シリアの中心都市で古代のアラム人の交易都市として始まり、イスラーム勢力支配後はウマイヤ朝首都となる。その後マムルーク朝、オスマン帝国の支配などを経て、現在はシリアの首都。
- 地中海から約80km内陸に位置し、アンチレバノン山脈で海からさえぎられている。街はアンチレバノン山脈の麓の、海抜680mの高原の上にある。
- 城壁に囲まれた古代都市ダマスカスはバラダ川のすぐ南岸にある。その南東、北、北東の方角には中世に遡る近郊地域がある。また南西にはミーダーン、北と北西にサールージャとアマーラの各地区がある。これらの地区はもとは都市から外に出る街道沿いの、宗教上重要な墓所の近くに発生したものであった。東にはグータ (الغوطة Ghouta) という、バラダ川などの内陸河川が潤す森や田園からなる大きなオアシスがあり、エデンの園のモデルとされる場所の一つである。
- 19世紀後半から、近代的な行政・商業の中心が旧市街の西側のバラダ川の周囲、「マルジェ(牧草地)」と呼ばれる場所を中心に発生した。マルジェはすぐに近代のダマスカスの中心となる市庁前の広場の名前(マルジェ広場)となった。裁判所、郵便局、アナトリアやヒジャーズに通じるヒジャーズ駅が、少し南の高い場所にできた。ヨーロッパ化された住宅街区がマルジェ広場とサーリヒーヤ地区の間をつなぐ道路沿いにでき始めた。新市街の商業と行政の中心地は、次第にその方向へ、北側へ移動し始めた。
アラム人(Aramaeans)
紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川上流に定住。その拠点としては、ティル・バルシップ、サマル、アルパド、ビト・アディニなどが挙げられる。
その後、シリアに進出して新たな都市国家を形成した。当初はハマ、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心となった。
ラクダを用いてシリア砂漠などを舞台に隊商貿易を行った。その後、さらに交易網を拡大し、古代オリエント世界に商業語としての古代アラム語を定着させる。そしてシリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字が作られ、その後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。
アラム人は当初飢饉に苦しむ中アッシリア王国、特に豊潤なハブール川流域に好んで侵攻した様です。
ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser、在位紀元前1115年 - 紀元前1077年)
年代記を残した最古のアッシリア王。父王アッシュール・レシュ・イシ1世(Ashur resh ishi I、在位:紀元前1133年~紀元前1116年)がイシン第2王朝(バビロン第4王朝, 紀元前1157年~紀元前1026年)王ネブカドネザル1世を破ったのに引き続いてイシン第2王朝(バビロン第4王朝)王マルドゥク・ナディン・アヘと戦ってこれを破り、北部バビロニアを獲得。イシン第2王朝(バビロン第4王朝)の衰退を決定付けた。
- 即位後最初の5年でアナトリアのミタンニ故地に数多く成立していたフルリ人の小国群を遠征によって征服。
- カッパドキア地方のキリキア人を攻撃。これらも征服。
- この様にユーフラテス川を超えて地中海まで軍を進め、アッシリア王として初めて地中海に到達。そうした業績を持って「42の国を征服した」と記録される。
また彼の時代に「(女性に関する規定が多い事で知られ、中アッシリア時代のアッシリア社会を知る上で重要な情報を後世に提供する)中期アッシリア法典」が作成されたといわれている。
- しかしこの頃から各地で大規模な飢饉が発生。これに便乗してのアラム人の侵入が始まり、国内が混乱した。かかる危機的状況に対処すべくたびたび西方遠征を行ったが大きな成果があったのかは不明である。このアラム人の侵入は旧約聖書以外の史料でアラム人について記録されたものとして最古のものである。
