オリエントにおけるその歴史は、何と「紀元前1200年のカタストロフ」期まで遡り、しかも一般に「暗黒時代」といわれるこの時期からの(特にギリシャ人の)復興の最重要拠点になったと目されているのです。
先史時代から文明があったと考えられている。また、地中海貿易の中継点として栄えた。
- 西部キプロスの考古学者によって発見された井戸は、石器時代に約9000年~10500年前からデート、世界で最も古い井戸であると考えられているものである。
- 青銅器時代末期には、ギリシャのミケーネ人がイオニア人に追われ、キプロスに居住するようになりその事実は紀元前15世紀のB級線形文字で裏付けられる。
- 後期青銅器時代にはヒッタイト帝国の一部であったが侵略された形跡はなく、ウガリット支配下の地域として帝国の一部となっていたものと推測されている。
現存する最古の支配記録は、アッシリアによって支配されたキプロスを示す粘土板である。また、1845年にキプロスで発見された石碑は、最初の紀元前709年の戦いでサルゴン2世が勝利したことを記念するもので、紀元前669年頃独立を果たしたが、後に古代エジプト王国に征服された。
キプロス島の繁栄
キプロス島も海の民の侵入を受けたが紀元前12世紀中には復興して躍進したことが考古学的調査から明らかになっており、港町エンコミ、キティオンでは大掛かりな建築物が構築されるまでに至っていた。キプロスで採掘される銅は精錬されエジプトやシリアへ送られていることも明らかになっている。
レヴァントと商業的、文化的に密接に結びついており、エンコミ、キティオンではオリエント的影響を受けた建築物、神殿の奉納物が発見され、また、キプロスで発見される土器もシリア、パレスチナのものが多い。このことからキプロス島とペリシテ人らのと間に密接な文化的つながりがあったことが以前より注目されており、このつながりが取引のネットワークと化し、紀元前11世紀後半にはフェニキア人とペリシテ人らとの間で商業取引が行われたことが想像されている。
キプロス島とドーリア商圏はエウボイア島のギリシャ人植民市経由で結ばれていた。
また「キプロス島に渡ったエウボイア人は、もともと島に伝わっていた豊穣多産の女神を愛と美の女神アフロディーテとして彼らの神話に取り込んだ」という話もある。
宗教史的には(元来はシリアにおいてアドニスとセットで豊穣の女神として信仰されていたと目されている)アプロディテ信仰が、この地を介してギリシャ(コリントス中心に展開したドーリア人商業圏)やイタリア半島(エトルリア人(羅Etrusci)文化圏や古代ローマ(羅Roma antiqua)文化圏)に伝わる過程で(フェニキア商圏における信仰フォーマットにそぐわない)「アプロディーテー・ウーラニアー(純粋な愛情を象徴する天上の女神で、航海の安全を祈る商人信仰に由来)」=「アプロディーテー・パンデーモス(凡俗な肉欲を象徴する大衆の信仰対象で豊穣を司る地母神的側面に対応)」二重信仰に発展した事が重要である。
ヘーシオドス『神統記』によれば、クロノスによって切り落とされたウーラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス、aphros)から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた西風が彼女を運び、キュテラ島に運んだ後、キュプロス島に行き着いたという。
キュプロス島とアプロディーテーのあいだには本質的な連関があり、女神が最初にキュプロスに上陸したというのは、アプロディーテーの起源とも密接に関係する。
- ギリシャ(アテナイ)悲劇においてアプロディテがもっぱら悪役としてしか登場しないのは、この女神が「(ペロポネソス戦争においても経済封鎖によって最もアテナイ人を苦しめた)アテナイ海上帝国最大のライバル」コリントスの守護神だったから。
- その反動からかむしろ(アテナイがペロポネソス戦争に敗北した)プラトン以降の時代には、その形而上学的崇高性を過剰に称賛される様になっていくが、帝政ローマ時代には次第に古代エジプトにおける(「冥界神オシリスの配偶者にして地上におけるその権限の代理人」なるその立場が、ギリシャ神話における「冥界神オシリスの配偶者にして豊穣神話において「(その生涯の半分を地上、半分を地下で過ごす)種」の役割を担う」ペルセポネーと重なる)イシス信仰との区別がつかなくなっていく。
