「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【英国史を振り回した外国人妖姫列伝】マティルダ皇后(Empress Matilda、 1102年〜1167年)

マティルダ皇后(Empress Matilda、 1102年〜1167年

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イングランドヘンリー1世とその王妃たるスコットランドマルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。

ここでまさかのスコットランドマクベス(在位1040年~1057年)乱入…そういえばこの人もしっかりロマネスク時代(10世紀~12世紀中旬)に活躍した王族の一人なのである。

マクベスの名はゲール語で「生命の子マク・ベーサ)」の意味である。

  • 1032年頃スコットランドケネス3世(997年~1005年)の孫娘グロッホと結婚している。
  • 1040年8月14日、従兄のダンカン1世を殺害して王位を簒奪。以降、反対勢力や王位継承の可能性のある者たちを次々と抹殺。1043年にアルピン王家の血を引くバンクォウを殺害、1045年にはダンカン1世の父でアサル領主クリナンと戦って彼を殺害した。
  • 統治能力に優れた人物と言われ、17年と当時としては長期間在位した。また、1050年にはローマへの巡礼旅行に出ている。
  • 先王ダンカン1世ノーサンブリアシューアドの妹シビルの長男マルカム・カンモーMolcolm Canmore:canmoreとは大きな頭の意)にスクーンの戦い(1054年)で大敗しランファナンの戦い(1057年)で戦死した。

マクベス死後、王位は継子ルーラッハ(グロッホと先夫マリ領主ギラコムガンとの間の息子)が継承したが、ルーラッハ即位後4か月目マルカム・カンモーに殺害され、このマルカム・カンモーマルカム3世在位1058年~1093年)として即位した。

そして、相変わらずチラつくノーサンブリアの影… 

モード皇后Empress Maud、Maud はサクソン語で Matilda)、イングランドマティルダMatilda of England)とも。イングランド初の女性君主だが、実効支配者として君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数ヵ月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。

 そして、もう一人いいた「マティルダ・オブ・イングランド」…

マティルダ・オブ・イングランドMatilda of England, 1156年~1189年)は、ザクセン公バイエルン公ハインリヒ獅子公の妃。モードMaud)とも呼ばれた。ドイツ語名はマティルデ・フォン・エングラントMathilde von England)。イングランドヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌ長女第3子)。

  • 1165年ルーアンにいたヘンリー2世ケルン大司教ダッセルの間で、ドイツ諸侯とマティルダの縁組みが話し合われた。当時、対立教皇ウィクトル4世を推していたレスター伯の反対もあり、マティルダ神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の息子との結婚は流れてしまった。一方、1167年ハインリヒ獅子公との結婚がまとまり、マティルダはドイツへ出発。この結婚により、ハインリヒフリードリヒに対抗する最も強力な敵となった。

  • マティルダ1172年~1174年のおよそ2年間、気性の荒いザクセン騎士を率いて遠征を続ける夫に代わって広大な所領を治めた。

  • 1174年、皇帝との衝突により領地を追われたマティルダ夫妻1182年にドイツを逃れて父ヘンリ2世の宮廷のあるノルマンディーへやってきた。ここで彼女は吟遊詩人ベルトラン・デ・ボルンの「宮廷の愛」の詩の対象となり、「エレナ」「ラナ」と称された。

マティルダ一家1185年まで父の庇護を頼り、その後ザクセンへ帰国。1189年6月父の死の数週間後、ブラウンシュヴァイクで死去。

オットー4世Otto IV., 1175年~1218年)は中世西欧の神聖ローマ帝国皇帝在位1209年~1215年)並びにローマ王在位1198年~1215年)、イタリア王在位1208年~1215年)。ホーエンシュタウフェン朝と対立したヴェルフ家唯一のローマ皇帝だったが1210年ローマ教皇インノケンティウス3世から破門を宣告されており、ブーヴィーヌの戦い(1214年)でフリードリヒ2世に敗れ帝位を断念。1215年に廃位された。バイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ3世ハインリヒ獅子公)とイングランドヘンリー2世の娘マティルダの次男。ライン宮中伯ハインリヒ5世の弟、リューネブルクヴィルヘルムの兄。