紀元前1077年に暗殺され、その後息子アシャレド・アピル・エクルが王位についた。
アシャレド・アピル・エクル(Asharid apal Ekur, 在位紀元前1076年~紀元前1074年)
ティグラト・ピレセル1世の息子として生まれ、父の死後王位についたが、国内はアラム人の侵入のために混乱していたと考えられる。
何も分かっていない僅かな在位期間の後、弟のアッシュール・ベル・カラが王位を継いだ。
アッシュール・ベル・カラ(Ashur bel kala, 在位:紀元前1074年~紀元前1056年)
ティグラト・ピレセル1世の息子として生まれ、兄のアシャレド・アピル・エクルの後を継いでアッシリア王となり、アラム人の侵入のために混乱に陥った国内の統合に腐心した。
- 即位するとすぐウラルトゥ地方へ遠征を行って勝利を収め多くの戦利品を得た。
- その治世の多くをティグラト・ピレセル1世の時代に領内に侵入していたアラム人との戦いに費やしたが、その非常な努力と多くの勝利にも関わらず、父王の時代に得た領土の統合は容易には行かず、アッシリア自体の政治混乱に終止符を打つことはできなかった。
死後、息子のエリバ・アダド2世が次の王に即位した。
エリバ・アダド2世(Erība-Adad II、mSU-dIM、在位紀元前1056/1055年~紀元前1054年)
その名は「アダド神はお戻りになった」を意味するとも。先王アッシュール・ベル・カラの息子として即位したが、短期間の在位の後、伯父のシャムシ・アダド4世にその座を追われる。
- 「アッシリア王名表」には第94代アッシリア王として現れる。「コルサバド王名表(アッシリア王名表のバージョンの1つ)」はこのエリバ・アダド2世をイラ・カブカブ(紀元前18世紀の王シャムシ・アダド1世の父)の息子と誤記している。またCcと呼ばれているリンム表の破損した部位に記載されていたであろうと目されている。2年間という短期間の治世にも関わらず、碑文断片が複数残されている。
- それらの中で自身の支配がアラム人にまで及ぶことを主張し、広範囲における凛々たる軍事遠征を列挙。そしてティグラト・ピレセル1世(トゥクルティ・アピル・エシャラ1世)を模倣して「四方世界の王」を自らの称号とした。
- またアッシュール神の神殿é.ḫur.sağ.kur.kur.ra(大地の山の家)の内陣修復者の一人であった事が彼の碑文の1つで記念されている。
- ある断片的な文学テキストには彼の治世の日付がある。
- Stelenreihe(row of stelae)にあるアッシュールの記念碑の1つ(No. 27)は彼に属するもので、簡潔に「エリバ・アダド、世界の王」と刻まれている。
「対照王名表(The Synchronistic Kinglist)」にも彼の名前があるが、対応するバビロン王の名前は判読不能である。前後の王から判断して、おそらくこのバビロン王はシンバル・シパク(シンマシュシフ)であろう。この記録はアッシリアの暗黒時代であるこの時代の時系列について全く空想的であるように見える。実際のところ、バビロン王(イシン第2王朝)アダド・アプラ・イディナが彼の同時代人であったと推測されている。アダド・アプラ・イディナはエリバ・アダド2世の伯父シャムシ・アダド4世の政治的亡命を受け入れて保護し、その軍備再編とクーデター計画を後援した。アッシュール・ベル・カラはアダド・アプラ・イディナの娘と結婚していたが、その後にアダド・アプラ・イディナが自分の孫を追放するための努力に加担したとは考え難い。よって、エリバ・アダド2世は別の王妃の子であり、アダド・アプラ・イディナはアッシリアにおける以前の政治的事件によって態度を変化させたのであろう。そしてエリバ・アダド2世の統治はシャムシ・アダド4世が「[カルドニ]アシュ(バビロニア)に向かった時に終わった。彼は[アッシュール・ベル・カ]ラの子エリバ・アダドを王座から追い払った」と記録されている。
シャムシ・アダド4世(Shamshi Adad IV、在位:紀元前1054年~紀元前1050年)