*「航海の守護神」…アジアでいうとヒンドゥー教の河神サラスヴァティーや日本の銭洗弁才天(梵、巴: Sarasvatī、巴: Sarassatī)概念に対応。むしろ市場貨幣経済や資本主義的現実に直結し、それほど形而上学的崇高性と結びつけて語られる事はない。
ローマ神話によれば、たびたび「その魔法の宝帯に「愛」「憧れ」「欲望」が秘められており、自らの魅力を増し、神や人の心を征服することが出来る」アプロディーテーによって人間の女を愛する羽目に陥ったゼウスが逆襲としてこの女神にも人間へ愛情を抱くよう画策。その結果、トロイアの王子アンキーセースと恋に落ち、臥所を共にした結果生まれたのが帝政ローマ初代皇統ユリウス家の祖先アイネイアースであったとされる。 詩人ウェルギリウスが執筆した「最後にして最大の作品にしてラテン文学最高傑作」叙事詩「アエネーイス(Aeneis, 紀元前29年~紀元前19年, 未完。最終場面を書き上げる前に没っする事が確定した時点で著者はこの草稿の焼却を望んだが、アウグストゥスが許さなかった為に世に出た。以降執筆されたラテン文学で、この作品を意識していないものはないとまでいわれる)」は、この流れのとりあえずの最終到達地点ではあったといえよう。
エジプトのプトレマイオス朝の支配を経て紀元前58年ローマ領となったこの地を使徒パウロやバルナバスが訪れている。115~117年ローマに対するユダヤ人の反乱および地震で破壊されたが4世紀頃にローマ皇帝コンスタンチヌス2世が再建しコンスタンチーナと命名した。 647年アラブの侵入後,衰退。ローマ時代の広場や水道の遺跡が現存する。
一方、テッサロニキやコリントスやリビアのキレネ同様、1世紀~2世紀にかけてキリスト教の布教が真っ先に成功した地域として知られています。
キプロス島北部の古代主要都市。エジプトのプトレマイオス朝の支配を経て,紀元前58年にローマ領となったが、この地を使徒パウロやバルナバスが訪れている。 115年~117年ローマに対するユダヤ人の反乱および地震で破壊されたが,4世紀頃にローマ皇帝コンスタンチヌス2世が再建,コンスタンチーナと命名した。
波乱の歴史の一環…
紀元前545年頃、アケメネス朝ペルシャ帝国に征服された。ペルシア支配下で、フェニキア商人が幾つかの植民都市を設立している。
- これに続いて、アレクサンドロス大王の帝国とプトレマイオス朝エジプト王国が支配した。そして紀元前58年までに支配権がプトレマイオス朝エジプト王国のファラオプトレマイオス12世から古代ローマに移りローマ属州(キュプルス属州)となった。
- 115年(または116年)にユダヤ人の反乱が発生したが、ローマ軍が鎮圧。
- 4世紀初頭のいくつかの地震がサラミス破壊につながったと同時にキプロス島をも干魃や飢饉で苦しめた。
ローマ帝国が東西に分裂した後はは東ローマ帝国の支配下に置かれる様になる。
- アラブ人とイスラム教徒は650年代に大挙してキプロスに侵攻したが、688年ユスティニアヌス朝東ローマ帝国第3代皇帝ユスティヌス2世(在位565年~578年,先帝時代最大版図に達した領土の維持費による財政破綻に悩まされた)と、ウマイヤ朝第5代カリフアブドゥルマリク(在位685年~705年, ウマイヤ朝中興の英主とされる)との間で前代未聞の協約が締結された。協約内容は、今後300年間、本土での両国の戦争に関わらず、キプロス島は両国による共同統治体制におかれ、税収は両国で折半になるというものだった。
- しかしマケドニア王朝東ローマ帝国初代皇帝バシレイオス1世(在位867年~886年)の治世、東ローマ帝国によって再征服されてテマ制が敷かれ、7年後再び共同統治体制下におかれることとなる。
- しかしまたもやキプロス島は東ローマ帝国に肩入れされてしまい、これを見かねたアラブ側は4ヶ月にわたって島を荒らし周り、捕虜を取って去っていった。
- 以降はギリシア文化圏から孤立し新たなキプロス文化圏を構築するに至り10世紀頃までイスラム圏におかれることとなった。
- 965年前後、再びキプロスは東ローマ帝国の将軍ニケタス・カルコテスの下征服され新たにテマが置かれた。将軍ニケタスのこの遠征について詳細は不明だが、彼はその後キプロスの統治者となった。
