東地中海に位置し、エーゲ海と他の海域を隔てている島である。島は面積8,336平方キロメートル、東西260キロメートル、南北は最も長い場所で60キロメートル、東地中海の島としてはキュプロス島に次ぐ大きさを持つ。
少なくとも新石器時代には人類が居住し、紀元前3千年紀~紀元前2千年紀にミノア文明が栄えた。
紀元前20世紀にはクレタ島にミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀前後にクレタ島を占領した。
ちなみにクレタ文明を残した民族は未だ不明点が多いもののアナトリア半島から移住してきた人々と目されており、キプロス島の産する銅などの交易を巡ってイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)にアモル人が建てたメソポタミア諸都市(特にマリ)や異民族ヒクソスの建てたエジプト第15王朝(紀元前1663年頃~紀元前1555年頃)、そしてさらには恐らく古代リデュア人(アフリカ北岸にいたベルベル人諸族)とも交流があった。そして紀元前1600年頃~紀元前1400年頃ミケーネ文明に征服され、以降はミケーネ文明がエーゲ文明の主役に躍り出る。
古代ギリシア時代/ヘレニズム時代
辺境ではあるものの「100の都市を持つ」と謳われるほど多くのポリスがクレタ島内に形成され、ヘレニズム時代には傭兵と海賊の島として広く知られた。
紀元前1世紀にローマの支配下に入ると、クレタ・キュレナイカ属州に組み込まれ、幾度かの行政改革を経て単独の属州となった。ローマ時代に聖パウロとその弟子聖ティトゥスによる伝道を通じてキリスト教が伝搬し、ゆっくりと島内に浸透した。
820年代、アンダルス(イベリア半島)から到来したアラブ人たちがクレタ島を征服し(イスラーム期クレタ)、この島を拠点にビザンツ帝国領へ活発な海賊活動を行った。ビザンツ帝国は長期にわたり繰り返しクレタ島の再征服を試み、最終的に961年にニケフォロス・フォカスの指揮する軍がこれを成功させた。
クレタ島がビザンツ帝国領に復帰した後、エーゲ海域ではヴェネツィアやジェノヴァのようなイタリアの都市国家が商圏と軍事的優位を拡大していったが、特に第4回十字軍(1202年~1204年)でビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが制圧されると、その後のビザンツ帝国領分割においてクレタ島はヴェネツィアの支配下に入った(ヴェネツィア領クレタ)。クレタ島はキュプロス島と並ぶヴェネツィアの東地中海の拠点となり、多数のヴェネツィア人がクレタ島へ移住。
ヴェネツィアの支配は17世紀まで続いたが、オスマン帝国が地中海で勢力を拡張すると、クレタ島の支配を巡って長期に渡るクレタ戦争 (1645年~1669年)が戦われ、最終的にクレタ島はオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領クレタ)。オスマン帝国支配下ではイスラームが普及したが、ムスリムとキリスト教徒の人口比は変動が激しく、19世紀後半にはキリスト教徒(正教会)が多数派であった。
19世紀に入りヨーロッパ列強が強大化する一方、オスマン帝国が弱体化すると、クレタ島の領有を巡って繰り返し紛争が起こった。この時期クレタ島の領有を目指したのはオスマン帝国、独立したばかりのギリシア王国、そして名目的にはオスマン帝国の臣下でありつつ事実上独立していたエジプトのムハンマド・アリー朝である。この争いは20世紀初頭にギリシアによる領有が確定した。
第一次世界大戦後のトルコ共和国の成立に際して、ギリシアとトルコの間で住民交換(キリスト教徒はギリシアへ、ムスリムはトルコへ移住)が行われると、クレタ島内のムスリムコミュニティは消滅した。以降、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって一時占領されたものの、この島はギリシア共和国の一部として現在に至っている。
カナダ人歴史家ウィリアム・マクニール(William Hardy McNeill, 1917年~2016年)は「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797, 1974年)」の中でビザンツ帝国領クレタやヴェネツィア領クレタが(特にヴェネツィアが中心となって出版文化・キャンパス絵画・オペラ上演文化が発達した)晩期ルネサンスに与えた影響を高く評価している。