ティグラト・ピレセル1世の息子として生まれた先々王アッシュール・ベル・カラの弟。先王であった甥のエリバ・アダド2世をクーデターによって倒し王位を獲得したが、その治世についての情報は殆ど残されていない。
死後、息子のアッシュールナツィルパル1世が王位を継いだ。
アッシュールナツィルパル1世(Ashurnasirpal I、在位:紀元前1050年~紀元前1031年)
アッカド語ではアッシュール・ナツィル・アプリ(Ashur nasir apli)と表記され「アッシュール神は後継者を守護する」の意味である。病気治癒を祈る供物を神殿に収めた事が記録に残される。
シャムシ・アダド4世の息子として生まれ、比較的長く王位を保ったが、アラム人に対する敗北のために、西方領土の一部を喪失し、女神イシュタルに助けを願う文書が残されており、いくつもの病気治癒を願う供物を捧げたことと相まって弱々しい王であると見られる場合も多い。
彼の死後、息子のシャルマネセル2世が後を継いでアッシリア王となった。
シャルマネセル2世(Shalmaneser II、在位:紀元前1031年~紀元前1019年)
彼の治世についてはほぼ何も分かっていない。アッシュールから石碑が見つかっている。
アッシュールナツィルパル1世の息子として生まれ、死後は息子アッシュール・ニラリ4世が王位を継いだ。
アッシュール・ニラリ4世(Aššur-nērārī IV、maš-šur-ERIM.GABA, 在位紀元前1019/1018年~紀元前1013年)
その名は「アッシュールは我が助け」の意。「アッシリア王名表」において第94代アッシリア王として登場するが、その6年という短い統治期間は、混乱と同時代碑文の欠如によって特徴づけられる。父王シャルマネセル2世(シャルマヌ・アシャレド2世)の跡を継いだが、父王の12年間の治世もまた混乱の中で終わったように思われる。
リンム表における彼の治世の最後のリンムは欠落しており、ša ar[ki si...]「リンム(前年のリンムの名)の後」と記録されている。アッシュール・ニラリ4世はその治世の最初の年にリンムを務めたが、翌年はša EGIR maš-šur-「アッシュール...の後(の年)」と記され、その後の全ての年が連番と「同上(ditto)」を意味するウィンケルハーケンで記録された。この時代の間の波乱に満ちた事件の数々故に、リンムは任命されなかった可能性が高い。
「対照王名表(Synchronistic Kinglist)」においてバビロン王ニヌルタ・クドゥリ・ウツル1世(在位紀元前987年~紀元前985年)がアッシュール・ニラリ4世と対になる王と記載されているが、伝統的年代学においてアッシュール・ニラリ4世に対応する実際のバビロン王は、より古い時代のシンバル・シパク(在位:紀元前1025年~紀元前1008年)であったことを示唆している。後のアッシリア王アッシュールナツィルパル2世(アッシュール・ナツィル・アプリ2世)はアトリラ(Atlira)市占領の文脈で「シビル(Sibir)、カルドニアシュの王」に言及している。彼の年代記において、また歴史家たちは、一応この人物をシンバル・シパクに同定しており、アッシュール・ニラリ4世の時代にシンバル・シパクが対アッシリアの戦争に従事していたとしている。
報告③ アッシリア帝国東部辺境を掘る―イラク・クルディスタン、ヤシン・テペ考古学プロジェクト : 第2次(2017年)
クルディスタン地域ということからわかるとおり、ヤシン・テペ遺跡はアッシリア帝国の東の端っこに位置する地域となる。この調査は、アッシリアが帝国の東端をどのように統治していたかを探る研究の一環。その中で、この遺跡がけっこう立派で、中央との結びつきが強いことがわかってきている。
邸宅の発掘は進んでいるのだが遺物はまだ整理中で、文字資料はほとんど出ておらず、町の名前も不明だというが、アッシュール・パニパル2世がアトリラからドゥル・アッシュールへと改名させたと記録されている町なのだはないかという推測があるそうだ。なお、別の遺跡Bakr Awaをドゥル・アッシュールと見なす説もある。
