現在ではシェイクスピア作品の中でももっとも有名でない作品となってしまい、上演されることも稀となってしまったそう。

リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。

  • この事件は、後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、ロビン・フッド伝説にも取り入れられた。

1194年リチャード1世イングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディーからイングランドに渡り、イングランド王として戴冠。

  • 一方、一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公アルテュール(アーサー)はアンジュー伯領を確保して王位を主張したが、ヒューバート・ウォルターを始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールも、アルテュールを押さえてジョンを支持している。

1200年にジョンはイザベル・オブ・グロスターと離婚、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと再婚した。イザベラの婚約者ユーグ9世・ド・リュジニャンは封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、1202年にフィリップ2世はジョンを法廷に呼び出す。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶。このため、フィリップ2世・アルテュール対ジョンの戦争となる。

  • 当初ジョンは劣勢だったが1203年にアルテュールポワチエにいたアリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応して逆にアルテュールを捕らえた。
  • 幽閉されたアルテュールはまもなく消息不明となったため、人々はジョンがアルテュールを殺したと考え、ブルターニュの諸侯はフランス王を頼ってジョンに反旗を翻す。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前にノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーはほとんど抵抗せずに降伏した。
  • わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュのみがジョンの下に残ったが、これは、元々アキテーヌは諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。

まぁ即位した直後からこれである。

そして…

1205年カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると後継者争いが発生。教皇権強化を狙うローマ教皇インノケンティウス3世も独自の候補を立てたがジョンはこれを認めるどころか教皇派司教達を追放して教会領を没収し大陸再侵攻への軍資金とした。

しかし大陸領土喪失による収入減に加え、軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけた事から諸侯や庶民の不満が高まる。

  • 一方、教皇からイングランドへの侵攻支持を取り消されたフランス王フィリップ2世は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍により船舶の大半を失って撤退。

  • 好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てたがブーヴィーヌの戦い(1214年)で惨敗してしまう。この結果連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世はフリードリヒ2世に皇帝位を奪われた。

帰国したジョンを待っていたのは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)臨時課税を乱発し苛政への不満を鬱積させていた国内諸侯の反発だった。

  • ジョンが強圧を持ってこれを抑えようとすると諸侯は結束して反抗し、内戦状態に陥る。結局、以前から突き付けられていた(国王の徴税権の制限や法の支配といった)諸侯の要求事項を受け入れたマグナ・カルタ(大憲章)が制定され1215年6月15日ラニーミードで調印された。

  • しかしすぐに不服をローマ教皇インノケンティウス3世に訴えて無効破棄を宣言してもらい、再び圧政と恣意的重税を行うようになったので再び内戦状態となり、諸侯がフランス王太子ルイ(フランス王フィリップ2の息子で後のフランス国王ルイ8世)に援軍を求めて招聘した事から第一次バロン戦争(2015年~2017年)へと発展する。

  • ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊との戦いを繰り広げるも赤痢を罹って1216年病没。

ジョン当人の崩御によりバロン戦争を継続する理由が無くなると、諸侯はウィリアム・マーシャルを摂政に立てて王位を9歳の息子ヘンリーに継承させた上でマグナ・カルタ1216年11月改めてイングランド王ヘンリー3世の名前で発行させた。これにはロンドンを占領下に置いて戴冠間近だった王太子ルイを牽制する意味合いもあり、実際彼はイングランドからの撤退を余儀なくされている。

そんな感じで以下続報…