エルサレム王国(Regnum Hierosolimitanum, 1099年~1291年) - Wikipedia
11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。
ローマ教皇の呼びかけに応えて聖地エルサレムへ向かった第1回十字軍(1096年~1099年)は、1099年にエルサレムを占領し、十字軍の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンが「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ(聖墓の守護者)」に任ぜられた。これはゴドフロワが、キリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。
ブローニュ伯ウスタシュ2世と妃イド・ド・ブローニュの次男として生まれ、母方の伯父の下ロートリンゲン公ゴドフロワ4世の跡継ぎとされた。1076年にゴドフロワ4世は亡くなったが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、当初ゴドフロワ・ド・ブイヨンの相続を認めなかった。叙任権闘争の過程皇帝の側に立って戦ったり、イタリア遠征(1081年~1084年)に参加したこともあり、1087年になってようやく承認され、下ロートリンゲン公に授封された(在位1087年~1100年)。
- ブローニュ…ドーバー海峡に面した北フランス沿岸の領邦。
- 下ロートリンゲン…そもそもロタリンギア地方そのものがカロリング朝フランク王国分裂時の西フランク王国と東フランク王国の緩衝地帯として登場。以降もフランス王国と神聖ローマ帝国の係争地となっていく。当時は神聖ローマ帝国の所領で959年に上下に分割され下ロタリンギア公位は12世紀ルーヴァン伯が世襲するようになり、この頃からブラバント公とも呼ばれるようになる。一方上ロタリンギア公位は11世紀~12世紀メッツ伯家(シャトノワ家)が世襲し、下ロタリンギアがブラバントと呼ばれるようになると単に「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになり1766年まで存続した。
ここに至るまでの所領争いは以下。
- 939年、ロタリンギア大公ギゼルベルトは、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立し反旗を翻したが、オットー大帝に敗れた。オットーは代わって自らの娘婿コンラート赤毛公(ザリエル家、在位940年~954年)をロタリンギア大公として送り込んだ。
- 954年コンラート赤毛公が反乱を起こすと廃位し、代わって自らの弟ケルン大司教ブルーノをロタリンギア大公とした。
- 959年、ブルーノの下でロタリンギアは上下に分割された。マトフリート家のゴドフロワが下ロタリンギア辺境伯に、アルデンヌ=バル家のフレデリックが上ロタリンギア辺境伯にそれぞれ任じられた。どちらの辺境伯も965年のブルーノの死とともに大公に格上げされた。以後、ロタリンギアはライン左岸を中心とする上ロタリンギアと、ベネルクスを中心とする下ロタリンギアの2地域に分裂していく。
- 1033年にアルデンヌ=バル家の上ロタリンギア公フレデリック3世が嗣子なく死去すると、皇帝コンラート2世はアルデンヌ=ヴェルダン家の下ロタリンギア公ゴデロン1世に上ロタリンギアをも与え、上下ロタリンギアはともにゴデロン1世が領することとなった。
- 1044年4月19日にゴデロン1世が死去した際、皇帝ハインリヒ3世はロタリンギアを再び分割し、上ロタリンギアを長子ゴドフロワ3世(髭公)に、下ロタリンギアを次子ゴデロン2世に相続させた。
- ゴドフロワ3世はこの分割相続をめぐってハインリヒ3世と争ったが、1045年降伏し、下ロタリンギア公位はアルデンヌ=ルクセンブルク家(リュッツェルブルク家)のフレデリック(フリードリヒ)に与えられた。
- ゴドフロワ3世は再びハインリヒ3世と対立し、1047年には自身の上ロタリンギア公位は剥奪され、シャトノワ家のアダルベールに与えられた。以後、上ロタリンギア公位はロレーヌ公位としてシャトノワ家が相続し、アルデンヌ家に戻ることはなかった。
- 公位を失ったゴドフロワ3世は、1054年にトスカーナ辺境伯ボニファーチオの未亡人ベアトリクスと結婚、1057年には弟フリードリヒが教皇ステファヌス10世となり、さらに弟の死後は次期教皇の選出に関与するなど権力を維持し、1065年には下ロタリンギア公位を与えられた。以降、下ロタリンギア公位はアルデンヌ=ヴェルダン家の血縁によって相続されていった。
下ロートリンゲン公ゴドフロワ4世は、このゴドフロワ3世の息子である。
ゴドフロワはエルサレムを拠点に残存するムスリム勢力の駆逐や農村の襲撃を行ったが、1100年にエルサレムで没した。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。こうして十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。