彼の後継者は伯父のアッシュール・ラビ2世であり、以前の王アッシュールナツィルパル1世(アッシュール・ナツィル・アプリ1世)の年少の息子である。王位継承を巡る状況は不明である。アッシリアの君主権力において、おじが甥の地位を継承するケースは一般的に簒奪であるが、「アッシリア王名表」にアッシュール・ニラリ4世の地位が簒奪された記載はない。
アッシュール・ラビ2世(Aššur-rabi II、maš-šur-GAL-bi, 在位紀元前1013年~紀元前972年)
その名は「(神)アッシュールは偉大なり」の意。長期(41年間)にわたって王位にあり、最も長い在位期間を持つアッシリア君主の1人であるにも関わらず、詳細はよくわかっていない。
- アッシリア王アッシュールナツィルパル1世の年少の息子であり、甥のアッシュール・ニラリ4世の6年間という短い統治期間を経て王となった。もしアッシュール・ラビ2世の即位がそれまでアッシリアで繰り返されたおじによる甥の地位の簒奪と同じような状況で行われたのであれば、それは暴力的な処置によって実現したものであったであろう。「アッシリア王名表」には、彼の王位継承と系譜が記録されているが、それ以外の情報はない。
- ニネヴェのイシュタル神殿の一部として彼がBit-nathiを建設したことが、後の王アッシュールナツィルパル2世(アッシュール・ナツィル・アプリ2世、在位紀元前883年~紀元前859年)の修復工事の際に彼自身の事業を記念して捧げられた円錐形の粘土釘の中で触れられている。
この 時期、ユーフラテス川中流域にあった幾つものアッシリア人居住地がアラム人に奪われた。彼らはユーフラテス川を渡り自律的なネットワークを構築する能力があり、アッシリアの中核地帯に侵入し始めていたのである。
- 後世、シャルマネセル3世(シャルマヌ・アシャレド3世)は、アッシュール・ラビ2世の時代にAna-Aššur-utēr-aṣbat市(ピトゥル, 恐らくTell Aushariye遺跡)とムトキヌ(Mutkinu)という2つの町がアラム人によって失われたことを語っている。この二つの町はもともと100年程前のアッシュール・ラビ2世の時代にティグラト・ピレセル1世(トゥクルティ・アピル・エシャラ1世)が占領して入植を行ったティル・バルシプのそばにあった。シャルマネセル3世の碑文の1つには「アッシリアの王アッシュール・ラビ(2世)の時、アラム(シリア)の王が[二つの町を]奪い取った。私はこれらの町を取り戻し、そこにアッシリア人を住まわせた。」とある。このアラムの王(šar4 KUR-a-ru-mu)が南シリアにあるゾバの王ハダドエゼルである可能性は低く、ハニガルバト、あるいはその周辺に居住していた北部アラム人の王であろう。シャディカンニ(Šadikanni)のシャングー(šangû、総督)ベル・エレシュ(Bel-ereš)のシリンダー記録によれば、アッシュール・ラビ2世の影響力はハブール川の遥か西方まで及んでいたという。これは他の地域で描写されているアッシリアの後退と衰退という状況とは幾分矛盾している。
- アッシュール・ラビ2世の治世はバビロン王シンバル・シパク(在位紀元前1025年~紀元前1008年)の時代からナブー・ムキン・アプリ(在位紀元前978年-紀元前943年)の時代にまで跨っていたに違いないが、より正確な年代を割り出すことを可能とするような同時代の証拠史料は存在しない。「対照王名表(Synchronistic Kinglist)」はアッシュール・ラビ2世の同時代、バビロン王として僅か3か月しか在位しなかったシリクティ・シュカムナ(在位紀元前985年頃)をあてている。
- アッシュール・ラビ2世の治世半ばにあたるバビロン王カシュシュ・ナディン・アヒ(在位紀元前1006年~紀元前1004年)の時代に深刻な飢饉が記録されている。この飢饉が恐らくアラム人の移住活動の根底にあった。
アッシュール・ラビ2世の死後はその息子アッシュール・レシュ・イシ2世が跡を継いだ。彼の治世も曖昧跋扈としており、統治期間は5年間であった。