  • ザクセン公ハインリヒ獅子公とその妻マティルダの3人目の子供として生まれるが、史料からオットーの正確な出生地を知ることはできない。1182年7月末にシュタウフェン家出身の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世から国外追放を宣告された父ハインリヒに伴われイングランドに旅立ち母方の祖父であるヘンリー2世が統治するイングランドで幼少期を過ごした。オットーを養育していたイングランドリチャード1世は、オットーとスコットランドウィリアム1世の王女マーガレットとの結婚を取り決めた。
  • 1194年2月神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に捕らえられたリチャード1世は、釈放の条件として身代金などを支払い、その際にオットーと彼の弟ヴィルヘルムは人質としてハインリヒ6世の元に預けられた。同年末にオットーたちは解放され、イングランドに帰還。1196年ポワトゥー伯に叙任され、リチャードが実施した対フランス戦争にはオットーも従軍した。

  • 1197年ハインリヒ6世が没するとその弟シュヴァーベン公フィリップが大多数の諸侯から金銭と引き換えにローマ王ドイツ君主)即位の支持を取り付ける。シュタウフェン家に敵対する諸侯はヴェルフ家の人間をローマ王に擁立しようと試みたが、ハインリヒ獅子公の子の中で最年長のハインリヒは十字軍に参加してローマ帝国に不在であったため、弟のオットーフィリップの対立王に選ばれた。

  • 反シュタウフェン家の立場をとるケルン大司教アドルフは、ライン地方の諸侯に働きかけてオットーを擁立し、1198年6月9日にヴェルフ家の支持者によってローマ王に擁立された。同年7月12日、オットーはアーヘンでケルン大司教アドルフより戴冠される。聖職者のうちケルン大司教のみがローマ王冠を戴冠できる権限を有しており、戴冠式はオットーの即位の正当性を証明する象徴として重要な意味を持っていたが帝権を示す標章はシュタウフェン家が所有していたため、戴冠式では模造品の標章で代用された。

  • オットーは養育者であるイングランドリチャード1世の支援を受け、シュヴァーベン公フィリップはフランス王フィリップ2世と同盟していたため、オットーの即位はイングランドとフランスの衝突を引き起こした。

  • 一方、教皇庁は一人の君主の下で神聖ローマ帝国南イタリアシチリア王国が統合されている状況が続いていることを憂い、ローマ帝国シチリアの分離、中部イタリアにおける教皇権の回復を図っていた。教皇インノケンティウス3世は帝国の混乱に乗じ、アンコーナスポレートペルージャなどのイタリアの都市からハインリヒ6世によって配置された帝国の封臣を追放することに成功。これと並行してトスカーナで形成された反帝国の都市同盟League of San Genesio)を支持し、同盟は教皇の保護下に置かれた。

  • インノケンティウス3世は、貧しく支持者の少ないオットーが教会の傀儡に適した人物と考え、彼を国王候補に選出。教皇が備える皇帝候補の適格性の審査権を主張して国王選挙に介入し、1201年3月オットーを唯一の正当なローマ王として認め、ローマ王選挙への教皇介入先例を作った。教皇からの支援の見返りに同年6月8日オットーは中部イタリアにおける教会の権利の保障、シチリア王国に対する教皇の封主権の承認、イタリア政策における教皇の意向の尊重を約束。当初シュヴァーベン公フィリップを支持していたボヘミア王オタカル1世からの支持も取り付けた。またデンマークヴァルデマー2世からの支持も、オットーの正当性をより強固なものにしていた。

  • しかしシュヴァーベン公フィリップはオットーの支持者との戦闘で勝利を重ね、1204年ケルン大司教からローマ王冠を戴冠された。同年イングランドがフランスとの戦闘に敗れたため、イングランドからの資金援助を絶たれたオットーは苦境に陥り、兄のハインリヒを含めた多くの諸侯がフィリップに味方。さらにオットーはヴァッセンベルク近郊の戦い1206年7月27日)でフィリップ軍に敗れて負傷し、教皇庁も内戦で優位に立つフィリップの支持に回った。こうしてフィリップは事実上のローマ王となり、オットーブラウンシュヴァイク近郊の居城に退去を余儀なくされる。

