「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ヨーロッパ文明とイスラム文明の結節点」キプロス島

オリエントにおけるその歴史は、何と「紀元前1200年のカタストロフ」期まで遡り、しかも一般に「暗黒時代」といわれるこの時期からの(特にギリシャ人の)復興の最重要拠点になったと目されているのです。

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先史時代から文明があったと考えられている。また、地中海貿易の中継点として栄えた。

現存する最古の支配記録は、アッシリアによって支配されたキプロスを示す粘土板である。また、1845年キプロスで発見された石碑は、最初の紀元前709年の戦いでサルゴン2世が勝利したことを記念するもので、紀元前669年頃独立を果たしたが、後に古代エジプト王国に征服された。

紀元前1200年のカタストロフ - Wikipedia

キプロス島の繁栄

キプロス島も海の民の侵入を受けたが紀元前12世紀中には復興して躍進したことが考古学的調査から明らかになっており、港町エンコミキティオンでは大掛かりな建築物が構築されるまでに至っていた。キプロスで採掘される銅は精錬されエジプトシリアへ送られていることも明らかになっている。

レヴァントと商業的、文化的に密接に結びついており、エンコミキティオンではオリエント的影響を受けた建築物、神殿の奉納物が発見され、また、キプロスで発見される土器もシリアパレスチナのものが多い。このことからキプロス島ペリシテ人らのと間に密接な文化的つながりがあったことが以前より注目されており、このつながりが取引のネットワークと化し、紀元前11世紀後半にはフェニキアペリシテ人らとの間で商業取引が行われたことが想像されている。

宗教史的には(元来はシリアにおいてアドニスとセットで豊穣の女神として信仰されていたと目されているアプロディテ信仰が、この地を介してギリシャコリントス中心に展開したドーリア人商業圏)やイタリア半島エトルリア人(羅Etrusci)文化圏や古代ローマ(羅Roma antiqua)文化圏)に伝わる過程で(フェニキア商圏における信仰フォーマットにそぐわない)「アプロディーテー・ウーラニアー純粋な愛情を象徴する天上の女神で、航海の安全を祈る商人信仰に由来)」=「アプロディーテー・パンデーモス凡俗な肉欲を象徴する大衆の信仰対象で豊穣を司る地母神的側面に対応)」二重信仰に発展した事が重要である。

ヘーシオドス『神統記』によれば、クロノスによって切り落とされたウーラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス、aphros)から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた西風が彼女を運び、キュテラ島に運んだ後、キュプロス島に行き着いたという。

キュプロス島アプロディーテーのあいだには本質的な連関があり、女神が最初にキュプロスに上陸したというのは、アプロディーテーの起源とも密接に関係する。

 

 

ローマ神話によれば、たびたび「その魔法の宝帯に「愛」「憧れ」「欲望」が秘められており、自らの魅力を増し、神や人の心を征服することが出来るアプロディーテーによって人間の女を愛する羽目に陥ったゼウスが逆襲としてこの女神にも人間へ愛情を抱くよう画策。その結果、トロイアの王子アンキーセースと恋に落ち、臥所を共にした結果生まれたのが帝政ローマ初代皇統ユリウス家の祖先アイネイアースであったとされる。 詩人ウェルギリウスが執筆した「最後にして最大の作品にしてラテン文学最高傑作叙事詩アエネーイス(Aeneis, 紀元前29年~紀元前19年, 未完。最終場面を書き上げる前に没っする事が確定した時点で著者はこの草稿の焼却を望んだが、アウグストゥスが許さなかった為に世に出た。以降執筆されたラテン文学で、この作品を意識していないものはないとまでいわれる)」は、この流れのとりあえずの最終到達地点ではあったといえよう。

紀元前545年頃、アケメネス朝ペルシャ帝国に征服された。ペルシア支配下で、フェニキア商人が幾つかの植民都市を設立している。

ローマ帝国が東西に分裂した後はは東ローマ帝国支配下に置かれる様になる。

  • アラブ人とイスラム教徒は650年代に大挙してキプロスに侵攻したが、688年ユスティニアヌス朝東ローマ帝国第3代皇帝ユスティヌス2世在位565年~578年,先帝時代最大版図に達した領土の維持費による財政破綻に悩まされた)と、ウマイヤ朝第5代カリフアブドゥルマリク(在位685年~705年, ウマイヤ朝中興の英主とされる)との間で前代未聞の協約が締結された。協約内容は、今後300年間、本土での両国の戦争に関わらず、キプロス島は両国による共同統治体制におかれ、税収は両国で折半になるというものだった。
  • しかしマケドニア王朝東ローマ帝国初代皇帝バシレイオス1世在位867年~886年)の治世、東ローマ帝国によって再征服されてテマ制が敷かれ、7年後再び共同統治体制下におかれることとなる。

  • しかしまたもやキプロス島東ローマ帝国に肩入れされてしまい、これを見かねたアラブ側は4ヶ月にわたって島を荒らし周り、捕虜を取って去っていった。
  • 以降はギリシア文化圏から孤立し新たなキプロス文化圏を構築するに至り10世紀頃までイスラム圏におかれることとなった。  
  • 965年前後、再びキプロス東ローマ帝国の将軍ニケタス・カルコテスの下征服され新たにテマが置かれた。将軍ニケタスのこの遠征について詳細は不明だが、彼はその後キプロスの統治者となった。
  • 1042年にはキプロスの統治者テェフィロス・イロティコスが、1092年にはラプソマトが帝国に反乱を起こしたが、帝国軍による早急な対処により鎮圧された。
  • 1185年キプロスの最後の東ローマ系の統治者であるイサック・コメノス(傍流の東ローマ系の皇族コムネノス家出身)が反乱を起こし、東ローマ帝国の帝位を奪おうとした。彼のクーデターは失敗したものの、キプロス島統治は続ける事が許された。

この反乱に対して東ローマ帝国が上手く対処出来なかったのは、反乱軍がシチリア王国の国王グリエルモ2世と手を組んでいたからである。なのでローマ皇帝はエジプトのスルタンと共謀し、キプロスの港に十字軍の軍船が入港できないよう妨害工作を依頼した。

キプロス王国(Royaume de Chypre, 1192年~1489年) - Wikipedia

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中世キプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍1189年~1192年)の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家エルサレム王国の末裔が統治した。

1194年ギーが没すると、エルサレム王国はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世在位1192年~1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。

東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアやエジプトを襲っている(1344年のスミルナ十字軍、1365年のアレクサンドリア十字軍など)。一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていく。

  • 中でもヴェネツィア貴族のコルナーロ家との関係は厚く、その支援に対して度々特権を付与することが行われた。また1464年に王位に就いたジャック2世はその即位前に異母妹と王位を巡って争ったが、この時もヴェネツィアからの支援を受けてこれに勝利し、コルナーロ家の娘カタリーナを妻に迎えている。
  • しかしジャック2世は後継者の男子を得て程なく病死し、ジャック3世となったその男子も夭折するとカタリーナが女王となり、その16年後1489年に彼女はキプロスを自らの祖国であるヴェネツィアに譲り、ここにキプロス王国はその幕を閉じた。

その後キプロス島1571年オスマン帝国により陥落する。レパントの海戦で勝利するも、キプロス奪還には失敗。

以下続報…