- エルサレム王は当初は十字軍によって征服されたエデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯領といった十字軍国家に対する宗主権も有していた。イタリアの都市国家であるヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサがヨーロッパとの海上交通や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事した。
元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国はそれを反映し、お互いに対立していた。
エデッサ伯領(ブローニュ伯など北フランス諸侯)
アンティオキア公国(南イタリアのノルマン人諸侯)
さらに現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者がイスラム教徒との戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。
- 当初はエルサレム王国は近隣のムスリム都市ダマスクスと協力し、聖地騎士団の活躍により何とか領土を維持していた。
- ところが1144年にセルジューク朝の武将ザンギーにエデッサ伯領を奪回され、これに対して派遣された第2回十字軍(1147年~1148年)はよりによってダマスクスを攻撃して失敗し、かえってザンギーの息子ヌールッディーンがダマスクスを支配下に置くのを助けてしまう。
- その後は弱体化したエジプトのファーティマ朝を標的に定めるがヌールッディーンの部将シール・クーフに阻まれ、結局エジプトはシール・クーフの甥サラーフッディーンの支配下に入る。
- 一方エルサレム王国側はエルサレム王アモーリー1世が没っし、跡を継いだボードゥアン4世が病気により跡継ぎが望めず、後継をめぐって新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いが顕著になった。
- そしてヌールッディーンの遺志を継いだムスリム勢力の英雄サラーフッディーンがヒッティーンの戦い(1187年)でエルサレム王ギー・ド・リュジニャンを破り、聖地エルサレムを奪回。エルサレム王国はパレスチナの海岸部に追い詰められ、第3回十字軍(1189年~1192年)が駆けつけたが、聖地再占領はできなかった。
- その後第6回十字軍(1228年~1229年)においてシチリア王国に育ちアラビア語に堪能な異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉によってエルサレムを回復したが、1244年にはそれも失われた。
以降もパレスチナの十字軍国家は、エジプトのアイユーブ朝にアッコン港周辺に追い詰められながら、エルサレム王国の名で存在し続けたが、第7回十字軍(1248年~1254年)や第8回十字軍(1270年)における十字軍の働きが余りにも不甲斐なかったせいもあって強気になったエジプトのマムルーク朝によって1291年にアッコンが陥落し、完全に滅亡した。
1099年に創設されたエルサレム王国の十字軍国家は、いくつかの小さな領主に分割されました。13世紀の法学者イベリンのジョンによると、固有の王国で最高の4人の冠家臣(男爵と呼ばれる)は次のとおりでした。
エルサレムの陥落過程
1174年にヌールッディーンとアモーリーが没した。
- ヌールッデーンの死去により、サラーフッディーンの勢力はエジプトだけでなくシリアにも及ぶ様になり、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。
- 一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世はらい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユ、イザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世(エルサレム王ボードゥアン2世の孫)がいた。
従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。
- 宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンのリュジニャン兄弟、トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン、旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。
- 一方、貴族派はトリポリ伯レーモンを中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン・ディブランなどのイブラン一族が加わっていた。