アッシュール・レシュ・イシ2世(Aššūr-reš-iši II、maš-šur-SAG-i-ši、、在位紀元前971年~紀元前967年)
その名は「アッシュール神は我が頭を持ち上げる」の意。「アッシリア王名表」には第96代アッシリア王としてリストされている。5年間という短い彼の治世は詳細がはっきりせず、また前任者であるアッシュール・ラビ2世および後任者であるティグラト・ピレセル2世の長い治世によって影が薄くなっている。
父親であるアッシュール・ラビ2世の跡を継いで王となった。アッシュール・ラビ2世は41年間という長い在位期間を持っており、アッシュール・レシュ・イシ2世は恐らく即位した時にはかなり高齢であったであろう。
「対照王名表(Synchronistic Kinglist)」において彼に対応するバビロン王はバビロン第7王朝(エラム王朝)の唯一の王であるマール・ビティ・アプラ・ウツル(在位紀元前983年~紀元前978年)とされている。
だが、バビロニアとアッシリアの伝統的な編年に照らして、実際の同時代の王はナブー・ムキン・アプリ(在位紀元前978年~紀元前943年)であった可能性の方が高い。リンム表「Cc」の断片において、彼の時代のリンム職担当者を記載していたはずの第V列最上部は欠損しており読み取れない。
「アッシリア王名表」の写本と、彼の孫アッシュール・ダン2世による言及を別にすると、アッシュール・レシュ・イシ2世に言及する同時代の碑文はアッシュールのStelenreihe(石碑の列)から見つかった彼の石碑と、ベール・エレシュ(Bēl-ereš)のシリンダーの碑文だけである。彼の石碑(No. 12)にはシンプルに「アッシリアの王(MAN.KUR aš-šur)[ア]ッシュール・[ラ]ビ([A]ššur-[r]abi)の子、アッシュール・レシュ・イシのṣalam」と刻まれている。ṣalamという単語は「像」を意味するものと解釈される。アッシュール市から発見されたシリンダーの碑文では、ハブール川の河谷地方にあるシャディカンニ(Šadikanni)のサムヌハ神殿のシャングー(šangû、神官長)であったベール・エレシュが、アッシュール・ラビ2世の治世中に自分が行った運河の岸壁の建設と、アッシュール・レシュ・イシ2世の治世中に行ったサムヌハ神殿の再建を記念している。
ティグラト・ピレセル2世(Tiglath Pileser II, 在位紀元前967年~紀元前935年)
アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラ(Tukulti apil Esharra)と表記され「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味である。
ティグラト・ピレセル1世時代のアラム人侵入に端を発するアッシリアの混乱時代の王であり、比較的長期の在位期間にも関わらず彼の治世に関する情報は現在まで殆ど発見されていない。
死後、息子のアッシュール・ダン2世が次の王に即位した。
紀元前10世紀のアッシュルダン2世(紀元前934年~紀元前912年)以降、食糧増産を契機に徐々に革新への動きが見られ、紀元前9世紀前半にアッシュルナツィルパル2世(紀元前883年~紀元前859年)がカルフ(ニムルド)へ遷都。この頃より新アッシリア王国時代に入り再び繁栄期を迎えたが、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀中旬に内紛と諸勢力独立によって再び停滞・現状維持状態に陥ってしまう。
- アッシュール・ダン2世(Ashur dan II、在位紀元前934年~紀元前912年)の治世には内政充実につとめ、アッシリアの州行政を整え、また農地拡大を推し進めて食糧生産を著しく拡大。これを武器にアラム人の制圧に成功し、アッシリアの国境を安定させたとされる。