  • インノケンティウス3世の仲介でオットーフィリップケルンで交渉を行い、フィリップオットーにローマ王位請求権の放棄と引き換えに、フィリップの娘ベアトリクスとの結婚、シュヴァーベン公位、莫大な補償金の支払いを提示した。オットーフィリップの提案を拒否し、再び内戦が勃発しようとしていたが、1208年6月8日フィリップは個人的な怨恨が原因で暗殺される。

  • フィリップの死後、オットーはシュタウフェン家との関係を改善してベアトリクスと結婚するが、フィリップの遺領であるシュヴァーベン地方の人間はザクセン地方出身のオットーを「よそ者」と認識していた。フィリップの暗殺後にインノケンティウス3世は帝国諸侯にオットーの支持を呼びかけ、長く続く内戦に疲弊した諸侯たちはオットーの即位に同意した。1208年11月11日フランクフルトで行われた皇帝選挙においてオットーは帝位の世襲を行わないことを宣言し、選帝侯全員からの支持を得た。

インノケンティウス3世とも和解を果たしたオットーローマ皇帝への即位の準備に取り掛かった。1208年オットーヴェローナモデナボローニャを経由してミラノに到着し、同地でロンバルディアの鉄王冠を戴冠され、「イタリア王」の称号を帯びた。1209年3月にはシュパイアーで以下の事項を記した特許状を発布し、インノケンティウス3世に対して教皇の権威に服することを誓約した。

  • マティルデ・ディ・カノッサの遺領を含む教皇領の回復
  • シチリア政策における教皇の意向の尊重
  • レガーリエンレヒト(司教の空位期間中、司教が置かれていない空の司教区から上がる収入を王が徴収する権利)の放棄
  • シュポーリエンレヒト(死去した司教が有していた動産に対する王の権利)の放棄
  • 教会法(カノン法)に基づく司教の選出

オットーはローマ近郊のヴィテルボインノケンティウス3世と面会し1209年10月21日サン・ピエトロ大聖堂ローマ皇帝に戴冠されたが、戴冠式を前にしてローマではオットーを追放する暴動が起きていた。

  • 即位前に教皇と交わした数々の誓約を遵守する意思は、オットーにはおそらく皆無であった。ローマを発ったオットーは北に進み11月20日ピサ到達。ピサで出会ったアチェッラ伯ディーポルトシチリア王国に臣従するアプーリアの封建貴族からの嘆願を受けてシチリア遠征を決定。

  • アンコーナスポレートから教皇の軍隊が追放され、2つの町は帝国の領地に編入された。さらにハインリヒ6世の遺児シチリアフリードリヒ2世に臣従を誓うことを求め、フリードリヒが要求を拒むと領地没収を宣告。ローマに進軍しインノケンティウス3世ヴォルムス協約の取り消しと聖職者の叙任権の付与を要求。

    さらには北イタリア都市国家群形成の契機となった「カノッサの屈辱事件(1077年)」にカノッサ城所有者として巻き込まれた三人目のマティルダトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサMatilde di Canossa, 1046年?~1115年)が登場…

  • 1210年11月にはフリードリヒ2世が支配するシチリア王国の遠征に向かう。インノケンティウス3世はオットーの振る舞いに激怒し11月18日オットーに破門を宣告したが、この頃ローマ帝国諸侯達もオットーへの不満を募らせていた。抗争の間も教皇側から交渉の申出があったが、勝利を確信していたオットーは妥協を示さずインノケンティウス3世は反ヴェルフ派の諸侯に新たなローマ王の選出を認める。1211年オットーマインツ大司教マクデブルク大司教らの諸侯とともに南イタリアに駐屯していたころ、インノケンティウス3世の承認とフランス王フィリップ2世の支援を受けた諸侯がニュルンベルクフリードリヒ2世を新たなローマ王に選出。