1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世とトリポリ伯レーモンのバランスを取りながら国政を運営し、シビーユにモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。戦況はモントジザールの戦い(1177年)でサラーフッディーンに勝利したもののマルジュ・アユーンの戦い(1179年)ヤコブの浅瀬の戦い(1179年)以降しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。
- 貴族派は、シビーユとボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユをギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルをルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワと結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモンや勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。
- 1183年にルノー・ド・シャティヨンの挑発に怒ったサラーフッディーンが、ルノー・ド・シャティヨンの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモンを摂政とした。
- 1185年にボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。
- 貴族派を中心に諸侯は、シビーユ即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対し、トリポリ伯レーモン、ボードゥアン・ディブランなどの貴族派はイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワが寝返って失敗に終わった。
- 反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノー・ド・シャティヨンと組み、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めた。1186年休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラーフッディーンの捕虜解放交渉はギーとルノーに無視され、ここに休戦は破れた。
トリポリ伯レーモンはサラーフッディーンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモンに対してサラーフッディーンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモンは屈してギーと妥協しヒッティーンの戦い(1187年7月4日)でサラーフッディーンと激突したが、十字軍は大敗し、ギー、ルノー、テンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。
- サラーフッディーンはモンフェラート侯コンラードが守るティールを除くアッコン、ナビュラス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。
- エルサレムにはバリアン・ディブランの他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラーフッディーンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行ったが衆寡敵せず、間もなく降伏。
1187年10月2日に開城したが、サラーフッディーンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。
イブラン家(Ibelin)は、中世エルサレム王国領内のイブラン城から名前を取った貴族で、十字軍時代のエルサレム王国、キプロス王国において重臣として活躍した。
- 初代バリサン(不明 - 1150年)の出自は明らかでは無いが、その名前からイタリア系の下級貴族で第1回十字軍(1096年~1099年)か、その後に聖地に行ったと考えられ1110年代にヤッファ伯の臣下としてヤッファの警備隊長になっている。
- 1122年にラムラの女相続人と結婚し、同地の領主となった。ヤッファ伯ユーグの反乱の際にはこれに従わず、1141年にエルサレム王フールクから褒美としてイブラン城を与えられており、これが後に家名となった。