- アダド・ニラリ2世(在位紀元前911年~紀元前891年)の時代にはハブール川とユーフラテス川の合流点で現地アラム人と紀元前910年に戦って破り、征服後追放した。また治世後半に改めて西方遠征を遂行し、アラム人都市Kadmuhとヌサイビン(ニシビス)を平定。膨大な量の戦利品とともに、ハブール川地方を確保。ちなみに当時は古代オリエントの経済的復興期にあたっており、フェニキアとアラムの交易路が拡大し、アナトリアとリビア(エジプト以東のアフリカ北岸)、(「海の民」の系譜と推察されるリヴィア人王朝の)第22王朝エジプト(紀元前945年~紀元前715年)、メソポタミア、地中海が改めて結びつけられた。
- トゥクルティ・ニヌルタ2世(Tukulti-Ninurta II、在位紀元前891年~紀元前883年)の時代は土台固め期となり、父王が征服したティグリス川西部の諸都市が起こした反乱などを遠征して鎮圧しつつ紀元前885年にティグリス川の水源へと到達し、そこに記念碑を建築したという。一方、新都カルフ(ニムルド)を建設し征服した領土の統治方法として現地の王に貢納を課すのではなくアッシリア人の総督を派遣する方法を多く用いる様になったアッシュールナツィルパル2世(Ashurnasirpal II, 在位紀元前883年~紀元前859年)の治世には17年間に14回の遠征が遂行されてアッシリアを更に強大化したが、出兵先に選ばれたのはシリア東部、カルケミシュ、ザグロス山脈方面などであった。
*ちなみに馬にまたがる騎兵(Cavalry, Trooper)への移行が最初に確認されるのはこのアッシュールナツィルパル2世時代のレリーフで、裸馬に御者が盾を持ち、弓兵とまたがるという内容。従って速度は遅く、馬の腎臓を傷めたという。 - シャルマネセル3世(Shalmaneser III, 在位紀元前858年~紀元前824年)は即位直後からシリア遠征に向かい、まずはアラム系国家ビート・アディニを征服。の動きに危機感を募らせたシリア諸国は反アッシリアの同盟を結んだ。シャルマネセル3世自身が残した碑文によればダマスコ王ハダドエゼル、ハマテ王イルフレニ、イスラエル王アハブなど12の王がこの同盟に参加したという。紀元前853年のカルカルの戦いで両者は激突。シャルマネセル3世はこの戦いを大勝利として記録したが実際には勝利を収めなかったと考えられている。
*あくまでアッシリア側の一方的発表だが「ダマスカス王ハダドエゼル軍は戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人」「ハマテ王イルフレニ軍は戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人」「アラビア王ギンディブ軍は駱駝騎兵1,000騎」が投入されている。とはいえ騎兵はまだ珍しかったらしく、イスラエル王アハブ軍の戦車2,000両、歩兵10,000人を筆等に他の軍は戦車と歩兵のみの構成。
この戦いの後シャルマネセル3世は一時バビロニアに矛先を変えて現地のカルデア人達を征服したが、その後は繰り返しシリア地方に侵攻し続けた。そしてダマスコ王ハダドエゼルが紀元前842年に死去すると、その息子ハザエルの王位継承に反対してダマスコを攻撃。なおもダマスコの完全征服はできなかったが、これによってシリア地方での優越した地位を確保し、ダマスコ、イスラエル、フェニキアの各都市国家に貢納を課した。一方、完全征服は断念したと目されている。 - このシャルマネセル3世の末期に息子の反乱があり、新アッシリア王国は大幅に国力を低下させた。度重なるバビロニアの蜂起やウラルトゥとの長期戦、最高司令官シャムシ・イル将軍や宦官の専横などもこの傾向に拍車を懸けた。
- それにも関わらずアダド・ニラリ3世(Adad-nirari III / Adad-narari, 在位紀元前811年~紀元前783年)は紀元前796年にベン・ハダド3世治世下のダマスカスを包囲。ダマスカスのアラム人王国の衰退とヨアシュおよびヤロブアム2世治下のイスラエル王国復活をもたらした(彼らはこの時アッシリア王への貢納を行っている)。