  • オットーは窮地から脱する為、イタリアから帰国。ローマの諸侯と高位聖職者の多くが自分を敵視し、イタリアにいたはずのフリードリヒが警戒網を潜り抜けてアルプス山脈を越えコンスタンツに到着した事を知る。
  • オットーがイタリアから帰国して間もなくベアトリクスが没し、フリードリヒ2世ローマ帝国へ来ることを知ったバイエルンシュヴァーベンの従士達はオットーの元から離れていった。1212年12月5日多数の選帝侯から支持されたフリードリヒ2世が改めてローマ王に選出される。ローマ王位を巡るオットーフリードリヒ2世の争いは膠着し、この内戦の背後にいるフランス王フィリップ2世オットーの叔父でもあるイングランドジョンとの関係にも影響を及ぼした。

  • 1213年イングランドによるフランス艦隊の撃破はジョンによるフランス遠征の準備の始まりであり、オットーはフランス内のフリードリヒ2世の支持者を攻撃し、自らの威信を高めていた。1214年2月ロワール川を渡るジョンと呼応したオットーフランドル地方に進軍。フランドル伯フェランと合流してフィリップ2世を挟撃する計画が立てられた。
    オットーフェラン支配下に置かれているエノー地方ヴァランシエンヌ城に入り、イングランドから派遣された騎士・戦士を加えてフランスに進軍。1214年7月27日ブーヴィーヌオットージョンらの連合軍とフランス軍が激突するも戦闘はフランス軍の勝利に終わった(ブーヴィーヌの戦い)。オットーは戦闘中にフランスのピエール・モーヴォワザンジラール・ラ・トリュイらに肉迫され、乗馬が負傷したために逃走したと伝えられている。この敗戦により、ローマ王位を巡るオットーの敗北が決定づけられ、かつこの戦闘でローマ帝国を象徴する「金色の鷲」がフランス軍の手に渡りフィリップ2世からフリードリヒ2世に送られたと言われている。

  • 第4ラテラン公会議(1215年)の開催前、ミラノから派遣されたオットーの使者は破門の解除を嘆願した。使者はオットーが罪を悔悟していることを弁明し、教皇に一切の服従を誓うことを約束したが、既にインノケンティウス3世フリードリヒ2世を新たなローマ王にすることを決めていた。1215年オットーローマ皇帝位を断念する。

  • オットー自身は本拠地ブラウンシュヴァイクへの撤退を余儀なくされ、フリードリヒ2世アーヘンケルンを獲得。以降、オットーは没するまでブラウンシュヴァイクから出ることがほとんど無かった。1218年5月19日にハルツ城で赤痢により死去。死の間際に改めて破門の解除を懇願した。オットーの遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬された。

    中世においては、神聖ローマ皇帝と争ったハインリヒ獅子公の拠点となった。その子孫が治めたブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国ではリューネブルクと並ぶ主要都市であり、17世紀よりブラウンシュヴァイク公国の都となり、第一次世界大戦後はブラウンシュヴァイク自由州の州都となった。第二次世界大戦後、イギリスの占領統治を経てニーダーザクセン州に属することとなった。

  • 頑強な長身の体躯を持つ、強情かつ傲慢な性格の人物と伝えられている。ウルスベルク年代記では「傲慢で愚かだが、勇敢さを持った」人物と述べられている。ミンネゼンガー吟遊詩人)のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、「彼が自分の背丈ほどの寛大さを持っていれば、より多くの美徳が備わっていただろうに」と揶揄した。また、吝嗇とも言えるほどの倹約家だと伝えられている。

    初期シュタウフェン朝時代の紛争解決と政治秩序 - 国王
    と「ヴェルフェン家」の対立をめぐって

ベアトリクス死去後の1214年4月19日ブラバント公アンリ1世の娘マリアと再婚したが、2度の結婚で子がなかった為に甥のオットー1世が遺領を継いで(現在の英国王党ハノーファー=ウィンザー家の大源流たる)ブラウンシュヴァイクリューネブルクの祖となった。

 とりあえず、以下続報…