ギー・ド・リュジニャンのクーデター- バリサンの息子がユーグ(1130年頃~1169年)、ボードゥアン(1130年中頃~1187年頃)、バリアン(1140年頃~1193年)で、ユーグはエルサレム王ボードゥアン4世の母アニエス(アモーリー1世の最初の妻)と結婚し、バリアンはマリア・コムネナ(アモーリー1世の2番目の妻)と結婚するなど勢力を拡大している。また、ボードゥアンは王女シビーユ(アニエスの娘)との婚姻話があったが、宮廷の派閥争いの影響で取り消され、シビーユはギー・ド・リュジニャンと結婚することになる。
- 1187年のエルサレム落城の際には、バリアンが指導者として籠城、開城の指揮を取った。エルサレム王国がアッコンに移動後も、バリアンは継子のイザベル1世を女王に立てて、実力者として君臨し、その子孫はアッコン、キプロスで繁栄した。
- キプロス王国においては、代々王族と婚姻を結ぶなど主要な貴族として支配層を形成したが、1464年キプロス王国がヴェネツィア共和国に奪われると没落し、その後は歴史から姿を消した。
映画「キングダム・オブ・ヘブン(Kingdom of Heaven、2005年)」の主人公はバリアン・オブ・イベリン(ディブラン)で上記のバリアンの名前を借りているが、エルサレム籠城の件以外はほとんどがフィクションである。
コンラート1世(Conrad I, 1146年~1192年)は、イタリアでも名族で知られたモンフェッラート侯アレラーミチ家の出身。
エルサレム王即位直前に暗殺教団の凶刃に倒れた第3回十字軍(1189年~1192年)側の英雄の一人。通称はコンラドで、その武勇はイスラム側からはアル・マルキシュの名で恐れられていた。
- 1179年、モンフェラート侯爵と当時の東ローマ帝国皇帝・マヌエル1世コムネノスとの同盟に基づいて軍を率いて出征し、帝国の内乱を鎮圧した。智勇兼備の名将であったことから恐れられたが、この頃に東ローマ帝国は次々と皇帝が変わり、1185年に即位した皇帝イサキオス2世アンゲロスがとりわけ暗愚なために帝国の内乱は増える一方だった。
- 1186年冬、イサキオス2世アンゲロスは彼に自分の姉テオドアを妻とするよう要請し、このころ東ローマを去って十字軍に加わろうと考えていたコンラドもこれを受け入れた。1187年春に結婚式がコンスタンティノープルで行われ、このことで家格もその存在も一段と高まった。結婚後すぐさまアレクシオス・ブラナス将軍の反乱の鎮圧に向かい、将軍を殺して反乱を収束させた。
かねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった事からコンスタンティノープルを去り、1187年7月にエルサレム王国に移って港湾都市ティルス(ティール)の守りを任される。
- おりしも、アイユーブ朝のサラディンによる地中海沿岸諸都市の陥落とヒッティーンの戦い(1187年7月4日)でのエルサレム王国軍の大敗によって、首都エルサレム陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。
- エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王のギー・ド・リュジニャンが捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく。
- 1189年、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆にヒッティーンの戦い(1187年7月4日)における敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者のシビーユの入城を拒んだが、ギーとはアッコンの港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。
- 包囲戦の最中の1190年にシビーユとその娘たちが病死すると、王位継承をめぐるギーやその他貴族たちとの争いに巻き込まれた。各地でアイユーブ軍を撃退して勇名を馳せたこと、その家格などから支持を集めるようになったのである。本国の親戚たちの助けも借り、エルサレム国王アモーリー1世の娘で、シビーユとは母違いの妹にあたる王位継承者イザベル1世と結婚。この時、以前結婚したテオドアがまだ生きていたため重婚の疑いもかけられたが、戻ってこない彼に対する離婚の申し出が東ローマの方からあったとも見られ、さほど大きな問題とはみなされていなかったようである。こうして王となる資格を手に入れたが、なおもギーらが反対しておりエルサレム王に即位することは出来なかった。
第3回十字軍(1189年~1192年)が開始されると合流し、ティルスの港を大軍の上陸拠点として提供した。この十字軍はリチャード1世(イギリス王、獅子心王)とフィリップ2世(フランス王、尊厳王)が対立していた為に連携行動が取れず連戦連敗し、シリアにおいてもティルスを除いた都市全てがサラディンに奪われるなど不利な状況に陥ったがコンラドはリチャード1世とともにアッコン攻撃を強め、1191年7月に陥落させて城にエルサレム王国の旗を立てた。