- シャルマネセル4世(Shalmaneser IV, 在位紀元前783年~紀元前773年)もシリア遠征を手掛けたが、こちらは顕著な結果は挙げられなかった。
アラム人諸王国の都ダマスクス
紀元前10世紀頃、シリアにアラム人の国の都として建設され、その後も西アジア交易の中心地として栄える。しかし国内のアラム人の駆逐に成功した新アッシリア帝国が進出してくる。
- バラダ川の利便性を最大に広げた運河と隧道の建設によってダマスカスに水道システムを初めて構築したのはアラム人であることが知られている。後にこのネットワークはローマ人とウマイヤ朝によって改良され、今日のダマスカス旧市街の水道システムの基礎をなしている。
- アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア人とイスラエル人との戦争に巻き込んだ。そうした王の一人ベン・ハダト2世は、カルカルの戦い(紀元前853年)においてアッシリア王シャルマネセル3世との進軍を阻止した。
*その結果アッシリアの西方への領土拡大は停止したものの、当座の脅威から逃れたシリア諸国同盟は崩れ、紀元前853年以降生じたダマスカスとイスラエルの衝突でイスラエル王アハブが戦死することとなる。
ちなみにこの戦いに参加した北イスラエル王国7代目国王アハブ(在位紀元前869年~紀元前850年)は、旧約聖書中では「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」という扱いだが、実際には国際感覚に富む強力な君主であったと目されている。
- アダド・ニラリ3世(Adad-nirari III / Adad-narari, 在位紀元前811年~紀元前783年)は紀元前796年にベン・ハダド3世治世下のダマスカスを包囲。ダマスカスのアラム人王国の衰退とヨアシュおよびヤロブアム2世治下のイスラエル王国復活をもたらした(彼らはこの時アッシリア王への貢納を行っている)。
紀元前732年には新アッシリア帝国に征服された。その後、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマ帝国、ササン朝ペルシアの支配を受けた。
- 紀元前732年、新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世が都市を占領し破壊して後、数百年間独立を失う。
- 紀元前572年以降、ネブカドネザル2世に始まる新バビロニア王国の支配下に入る。バビロニア人の支配は、紀元前539年キュロス率いるアケメネス朝ペルシア帝国軍が都市を占領し、ペルシア支配下のシリア州の州都とした時に終わる。
- 近東を席巻したアレキサンダー大王の大遠征により西洋の支配下へと入った。紀元前323年のアレキサンダー死後はセレウコス朝とプトレマイオス朝の闘争の場となり、都市の支配権は両者の間を頻繁に行き来した。
- アレキサンダーの将軍の一人セレウコス1世ニカトールは、アンティオキアを彼の広大な帝国の首都にしたので、北方のラタキアのような新たに建設されたセレウコス朝の都市に比べると、ダマスカスの重要性は衰えることになった。
- 紀元前64年、ポンペイウス率いるローマがシリア西部を併合。彼らはダマスカスを占領し、デカポリスとして知られる十都市連合に組み入れた。ギリシャ・ローマ文明の主要な中心地だと考えられたためであった。
- 新約聖書によれば「使徒行伝」で聖パウロが幻視を体験したのはダマスカスへ向かう途中であったとされる。
- 37年、ローマ皇帝カリグラは政令によりダマスカスをナバテア王国の支配下に置いた。ナバテアの王アレタス四世フィロパトリスは首都ペトラからダマスカスを支配したが106年頃、ナバテア王国はローマ人に征服され、ダマスカスはローマの支配下に戻る。
そうこうするうちに2世紀初頭までに巨大都市へと成長。222年、皇帝セプティミウス・セヴェルスによりコロニアに昇格する。パックス・ロマーナの到来とともに、ダマスカスとローマ領シリアは全体的に繁栄した。南アラビア、パルミラ、ペトラからの貿易路、および中国に始まる絹の貿易路がすべてダマスカスに収斂することから、キャラバン都市としてのダマスカスの重要性は顕著だった。ダマスカスは東方に産する贅沢品へのローマ人たちの需要を満たした。