- 1042年にはキプロスの統治者テェフィロス・イロティコスが、1092年にはラプソマトが帝国に反乱を起こしたが、帝国軍による早急な対処により鎮圧された。
- 1185年、キプロスの最後の東ローマ系の統治者であるイサック・コメノス(傍流の東ローマ系の皇族コムネノス家出身)が反乱を起こし、東ローマ帝国の帝位を奪おうとした。彼のクーデターは失敗したものの、キプロス島統治は続ける事が許された。
この反乱に対して東ローマ帝国が上手く対処出来なかったのは、反乱軍がシチリア王国の国王グリエルモ2世と手を組んでいたからである。なのでローマ皇帝はエジプトのスルタンと共謀し、キプロスの港に十字軍の軍船が入港できないよう妨害工作を依頼した。
キプロス王国(Royaume de Chypre, 1192年~1489年) - Wikipedia
中世キプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍(1189年~1192年)の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家エルサレム王国の末裔が統治した。
- イングランドのリチャード1世は第3回十字軍(1189年~1192年)でエルサレム王国救援に向かう途中、地中海の東ローマ帝国領キプロス島に寄港したところ(当時は皇族のイサキオス・コムネノスがキプロスに拠って反乱をおこし、帝国から自立していた)敵対関係を生じたため、この島を図らずも占領した。
- そしてリチャード1世にしてみれば別に用もない島だったので、エルサレム王ギー・ド・リュジニャン(在位1186年~1192年)にキプロス島を売り飛ばした。
- ギーはもともとフランスの騎士で、十字軍としてエルサレムに赴いた。その後、十字軍国家であるエルサレム王国の王女シビーユ(在位1186年~1190年)と結婚し、後にシビーユがエルサレム女王に即位したため、その共同統治者となった。ところが、1187年にイスラムの英雄サラーフッディーンにハッティンの戦いで敗れ、エルサレムまで奪回されティールの港に追い詰められた。リチャード1世らの来援(第3回十字軍)は、エルサレム王国救援のために派遣されていた。
- ティール港はヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサの商船が集まるレバント貿易(東方貿易)の重要港で、ティールを抑えているギーにはエルサレムを失ったとはいえ、莫大な関税収入があった(なお、この前後に女王シビーユは亡くなっていた)。ギーはサラーフッディーンに追い落とされればキプロスに逃げていくつもりだったのだろう。この島は後に十字軍国家にとって重要な後方供給基地となる。
1194年にギーが没すると、エルサレム王国はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世(在位1192年~1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。
- エメリーは1197年にエルサレム女王イサベル1世と結婚し、女王の配偶者として、エルサレム王も兼ねた。1205年エメリーが没すると、キプロスはエルサレム王国から分離し、以後300年にわたってリュジニャン王朝が支配する。
- 1291年に十字軍勢力の最後の拠点としてシリアに残されていたアッコン(アッカ)がマムルーク朝によって陥落すると、キプロスは最もシリアに近いキリスト教徒側の拠点という位置から、レバント貿易に従事する人々の間で重要性が高まった。
- この結果、キプロスを巡ってヴェネツィアとジェノヴァの間で対立が深まり、1373年にはジェノヴァの艦隊が島の南西に位置するファマグスタを占領するという事件も生じた。
東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアやエジプトを襲っている(1344年のスミルナ十字軍、1365年のアレクサンドリア十字軍など)。一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていく。
以下続報…