- 十字軍に参加した騎士たちは、仲間内で対立を続けているリチャード1世やフィリップ2世より、コンラドを十字軍の指導者にすべきと求め始める。またエルサレム王としての即位とエルサレム王国の復活も諸侯から認められることとなった。これに対してリチャード1世は反対し、家臣の一人を王の対立候補として挙げようとしたが、コンラドに出会ってその人格を知ると、王位継承を承認したと言われている。
- しかしコンラドの存在は、サラディンをはじめとするイスラム側にとっては脅威でしかなかったし、ギーやリチャード1世をはじめとして十字軍内部や王国内部にエルサレム王位を巡る敵が多かった。そしてイスラム側か十字軍側か誰の依頼によるものかは今でも不明だが、1192年4月ニザール派(暗殺教団の別称があった)がコンラドの暗殺を計画し、エルサレム王として即位する直前にニザール派の刺客が暗殺に成功する。
コンラドとイザベル1世の娘マリーアは、後にイザベル1世の後を継いでエルサレム女王となり、ジャン・ド・ブリエンヌと結婚した。弟のボニファーチョはモンフェラート侯を継いで第4回十字軍(1202年~1204年)に参戦する事になる。
ジャン・ド・ブリエンヌ(1148年~1237年)は、エルサレム王(在位1210年~1212年)及びラテン帝国第6代皇帝(在位1231年~1237年)。
- もとはフランスのシャンパーニュの騎士であったが、フランス王フィリップ2世の命を受けて60歳のとき第3回十字軍(1189年~1192年)に参戦してシリアで活躍。その功績から1210年9月14日エルサレム王国王女マリー(エルサレム王コンラードの娘)と結婚し、エルサレム王に即位した。 マリーが1子イザベルを残して死ぬと、アルメニア王レオ1世の娘ステファニーと結婚した。
- 即位後は衰退傾向にあるエルサレム王国の再建に努め、第5回十字軍(1218年~1221年)にも参戦して主要な役割を果たした。この十字軍は一時エジプトに侵攻し、ナイル河口の海港ダミエッタを占領。エジプトを支配するアイユーブ朝君主アル=カーミルは、ダミエッタとエルサレムの交換による和議を提案したが、教皇代理として参戦していた枢機卿のペラーヨやジェノヴァ勢らの反対もあり、この和議は実現されなかった。
- 戦いは持久戦になったが、アルメニア王レオ1世が亡くなり王位争いが生じたため、1220年2月一旦戦線を離れてアルメニアに向かった。妻ステファニーと、彼女との間の息子ジャンの権利で王位を主張したが、まもなく息子ジャンとステファニーが相次いで亡くなったため王位を諦め、再び十字軍に合流。
- 1221年アル=カーミルはナイル川の堤防を切って下流を水浸しにし、ダミエッタを孤立させた。十字軍は兵糧不足と疫病の蔓延などで危機に陥り、結局ダミエッタの返却と捕虜の交換などの条件で和睦を結び、撤退することになった。
- 十字軍失敗後、エルサレム王国への支援を求めるため、およびマリーとの間に生まれた娘イザベルの夫を探すため西欧に渡った。ローマで教皇ホノリウス3世からはイザベルの相手として神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が提示された。教皇はこの結婚によりフリードリヒ2世の十字軍参加を確実なものにしようとしたのである。この結婚交渉の段階では、フリードリヒ2世はジャンが終生エルサレム王位にとどまることに同意していたが、結婚式当日からフリードリヒ2世はエルサレム王を名乗り、ジャンは退位を余儀なくされた。
1228年フリードリヒが第6回十字軍(1228年~1229年)を起こして聖地に向かうと、破門されていたフリードリヒによる十字軍を否定する教皇グレゴリウス9世の支持のもと、教皇軍を率いて南イタリアのフリードリヒの領土に侵攻。しかしフリードリヒがアル=カーミルとの間で和議を成立させ、エルサレムを奪還したのち南イタリアに帰還すると、劣勢になり、第4回十字軍(1202年~1204年)が東ローマ帝国を一時的に滅した後に建国したラテン帝国に逃れた。
- 1229年ラテン帝国の摂政となり、3番目の妻ベレンガリア(レオン王アルフォンソ9世とカスティーリャ女王ベレンゲラの娘)との間に生まれた娘マリーをラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーと結婚させた。1231年には、まだボードゥアン2世が15歳という少年であったことから共同皇帝として即位し、政治を取り仕切る立場に立った。
1235年~1236年にかけて、ニカイア帝国のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとブルガリア帝国の連合軍に首都コンスタンティノポリスを攻められて滅亡の危機を迎えたが、防衛に徹し、ラテン帝国の危機を救った。翌年、90歳という高齢で死去。
ここで興味深いのが、かつて地中海を席巻したフェニキア商圏との地名の重なり…ギリシャ海商に東地中海沿岸貿易を奪われたテュルスやシドンといったフェニキア系諸都市は、アケメネス朝ペルシャの後援を得てシチリア島の覇権を争った訳ですが…十字軍国家はアッコン(アッコ)を新たな拠点に育て、これが現在のイスラエルに継承される訳です。おやまぁ、何とややこしい…