7世紀初頭にアラブ人の勢力が及び、ササン朝ペルシア滅亡後は、ウマイヤ家のムアーウイヤがシリア総督として635年にダマスクスに入り、統治していた。
661年、ムアーウイアがウマイヤ朝を創始すると、その首都となって繁栄した。ウマイヤ朝滅亡もイスラーム世界の重要な都市として存続し、11世紀にはセルジューク朝に支配された。
ダマスクスにはローマ時代からの遺跡が多いが、中心にあるのは、ウマイヤ朝のカリフが建設した、ウマイヤ=モスク。高さ20m、東西157m、南北100mの巨大なモスクである。現在見ることができるモスクは11世紀にセルジューク朝によって建造され、火災にあった後に20世紀に再建されたもの。
ザンギー朝とアイユーブ朝
十字軍の侵攻が続く12世紀中旬、衰退したセルジューク朝に代わってティルク系スンナ派のザンギー朝が、ヌールッディーンの時にダマスクスに無血入城し、シリアを統一した。
- ザンギー朝は1144年に十字軍国家の一つのエデッサ伯領を滅ぼし、さらに第2回十字軍(1147年~1148年)を撃退。
その後、ザンギー朝の部将であったクルド人(リビア人)サラーフ=アッディーン(サラディン)がカイロで自立しアイユーブ朝を建て、ついでダマスクスを占領してザンギー朝を倒し、シリア・エジプトにまたがる支配を樹立した。
モンゴルとティムール
13世紀中旬、モンゴル帝国のフラグが西アジアに遠征、ダマスクスも占領されたがアインジャールートの戦い(1260年9月3日)でマムルーク朝のバイバルスがモンゴル軍を破り、ダマスクスもマムルーク朝の領土となる。
オスマン帝国領になるまで
近代のダマスクス
近代ではオスマン帝国の支配が続き、第1次世界大戦中の1918年にメッカの太守ハーシム家のフセインがイギリスの支援でダマスクスに入り、ヒジャーズ王国の建国を宣言した。しかし、戦後はフランスの委任統治領シリアとなり、フセインの子のファイサルはシリア王国の独立を宣言したがフランスに排除された。
映画「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia、1962年)」は、こうした状況を背景にしている。
①トーマス・エドワード・ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事は「預言者ムハマンドの末裔」ハーシム家を支援していた。
②一方、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府はワッハーブ派のサウード家を支援していた。
③アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえ反抗する事はなく1920年にイギリス支援を背景に中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュドを支配下に置く。そしてハーシム家のフサインがカリフを称してイスラム教指導者層の反発を招いた隙を突いてロレンスが建国に助力したヒジャーズ王国領土を手中に収め、その後ワッハーブ派サウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年〜1932年)を経て、メッカと「ヒジュラ(聖遷)が生んだ光の街」メディナという二大観光拠点を押さえたサウジアラビア (「サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する事になったのだった。
④一方、ハーシム家は十字軍国家再来ともいうべきアレッポ国と、当時ですら手中に収められなかったダマスカス獲得に燃えるフランスにシリアから追い出されつつ、英国後援下イラク国王とヨルダン国王の座を獲得する。
1943年に独立した現在のシリア=アラブ共和国の首都であり、西アジアの政治、文化の中心地の一つである。
以下続報…